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クリシュナムルティ 我々は、前回、我々がここで会ったときに思考の活動について話していました。どのように思考がこの現代社会を築き上げてきたのか、技術的にも、心理的にも、それは科学の領域で、そして、心理学の領域で、何を行ってきたのかについてです。そして、それは、様々な宗教、様々なセクト、信仰、教条、儀式、救世主、グルなど、我々がよく知っているその他の全てを作り上げてきました。そして、我々は言いました、思考にはその居場所があると、限られた、分断的なその居場所があると、しかし、思考は、恐らく、全体的な何かを把握できないと、理解できないと、あるいは、それに出会えないと言いました。思考は、時間とは無縁の何かを、何らかの真実があるのかどうかを、真理があるのかどうかを決して明らかにできません。思考は、どのような環境の下でも、そのような計り知れない何かに決して出会えません、そして、そのような余すことのない全体の把握を欠くと、思考そして計ることを宗とする時間の存在しないそのような次元の把握を欠くと、それに決して出会えません。思考はそれ自身の居場所を見つけねばなりません、そして、それ自身をそのような居場所に限定しなければなりません。それが、前回、我々が此処で会って話していたことです。
我々は恐れの重大な問題について話そうとしていました。しかし、我々がそれを検討する前に、私は、もし宜しければ、我々自身を観察する問題を検討したいと思います。我々が我々自身を観察するとき、我々は我々自身を切り離していません、我々自身を限られた何かにしていません、我々自身を自己中心的な何かにしていません、なぜなら、我々が説明したように、我々は世界であり、世界は我々だからです。これは事実です。そして、我々が、人間として、我々の意識の、我々自身の全内容を検討するとき、我々は本当に全人間を検討しています―たとえ、人が、アジア、ヨーロッパあるいはアメリカに住んでいようと、どこであろうと。そのように、それは自己中心的な何かではありません。このことは非常に明確でなければなりません、つまり、我々が我々自身を観察しているとき、我々は自分本位に、自己中心的になっていません、益々神経症的になっていません、一方的に何かに偏っていません、その逆です、我々は、我々が我々自身を見るとき、全人間の問題を検討しています。人間の悲惨、争いの問題です、そして、人が、自分自身と他の人々に向けて作り出してきた、ぞっとするような人間の問題です。そのように、この事実を理解することは、我々は世界であり、世界が我々であるということを理解することは、非常に重要なことです。あなたには、あなた自身の表面的なこだわりや、表面的な傾向があるかもしれませんが、基本的に、全ての人間は、この不幸な世界の下で、悲惨、混乱、動揺、暴力、絶望、苦悶を経験しています。そのように、我々には我々に共通する土台があります。そのように、我々が我々自身を観察するとき、我々は人間を観察しています。私はこのことが明瞭であることを願います、そして、この観察を、何らかの神経症的な、何かに偏った、自分本位の何かにしないことを―ほとんどの人たちがそうしたがるのですが―望みます。
そこで、問題はこうです、つまり、自分自身を観察することは可能かということです―どうか、このことに、少しの間、耳を傾けて下さい―次々と記憶することなしに、自分自身を観察することは可能か、ということです。私は私の言う意味を説明します。
我々は条件づけされています。これは明らかな事実です―キリスト教徒として、共産主義者、社会主義者、ヒンドゥー教徒、イスラム教徒などとして、それが何であれ、我々はそれら全ての信念、それら全ての教条、それら全ての儀式、それら全ての恐れで条件づけられています―どのような人間なのか、その嗜好とは何か、その性的な欲求とは何か、その権力欲、地位志向、金銭欲とは何かなどです。それが正に世界中の人間の欲するものです。そして、神や真理は二の次にされます。そのように、我々は条件づけられています、そして、我々はいつもそのような領域の中で機能しています、デザインを変えながら、姿を変えながら、形を変えながら、いつも、条件づけられた精神の領域の中で機能しています、それは、同じように、明らかなことです。私はこのことが明瞭であることを願います。そして、頭脳はいつも記憶しています―それが頭脳の機能です、記憶することです。もしあなたが頭脳の働きを観察するなら、もしあなたがそうできるなら―我々はそのことについて、間もなく、話し合います―そうすると、あなたは、それがいつも記憶しているのが分かるでしょう、コンピュータのように記録しているのが分かるでしょう。勿論、コンピュータは機械的であり、こちらはもっとずっと繊細で、もっとずっと生き生きとしていますが、その機能は記憶することにあります、なぜなら、記憶することによって、何らかの確かな安全性が生じるからです。もしあなたが何らかの事故に遭ったとすると、身体的にも心理的にも、それは記憶として留められます、そして、その記憶が何らかの安全性をもたらします―再び事故に遭わないために。それは、同じように、非常にシンプルなことです。そのように、我々の頭脳は記憶する機械です、それは経験であり、知識やお金のことです、そして、そのような記憶の反応が思考です―それは、先日、我々が此処で会ったときに話したことです。
