ワンワンと泣いている子供が居る。
犬の真似じゃない。
余りにも大きな声を上げて泣いているから、周りに音が反響してやまびこのように聞こえるのだ。
泣きはらして目は真っ赤で痛々しく、まともな神経を持った大人ならば、胸が痛い。
少なくとも未だ人間的な感情を持っていたと確認して、ホッとした俺。
戦忍上がり、かつ、暗部経験者なんで、人の感覚と違う部分が出ていてもおかしくないと、人知れず怯えているのだ。
子供はしゃくりを上げながら、自分の前に立つ大人に何かを訴える。
俺も良く知る人物、イルカ先生だ。
俺がイルカ先生と呼ぶのは、変な話かもしれない。
だが、上忍師として受け持っている部下のナルトもサクラもサスケも、皆「イルカ先生」と呼ぶし、根っからの教師であるあの人を「イルカ先生」と呼ぶのは間違っていない気がした。
大人よりも一回りも二回りも小さな手が、必死にイルカ先生のベストを掴む。
その手は、掴んだ相手が最後の頼みの綱だと思っているようだ。
絶対的な信頼を寄せているのが、傍目にも分かる。
そしてきっと、あの子供が二十歳になっても五十歳になっても、そういう関係は崩れない。
俺には分かる。
イルカ先生の周りには、イルカ先生が大好きだと衒い無く宣言する人間で溢れている。
つまり、人気者なのだ。
それも、俺が今までの人生の中で会った全ての人間の中でも、一番人気だ。
泣き止みそうに無かった子供が、イルカ先生に言葉を掛けて貰って、涙を止めた。
涙を止めようとする強い意志が宿った目。
ひくっと喉を鳴らしはしても、鳴き声は唇を噛んで堪えている。
肉厚でしっかりした手が、子供の頭をクシャクシャに撫でる。
女の子だったら文句の一つも出ているだろう撫で方だが、男だからか嬉しそうにしている。
慈しむ目が、その子だけに注がれる。
イルカ先生が両肩を勢い良く叩くと、勇ましい顔で頷いて、駆け出した。
後ろを振り返らぬ潔さで、子供が走り去る。
イルカ先生はその背中を教師の眼差しで見送っていた。
その場には、イルカ先生と二人を覗き見ていた俺だけが残る。
どうしようかと躊躇していたら、イルカ先生が俺の居る方角を仰ぎ見た。
「いらっしゃるんでしょう?」
毎度、イルカ先生には驚かされる。
気配など一筋の毛程も零していなかったのに、何故分かったんだろう?
当てずっぽうでは無い事は、視線の角度と確信口調から分かる。
俺は素直に座っていた大木の枝から飛び降り、爪先から音を立てずに着地した。
イルカ先生の目の前だ。
視線の高さがほぼ一緒という事は、身長がほぼ一緒という事だ。
内勤の中忍だというのに、とても良く鍛えられた身体。
前に雑談の中で体重も聞いたけれど、見た目以上に体重が重い。
それは筋肉の質と量が関係しており、表面に出す事は無かったが感嘆したから覚えていた。
「お帰りなさい」
受付で良く見る笑顔が、俺だけに向けられた。
暖かな太陽を思わせる、優しく出迎えて貰っているじんわりとした熱が伝わって来る。
俺は苦笑を零した。
「何故任務帰りだと?」
「何故って聞かれると困ります。ただの勘ですから」
ひょいと肩を竦める仕草が様になっている。
受付を通さない任務に出て、つい今しがた帰って来た俺も、突っ込みようが有るようで無いその返答に、曖昧に笑って済ますだけだ。
普通の忍服を身に纏っていても未だ暗部の仕事を請け負っているとは、イルカ先生には自分から認めたくはなかった。
……何故だかは、分からない。
「あぁ、前髪に泥が付いてます」
何気ない仕草で、イルカ先生が俺の前髪をちょいちょいと指先で弄る。
パラパラと乾いた泥が目の前に落ちて来て、目に入りそうできゅっと瞑ると、イルカ先生が慌てた。
「わっ!済みませんっ!」
「大丈夫。入ってませんよ」
ゆっくり目蓋を開くと、心配そうに俺の顔を覗き込んでいるイルカ先生の顔が目に飛び込んできた。
「先生、近いですよ。あんまり近付くと悪戯しますよ?」
ふと思い付いて、声を潜めて子供じみた脅しを掛けてみる。
勿論冗談。
イルカ先生はどんな切り返しをしてくるかなと思えば、頬を赤らめて困ったように眉を寄せた。
好きな表情だな、と思った後、困り顔が好きとかどんな悪戯っ子心理だと自分でも驚く。
