Quiv="Content-Type" content="text/html; charset=Shift JIS"> アウトサイダー―時間的蛸壺の外へ

アウトサイダー―時間的蛸壺の外へ

鳥居柿

 

言葉でではなく、知的にではなく、実際にです

クリシュナムルティ これが最後のトークです。水曜日から五日間のダイアログがスタートします。
 我々はこの六回の集まりで話し合ってきました、とても沢山の人間の心理的問題を、そして、私は、今朝、もし宜しければ、私が考える、極めて重要なことについて話したいと思います。“瞑想”という言葉はとても誤解されてきています、少なくとも、私はそう思います、東洋においても、西洋においても。その言葉自体は、考えること、熟考すること、検討することを意味していて、我々がこれまで考えてきたそれら全てではありません。それは非常に複雑な問題です、人間のあらゆる問題がそうであるように、そして、瞑想は、もし我々が瞑想について正しい土台を敷いていなければ、非常に僅かの意味しかありません。その正に土台を敷くこと、それは正しい振舞のことです、恐れなどから自由になることです、その正に土台を敷くことの中に瞑想が生じます。瞑想は日常の活動から分離した何かではありません、それは正に日常の包括的な何かです。私は思います、このことが正に最初に理解されていなければならないと。それは、あなたが、朝、午後そして夜、二十分間、行って、そうして、そのことを全く忘れて、そうして、あなたの日常的な災いをなす生活を引き続き送ることではありません。瞑想が生じるとき、それは何か途轍もないことです、そして、我々はそのことを一緒に探究するのでなければなりません、我々は一緒にそのことを検討しようとしています、そのことを共有しようと思います。
 私はあなたに瞑想の仕方を話しているのではありません―それはとても愚かなことです、それはとても子供じみたことです。なぜなら、最初の一つは、人が自由でなければならないことです、つまり、人が完全に人自身の光であることです。お分かりでしょうか? 人が人自身の光です。そして、この光は他の人から与えられうるものではありませんし、あなたはそれを他の人の灯を借りて照らすこともできません。もしあなたが他の人の灯を借りてそれを照らすなら、それはただの灯であり、それは吹き消されます。しかし、一方、もしあなたが、その人自身の光であることの意味を明らかにすることができるなら、そうすると、その正に探究が瞑想の一部です。
 そのように、我々は一緒に、最初、人自身の光であることの意味を検討しようとしています、そして、その光を手にすることがいかに途方もなく重要であるのかを見ていこうとしています。我々はとてもそれに慣れています―そして、我々の条件づけがそうです―権威を受け入れることです。聖職者の権威であり、書物の権威であり、グルの権威です、私は知っていると言う人の権威などです。全てのスピリチュアルな事柄で、もし私にその“スピリチュアル”という言葉を使わせていただくなら、それら全ての事柄の中に、いかなる権威もあってはなりません、あるべきではありません、なぜなら、そうでないと、あなたは自由になれないからです、あなたは自由に探究できないからです、自分自身で瞑想の意味することを明らかにできないからです。そのように、もしあなたが、本当に、深く、この問いに興味を抱くなら、なぜなら、この問い―瞑想です、いかに瞑想するのかではありません、それは、再び、とても子供じみています、そうではなく、瞑想の働きです、瞑想的な行為です、瞑想的な流れです、それの意味することを発見することです、権威、それは他の人を通じて明らかにしようとすることです、瞑想とは何か、どのように瞑想するのか、それは権威の問題の一つです。権威が生じるところには、自由は生まれえません、独裁政権の専制的な世界にも、全体主義的な国家にも自由は生まれません、同様に、もし権威からの自由がないなら、つまり、“権威”という言葉は何かを始めた人を意味します、作家です、その言葉は“作家”という言葉からきています、何かを始める人です、何かを編み出す人です、そして、他の人たちがそれに追随して、それを何らかの権威にします、そうすると、それは死んでいるも同然の何かです。そのように、人は非常に注意深くなければなりません、もしあなたが本当にこの瞑想の問題を検討したいと思うなら、完全に、余すことなく、内面的に、あらゆる権威から自由でなければなりません、あらゆる比較をやり過ごすのでなければなりません、私はあなたがそうできるのかどうか知りません、話し手のそれを含めて―とりわけ、話し手のそれを含めて、それは私です、なぜなら、もしあなたが彼の言うことに従うなら、そこで終了です。従って、人はある方向における権威の重要性に気づかなければなりません、それは、医師、科学者など、そのような他の全ての人たちです、そして、内面的な権威の余すことのない非重要性も理解するのでなければなりません。もしそれが他の人の権威なら、それを放り出すことは極めて容易です、あるいは、もしそれがあなた自身の経験、知識、結論であるなら、それがあなたの権威になって、そうすると、それがあなたの偏った見方になります。そのように、人は他の人の権威から自由でなければならないように、同じく、人は様々な結論からも―それが人自身の権威になります―人自身の経験からも自由にならなければなりません。我々は“経験”という言葉をまもなく検討するでしょう。人みずからの理解から、“私は理解します、従って、私は正しい”となります。それら全ては権威の形です。あなたは理解します、このことがいかに難しいことになるのかを、もしあなたが本当にこの途方もなく複雑な問いを検討したいと思うなら、そうしないと、あなたはあなた自身の光に決してなりえません。あなたがあなた自身の光であるとき、あなたは世界の光です、なぜなら、世界はあなたであり、あなたが世界だからです。