中島飛行機の想い出(新技術への挑戦)

12年目;呑龍工場時代 12.(昭和三年1928年)

 明けて昭和三年、一四式水偵、一五式水偵も調子が出て来た。

 甲式四型戦闘機も相変らず順調な生産が続けられた。特に一四式水偵、一五式水偵の生産に主力がそそがれたため、私は昨年の暮から東京芝の下請工場の朝日奈工場に出張して機械部品の生産予定確保に全力を挙げることになった。朝日奈は中島でも最も古い下請工場で、この工場の技術は実に申分のないものであった。検査も不要なくらい信用があったが、もちろんそれは中島だけでなく海軍の信用も厚かった。

 二月二十日は我が国第一回目の普通選挙が実施され、その投票日であった。時の政友会内閣田中首相は国民に「昭和の新政に貢献するべく毅然として、清く貴い一票を行使せよ」と声明した。国民として多年渇望の選挙権を行使する機会を得た記念すべき日であった。思えば、国民がこの日の権利を獲得するために、長年にわたり苦悶を続けて来たことが、うたた感慨無量の思いがする。

 四月に入って山本良造氏が入社されて浮舟工場長に就任された。天野素六、富岡秀雄、岩本、藤家、菅原の諸氏を設計室へ迎え、設計室も甚だ狭溢になって来た。また八代三佐男君の入職もこの年であった。

 さて昨秋以来、中島乙未平氏担当設計の八人乗り旅客輸送機(中島式N36型、発動機はジュピター450馬力装備、下の写真)の機体も四月二十五日に組立が完了したので、地上試運転が毎日引続いて実施され、結果は大変良好であった。五月三日第一回の試飛行が加藤飛行士によって行われた。甚だ好調でそのまま太田町の上空まで飛んで来た位で一同大変満足していた。第二回目の試飛行が翌四日に実施されることになったが、前日の結果が大変良かったので同乗希望者も甚だ多く、ためにくじ引きをしてまで座席を決定せねばならなかった。試飛行は午後一時三十分離陸した。

 

 当時の飛行機は離陸してもそのまま一直線に進み相当の高度に達して初めて方向転換をするのが常態であり、しかも大事な試飛行等では、尚さらこの原則を守らねばならないのに、如何したことか、その時は離陸したかと思ったら直ぐ右旋回上昇の姿勢となり、小円を描くと見る間に機首を下へ向け、約五十米の低空からそのまま真逆様に地上に激突してガソリンに引火し、機体は猛火に包まれ手の下しようもなくなった。地上員は総員必死となって消火に努めたが、遂に全員焼死の大惨事を惹起した。実に一群の出来事で8名の貴い犠牲者を出した我が国航空事故としては空前の出来事であった。

 搭乗者は加藤操縦士、新井万平機関士、客席には青山重利、高島吉男、掛川昇、田中、高木、根立の諸氏で青山、高島、掛川の三氏はいずれも設計室で私達と共に働き、彼等の搭乗前の嬉しそうな顔が何時までも瞼の奥に残っている。

 私も事故現場から遺体を運ぴ出したが、全員黒こげとなって誰であるかその識別さえ容易でなく、実に悲惨な最後であった。私はこのような無慈悲な有様に直面して、二度と飛行機に乗るものではないとつくづく感じた次第であった。 そこで私達の室からも三名の犠牲者が出たことであり、会社としても大事件であってみれば殆ど仕事も手につかず一応8名の遺体は会社の事務室に安置されたがその間、遺族の方々の接待やら、葬儀の準備等で実に眼の廻るような日が続き、八日当町長念寺で実に盛大な社葬が施行された。

 この月の二十二日に奥井氏に代って吉田技師が設計の工場長となられ、また加藤飛行士死去のためその後海軍から一等兵曹の藤巻恒男氏、陸軍から特務曹長の四官清氏の両人が試験飛行士として入社された。

 試作中であった中島NC戦闘機(後の陸軍九一式戦闘機)の第2号機も六月に完成、その後立川の陸軍航空技術研究所審査部で審査中であったが、いよいよ十一月中旬から試験飛行が四宮氏によって施行されることになった。私も大和田技師のお伴で立川に出張し試飛行に立会ったが、私の仕事は飛行試験の結果で改修を要する個所の略図を作って至急改修工事を促進することであった。この時私が感じたことは離陸上昇が実に凄いことで全く驚きの眼を見張った日本一の戦闘機が出来たと私は思った。

 この機体は甲式四型戦闘機に代る優秀な飛行機が必要になり、中島と三菱と川崎の三社で競争試作することになったもので、立川の陸軍航空技術研究所の審査部で飛行実験を施行することになっていた。

