uiv="Content-Type" content="text/html; charset=Shift JIS"> アウトサイダー―時間的蛸壺の外へ

アウトサイダー―時間的蛸壺の外へ

鳥居柿

 

言葉でではなく、知的にではなく、実際にです

クリシュナムルティ) 我々が、昨日、言ったように、我々はダイアログを行っています、それは、二人の間の対話を意味します、あるいは、多くの人たちとの対話を意味します、我々は、人間の何らかの問題に興味をもち、あるいは、関心をもち、それらを、深く検討したいと思っています、何らかの気遣いをして、愛情をもって、検討したいと思っています、いかなる形の主張あるいは議論も携えずにそうしたいと思っています。そして、弁証法的なメソッドは、様々な意見を交えて真理を明らかにしようとする探究です。そのように、我々は、弁証法的に探究していません。我々は、二人の友人として、人間の問題を一緒に話し合って、それらを解決して、真理を発見したいと願います。
 そして、私は、大いなる誤解があると思います、我々が真理に至る何らかのテクニックを見つけようとしているという誤解です―テクニックのことです、それは何らかのメソッドを学ぶことを意味します、何らかのメソッドを実践して、何らかの形のテクニックを学んで、それがあなたや誰かが真理に至るのを助けることを意味します。我々は喧伝していません、あるいは、言っていません、真理に至る何らかのテクニックがあると。どうか、このことを非常に明確にして下さい。テクニックは何らかのメソッドを学ぶことを意味します。つまり、火星へ行くためには、人々が行ってきたように―それはこの上なく途方もない成果です―あなたには大いなる技術的な知識が必要です、大いに収集蓄積された知識のノウハウが必要です。しかし、真理は道なき何かであるので―どうか、このことを心に留めておいて下さい―それは道なき何かであるので、あなたは何らかのラインを、そこに通ずる方向性を、そこに通じる道を設定して、それを実践することはできません、あなた自身をそのように律することはできません、そのための何らかのテクニックを学ぶことはできません。
 そのように、どうか、心に留めておいて下さい、我々は、何らかのテクニック、メソッド、システムを与えているのではありません、あるいは、提示しているのではありません、あるいは、語っているのではありません。我々の精神は、すでに、相当に、機械的な傾向を帯びています、我々の精神は、すでに、十分に、機械的です、そして、何らかのテクニックを実践することによって、何らかの言葉を繰り返し唱えることによって、あるいは、沈黙を実践することによって。そして、あなたは、それら全ての類が何なのか知っています、つまり、全てのテクニックがあらゆる機械的な活動を何とか緩和する、あるいは、精神をそれらから自由にする、というそれです。私はそういうことはないと思います。我々が言っているのは、あなたは、明かにするための興味を、それを駆り立てる何かを、そのための熱気をもつのでなければならないということです―自分自身で明らかにするのです、それをどう行うのかを人に言われることではありません。そうすると、あなたが発見する何かは、あなたの何かです、そうすると、あなたは、あらゆるグルから、あらゆるテクニックから、あらゆる権威から自由です。どうか、我々がそれらのことについて対話しているとき、そのことを心に留めておいて下さい。
 それでは、我々は何について話しましょうか、あるいは、今朝、対話しましょうか?
質問者) 我々は理解の性質について話せますか? 
 理解。理解の性質。
 (聞こえず)
 私は理解します。我々は恐れます、質問者は言います、無防備なことを、オープンなこと、なぜなら、あなたが無防備であればあるほど、あなたは益々傷つきやすくなるからです。そして、我々はオープンであることを恐れます。あなたは無防備という言葉の意味が分かりますか、どうでしょうか、それは、風の中の木の葉のように、風に対して無防備なことです。それでは、我々はそのことを議論できますか?
 (聞こえず)
 人間が他の人に対して抱くイメージについての人間の責任。我々はそのことを議論できますか、つまり、責任です。
 (聞こえず)
 我々は動機なしにどのように生きられるのか―それが質問でしょうか? はい。我々は動機なしにどのように生きられるのか。宜しいでしょうか、それで、さしあたり、十分です。その紳士は理解することについて議論あるいは対話したいと思いました。スピーチ、言葉、思考そして沈黙の間の関係性です。関係性の中でイメージを作らない責任です。それらが質問されました。そして、無防備であることです。我々は動機なしに生きられますか? それでは、それらの質問から何を取り上げましょうか、それらの一つです、そうすることによって、我々はそれをその行き着く先まで考え、あるいは、観察し、あるいは、たどって、他の方向へ逸脱することなく、他のあらゆる問いが含まれるかもしれないその問いの正に行き着く先まで行くことにしますか?