「無意識に、カカシ先生に子供達と同じ対応しちゃってました。申し訳有りません」
「それは別に良いのに。俺、アカデミーに通ってませんから、何だか新鮮ですよ。『学校の先生』ってこんな感じなんだって」
「お気を悪くしてませんか?」
「何で?」
不思議に思ってそう返すと、イルカ先生はごにょごにょと言葉を濁した。
多分、俺が上忍で彼が中忍であるがゆえの階級差を気にしての事だろう。
馬鹿らしいと思う。
しかし、上忍の中には何を勘違いしたのか選民意識が強く、下の者に威張り散らすのが居るのも事実だ。
受付に入るイルカ先生は、理不尽な態度、無茶な要求を目の当たりにする機会も多いだろう。
だから、今はそういう垣根が俺とイルカ先生の間にあるのは事実だ。
忌々しいなぁ。
そんな垣根取っ払っちゃって良いのに。
俺はそれを望んでいるのに。
なかなか言い出せないでいるのは、イルカ先生がどういう反応をするのか、怖いからだった。
未だ、踏ん切りが付かなくて、同じ所で立ち止まっている。
「ねぇ、それより。さっきの子供に何を言ってたんですか?」
話題を変えると、先生はほっとしたようだった。
いずれ真剣に向き合う時が来るだろうけど、それは未だ先の話だ。
だって、第一歩を踏み出せてない。
「友達と喧嘩したんですよ。それで謝りに行く勇気が出なくて、泣いてたんです」
「子供らしいねぇ。イルカ先生は、何を言ったの?」
「勇気出して謝れって。それだけです」
「それだけ?」
「子供ですから。頑張れ、やれば出来る、俺は信じてるぞって言ってやると、目がキラキラするんですよね。俺は子供そういう目を見ると、今勇気が湧き出てるんだなって感動します」
「へぇ〜」
あの子供は、イルカ先生に足りない勇気を補って貰ったっていう事かな。
頭を撫でて貰って、言葉を貰って。
確かに、勇気が出そうな気がした。
だって、イルカ先生だもの。
「カカシ先生?どうしましたか?」
「ん〜。イルカ先生には勇気を抽入する能力があるんだなぁって思って、凄いなぁって感心した」
「そんな能力は無いですよ」
「いやいや、立派な能力だし、それって凄く稀有なもんですよ。『先生』って感じだな〜」
「あの、ほんとにそんな……勇気って誰かに貰うもんじゃなくて、結局自分の中から生まれるものですから」
照れたように笑うのは、少しは俺の言葉が嬉しかったって事かな。
イルカ先生は褒めると滅茶苦茶恐縮して、凄く擽ったそうに笑う。
その笑顔は、俺の好みのド真ん中だったりするのだ。
……なんか、コレ、恋愛感情に似てるな。
気付くと、まさにソレだって気がして、俺はまじまじとイルカ先生を眺めた。
任務帰りで殺伐とした気分はさっさと退散していて、頭の中はほんのりと薔薇色に染まっている。
胸がドキドキする、とか、初めてに近い感覚を味わった。
イルカ先生だったのかー。
痒い言い回しだけど、俺の運命の人はイルカ先生なんだ。
超難解なジグゾーパズルの最後のピースがぴたりと嵌ったような充足感に、胸が詰まった。
男性で。
ナルト達の恩師で。
優秀なアカデミー教師で、火影の信頼も厚くて、人望も有って、人気者で。
……あぁ、やっぱり好きかも知れない。
いや、すっごく好きだ。
愛してるって、使って良いよね。
初めて使用するこの言葉がしっくりきて、胸が熱くなった。
この人の、『一番』になれたら、嬉しいかもしれない。
「ちょっと、カカシ先生?あの、お疲れなんじゃないですか?引き止めておいてなんですが、もうお帰りになってお休みになった方が……」
動きを止めた俺を心配して、イルカ先生がさり気無く俺の背を支えようとする。
倒れたら、受け止めてくれる気なんだ。
でも、その気遣いは知り合いに向ける程度のモノなんだろうな〜。
俺だけが特別な訳じゃない。
それが分かってしまって、がっかりした。
未だ、イルカ先生の中の俺の認識なんて、あのナルトやサスケ、サクラの上忍師って程度だろうし。
全然、特別じゃないもの。
俺にはイルカ先生が特別になったのにな。
「俺、家まで送って行きましょうか?」
喋らない動かないの俺を心配して、そんな申し出までイルカ先生から引き出してしまった。
当然チャンスなので、有り難く送って貰う事にした。