私はあなたがそのことを見て取るのかどうか知りません!  そのように、それが最初に理解することです、つまり、あなたを導く人はどこにもいません、あなたが進歩しているとあなたに告げる人はどこにもいません、誰もあなたに告げません、あるいは、あなたを励ましたりしません。あなたは瞑想の中で完全に独存する必要があります。あなたはその意味が分かりますか? そして、その光はあなた自身に訪れうるのみです、あなたが理解するときに、あるいは、現にある通りのあなた自身を探究するときに。それが自己に目覚めることです、現にある通りのあなたを知ることです―心理学者たちによってではありません、どこそこの哲学者たちによってではありません、話し手によってではありません、そうではなく、知ることです、あなた自身の性質に、あなた自身の構造に、あなた自身の思考、感情に気づくことです、その全構造を明らかにすることです。従って、自己を知ることが途方もなく重要になります。他の人の手による表現ではありません、そうではなく、実際の“現にある通り”の何かです、現にある通りのあなたです、あなたが考えるあなたではありません、あるいは、あなたが考えるあなたのあるべき姿ではありません、そうではなく、実際に起こっている現にある通りの何かです。あなたはそれがいかに難しいことか分かりますか? あなたはそれをこれまで試みたことがありますか? 実際に現に起こっていることに気づくことです、内側で、言わば、皮膚の下で、起こっていることです、なぜなら、我々は過去の知識を通じて観察するからです。違いますか? そのように、あなたが経験として獲得してきたもの、あるいは、あなたが他の誰かから収集してきたもの、それらの知識であなたは検討します、従って、あなたはあなた自身を過去の背景から検討しています、従って、あなたは実際に“現にある通り”観察していません。そのように、観察する自由があるのでなければなりません。そうすると、そのような観察の中に、人自身の構造と性質が紐解かれていきます。あなたはこれら全てに付いてきていますか? どうか、少なくとも、今朝は、一時間、気を付けていて下さい。なぜなら、あなたにこれら全てを語るのは、ごく僅かな人しかいないからです、なぜなら、多くは私利私欲の人たちであり、その人たちは、何らかの組織を、何らかのグループを作り出したいと思う人たちだからです―お分かりでしょうか?―それが、その類の全心理的構造です。ですから、どうか、もし宜しければ、言われていることに余すことなく気を付けていて下さい。
 そのように、人自身を理解するためには、何らかの観察が生じるのでなければなりません、そして、そのような観察は、今、起こりうるだけです。そして、その今は、その今を観察する過去の働きではありません。その違いが分かりますか? 私はその今を過去から観察できます、私の過去の結論から、偏った見方から、希望から、恐れやその他の全てから観察できます。それは過去から現在を観察することです、そして、私は考えます、私はその今を観察していると。しかし、その今の観察は、過去である観察者がいないときにのみ起こりえます。あなたはこのことがお分かりでしょうか? そのように、その今の観察が途方もなく重要になります。それは、私が、先日、言ったように、過去の働きが、現在に相対して、そこで終了するのでなければなりません、それがその今です、しかし、もしあなたがその継続を許すなら、そうすると、その今が未来になります、あるいは、過去になります、しかし、決して、それは実際の今ではありません。私はあなたがこれら全てを理解するのを願います。
 そのように、観察はその今の中に起こりうるだけです、その正にそうしている中にです、あなたが怒っているとき、あなたが貪欲でいるときです、それを現にある通りに観察するのです。それは、それを非難しないことを意味します、それに何らかの判断を下さないで、それを見守って、それを開花消滅させることを意味します。あなたはその美が分かりますか?

......死んでやり過ごす守宮の尻尾とは何でしょうか?......

 宜しいでしょうか、おーつ、どうでしょうか! 我々は慣らされています、あるいは、伝統的に、我々は抑圧するように教育されています、あるいは、何らかの方向性の範囲内で活動するように慣らされています。我々が話していることは、つまり、こうです、あなたの怒り、貪欲、あなたの性的な要求、それが何であれ、それを観察することです、そして、過去とは無縁に観察して、その怒りが開花し枯れ果てて消滅するようにすることです。あなたがそうするとき、あなたは決して再び怒らないでしょう。私はあなたがこれまでそのようなことを行ってきたのかどうか知りません。しかし、このことをいつか行って下さい、そうすると、あなたは自分自身でそのことを発見するでしょう。そのように行うと、いかなる選択とも無縁に、ただあなたの貪欲、あなたの怒り、あなたの嫉妬―それが何であれ―を観察することを通して、その正に観察の中で、それは開花して根本的な変化を遂げます。科学者たちも言っています、あなたが顕微鏡を使って探究するとき、その細胞の観察が―あるいは、それが何であれ―正に何らかの変化をもたらすと。あなたはこのことが分かりますか? その正に背景とは無縁の観察が何らかの変化をもたらします。お分かりでしょうか?
 そのように、いかなる選択とも無縁に、人自身に気づくことは、そして、今、実際に起こっていることを見て取ることは、自己の、“私”の全活動が開花するのを許すことです、そして、あなたが観察すると、それは根本的な変化を遂げます、もしいかなる背景も関わらなければ、もし背景としての観察者が存在しないなら。あなたはこのことが幾分か分かりましたか? あなたはこのことを理解したでしょうか? 宜しいでしょう、それを検討しましょう!