そのように、我々の活動はそのような領域の中です、記憶し記録することです、そして、あなたが記録したことに従って、巧みに行ったり、不細工に行ったり、論理的あるいは非論理的になったり、健全であったり、不健全であったりします。それが、もしあなたが観察するなら、いつも起こっていることです。我々は先へ進みましょうか? あなたはこれら全てに付いてきていますか? 宜しいでしょうか、これは、非常に、非常に、真剣なことです。もし指摘させていただくなら、これは遊びごとではありません、面白おかしい何かではありません、楽しむ何かではありません、これは生と死の問題です、それは我々の日常生活の中の途轍もなく重要な事柄です、なぜなら、我々の日常生活はとても混乱しているからです、とても混迷しているそれだからです、そして、その極めて混乱した中に、何らかの種類の秩序をもたらすためには、我々は、どのように我々自身を観察するのかを理解する必要があります、そして、頭脳がどのように活動するのかを見て取る必要があります―書物からではありません、それらは、どこかの哲学者あるいは心理学者あるいは如何様グルの説明にしかすぎません。御免なさい、私はあらゆるグルを何らかの宗教的伝統主義者と見ています、彼ら自身の特殊用語、彼ら自身の特異な性格、彼ら自身の信念を持ち込んで、それらを他の人たちに押し付けていると。
そのように、もしあなたがあなた自身を観察するなら―従って、あなたは全ての人間を観察しています―人間の歴史はあなたです、そして、あなたがその歴史です。あなたはその歴史を読む必要があります、それを読むことができるのでなければなりません、他の人たちが人間について書いた書物からではなく、あなたが世界中の全ての人間の余すことのない本質であるように、人は人自身を観察する“アート”を学ぶ必要があります。我々が言ったように、“アート”とは、あらゆるものをその正しい場所に置くことを意味します。それがその“アート”の実際の意味です。人が作り出す、描く、詩にする何かではなく、我々はその“アート”に関心があります。その言葉の意味は、生の中のあらゆるものを、その正しい場所に置くことを意味します、そして、あなたがそうするとき、あなたはこの上なく偉大な“アーティスト”です。あなたは決して絵を描かないかもしれません、あなたは決して詩を書かないかもしれません、あなたは決して彫刻を彫らないかもしれません、しかし、もしあなたが知るなら、もしあなたがあなた自身を観察して、観察の“アート”を学んだなら、そして、あなたの生の中のあらゆるものをその正しい場所に置くなら、あなたは世界の中のこの上なく偉大な“アーティスト”です! 私はあなたがこのことを理解するのを願います。
そして、あなたがあなた自身を観察するとき、あなたは見て取ります、あなたの全ての活動は―それは記憶することであり、記録することです―条件づけのプロセスであると。違いますか? お分かりでしょうか? 我々はお互いに通じて合っていますか? コミュニケーションは重要です。コミュニケーションは分かち合うことを意味します、言葉でだけではなく、言葉を超えて、人の言っていることの意義を捉えることをも意味します。そうすると、我々はお互いに通じ合っています、なぜなら、我々はフランス語あるいは英語あるいはイタリア語を理解していると思われるからです、そして、もし人が英語を話すなら、我々は、現代語ではないかもしれない、現代世界の特殊用語ではないかもしれない、五千年以上も前の何らかの言語を使っています、なぜなら、人は、恐れ、悲しみ、快楽のような言葉、そして、あらゆる記憶を超えた何か計り知れないものを使っているからです。
そのように、我々はいつも記憶しています、記録しています、知識として貯め込んでいます、そして、その領域の中で活動しています。そのような領域の中の活動は、我々の条件づけを強めます、それは明らかです。違いますか? 我々は通じ合っていますか? もし私がヒンドゥー教徒なら、そして、私が幾世紀もの伝統に、幾世紀もの教条、信念に条件づけられているなら、そして、私がそのような領域の中に埋没して活動するなら、その活動はその条件づけを強めます。それは明白です、違いますか? そのように、その条件づけから自由になれません、私がそのような領域の中で活動していて、心理的にも生物的にも、身体的な要求に依存している限り。このことは明瞭でしょうか? もし私が共産主義者なら、そして、私が何らかの教義を、何らかの弁証法的な結論を手にしているなら―正、合、反です、あなたはそのゲームを知っています―そして、その中で生きているなら、私は益々私の結論を強めます、それらは私の結論を証明します、そうすると、私は決してそこから抜け出すことはないでしょう。そのように、そのような領域の中に自由はありません。それは明白です、違いますか? 私は先へ進めますか?