 理解することです。
 理解すること、はい。私もそれは良い質問であると思います、私もそのことを取り上げたいと、私自身、思います。理解することです。その理解することとはどういう意味でしょうか? どうか、そのことをゆっくり検討して下さい、急がないで下さい。何かを理解すること、その中には何が含まれますか? それは言葉による理解でしょうか、言語的な表現による把握でしょうか、愛情による把握でしょうか―私はあなたが好きです、私はあなたの友人です、私はあなたに何かを告げます、従って、あなたは私の言っていることを理解します。それとも、それは、かなり複雑で混乱している何かに閃くことでしょうか? あるいは、理解はどのようにして生じるのでしょうか? あなたは私の質問を理解しますか? 理解は言葉によるコミュニケーションで―それは何らかの表現です―生じるのでしょうか? なぜなら、もし、あなたと私が英語を話すなら、そうすると、それは、何か―フランス語、イタリア語、それが何であれ―言葉によるコミュニケーションや表現で、理解あるいは閃きが生じるということでしょうか? それとも、理解は、単に言葉によるだけではなく、単にその表現によるだけではなく、言葉を超えても生じて、それは、あなたと他の人が共に、思考の性質である言語的な構造から自由になって、洞察し、閃くことを意味するのでしょうか?
お分かりでしょうか? 
 我々が話すとき...私は車がどのように走るのか理解します、それは非常にシンプルなことです。私はそれを観察してきました、私はそれを分解して元に戻してきました、私はそれと戯れてきました、そして、私は、それがどのように動くのか知っています。私はどのように山に登るのか理解します、私は知っています。しかし、我々は心理的に理解することを話しています、違いますか、深く、単なる通俗的な理解ではなく、閃きをもたらす、もっと更なる理解です。閃きは何かの中が何であるのかを見て取ることを意味します、そうして、それが真理になります。そして、私はそこから決して後戻りできません。お分かりでしょうか? 私が何かを理解するとき―それは、私がそれに閃いて、従って、その正に閃きが、いかなる誤解も、いかなる複雑さも、払い除けることを意味します―あなたはその中を正に見て取ります。
 従って、理解することが意味するのは、違いますか、精神、あるいは、頭脳、精神の全構造が、言葉に耳を傾けるだけではなく、その言葉を超えて、その発言の深い意味を見て取ることを意味します、そうすると、閃きが生じて、そうして、あなたはこう言います、“私はそれを理解します”、“私はそれを理解しました”と。そのように、閃きは、静かに、進んで耳を傾けて、言葉を超えて、何かの真理を観察する精神を意味します。例えば、話し手がこう発言します、“悲しみの消滅は知恵の始まりです”と。彼はその種の発音をします。それでは、あなたはどのようにそれを受け止めますか? どうか、私に耳を傾けて下さい。話し手はそう発言します、“悲しみの消滅は知恵の始まりです”と。あなたはどのようにそれを受け止めますか? その発言に対するあなたの反応はどうでしょうか? あなたはそれを何らかの観念、抽象的な何かに変えますか、そして、その抽象的な何かで―それは何らかの観念です―彼の言ったことを理解しようとするのでしょうか? あるいは、あなたは耳を傾けて、つまり、あなたは、その言葉に、その言葉の意味に耳を傾けて、そして、その言葉を超えて、その発言の真理あるいはその発言の誤りを見て取るのです。いかに悲しみを終わらせるのかではありません、あるいは、いかに知恵を獲得するのかではありません、そうではなく、その発言が真理あるいは誤りを伝えているのかどうかです。その真理あるいは誤りを観察するためには、あなたの精神は鎮まるのでなければなりません、そうして、あなたはそれに閃きます、そうして、あなたはこう言います、“何と、それは真理だ!”と。それと同様に、理解することは、何らかの問題が何であるのかに閃くことを意味します。違いますか? そのように、あなたは、あらゆる議論を、あらゆる弁証法的な取り組みを超えてゆきます―それは正にそうことなのです。それは不動の何かです。例えば、話し手がこう言うように、“真理のための手立てはありません、真理は道なき何かです”と。彼はそのように発言します―彼は五十年前にそう発言しました―あなたはその発言をどのように受け止めますか? 宜しいでしょうか。あなたはその発言をどのように受け止めますか? これは対話です。あなたはそれを何らかの意見を交えて、こう言って受け止めますか、いいえ、それは真実ではありえません、なぜなら、誰もが、テクニック、メソッド、システムについて語るからです、そして、この男がやって来て、こう言います、道なき何かです、真理のための手立てはありませんと。