 そうすると、そのようなとき、明かに、権威の這い入る余地はありません。“私は知っている、私はこのようにします、そのようにします”と言う人―それはアウトです、完全に、永久に。そのように、あなたの観察と真理との間にはいかなる仲介者も存在しません、そのことを我々は明らかにしようとしています、真理とは何かです、それが果たして表現されうるものかどうかを。そうすると、そのように行うとき、人は人自身の光になります、そうすると、あなたは、それをどのように行うのかを、いついかなるときにも、誰にも問いません。正にそのように行う中に―それが正に観察することです―その行為が生じます、その変化が生じます。
 そのように、それが最初に学ぶことです―なぜなら、我々は学んでいるからです―最初に学ぶことは、人が自分自身の光になる必要があるということです。そして、あなたが導かれて擁護されているに違いない伝統に抗うのは途方もなく難しいことです。お分かりでしょうか? それが、インドからやってくるグルが、醜いキノコのように、世界中に蔓延る理由です。どうか、御免なさい、その人たちは、本当に、古い伝統を持ち込んでいて、そして、それを異なる言葉に言い換えて、それを提示しているからです。それは古いものです。インドでは、それは何千年と行われてきています。私は多くのいわゆるグルのトップたちと会ってきました、その人たちは私に会いにきました、そして、その人たちは、この上なく敬意を表して立ち去りますが、その人たちは彼ら自身の方式を続けます。
 そのように、これは観察するための自由のことです、従って、いかなる種類の権威も無用です。
 そうように、経験を追い求めること―それを我々はみな願います―が止むのでなければなりません。私はあなたにその理由を示します。我々は、毎日、様々な種類の何かを経験します。我々は性的な経験をしてきました、様々な種類の経験を書物や何かを通して疑似体験してきました―宜しいでしょうか、あらゆる経験願望のことです。“経験”という言葉は、体験することを意味します、体験して終了することです、それを記録しないことです。それを記録すると、それは記憶になります、そして、その記憶が観察を歪めます。例えば、もし人がキリスト教徒なら、あなたは、二千年、あなたの全てのイデオロギー、信念、教条、儀式、救世主などの中に条件づけられてきています、そして、あなたは、あなたが...と称する―それが何であれ―ものを経験したいと願うのです。そのように、あなたはそれを経験するでしょう、なぜなら、それがあなたの条件づけだからです。インドでは、人々は様々な神を手にしています、おーっ、幾百のそれらです、そして、人々はそれに条件づけられています、そして、人々は様々なそれを手にします、なぜなら、その人たちの条件づけに従って、その人たちは何かを見て取るからです。そのように、それは経験願望です、我々があらゆる物理的な経験に飽きるとき、我々は何か他の種類の経験を願います、スピリチュアルな経験です、神が存在するのかどうかを明らかにしようとする、何らかのビジョンやその他の全てを手にしようとする、この上なく、強い欲求です。あなたは様々なビジョンや経験を手にしているでしょう、あなたの背景に従って、それは明らかです、なぜなら、あなたの精神は、そのように条件づけられているからです。そして、そのことに気づくことです、そして、経験の中に意味されているものが何なのかを見て取ることです。
 経験の中に意味されているのは何でしょうか? 経験するためには、経験者がいなければなりません。違いますか? 経験者とは、その人が渇望する全てのことです、その人が言われてきた全てのことです、その人の条件づけのことです。そして、その人は、その人が神と称する何かを、あるいは、ニルヴァーナを、あるいは、それが何であれ、それを経験するのを願います。そのように、その人はそれを経験します。しかし、“経験”という言葉は認識を意味します。認識は、あなたがすでに知っていることを意味します、従って、それは新しい何かではありません。そのように、経験を求める精神は、本当は、過去の中を生きています、従って、それは、決して、恐らく、全く新しい何かを、オリジナルな何かを理解することはできません。そのように、経験願望から自由でなければなりません。お分かりでしょうか? あなたは、このことが途轍もなく骨の折れることになるのを知っています、この種の瞑想を検討することがそうなるのを知っています、なぜなら、我々はみな、相当に安易な、楽な、楽しい―お分かりでしょうか―のんきな生を願うからです。そうして、何か難しいことが起きると、あるいは、あなたが気を付けることを要する、あなたのエネルギーを必要とすることが起きると、あなたは言います、“まあ、それは私のことではありません、私は別の生き方をします”と。
 そのように、権威、いかなる種類の経験願望もアウトです。それは経験者がいないことを意味します。お分かりでしょうか? 我々はこのことを幾分か共有していますか? そうすると、あなたの恐れ、あなたの快楽、悲しみ、そして、日常の関係性の中のあらゆる複雑なことを、それら全てを観察します。非常に注意深く観察するのです。そして、我々は言いました、観察することは、観察者がいないことを意味すると、従って、抑圧したり、否定したり、受け入れたりする問題は生じません、単に、あなたの恐れを観察するのです、なぜなら、恐れが生じるとき、それはいつも気づきを歪めるからです。あなたが、単に、快楽を追い求めているとき―それは、再び、歪める要因です。あるいは、悲しみが生じるとき―それは、再び、何らかの重荷になります。そのように、瞑想が何であるのかを学んでいる精神は、そのことから自由でなければなりません、そして、日常の、毎日の関係性を理解するのでなければなりません、それはもっとずっと骨の折れることです。なぜなら、我々が言ったように、我々のお互いの関係性は、我々自身が造り上げる他の人のイメージに基づいているからです。そのように、そのようなイメージ造りが生じる限り、そのイメージ造りがお互いの実際の関係性を妨げます。違いますか? そのように、そのことは、我々が瞑想の問題を深く検討しうる以前の、重要な何かです。そして、それが、非常に僅かの人しか、瞑想を、正しく、適切に、行わない理由です。他の人たちは、それを弄びます、何らかの楽しみとして、あなたがすでに手にしているものに付け加える何かとして、そうします。
 宜しいでしょうか、そのことが、注意深く、深く、確立されているとき―それは瞑想の一部です―そうすると、我々は、思考がコントロールされうるのかどうかを明らかにすることに進みえます。お分かりでしょうか? あなたがインドにいようが、あるいは、禅の僧院にいようが、あるいは、様々な形の瞑想を、チベットのそれを試みていようが、宜しいでしょうか、人々は、アジアから、それら全ての類を持ち込んできています、なぜなら、あなた方がみなとても騙されやすいからです、あなた方はあなたが新しいと考える何かをとても容易く受け入れるからです、それは、ただ、丘々と同じように古いだけです。あなたはキリスト教を諦めて、それら他の重荷を受け取るのです。お分かりでしょうか? それは同じ古いゲームです。
 そのように、問題はこうです、思考はコントロールされうるのかどうかです。あらゆる瞑想システムが―それらのシステムは、何かを実践することです、それらは何らかのメソッドです、一日一日、一日一日、そうするのです、それら全ては主張します、思考はコントロールされうると、なぜなら、思考は、静寂な精神にとって、それを掻き乱す要因だからだと。あなたは、これら全てを理解しますか? 我々はお互いに幾分か通じ合っていますか? 我々の中に共通の土台が敷かれていますか? 宜しいでしょうか。そのように、思考は―それらは主張します―完全に保持されていなければならないと、そうすると、それは、恐らく、お喋りできないと、彷徨しえないと。従って、それらは主張します、それをコントロールするためには様々なシステムが必要であると、つまり、禅のシステム、チベットのシステム、仏教的システム、そして、様々な形のヒンドゥー的瞑想です、その本質は、つまり、あなたの思考をコントロールすることであると。違いますか? 私は、あなたがこのような問いをこれまで検討してきたのかどうか知りません、あなたがそうしてきたのかどうか、そして、あなたはそれについての何らかの書物を読んできたのかどうか、あるいは、あなたのグルたちに耳を傾けてきたのかどうか―もしあなたに何らかのグルたちがいるなら、そして、私は、あなたたちのいずれにも、そういうグルがいないことを願います、少なくとも、このトークの終了するとき、あなたがあなたのグルを此処で獲得しないことを願います―それら全てが何かを主張します、なぜなら、私は、それら全てに耳を傾けてきたからです、それらは私の許にやって来て、それについて多くを私に語って、私にそれらに加わるよう請いました―おーっ、私はそれら全ての戯言を検討するつもりはありません。それら全ては主張します、思考はコントロールされて、従って、思考は保持されなければならないと。そのシステムの一つがマントラヨーガです―あなたはそれについて聞いたことがあります。宜しいでしょうか、超絶的瞑想です。超絶的瞑想のような人を惹きつける呼び名があなたに示されると、あなたはそれを驚くべき何かに取り違えます。“マントラ”という言葉、その根本的な意味は、精神集中をもたらす、何らかの文句、何らかの方式、何らかの言葉のことです。お分かりでしょうか? それはコカ・コーラと言っても可能です(笑)―どうか、笑わないで下さい、笑わないで、あなたはそれに囚われます、それが私の異議を申し立てていることです、あなたはそれに囚われています。それはその飲料の商品名でも可能です、それは他の言葉でも可能です、あるいは、何らかのサンスクリット語でも可能です、あなたのグルによって、百五十ドルなど、など、などで、あなたに与えられるそれです。それは、それが精神集中を助けて、そうして、それによって、あなたの思考が完全に保持されるという考え方です。お分かりでしょうか?