そこで、私の問いはこうです、それは可能でしょうか―どうか、耳を傾けて下さい―記録しないことは可能でしょうか、ということです。お分かりでしょうか? なぜなら、もし私が絶えず記録し続けているなら、頭脳はいつもそれ自身を条件づけています。私はあなたがこのことを理解するのかどうか知りません! 私はいつも知識の領域の中で活動しています―私が学んできたことです、私の経験です、そして、私はいつもその限られた領域の中で活動しています、その条件づけが、更に、更に、更に、強まります、それが我々みなの中で起こっていることです。違いますか? そこで、人はこう問います、心理的に記録しないことは可能かと。あなたは私の質問が分かりますか? これは、非常に、非常に、真剣な問いです。頭脳の中に記録しない部分がありえますか? お分かりでしょうか? もし人間がいつも既知の領域の中で活動しているなら―それが人の条件づけです―そうすると、その正に活動が更に大幅な抵抗を生みます。ここで、我々はこの上なく根本的な問いを発しています、風変わりな問いではありません、あるいは、神経症的な問いではありません、つまり、頭脳は全く記録しないことが可能か、ということです。記録しない必要性を理解する頭脳の部分、あるいは、質があるのでしょうか? お分かりでしょうか? その必要性です。我々はお互いに通じ合っていますか? どうか、お願いします!
宜しいでしょうか、我々はそのことを最初に検討しようと思います、なぜなら、あなたが恐れを議論することになるとき、あなたはその意味を、その言葉を、それら全ての意義を理解する必要があるからです。そして、我々が既知の領域の中で活動している限り、恐れは強まります。違いますか?
そうすると、全く記録しないことは可能でしょうか、心理的に? 生物的には、あなたは記録する必要があるかもしれません。あなたは記録する必要があります、あなたが道路の右側あるいは左側を走行しているのかどうか、それはあなたの住んでいる国によります、あなたは、多くの、多くのことを物理的に記録する必要があります、しかし、心理的に記録する必要性とは一体何でしょうか? もしそれが不可能なら、そうすると、我々はその知識の領域の中に果てしなく生きるように、その条件づけを絶えず強める領域の中で生きるように運命づけられます。違いますか? あなたはこのことを理解しましたか? それでは、我々はそれが可能かどうかを明らかにして生きたいと思います。どうか、あなたは話に耳を傾けているのではありません。あなたはあなた自身に耳を傾けています。あなたはあなた自身の頭脳の働きに耳を傾けています、あなた自身の思考を見守っています、あなた自身の記録する働きを見守っています、記録して、そして、活動することです―巧みに、不細工に―あなたはあなた自身を見守っています、つまり、あなたは話し手とこのことを分かち合っています。違いますか? そうすると、あなたは話し手の言っていることを見守っているのではなく―それは何らかの観念になります―そうではなく、あなたはあなた自身の働きを見守っています。
我々は問うています、頭脳は伝統的に教育されてきていると、知識を通して力を増していると、そして、いつもその領域の中で生きていると、従って、記録することがその安全性にとって途轍もなく重要になっていると。そして、我々はこうも問うています、そのような領域から自由にならないと、我々は永久にそこの中に生きるように運命づけられて、争って、喧嘩して、あらゆる悲惨が継続すると。
宜しいでしょうか、我々は明らかにしようと思います、話し手を通してではなく、あなた自身のために、あらゆる人間を代表する人間として、あなたは明かにしようと思います、記録することの全く起こらない可能性があるのかどうかを、従って、その条件づけを断ち切る可能性があるのかどうかを。お分かりでしょうか? 子供の時から、両親を通して、社会などのあらゆる環境を通して、我々は傷ついています。違いますか? あなたは子供の時から傷を負っています、違いますか? あなたは心理的に多くの傷を負ってきています。そのような傷はあなたがあなた自身について抱くイメージを通してもたらされます、それは明らかです。違いますか? 先へ進んでも宜しいでしょうか? あなたは...あなたはこのことを分かち合っていますか?