 本機体は胴体は全金属製で、翼類は小骨は木製で布張りの上翼単棄(パラソル型)型式、胴体外皮は前部から後方尾部へ細長い帯鈑を縦一通材に鋲打ちして張られたものであった。あらかじめ縦通材と帯鈑には鋲孔が穿孔治具で各々別個に穿孔してあって組立の際、打鋲されることになっていたので、果して穴が合致するものか、皆不安を感じ不成功に終るのではないかと思った。かような方法は我が国では実に画期的なやり方であったので、私達や現場の者が心配したのも無理もないことで、マリー氏は断固として実行されたが、その結果は甚だ良好で一同は大変驚いた次第であった。この貴重な経験は実に中島の量産の基礎を築いたもので、後年他の諸会社の追従を許さぬ能率を揚げ得た原因となった。

 翼の断面はM6が採用され、発動機は「ジュピター」450馬力が装着され、見るからに実に洗練されたスマートな姿であった。 しかし、各社の機体とも急降下の強度不足で採用とならなかったが、改修命令は中島一社だけに発せられた。そして発動機の中島ジュピターへの換装や増加試作と実験に多くの期間を要し、再三改造され、昭和6年秋にようやく制式化された。でも当時最新の機体として陸軍制式の九一式戦闘機は累計約450機が生産され、長年の間活躍した。(下の写真が量産型、左が初期型でタウネンド型エンジンカウリングが取り付けられている、右が後期生産型)

 

 今年の特筆すべき事件といえば、六月四日に後年満州事変の遠因ともなった張作霖将軍座乗列車の爆破事件が突発したため田中内閣が倒潰した。 また十一月十日には今上陛下(昭和天皇)の御即位の大礼式が行われ国民挙げて奉祝した。

13年目;呑龍工場時代 13.(昭和四年1929年)

 昭和四年は機体生産もなかなか多忙な年となった。久し振りである。

 甲式四型戦闘機、一五式二型水上偵察機は相変らず順調に流れた。この一五式二型は「カタパルト」射出(航空母艦以外の他の艦船から弾き出す装置)に対し充分耐えるだけに強度を増加したもので、発動機は「イスパノスイザ」300馬力装備であった。また静岡県漁業組合からの注文で魚群発見用の目的で一五式水偵を三座席に改装して無電を搭載したものも2機製作したが、これは我が国でも初めての試みであった。

 吉田技師担当の艦上戦闘機も「ブリストルブルドック」をモデファイして試作された。(下左写真、社内では吉田ブルドッグと呼ばれていた)しかしこれは途中で中止されたが、後の九○式艦上戦闘機の試作に大変参考になったものだ。

 

 三式艦上戦闘機(上右写真)は昭和二年に海軍命令で試作に着手されたもので、原型は「グロスターガムベット」で「ゲームコック」から吉田技師を主務として発展させたものであった。本機は三菱、愛知、中島の三社で競争した結果、中島のものが採用(発動機は中島ジュピター6型420馬力)に決定されたもので、その後九○式艦戦が出来たので生産は約100機位であった。

 九○式艦戦(A2N153)は、米国の「ボーイング69B戦闘機」「ボーイング100D戦闘機」を参考として、吉田孝雄を主務技師として社内呼称NY海軍戦闘機(Yは吉田)として試作開発を進めていたものを、発動機をジュピターから、中島独自設計の「寿二型」580馬力に換装搭載し「NY改」として審査を受け、格段の性能向上が認められ昭和7年制式採用されたものである。速力は288Km/hの性能を出した。本機は上海事変の時も多数報国号として生産されて活躍した。(下の画は、海軍横須賀航空隊の「源田サーカス」と呼ばれたアクロバット飛行が大変有名になった3機である。画:小池繁夫氏)

 

 陸海軍共に試作命令が出てから採用が決定するまで長い年月がかかり過ぎる憾みがあるように思われた。性能は勿論、艤装、兵装についても飛躍した要求があって、一面甚だ積極的であるが、設計中にも、また試作中にも次から次ぎに改造があって、製作する立場からは実にやり切れない気持ちも出て来る。

 こうして出来上ってもまた試験飛行がなかなか慎重で毎日毎日飛行しても一年以内で済むことは少なく、数年に及ぶこともある。陸軍の九一戦闘機のように昭和二年に着手してから六年に制式採用となったのもあり、私達製作する者の気持からいえば、或る程度の満足が得られたら(最初の目標に達したら)一応これで決定して、次の試作に取りかかるのがより以上進歩したものが出来、その間の切れ目をなくすることが出来るものと思われた。