 それでは、あなたがそのことを見てみるとき、それをコントロールする人とは誰でしょうか? お分かりでしょうか? あなたはあなたの思考をコントロールしたいと思います、あなたはあなたの思考をコントロールする重要性が分かります、そして、あなたはそれをコントロールしようとします、そして、いつでも、それを取り逃がします。あなたは、四十年、それをコントロールすることに費やしています。お分かりでしょうか? どの瞬間も、それを取り逃がします。そうすると、あなたはこう問う必要があります、コントロールしようとするその当のものとは何でしょうかと。そして、そのように途轍もなく努力して、それをコントロールすることの重要性とは何でしょうか? それは努力です―お分かりでしょうか? それは、立ち去る思考と“私はそれをコントロールしなければならない”と言う別の思考との間の争いを意味します、それは、ひっきりなしの、苦闘であり、争いであり、戦いです。それら全てが継続します。そこで、我々は、そのコントロールしようとするその当のものとは何なのかを検討するのでなければなりません。お分かりでしょうか? そのコントロールしようとする当のものも別の思考ではありませんか? 違いますか? そうすると、一つの思考―優位な思考―が言います、“私はその他の思考をコントロールしなければならない”と。一つの断片が別の断片をコントロールしようとしています。どうか、このことを非常に注意深く見て取って下さい、なぜなら、もしあなたがそのことを見て取らないなら、あなたは、我々の検討していることを見失います。
 つまり、思考は、それ自身を、何らかの活動、お喋り、様々なことについての考えなどに分断してきています。あなたが何かを見たいと思うとき、それに精神集中しようと思うとき、それは、あなたの靴や何か他のことについて考えたりします。そして、別の思考が生じて言います、“私はそういうことを考えてはいけない、私はそれをコントロールしなければならない”と。そのように、両方が思考です。一つが優勢で、他のそれを抑圧しようとします。そのことを見て取って下さい。言われていることの妥当性を見て取って下さい、私がそう言うからではなく、事実そうなのです。つまり、思考は言います、“もし私が、彷徨う思考をコントロールすることができるなら、それは驚くべきことでしょう、そうすると、私はニルヴァーナを経験できる”と―あるいは、それが望むものは何でも経験できると。そのように、何らかの分断が生じます―どうか、それを観察して下さい―コントロールしようとするものとコントロールされる必要のあるものとの間の分断です、そうすると、コントロールしようとするものとコントロールされるものとの間で争いが生じます。そして、あなたがコントロールするのを助ける様々なシステムが出現します。そのシステムの一つはこうです、あなたの行っているあらゆることに非常にゆっくりと気づきなさい、あなたの呼吸です、あなたの姿勢です―おーっ、それはあまりにもひどく...私はその類のことに耐えられません!