あなたはあなた自身についてのイメージをもっています、違いますか? あなたは素晴らしい、あるいは、素晴らしくない、あるいは、あなたは非常に繊細である、あなたはとりわけ途方もない何かである、あなたは他の誰よりも知的である、あるいは、あなたは非常に神に近いと―あなたはそれら全ての戯言を知っています! そのように、あなたはあなた自身について何らかのイメージをもっています、そして、そのイメージは絶えず子供の時から傷ついています、心理的に、そして、それが身体的に影響を及ぼしています、それは精神身体的です。宜しいでしょうか、そのような傷が生じるとき、あなたは引きこもっています、孤立しています、抵抗しています、従って、そのような抵抗、そのような孤立、そのような傷がその条件づけを強めます。違いますか? お分かりでしょうか? そして、それが強化されると、あなたは神経症的に行動します、なぜなら、あなたはあなたがとても繊細であると感じているからです、なぜなら、あなたはあなた自身の周りに壁を築いているからです、そして、あなたは何らかの発言を聞いて、何らかの侮辱を受けて、何らかのおべっかを受けて引きこもります―おべっかは侮辱と同じです、それらは物事の表裏です。そのように、あなたがそのような傷を抱えている限り、あなた自身を孤立させている感情が生じている限り、何らかの抵抗感が生じている限り、条件づけを強めるプロセスが継続します。そして、あなたはその傷から、その抵抗感から、その孤立から、神経症的に行動します。違いますか? それでは、傷つかないことは可能でしょうか―それは侮辱を記録しないことではありません。お分かりでしょうか? あなたは私と通じ合っていますか? あなたは私を侮辱します、あるいは、私におべっかを使います―幾人かの人たちは私を侮辱してきました、しかし、ほとんどの人たちは私におべっかを使ってきました、不幸にも。そして、それらのいずれも記録しないこと―それは可能でしょうか? あなたは私の質問が分かりますか?
宜しいでしょうか、あなたはあなた自身を見守っています。つまり、あなたは私の使っている言葉を通して見守っています、話し手の使っているそれらです、それらの言葉を通してあなた自身を見守っています、人間として、どこか他の人間ではなく、我々の目の前に実際に座っていて、自分自身を見守っています。その人はその傷を知っています、その人はその傷の孤立化のプロセスに気づいています、なぜなら、その人はそれ以上傷つきたくないと願うからです、従って、抵抗します、孤立します、そして、その孤立から行動を起こします―論理的に、非論理的に、愚かになどその他の全てです、そして、その行動が、その傷の中のその人を、その壁の中のその人を益々強めます。宜しいでしょうか、我々は問うています、そのような侮辱あるいはへつらいがなされるとき、それを記録しないことは可能かと。宜しいでしょうか、頭脳は記録するように訓練されています、慣らされています、教育されています―あなたは思い当たりますか? あなたは話し手と同じくらいに真剣に取り組んでいますか? 私はそう願います!