 今年の正月の休みは奥上州の水上温泉に三戸君と共に家族を連れて出かけた。私はこの方面は初めてだが昨年秋に上越南線が水上まで開通しここに温泉があると知ったからだ。三戸君は「多分水上は相当積雪があると思うからスキーを用意して行きたい」とのことで、私も昨年買った許りのスキーを担いで行って見ると、成程驚いたことには既に正月早々というのに四尺余(1.2m)の積雪で、太田から僅に三時間足らずの場所にこんな降雪地があるとは全く夢にも思わなかった。 温泉場といっても、今までは都会人の姿は殆んど見られなかったであろう、多分農家の人達が農閑期に保養に来る程度か木賃ホテル級の宿が数軒散在している許りで全く山の湯といった所。しかし四囲の景観は実に素晴らしい環境であった。私はこんな湯場が何よりありがたい。人情も質朴で温く、スキー場も手近な所にあるので一汗流して湯に浸り、炬燵(こたつ)に入って冷たいビールの一杯もやれぱ全く夢心地の極楽境であった。 この話が会社の人達に拡まると次の休日から皆んな出かけることになった。先ず自称スキーの大家吉田技師を初め、三竹、小山、山本の諸氏が先がけで、その後は急速にスキー愛好者が増加した。

 さて話題は変るが、機体は年度末の三月が納期となっているので毎年二月、三月は会社も大変忙しいが、月も改まり四月になると、篭を放れた小鳥のように一年のシコリをほぐす時期で一番私達には楽しい季節であった。 例年のように観桜会の準備に忙しくなる。どちらかといえば、この準備期間中が花見当日より楽しみなもののようで、各工場、職場毎に趣向をこらして皆を「アッ」といわせようと懸命な作業が続けられる。

 山車を造るにも他の会社、工場と異なり当社は仕事の関係からその材料に不自由はしない。例えば金属材料、木材、合板、塗料、紙、布類等すべての材料があり、また器工具、機械類も先ず間に合わないものはなく、その上職人もあらゆる種類の人がおるので何でも造ることが出来る。これだけは他の会社で一寸真似の出来ないことと思われた。

 それで、この花見のため会社の資材の消費は莫大なものになるが、知久平氏はこれを少しも意に介されずその出来栄えを見て楽しんでおられ、観桜会の前日ともなれば一同勢揃いしての予行演習には、自ら立会われて常にニコニコと満足して居られた。

 実に和気藹々とはこんな雰囲気をいったものであろう。かような訳で中島の観桜会といえば実に大規模で、兎に角天下一品といわれた程で、毎年の趣向に変化があり思い切って派手であったから、各地より「今年は是非当地へ来て呉れ」とそれは大変な人気であった。招待地では商工会議所はいうに及ばず、市当事者を初め芸能界も挙げて歓迎接待するのが例となっていた。そのために当日は近郷近在からの人出も多く、それだけ金も落ちるという有様で、また会社の連中もそのため後を引く者も相当であったようだ。(右写真は館林での観桜会の山車行列、沿道はすごい人出)

 今年は第二回目の足利行きとなった。足利の桜は渡良瀬川の堤もなかなか良いが、公園の方が高台で風致も勝り花も豊富で場所も広くて良いようだ。ここで数ケ所に舞台をかけたり模擬店を開いたりして、終日楽しく過すことが常であった。

 八月二十日にはドイツから飛行船ツェッペリン伯号が世界一周飛行の途中我が国を訪問したことは、我が国航空界に大変な刺激を与えた。この飛行船の骨格はジュラルミン材で組立てられた硬式の飛行船で、当時世界でも最も進歩したものであった。 当時は航空機での世界一周は殆ど不可能な時代であったが、これをなし遂げたのはこのツェッペリン伯号が初めてであった。ベルリンを出発してシベリアを経由し、樺太、北海道を南下して帝都上空を周回の後、午後六時巨体は夕日を浴びて数万人の歓迎を受けて霞ケ浦飛行場に着陸、二日間の休養の後太平洋を横断して米国に向けて出発した。

 なお昨年から本年の社会面を賑合して、帝都500万市民を長い間震撼させた説教強盗の妻木松吉が、二月二十四日遂いに逮捕されて都民をしてホッと安心させた事件もあった。

 本年も設計室には菊地友一、島信治、山口清治氏等の入社があった。

14年目;呑龍工場時代 14.(昭和五年1930年)

 昭和五年度は前年に引続いて甲式四型戦闘機と三式艦上戦闘機は量産された。本年は米国のE4N2〜C「ヴォート・コルセイア」機体の翼端や尾部翼等の形状、面積の変更及び機体内の兵装艤装関係等を、明川技師の担当で改造したものが九○式二号二型水上偵察機として海軍の制式機となった。本機は我が国で初めてて見る単浮舟、如何にも軽快な容姿で、発動機は寿二型460馬力を搭載して速力は232Km/h、航続距離1,020Kmであった。また本機を陸上機としたものが三型で、昭和11年まで全型合わせて152機が生産された。