 そのように、重要なことは、思考のみが存在しているのかどうかを明らかにすることです、思考者と思考ではありません、従って、思考者が思考をコントロールしているのではありません。そのように、考えることのみが生じます―お分かりでしょうか?―あなたが靴紐あるいは神について考えているのかどうか、あるいは、あなたの妻、あるいは、将来の幸福など―それが何であれ―について考えているのかどうかです、それは、依然として、何かを考えることです。そのように、我々の興味は、思考をどのようにコントロールするのかではなく、そうではなく、我々の興味は、考えることの全プロセスとは何かということです。宜しいでしょうか、もし人がそれら全てに気づくなら、そうすると、考えることのみが生じます。お分かりでしょうか? 彷徨う思考ではありません、そして、“私はそれをコントロールしなければならない”と言う、それをコントロールしようとする思考ではありません。そのように、考えることのみが生じます。なぜそれは止むのでしょうか? お分かりでしょうか? もし考えることのみが生じるなら、なぜそれは止むのでしょうか? そのように、考えることは何らかの活動です、違いますか? 考えることは何らかの活動です、時間の中の活動です、ここからあそこへということなどの活動です。考えることは時間としての何らかの活動です。それでは、そのような時間は消滅しうるのでしょうか? それが問いです、どのようにして考えるのを止めるのか、ではありません。最初に、あなたは私の質問が分かりますか? 我々は瞑想に重きを置きました、人々は、グルなどその他の全てのグループは、コントロールすることに重きを置きました。コントロールが生じるところには、努力が生じるに違いありません、争いが生じるに違いありません、何らかの抑圧が生じるに違いありません。そして、抑圧が生じるところには、あらゆる種類の神経症的な振る舞いなど、それらの類が生じます。
 そのように、それは可能でしょうか―どうか、耳を傾けて下さい―いかなるコントロールもせずに生きることは可能でしょうか? お分かりでしょうか? それは、あなたの好き勝手が完全に許容されることを意味しません。お分かりでしょうか? 我々はもっとずっと真剣な問いを発しています、つまり、あなたの日常生活の中で、あなたは、心理的に、いかなるコントロールも全くせずに生きられるのか、ということです。あなたはできます。我々はそうしてきました。私は...ではありません。どうか、これは、非常に、非常に、真剣なことです、なぜなら、我々は、いかなるコントロールの影も射さない生のことを知らないからです。我々皆が知っているのは、コントロールすることのみです。そのように、そのことを理解するためには―コントロールとは無縁の生です―人は、そのことを、非常に、非常に、深く、検討するのでなければなりません。つまり、コントロールは、何らかの比較が生じるときに、起こります。私は私自身をあなたと比較します、私はあなたのようになりたいと思います、なぜなら、あなたは私より賢くて、聡明で、精神的であるなどそれら全てだからです。そのように、私はあなたのようになりたいと思います、そこで、私はあなたのようになるために何らかの努力をします。もしいかなる比較も生じないなら、心理的に、何が起こるのでしょうか? 私は現にある通りの私です。私は現にある通りの私を知りませんが、私はそれです。私がそうありたいと思う何らかの活動は生じません。そうすると、何が起こるのでしょうか? いかなる比較も生じないとき、何が起こっているのでしょうか? 私が鈍いのは、私が私自身をあなたと比較したからでしょうか、より賢い、より聡明なあなたと比較したからでしょうか、そうすることによって、私は鈍くなっているのでしょうか? それとも、その正に“鈍い”という言葉が私を鈍くしているのでしょうか? あなたはその意味が分かりますか? 私はあなたがそれら全てを理解するのかどうか知りません! 
 宜しいでしょうか、我々が美術館へ行くと 我々は様々な絵画を目にします、そして、あなたは比較します、ミケランジェロ―あなたは知っています、様々なアーティストがこう言うのを、“これはあれより良い”と―我々は伝統的にそのように訓練されています。学校で、我々は言います、あなたは“A”より良くなければならない、そして、あなたは格闘します、“A”になるように格闘します。そして、大学の入試試験やそれら全てが何らかの比較です、努力することです。宜しいでしょうか、我々は言っています、あなたが計ることがどういうことなのかを理解するとき、そして、その非現実性を見て取るとき、心理的に、そうすると、あなたは“現にある通り”の何かを手にします。お分かりでしょうか? あなたは正に“現にある通り”の何かを手にします。あなたは、あなたが何らかのエネルギーを手にするときにのみ、“現にある通り”の何かに出会えます。そのようなエネルギーは比較する中で消え去っています。違いますか? そこで、今、あなたは、“現にある通り”の何かを観察するための、そのようなエネルギーを手にしています。そのようなエネルギーでその“今”を観察するのです。そうすると、“現にある通り”の何かが、今、根本的に変質します。
 そのように、思考は、それ自身をコントロールしようとするものとコントロールされるものに分断してきました。しかし、考えることのみが生じています。コントロールしようとするものはいません、あるいは、コントロールされるものはありません、しかし、考える行為のみが生じています。考えることは時間の中の計る働きです。そして、それは、自然に、容易に、いかなる比較とも無縁に、消滅しえますか? あなたは私の質問が分かりますか? 私がそれを消滅させようと努力するとき、考えることが依然として働いています。私は私自身を欺いています、思考者は思考と異なっていると言うことによって欺いています。そうすると、私の問いは全く異なります。即ち、考えることのみが生じていると。思考者がその思考です。思考者はいません、もし思考が生じなければ。従って、この考えることは―それは時間の中の働きです―消滅しえますか? それは、時間が消滅しうるのか、ということです。宜しいでしょうか、私はそれをあなたに示します、もしあなたがそれを検討するなら。
 我々は言いました、時間は―どうか、気を...もしあなたが疲れているなら、休憩しましょう、私も止めます。もしあなたが疲れていないなら、我々は続けます―時間は過去です。違いますか? 将来という時間はありません。将来という時間があるのは、過去が現在に向き合って、それがそこで修正され、その先を見ていこうというときだけです。そのように、時間は過去からの働きかけであり、それが修正されて、それが依然として継続することです。我々は言っています、その働きが止むのでなければならないと。お分かりでしょうか? それは知識の全活動です。違いますか? それは既知の全活動です。あなたがその働きから自由にならないのなら、新しい何かを観察する自由は生じません。お分かりでしょうか? そのように、我々は言っています、その働きが止むのでなければならないと。宜しいでしょうか、あなたはそれを意志の働きで止めることはできません、それはコントロールすることです。あなたはそれをそのような欲望によって止めることはできません、それは、あなたの感覚、思考、イメージの一部です。そうすると、この働きはどのように消滅するのでしょうか、自然に―どうか、自然に、です―容易に、進んで、そうして、それは、あなたが知ることなく、あなたの知らないうちに、消滅するのでしょうか? 