あなたはこの問いにどう答えますか? 話し手は問いを発しました、つまり、傷あるいはへつらいがなされるとき、記録しないことは可能かと。それでは、あなたはその問いにどう答えますか? あなたはその問いにどのように耳を傾けますか? どのようにあなたはそれに耳を傾けますか? それは何らかの観念でしょうか? それとも、それは事実でしょうか? お分かりでしょうか? 宜しいでしょうか! あなたはあなたが聞いたことから何らかの結論を導き出すのでしょうか? それとも、あなたはその傷を、その傷がもたらすものを実際に観察するのでしょうか、そして、あなた自身に問うのでしょうか、いかなる傷も全く受けないことは可能かどうか、従って、その傷を、その言葉を、その言葉のもたらす意味を記録しないことです、それが意味するのは、あなたがいかなる...もしないこと、そのイメージが傷ついているということです、なぜなら、そのイメージがあなただからです。あなたはこれら全てが分かりますか? 宜しいでしょうか? なぜなら、もし頭脳が記録しないことが可能なら、身体的なことを除いて、そうすると、それは全く異なる働きをします、全く異なる活動をします、それは全く異なるエネルギーです。私はあなたを侮辱します―私はそうしないことを願います、しかし、仮に私がそうします。あなたは、その侮辱、その言葉、その意味、そして、あなたを傷つけようとする悪意、それら全ての意味がもたらすことに耳を傾けて、それに完全に耳を傾けて、そして、頭脳はそれに取り合わないことができますか? 私はあなたにそれをどのように行うのかを示します―いいえ、“どのように”ではありません―それは...どのようにそれは働くのか。
あなたはこれら全てに興味がありますか? それはあなたに何らかの意義がありますか? なぜなら、これは途轍もない内面的な革命を意味するからです。しかし、我々のほとんどは、そのような内面的な革命を恐れます、従って、それに抵抗します。あなたは言うかもしれません、“そうすると、もし私の中に何か深い変化が起こるなら、私は何も行わないかもしれません。私は私の家族を失うかもしれません”と―お分かりでしょうか? 恐れが生じます。宜しいでしょうか、記録しないことが果たして可能かどうかを明らかにすることです。そのような侮辱やへつらいに、この上なく余すことのない感受性で耳を傾けることです。あなたはこれまでそのように行ったことがありますか? 川の水の流れをあなたの全ての感覚で観察することです、それら諸々の感覚だけではなく、頭脳それ自身の感覚的知覚も含めてそうするのです、なぜなら、頭脳は感覚だからです。その侮辱と同様、そのへつらいに、あらゆる感覚が高揚している頭脳と共に耳を傾けることです―あなたはそうできますか? 我々は我々の全ての感覚で何かを決して観察しません。我々は知的に観察するか―それは諸々の感覚の一部です―あるいは、言語的に、部分的に、ある言葉を聞いて、その言葉を、快くも不快にも解釈するのかのいずれかです、そのように、我々はいつも部分的に観察しています、我々の諸々の感覚を部分的に目覚めさせて、そのようにします。我々は全く異なる何かを問うています、それは、つまり、我々の全ての感覚を働かせて、そのような侮辱やへつらいを観察することです、耳を傾けることです。あなたはそうできますか? あなたはその意味が分かりますか?
質問者 そうすると、あなたは記録しません。
クリシュナムルティ その紳士は言います、そうすると、あなたは記録しないと。お分かりでしょうか? どうか、私はその紳士が誰か知りません、従って、私は彼を侮辱していません。彼はすでに結論を導き出しています。彼は...彼はそうしましたか? それとも、彼は...耳を傾けることによって、はい、そのことが起こります、もしあなたがそうするなら。私は、あなたに、その真理を明らかにするために、何かに、非常に、非常に、注意深く耳を傾けることを問うています、その結論ではありません、何らかの観念ではありません、そうではなく、その真理を明らかにするためです。あなたが、高揚して目覚めたあなたの全ての感覚で侮辱やへつらいに耳を傾けるとき―諸々の感覚は、頭脳だけではなく、精神の質でもあります、それが感応します、それは諸々の感覚の一部です、あらゆる感覚の余すことのない何かです、そうすると、あなたは記録することが全く生じないことが分かるでしょう。違いますか? ただ、そのことに耳を傾けて下さい。結論を導き出さないで下さい。言わないで下さい、“もし私がそうするなら、それは起こるでしょう”と。もし、あなたが、言われていることに、あなたの全ての感覚で耳を傾けるなら、そうすると、あなたはその条件づけから自由です。あなたはこのことの何かを理解しましたか?