そうすると、あなたはこう言います、それでは、このことで正しいのは誰かと、この男が正しいのか、それとも、あの男が正しいのかと。そうすると、あなたは議論しているのでしょうか、比較しているのでしょうか、判断しているのでしょうか、それとも、あなたはその発言に耳を傾けているのでしょうか、何が正しいのか誤りなのかを知ることなく、なぜなら、あなたは知らないからです、実際に、あなたは知りません。十人が、あるいは、百万人が言ってきました、何らかの手立てがあると、そして、ある人がやって来て、こう言います、テクニックというものは存在しないと。あなたはどのように知るのでしょうか―お分かりでしょうか? この男は全く間違っているかもしれません。そして、彼は説明します、テクニックは、実践、時間、機械的なプロセスを意味すると。我々の精神は、すでに、十分、機械的です、そして、あなたはそれを更に機械的にしています。違いますか? そのように、彼はそれら全てを説明します、そして、あなたは、依然として、こう言います、それでも、多くの人が何らかのテクニックを手にしていると。あなたは、それら二つの間でバランスをとって、こう言いますか、いずれにせよ、私はそれよりもこれを選びますと。それとも、あなたは、言われたことを、完全に客観的に沈黙して受け取りますか、静かに、何が真理であるのかを知ることなくそうしますか? そして、あなたが静かに耳を傾けるとき、それは完全に気を付けていることを意味します、そうすると、あなたは発見します、言われていることが何なのかに閃きます、そうすると、それは、あなたのそれです、私のそれではありません。私はあなたがこのことを見て取るのかどうか知りません。つまり、何が真理で、何が誤りであるのかを明らかにすることです。誤りの中にある真理を明らかにすることです。違いますか? そうすると、あなたの精神は、途方もなくオープンで、無防備であるに違いありません―違いますか―そうでないと、あなたは知りません。私は我々がお互いに理解し合っているのかどうか知りません。
 宜しいでしょうか、愛は知的な何かでしょうか? テクニックは知的なものです、メソッドは知的な何かです、そして、あなたは何らかのテクニックで愛することができますか― 宜しいでしょうか―できますか? 非常に素敵であることを、非常に親切であることを、非常に優しいことなど、お分かりでしょうか、それら全てを実践することによって、そして、そのような何らかのメソッドを実践してきた一年の後に、あなたは愛しますか? どうでしょうか?
 いいえ。
 それは不可能です、違いますか? それでは、なぜ、あなたは、いいえ、と言うのでしょうか?
 なぜなら、それはテクニックを含むからです。
 その通りです。なぜあなたはそう言うのでしょうか? ちょっと待って下さい、なぜあなたはそう言うのでしょうか? 私がこう言ったとき、もしあなたが親切心、優しさ、非暴力等々を実践するなら、愛は生まれるでしょうかと、あなたは、その結果、愛を手にするでしょうか? あなたは手にしますか?
 いいえ。
 何があなたに、いいえ、と言わせるのでしょうか? 何があなたに、いいえ、と言わせるのでしょうか? このことに注意深く耳を傾けて下さい。
 (聞こえず)
 いいえ。私に耳を傾けて下さい。我々はこう言いました、愛は何らかの形のテクニックのような知的な努力を通して生まれうるのかと、そして、あなたは言いました、いいえと。何があなたに、いいえ、と言わせるのでしょうか?
 (聞こえず)
 注意深く耳を傾けて下さい。何があなたに、いいえ、と言わせるのでしょうか?
 (聞こえず)
 あなたは閃いています、テクニックはメソッドであり、それは知的な何かであると―お分かりでしょうか?―どうしてそれが愛を生みうるのでしょうか? お分かりでしょうか? 本能的な反応が生じます。宜しいでしょうか、もし誰かがこう言うなら―注意深く耳を傾けて下さい―観察者が正に観察されるその当のものである―観察者は過去であり、そして、その人が観察するものは、その人の過去の背景からの何かです、従って、その人が見るものは、その背景から見られる何かです。観察者が正に観察されるその当のものである―その人はそう発言します。そして、あなたは言います、“私はそれを理解しません”と―違いますか?―“私はそれを見て取れません、どうか、私に異なる言い方で話して下さい”と。そこで、話し手は言います、思考者が正に思考されるその当のものですと。もし思考が存在しないなら、思考者はいません。違いますか?