 あなたは、これまで、あなたに大いなる快楽をもたらす何かを、その瞬間、即座に、それをやり過ごしたことがありますか? あなたはこれまでそうしたことがありますか? あなたは痛みや悲しみに関してはそうできます、私はその類のことを言っているのではありません、なぜなら、あなたはそれを忘れたいからです、それを捨て去りたいからです。しかし、あなたに計り知れない快楽を与える何かのことです。あなたはこれまでそうしたことがありますか? それを即座にやり過ごすのです、いかなる努力とも無縁にそうするのです。ありますか? 私はあなたに示します。それは、過去がいつも我々の背景にあるということです。我々は過去の中を生きています。彼は私を傷つけました、彼は私に何か言いました、私はこれこれを願います―お分かりですか?―我々の全生活は過去の中に費やされます。今の出来事が記憶に変換されます、そして、記憶が過去になります。そのように、我々は過去の中を生きています。過去の働き―それが止むことはありますか? それを我々は問うています。お分かりでしょうか? 宜しいでしょうか、それが止むことはありえます、ただ...―それはまやかしではありません(笑)、それは、あなたがこう繰り返し言うことではありません、“はい、私はそれを止めました”と、それは酷く愚かなことです。それは、過去、それは何らかの活動であり、そして、“今”、それは、その非活動を意味します。お分かりでしょうか? あなたはこのことを理解しましたか? 私はただ何かを発見しています。
 過去は、その働きであり、それが現在を通して修正され、未来に繋がっています。それは時間の働きです。過去は何らかの働きであり、いつも、何か活動しています、活動しています、先へ繋がっています、現在に出会って、そして、その先に繋がっています。“今”は“非活動”です、なぜなら、あなたは、“今”が何であるのかを知らないからです、あなたが知るのは“活動”のみです。違いますか? その“活動”が“今”に出会うとき、いかなる“活動”も生じません。お分かりでしょうか? 分かりませんか、分かりません? どうか、これは言葉によるコミュニケーションではありません、このことが、感じられる、深く知られる、理解される必要があります。あなたは“不動”の何かが“今”であると見て取ります。その“今”は現在に出会っている過去であると、我々はそう言いました、覚えていますか?―現在に出会っている過去、そして、そこで終了です。それが“今”です。そのように、過去の活動が“今”に出会い、それは不動の何かです、そして、それは止みます。お分かりでしょうか? そのように、思考―それは過去の働きです―が現在に完全に出会い、そして、そこで止みます。このことが瞑想される必要があります、熟考される必要があります。あなたはそれを検討します。
 そうすると、次はこうです、精神、それは、“もの”というだけではなく、それは頭脳であり、それは感覚でもあり、それは思考が精神に設えたあらゆるものでもあります、それは意識です、その意識の中に、様々なあらゆる無意識の要求があります。そして、我々は問うています、意識のそれを余すことなく全体として観察しうるのかと―お分かりですか―断片による断片ではありません。あなたは私の質問が分かりますか? なぜなら、もし我々が断片によって断片を検討するなら、それには限がないからです。それを余すことなく観察するときにのみ、それに終止符が打てます、あるいは、他の何かに至ります。お分かりでしょうか? それでは、意識をそのように余すことなく観察しうるのでしょうか、余すことなく、です。それは可能です、もしあなたがそうするなら。つまり、あなたが地図を見るとき、あなたはある場所へ行こうとして、地図を見ます、あなたはそれを見ています。そうすると、ある方向が目に入ります。そのように、あなたがある方向を見ているとき、それは非常にシンプルなことです。違いますか? あなたはこの町にいます、あなたは、ベルン、あるいは、チューリヒ、あるいは、ジュネーヴ―それがどこであれ―に行きたいと思います、そして、その方角はそこに見て取られます。そのように、全体図を観察することは、方向とは無縁です。それはシンプルです、違いますか? そのシンプルさを見て下さい、後生ですから、それを複雑にしないで下さい。それと同様に、その全意識を見ることは、方向とは無縁です。それは、いかなる動機ももたないことを意味します、なぜなら、あなたが地図を覗き込んで、ここからあそこへ行きたいと思う瞬間に、そのとき、あなたにはそこへ行きたいと思う動機が生じます、それは、あなたの楽しみやあれやこれです。そのように、あなたの動機がその方向性を決めます。しかし、何かを、あなた自身やあなたの意識を、余すことなく観察することは、いかなる動機ももたないことです、従って、いかなる方向性ももたないことです、そうすると、あなたは全体を見て取ります、あなたが地図の全体を見るとき見て取るように。違いますか? そうすると、あなたはドイツをイタリアの位置と取り違いません、あるいは、イタリアをイギリスの位置と取り違いません。そのように、あなたは、いかなる方向性とも無縁のとき、全体図を見ます、それはいかなる動機も抱かないことを意味します。
 そのように、あなたの意識を全体として観察するためには、いかなる動機もあってはなりません、いかなる方向性もあってはなりません。そして、それは、あなたが、あらゆることについて、何らかの動機をもって行うように訓練されているとき、可能でしょうか? 何らかの動機なしにいかなる行動も生じません―それが我々のそのように訓練されている、そのように教育されている我々の姿です、あらゆる我々の宗教が、あらゆるものが言います、あなたは何らかの動機をもつのでなければならないと。しかし、あなたが何らかの動機をもつや否や、それは快楽でもあり、苦痛でもあり、何らかの賞罰でもありますが、それがあなたに何らかの方向性を与えます、従って、あなたは決して全体を見ることができません。もしあなたがそのことを理解するなら、そのことを実際に見て取るなら、そうすると、あなたはいかなる動機も抱きません。それは、“いかにして、私は私の動機を取り除くことになるのか”ということではありません。お分かりでしょうか? あなたは、あなたにいかなる方向性も生じないとき、何かを余すことなく見て取ることができるだけです。
 これら全てが瞑想の一部です―お分かりでしょうか?―そうすると、そこから何らかの方向性が生まれうる中心が存在しません。お分かりでしょうか? その中心がその動機です。もしいかなる動機も存在しないなら、いかなる中心も存在しません、従って、いかなる方向性も存在しません。そうすると、どうなりますか? そこで、あらゆるヨーガのシステムが誕生します―あなたはヨーガの意味を知っていますか? ヨーガの意味は結びつけることです。私は思います、私もそう言われてきたと、そして、それは、その意味を全く取り違えていると。それは、私が想像するに、元々、全く異なる何かを意味しました。それは、つまり、余すことのないハーモニーを意味します。何かを実践することによって、何らかの呼吸法によって、あなたが何らかのハーモニーを手にするのではありません、そうではなく、それは、生き方そのもののハーモニーのことです。お分かりでしょうか? そして、あなたは、あなたが関係性を理解したとき、そのように行うことができるだけです。お分かりでしょうか?