あなたは、何らかの絵画を、誰がそれを描いたとか、構図がどうだとか、その他の全てについて、いかなる比較もしないで、観察したことがありますか、ただそれを観察することがこれまでありましたか? 宜しいでしょうか、そうすると、あなたはその絵画を超えています、超えています、あなたはそれから離れています。
そのように、それは可能です。話し手はそう主張します、あなたはではありません、なぜなら、あなたはそうしていないからです。もしあなたがそうするなら、そうすると、あなたは主張できます、それは真理であると、しかし、単に、誰かが言うことを繰り返すことには全く意味がありません。我々は言っています、記録しないことは可能であると。頭脳の中に記録しない質が生じます、もしあなたがあなたの全ての感覚を注ぐなら、それは余すことなく気を付けることです。
そうすると、いかなる記録も生じないとき、そうすると、思考は、それはあらゆる記録の反応です、そうすると、思考はその相応しい場所に落ち着くことになります。違いますか? つまり、思考はそれ自身をそれ自身の持ち場に据えるのです。それはそれが必要とされているところを超えて行かないのです。
それでは、それら全てを見て取ると、我々は議論に立ち返ることができます、あるいは、恐れについての対話に戻ることができます。我々は始めましょうか? あなたは疲れていませんか、あなたは、このことに付いてきて、疲れていませんか? 我々は恐れの問題を検討しようと思います。つまり、あなた自身の中の恐れを観察することです。あなたは人間性そのものです、あなたは何某かの名前と身体をもった斯斯云々と言う人ではありません。あなたは全人間の精髄です。後生ですから、このことを見て取って下さい! なぜなら、あなたは、世界中の他の人と同じように、苦悶を経験しています、人は悲しみが何であるのかを、死が何であるのかを、フラストレーション、孤独、愛の欠如、慈しみ、暴力を知っています、このことが世界中で起こります。そのように、あなたは全人間の精髄です。これは事実です。そのように、我々が恐れについて議論しているとき、あるいは、対話をしているとき、我々は人間の恐れを議論しています、どこそこの誰かの恐れではありません。あなたが人間の世界的な恐れを理解するとき、そうすると、あなたはあなた自身の他愛のない恐れを見て取ることができます、しかし、もしあなたがあなた自身の他愛のない恐れにだけ関心があるなら、そうすると、あなたはより深い恐れを全く見失います。あなたはこのことが分かりますか? そうすると、我々は人間の恐れについて議論をしています。
あなたは、人間として、あなたの恐れを観察できますか? そこに座っていて、あなたはあなたの恐れを知りますか、あなたはそれを非常に注意深く観察できますか? ゆっくり行きましょう、我々には十分な時間があります。それを観察して下さい。死の恐れ、孤独の恐れ、明日の恐れ、仕事を失う恐れ、あなたの妻を、あるいは、あなたの女性あるいは男性を失う恐れ、あなたの地位を失う恐れ、精力を失う恐れ、他の人ほど知的ではない、雄弁ではない、賢くない恐れです。それに気づくことです、それを観察することです。
宜しいでしょうか、このことに注意深く耳を傾けて下さい、もし宜しければ。その言葉が恐れを作り出すのでしょうか、あるいは、恐れはその言葉とは無縁に存在するのでしょうか? あなたは私の質問が分かりますか? “恐れ”という言葉が恐れを目覚めさせるのでしょうか? それとも、この恐れと称される言葉とは無縁に存在するのでしょうか? どうか、このことは、もしあなたが恐れからの自由について真剣なら、心理的に、恐れから余すことなく自由になるのかどうかをあなたが明らかにすることは非常に重要なことです。そうすると、我々は、もし人が恐れからの心理的な自由を理解しうるなら、そうすると、生物的な恐れは全く異なる意味になります。違いますか? もし内面的に恐れから自由になるなら、そうすると、生物的に、叡智が働いて、こう言います、こうしなさい、そうしてはなりません、我々はそのことを後で議論します。最初に、我々は心理的な恐れについて対話するのでなければなりません。
そうすると、我々はこう問うています、あなたがあなたの恐れを観察するとき、あなたは“恐れ”という言葉を即座に使いますが、言葉はそれが伝えようとするその当のものではないのではないのかと。“テント”という言葉は実際のテントではありません。そのように、言葉はそれが伝えようとするその当のものではありません。違いますか? 宜しいでしょうか! そのように、恐れという言葉は実際の何かでしょうか? それとも、実際の何かは言葉とは無縁に存在するのでしょうか? それを明らかにすることは非常に重要なことです、なぜなら、我々は言葉に囚われているからです。言葉やシンボルやそれらの意味が途轍もなく重要になっています。それでは、あなたは言葉を事実から切り離すことができますか―“テント”という言葉と実際のそれです。私は“テント”という言葉を、それを表現するために、コミュニケイトするために使いますが、コミュニケーション、言葉、表現は、その当のものではありません。違いますか? そうすると、同じように、その言葉、それは恐れでしょうか? それとも、その言葉は、その感情と切り離されているのでしょうか? このことを明らかにすることは途轍もなく重要です、なぜなら、あらゆる人間が、この恐れに囚われているからです、明日の、昔日の災難の、罪悪感の、人の行ったことの、あるいは、行わなかった、行おうと願う、そして、できないかもしれない恐れです。人は成功を望んで、そして、失敗します―あなたは痛みの消え去らない恐怖を知っています、心理的な痛み、心理的な欲求やフラストレーション、それら全てを知っています、なぜなら、我々はそれと共に生きているからです。我々は、百万年、それと共に生きてきました。人はそれを解決できないでいます、人はそれを引き延ばします、人はそれを避けます、人はそれから逃げ去ります。