 さて今年二月二十日には民政党の浜口内閣によって総選挙が施行されることになった。知久平氏も多年の宿望であった政界乗り出しの機会がやって来た。しかし知久平氏自身は今度の選挙はまだ時期尚早と見て遠慮しておられたようであったが、地元有志の方々の熱望に答えて遂いに腰を上げられることになった。 これのいきさつといえば、当地方に確固たる地盤を持っていた政友会の闘士で、かつ中島創業当時の恩人でもあった武藤金吉氏が先年死去されたが、その地盤の継承者として知久平氏こそ最も適当な人であるから是非共今度の選挙に出馬するようにと地元からの要望であった。

 以前から私達もたびたび聞かされていた知久平氏の持論は「航空機は将来の戦争において決定的な役割を果すもので、軍艦に代って最も重要な兵器となる。現在の大艦巨砲主義は既に過去の思想である。今後は航空機の時代となるが、軍部はこの点に甚だ認識不足だから、これが啓蒙には、どうしても政界に入って促進するより外に方法がない。またこれが為には政界でも最も重要な位置につかねば、その目的を達するこどは到底出来ないので、それには充分その用意が必要である」といわれていた。 この意味は氏は政界入りには相当の金の準備が必要であり、出来るだけ早く政党の総裁となって政権を握らなければ、氏の理想の実現はなかなか達せられないことと私達は解釈していた。

 かくて知久平氏は無所属として出馬されることになったが、しかしその決心がつかれたのが投票日前の十数日であったので甚だ立ち遅れの感があった。私達は「それっ御大の一大事だ」とばかり勇躍して、無力ながらも応援隊を編成して出掛けることになり、選挙演説会場の警備にも万全を期して妨害等に対して立ち向った。その当時は政友会と民政党の政争が激しかったので、その演説会場等での妨害も甚だ盛んであったが、私達会社の若い運中が、会場を取り巻いて警護に当ったので手も足も出ない有様であった。

 氏の演説が一風変っていたのも面白い。前述したように氏の政界出馬は大乗的な立場からで、一地方の利害は少しも眼中になかったので、その意見発表も直接国内政治に関することは何一つ述べられず、また「お願い致します」式で頭を下げられるようなこともなく、その述べられる大意は「現在の日本は小島に蟄居しているが、これでは発展することが出来ない。日本人は元来世界の民族中でも最も優秀な人種であるから、成さんと決心すれば何事も完成する能力を持っている。そのためにはどうしても大陸に進出せねばならない。バイカル、ウラルまでも進出せねばならない」先ずこんな意味のものであったので、聴衆も皆アッケにとられていたようであったが、何処の会場も満員で大変な人気を呼んだ。その結果は首位で当選された。その後氏は政友会に入党されて群馬県支部長となられたが、支部や選挙区に顔を出されることは殆んどなかったようだ。

 氏は直ちに東京日比谷の市政会館内に政治事務所を作られて、此処に本処を置き、学識経験者等を集めて研究させられた。この事務所の主任(秘書)として故武藤金吉氏の遺子である金之丞氏を迎えた。

かくてこの年の十二月には前田商工大臣のもとに政務次官に就任された。議員の一年生が一足飛びで次官に就任する等思いもよらぬ当時として見れば、実に異例なことで、これを以ってしても氏が如何に重要視されたかを知ることが出来よう。 この知らせが太田の町に達するとその夜は全町を挙げ、氏の前途を祝福して提燈行列が盛大に挙行された。

 さて話は前にもどるが、第一次世界大戦後の反動は甚だしく、殊に近年は深刻であったが、諸外国の主なる国は金解禁を実行して金本位制に立ち返った。我が国でも今までたびたび論議されて来たが時期尚早と見て実施に至らなかったが、本年一月十一日に浜口内閣によって遂いに解禁を断行することになった。そのため久しくお目にかからなかった五円、十円等の金貨を私達も手に入れることが出来たものの金の流出が甚だしかったので、これも永続きしなかった。不景気は益々深刻を極めた。このためか十一月十四日浜口首相は東京駅で、暴漢のためピストルで狙撃され重傷を受けられたが、生命には異状なかった。

 本年四月二十二日にロンドンにおける軍縮会議で調印式が行われたが、我が国も当時は三大国の一つとして若槻、財部の両全権が出席され、我が国の主張も百パーセントの貫徹は出来ず不満足であまり評判は良くなかったが、軍縮そのものは、われわれ一般国艮として負担も軽くなるので、先ず不平等な結果となったとしても、一時的にも小康を得て一安心したのであった。

 なお本年四月には中務敬次氏が塗装工場ヘ、福田安雄、帰山勝太郎、新居福男、朽本儀太郎、丸山一平、古舘清一氏等を迎えて設計室も大世帯となったので、親睦を計るため慶弔や運動関係等の統制機関として仮面会を作ることとなった。今から思えば甚だ不真面目な名称のようだが、どうせこの世は怪奇複雑な仮面の世の中であろうと若気の至りでつけたもので、これも私が名付親であった。

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