 それでは、あなたはこれら全てに付いてきていますか? そうすると、精神は―私は他の何かも此処で検討するのでなければなりません。それら全てを行う中で、そのように日常を生きる中で、あなたは何らかの力を手にします。お分かりでしょうか? サンスクリット語でシッディ、悉地、不思議力と称されるものです、それは、あなたが透視者になることです、なぜなら、あなたの身体が驚くほど鋭敏になるからです、あなたの精神が非常に明晰になるからです、あなたは他の人たちの思考を読むことができるからです、あなたはあなたがそれまで決して手にしていなかったある種の能力を手にするからです、テレパシーです、お分かりでしょうか、その他の全てです。宜しいでしょうか、我々はそれら全てのことを経てきています。しかし、そのようなことを引きずると、あなたはそれ以上歩めません。お分かりでしょうか? もしあなたがそれら全ての酷く子供じみた類に囚われると―それは極めて子供じみています―もしあなたが非常に鋭敏な身体をもつなら―お分かりでしょうか?―あなたは人々の言うこと、考えること、それら全てをほとんど聴くことができます、そして、それはあなたにある種の力を授けます、ある種の能力を授けます、しかし、もしそれらが重要になると、そうすると、あなたは全てのことを失ってしまいます。
 そして、また、人々は、今、語っています、不幸にも、それらを、何も知らなくて、クンダリーニやそれら全てのことを語っている人たちについて、語っています―私はそれら全てを検討しようとは思いません。

    ......美の不動の動とは何でしょうか?......

 そうすると、宜しいでしょうか、精神は用意が出来ています。お分かりでしょうか? それはいかなる働きとも無縁に観察する用意が出来ています。お分かりでしょうか? あなたは権威を理解しました、あなたは...それら他の全てを理解しました―私はそれら全てを検討しません―完全に独存すること、あなた自身の光になること、従って、いかなる侵害も生じません。従って、精神は記録しません、頭脳、それを我々は、先日、検討しました。そのように、精神は、今、何一つ活動することなく、佇みます。違いますか? 従って、それは沈黙します、強制された沈黙ではありません、育まれた沈黙ではありません、それは、あなたはお分かりです、それには意味がありません、そうではなく、それは、何かを止めた結果生じるのではない、ノイズを消した結果生じるのではない沈黙です。お分かりでしょうか? それは日常生活の自然な産物です。そして、その日常生活にはその美があります。そして、美はこの不動の一部です。私は美について話すのでなければなりません。今、時間は何時でしょうか? 我々は対話します...我々は、もう十分間、対話しましょうか? 私が話して、あなたは耳を傾けます、それは...もしあなたが私と何かを共有しているなら、あなたは...ではないでしょう。
 美とは何でしょうか? それは何らかの表現でしょうか、それはあなたが見るもの、姿形、高さ、深さ、影、ミケランジェロの絵画、あるいは、彼の彫像でしょうか? 美とは何でしょうか? それはあなたの目の中にありますか? それとも、それはそこに、外のどこかにあるのでしょうか? それとも、それはあなたの目の中でも、あるいは、外のどこかにあるのでもないのでしょうか? あなたは私の話していることが分かりますか? 我々は言います、それは美しい、美しい建築物である、驚くべき大聖堂である、あるいは、愛らしい絵画であると―それはそこにあります。あるいは、それは目の中にあるのでしょうか? なぜなら、それは、訓練してきている、観察してきている、それは、醜いものを、均整の整っていないものを、深みのないものを、姿かたちの良くないものを見てきているからでしょうか? それは外のどこかにあるのでしょうか? それとも、それは目の中にあるのでしょうか? それとも、それは目とは何の関係もないのでしょうか、あるいは、それとも―外側のそれとも―何の関係もないのでしょうか? 私は問うています。美はあなたのいないときに生じます。違いますか? お分かりでしょうか? あなたが何かを見るとき、それはあなたが見ています、あなたが判断しています、あなたが言っています、“それは素晴らしく均整がとれている”と、“それはとても穏やかです、それには深みがあります、それはとても雄大です”と、しかし、それは、全て、あなたの見立てであり、あなたがそれに重要性を施しています。しかし、あなたがそこにいないとき、それが美です。お分かりでしょうか? おーっ、あなたは知りません。そして、その美がそこにあるとき、そのそのような表現は決して生じないのかもしれません。お分かりでしょうか? しかし、我々はそれを表現したいと思います、なぜなら、それが自己実現だからです。私は芸術家です、私は偉大な...―お分かりでしょうか? 従って、美は、恐らく、人間として、あなたの労苦、あなたの不安、痛み、悲しみなど、それら全てを抱えたあなたがそこにいないとき、美は生まれるのかもしれません。
 そのように、精神は、今、静かです、何らかの活動とは無縁です。そうすると、あなたは問います―我々は探究しています―探究しているのではありません、なぜなら、あらゆる探究、あらゆる活動が止んでいるからです―そうすると、そこに何がありますか、活動が止んでいるとき。お分かりでしょうか? 慈しみは何らかの活動でしょうか? 人は慈悲深いのです、人は出向いて、他の人のために何かを行います、どこかのイタリアの村かどこかに出向いて、人々を助けます、なぜなら、あなたは慈悲深いからです―そのように、それらは全て感傷や愛情などの様々な形です、しかし、我々はもっとずっと重要な何かを問うています、つまり、いかなる活動も止むとき、そうすると、何が起こるのか、そこにあるのは何なのか、ということです。我々は問うています、それは慈しみなのかと。それとも、それはそれら全てを超えた何かでしょうか? つまり、余すことなくオリジナルで、従って、聖なる何かがあるのでしょうか? お分かりでしょうか? なぜなら、我々は聖なる何かを知らないからです。我々のイメージは聖なるイメージです、あなたが教会へ行こうと、あるいは、寺院へ行こうと、あるいは、モスクへ行こうと、我々のイメージは聖なるイメージです、しかし、それらのイメージは思考によって作り上げられています。そのように、思考は物質的なプロセス、活動です、そうすると、いかなる活動も存在しないとき、余すことなくオリジナルな何かが、全く、人間に触られない、思考のあらゆる活動に触られない何かがあるのでしょうか? 従って、それが、オリジナルで、従って、この上なく聖なる何かかもしれません。お分かりでしょうか? これが本当の瞑想です。正に、最初から、知らないでスタートするのです―どうか、もしあなたが知っていてスタートするなら、あなたは疑念に行き着きます。お分かりでしょうか? もしあなたが知らないでスタートするなら、あなたは絶対的な真理に行き着きます、それは確かな何かです。私はあなたがこのことを見て取るのかどうか知りません。なぜなら、我々は、我々が我々自身を探究しなければならないと言って、始めたからです、そして、我々自身は既知の何かです、従って、既知を虚しくするのです。そうすると、その虚しさから、その他の全てが自然に流れます。
 そうすると、この上なく聖なる何かが生まれるとき―それが瞑想の全活動です―そうすると、生は全く異なる意味をもちます。それは、決して、表面的な何かではありません、決して、そうではありません。あなたは十種類のスーツを、あるいは、何らかの家を手にするかもしれませんが、もしあなたがこの聖なる何かを手にするなら、他の何ものも重要ではありません。宜しいでしょうか、正に、それです。
質問者 質問しても宜しいでしょうか?