そこで、我々はこう問うています、あなたは言葉をその感情から切り離すことができますかと、あるいは、言葉がその感情を作り出してきて、そして、言葉がなくては、感情は生じないかもしれない、そして、もし感情が生じるなら、それは何でしょうかと。お分かりでしょうか? どうか、このことを理解して下さい。仮に、私が聴衆に―あなたにです―話すことができないでいることを恐れるとします、なぜなら、私は癌か何かを患っているからです―私は患っていません、心配しないで下さい、あるいは、あなたが心配するかどうかは問題ではありません。仮に、私が癌を患っているとします、そして、私は苛ついています、なぜなら、私は表現したいと思うからです、もし私が愚かにも表現したいと思うなら。私は恐れます、私は...失います。そして、私は身体的な痛みだけではなく苛つきもします、深く傷つきもします、コミュニケイトできないでいることで傷つきます、なぜなら、それが私の...であるからです、私は、それを五十年以上、行ってきています、そうすると、私は恐れます。私は恐れていませんが、私はそう仮定しています。宜しいでしょうか、そのような恐れ―私は私自身に問うています、言葉がその恐れを作っているのかと、それとも、その感情はそれ自身で存在するのかと。もしその感情がそれ自身で存在するなら、その感情とは何でしょうか? その感情には明日はありません―お分かりでしょうか?―痛みやその他の全てです。そのように、その感情は感覚です、違いますか? 言葉にしないと、その感情は何らかの感覚です、しかし、言葉にすると、それは恐れになります。私はあなたがそれを把握するのかどうか知りません! このことが分かりますか? あなたはそのことが腑に落ちるのでなければなりません。私はこのことをもう一度繰り返します、それを見て取って下さい。
宜しいでしょうか、我々はいつも言葉を実際の何かと関連づけます。あなたが“テント”という言葉を使うや否や、あなたはそのテントを思い浮かべます―小さな、大きな、何らかの色のついたそれです、宜しいでしょうか、それが何であれ、あなたはそれを即座に思い浮かべます。言葉を事実から切り離すことです、事実はその言葉ではありません。違いますか? それはシンプルなことです。恐れを我々みな知っています、世界中のあらゆる人間が、この恐れと称されるぞっとするものを知っています、そして、それが、百万年、人間の重荷になっています。そして、あなたが恐れるとき、あなたは委縮します、あなたは盲目になります、あなたは無能になります、あなたはあらゆるものを失ってきました。あなたはその感情を知っています、私は確信します。そのように、あなたはあなた自身で明らかにする必要があります、話し手の言っていることを繰り返すのではありません、それには何の価値もありません。自分自身で、その感情は言葉から切り離されているのかどうかを明らかにして下さい、恐れという言葉です、そして、言葉がその感情を作り出しているのかどうかをも明らかにして下さい。もしその言葉がその感情から切り離されるのなら、そうすると、あなたはその感情を手にします。しかし、あなたがその感情を言葉にするや否や、それは恐れになります。そして、あなたがそれを言葉にしないとき、それは何らかの感覚です。違いますか? そして、その感覚を、あなたの余すことのないあらゆる感覚で見て下さい。あなたは私の話していることを理解しますか? あなた方の幾人かは私の話していることを理解しましたか?
そのように、頭脳の一部、精神と頭脳の一部は感覚です。違いますか? しかし、あなたが特定の感覚を特定の言葉で表現するや否や、あなたはすでにあなたの条件づけによってその反応を作り出しています。私の条件づけは―仮にです―人の条件づけは、その人が非共産主義者ということです。そして、その人は訓練されています、その人は非何々、非何々、非何々であると教育されています。非アラブ、非ユダヤ、非ヒンドゥー、これやあれやと。そのように、あなたはそのような条件づけに従って反応します。そして、そのような条件づけの一部は、その言葉を物事と関連させることであり、決して、言葉はそれが伝えようとするその当のものではないことを悟らせないことです。宜しいでしょうか、恐れという言葉は、その感情ではありません。そのように、あなたはその感情を置き去りにするだけです。その感情、そのような感覚は頭脳の一部です、精神の一部です。そのような感情をあなたの全ての感覚で観察することです、そうすると、あなたは見て取るでしょう、もしあなたがそうするなら、それについて理論化するのではなく、それについて思索するのではなく、実際にそうすると、あなたは見て取るでしょう、恐れが―それは思考の働きです、それは言葉としての思考の働きです―止むのを。あなたはこれら全てを理解しましたか?