クリシュナムルティ 勿論です。
質問者 何らかの動機がビジネスには必要でしょうか、そして、もしそうなら、人はどのように正しい動機を選択するのでしょうか?
クリシュナムルティ 生計を立てるのに、正しい動機とは何でしょうか。そういうことでしょうか、宜しいでしょうか?
質問者 はい、何らかの動機が必要でしょうか?
クリシュナムルティ はい、私はそれを示しています。その動機とは何でしょうか、あるいは、生計を立てる正しい動機です。それが意味するのは、つまり、正しい生計とは何かです、そうではありませんか?
質問者 はい。
クリシュナムルティ あなたは正しい生計とは何だと思いますか? この上なく便利なそれではありません、この上なく利益を生み出すそれではなく、あるいは、楽しい、あるいは、豊かなそれではなく、正しい生計とは何でしょうか? 宜しいでしょうか、どのようにしてあなたはそれを明らかにするのでしょうか―どうか、ただ耳を傾けて下さい―あなたが正しい生計とは何かを問う前に、正しいとはどういうことでしょうか? 正しいとはどういうことでしょうか? その“正しい”という言葉は、間違いのないこと、適正な何かを意味します、お分かりでしょうか? 適正な何かです。それは、もしあなたが、利益あるいは快楽のために何かを行うなら、適正とはなりえません。違いますか? 適正な何かです、従って、間違いのない、従って、正しい何かです。それでは、正しいとはどういうことでしょうか?

 ......ロシア=ウクライナ戦争とは何でしょうか?......

 ちょっと待って下さい。このことは、再び、非常に複雑なことです。思考の作り上げるあらゆるものが現実です。違いますか? このテントは思考によって作り上げられています、それが現実です。樹木は思考によって作り上げられていません、それは現実です。様々な幻想は現実です。人の抱く様々な幻想、イマジネーション、それら全ては現実です。そして、そのような幻想から生じる行動は神経症的であり、それは現実です。そのように、あなたは、最初に、見て取るのでなければなりません、あなたがその問いを発するとき、正しい生計とは何かを問うとき、あなたは現実とは何かを理解するのでなければなりません。違いますか? 現実は真理ではありません―我々はそのことを、少し後で、検討します、もし我々に時間があるなら。そのように、何らかの現実があります。それでは、そのような現実の中で、間違いのない行為とはどういうことでしょうか? お分かりでしょうか? 宜しいでしょうか、あなたは、そのような現実の中で、正しいとはどういうことかを、どのように発見するのでしょうか? 自分自身で発見するのです、人に言われることではありません。もし私が、あなたに、行きなさい、そして、こうしなさいと言うなら、そうすると、あなたはそのことを悔やむことになって、そうして、最後は、私を呪うかもしれません。そのように、あなたは、適正な、間違いのない、正しい行為とは何かを、あるいは、現実の世界の中で、正しい生計とは何かを明らかにする必要があります。現実は幻想を含みます、逃げないで下さい、避けないで下さい、幻想と幻想のその様々な活動です、信念が何らかの幻想であるように。そして、信念による様々な活動は神経症的であり―国家やその他の全てを信じることです―それは別の形の現実ですが、幻想です。そうすると、それら全てを現実として受け取ると、そこにある正しい行為とは何でしょうか? 
 お分かりでしょうか? 誰があなたにそれを語ろうとするのでしょうか? 誰もいません、それは明らかです。そうすると、あなたが見て取るとき―どうか、耳を傾けて下さい―あなたが現実を幻想―それもまた現実です―とは無縁に見て取るとき、その現実に正に気づくことが叡智です―違いますか?―そうすると、そこには、現実と幻想やその他の全てとの混同は生じません。そのように、現実―それは、樹木の現実であり、テントの現実であり、思考が作り上げてきた現実であり、様々なビジョン、様々な幻想を含むそれです―をそのように観察するとき、あなたがそれら全ての現実を見て取るとき、その正に気づきがあなたの叡智です、違いますか? そうすると、あなたの叡智があなたの行うことを指し示します。私はあなたがこのことに首肯するのかどうか知りません! あなたはこのことを理解しますか? 叡智は現にある通りのこととそうではないことに気づくことです。“現にある通り”のことに気づくこと、そして、“現にある通り”の現実を見て取ること、それは、あなたが、いかなる心理的な関与とも無縁であること、いかなる心理的な要求とも無縁であることを意味します、それらは全て何らかの幻想の形です。それら全てを見て取ることが叡智です、そして、そのような叡智はあなたがどこにいても働きます。従って、それはあなたに何をすべきかを伝えます。宜しいでしょうか、そうすると、真理とは何でしょうか? 現実、そのことを我々は言いました―違いますか?―そうすると、真理とは何でしょうか? 確かに、それは現実とは違います、そこで、真理が存在します。人はそれを検討する必要があります、私には、今、そうする時間がありません。真理が存在します。そうすると、現実と真理とを結ぶリンクとは何でしょうか? お分かりでしょうか? そのリンクがこの叡智です。現実を余すことなく見て取るそのような叡智は、従って、現実を真理に持ち込みません。そして、その真理は、そうすると、叡智を通して現実に働きかけます。分かりましたか?           ―1976年 7月25日 ザーネン
                    1976年 7月13日 ザーネン