そうすると、心理的に、人が恐れから自由になるとき、実際に、そうすると、それはどのような効果を物理的に身体にもたらしますか? あなたは私の質問が分かりますか? もしあなたが心理的にいかなる危険も恐れないなら、そのような真理の深い気づきは身体にどのような効果をもたらしますか? もしあなたがそのような恐れから、今、自由なら、それはあなたの身体の状態にどのような効果をもたらしますか? あなたは知っています、心理的な恐れが身体を支配するのを―それは明らかです―従って、身体、その装置、その細胞組織がそれ自身の叡智を失うことを。お分かりでしょうか? もし精神的な恐れが絶えず働いているなら、ほとんどの我々がそうであるように、そうすると、身体組織に途轍もないストレスがかかります。それは恐れます、それは神経過敏になります、それはいつも不安に苛まれます、それはいつもそれ自身をガードしていて、決してオープンに振舞いません。そのように、それらの心理的な恐れは身体の細胞組織に非常に深く影響します。内的なものが外的なものに影響します、従って、身体に備わったそれ自身の叡智が破壊されています、あなたが何らかの嗜好的快楽―喫煙、飲酒、薬物、過度な肉食―を通して身体を破壊するように、あなたはそのようなことのその他の全てを知っています、なぜなら、あなたはそのようなラインに沿って訓練されているからです、教育されているからです。従って、いつも、深い細胞組織の叡智を破壊しています。そのように、内面的な恐れが生じないとき、身体組織はそれ自身の叡智で働きます、従って、それは全く異なる働きです。お分かりでしょうか? 何ものもそれを指図したりしません。
そのように、あなたはこれら全ての土台を敷くのでなければなりません、なぜなら、そうするときのみ、あなたは後に理解するでしょう、我々が瞑想について議論するとき、その中に何が意味されているのかを。しかし、もしあなたがその土台―それは内面的に、心理的に恐れないことです―を敷かないなら、そして、もしあなたが恐れるなら、あなたは依然として瞑想を追い求めて、そうして、あなたは幻想に、愚かさに、愚かな行為に囚われます、なぜなら、そうすると、破壊的な活動の根源、根本を温存して、あなたはあらゆる種類の愚にもつかない観念をその上に積み重ねるからです。瞑想は、あなたがその土台を敷いたときに、自然に訪れる何かです。違いますか?
そのように、我々が話しているのは、あるいは、対話しているのは、土台を敷いているということです、身体的な土台だけではなく、心理的な土台を敷いているのです。そのような土台が、深く、強く、健康で、健全なとき、そうすると、瞑想は何か途方もない何かになります。しかし、それなしには、瞑想は、酷く子供じみた、意味を欠く、幻想に通じるものになります。
あなたは何か質問したいと思いますか、我々が話していたことの中で。それとも、あなたは静かに座っていたいのですか? もしあなたが静かに座っていたいのなら、あなたがあなたの部屋に一人でいるときそうして下さい、なぜなら、あなたが多くの人と共に静かに座っているとき、そうすると、あなたは、あなたが静かにしているためには、それらの人たちに依存するからです。お分かりでしょうか? 宜しいでしょうか、あなたがそれらの人たちと共に静かに座ると、それはあなたが静かでいることを助けます。違いますか? 自然とそうなります。なぜなら、あなたはそれらの人たちを見ていて、あなたは、それらの人たちがそこで静かに座っているのを感じて、そうすると、あなたはその人たちを邪魔してはならないと感じるからです、そうすると、あなたは自然と静かになるからです、そして、徐々にあなたは、あなたが静かでいられることを他の人たちに依存し始めます。違いますか? 穏やかなこと、静かなことは、自然に訪れます、もしあなたが思考の全プロセスを、思考の全活動を理解するなら―恐れとしての思考、快楽としての思考、時間としての思考です。あなたがその問いを、非常に、非常に、深く、検討したとき、そうすると、沈黙は、無風の木々の中のように、自然に生じます。 ―1976年 7月13日 ザーネン
1976年 7月25日 ザーネン