 そうです。
 なぜあなたは、そうです、と言うのでしょうか? なぜなら、あなたは明らかなことを見て取るからです、違いますか? そして、その人はさらに言います、経験者が正に経験されるその当のものですと。そして、その人は言います、経験者はその経験を認識するのでなければなりません、そうではないと、経験と言うものは生じません。そのように、認識は過去を意味します。そのように、過去がそれの欲することを経験します、あるいは、その人が思い描いたものを経験します。そして、あなたは言います、はい、その通りですと。そうすると、あなたは本能的に、あるいは、むしろ、それが非常に明確に言われるとき、あなたは言います、完全に、その通りですと。そのように、理解は、我々が共に、共通の言語で、その言葉があなたと同様に私にも同じ意味をもつとき、そして、我々が、同じことについて、同じ興味で、同じ熱気で、話しているとき、生じます、そうすると、直に触れ合うコミュニケーションが生じます。違いますか?
 言葉の上だけです。
 言葉の上だけです。我々はそのことを経てきています。言葉はコミュニケーションの手段にすぎません、しかし、我々はその言葉を超えて行くのでなければなりません。我々はそのことを十回言ってきました。
 (聞こえず)
 猿。おーっ、はい。非常に有名な話があります、私は知りません、あなたが聞きたいのかどうかを。ある猿が仏陀のところへ行くという、非常に有名な話です、その猿が仏陀に言います、“私は瞑想を過去二十年間実践してきました”と、あるいは、五十年間、“そして、私は、この上なく途方もないことができます、私は数秒で世界中を駆け回れます”と。そして、仏陀は、彼の手を差し出して、その猿はそこに座っています、そして、彼は言います、“やって見せて下さい”と。その猿が言います、“私は、世界中を駆け回るために、途轍もない努力をしようと思います”と。そして、仏陀は目を開いて言います、“あなたはまだそこにいます”と。(笑) お分かりでしょうか?
 (聞こえず)
 はい。人は自分自身の周りに壁を築いていると、質問者は言います、そして、人はその壁を乗り越えようと願います、なぜなら、その壁は牢獄になるからです、その壁は抵抗の壁になり、それは、孤立、辛辣さ、愛の欠如などその他の全てになるからですと。そして、何らかの言語的表現が、あなたにそれを乗り越えたいと思わせます。ちょっと待って下さい。違いますか? その言語的表現とは、あなたが、あなた自身の、あなたが傷つきたくないという願望によって、内に閉ざされた囚人であり、あなたは、その壁をコツコツと築いてきたということです、そして、話し手は、その壁を表現します、その壁のもたらす何かを表現します―辛辣さ、悲しみ、孤立、孤独―そして、そこから、暴力などその全てが生じます、彼はそれを表現します、そして、あなたは言います、“私はその壁を乗り越えたい”と。それは、あなたが、何があなたにその壁を築かせてきたのかに閃いていないことを意味します。あなたの関心の全ては、それを乗り越えることです。そして、あなたは決してそれを乗り越えないでしょう。一方、もしあなたが、傷つくことの全行動、抵抗、孤立が何なのかに閃くなら、そのことを余すことなく見て取るなら、そのことを余すことなく観察するなら、そうすると、その壁は存在しません。
 (聞こえず)
 それが私の願う...どうか、我々の話していることを明確にして下さい。閃くということは、傷のあらゆる働きを完全に観察することを意味します。我々はそれを一つの例として取り上げています。傷の働きを余すことなく理解することです。
 なぜですか?
 待って下さい。私はあなたに話します。最後まで言わせて下さい。なぜなのかは、後で、あなたに話します。我々は理解しますか、あるいは、傷の働きを余すことなく観察しますか、その全ての働きです、ただ単に壁を築くことだけではありません。なぜ我々は傷つくのでしょうか、我々が自分自身について抱くイメージです、そして、そのイメージは私です、そうすると、私は傷つきます、そうして、私は、自分自身の周りに、それ以上傷つかないように壁を築きます、なぜなら、私は分かるからです、もし私が無防備なら、私はもっと容易く傷つくと、だから、私は自分自身の周りに壁を築くと。そして、私自身の周りに壁を築くことによって、私は抵抗します、そして、抵抗する中で、私は益々内に籠ります、益々孤立します、そして、その孤立から、私は自暴自棄になり、私は自暴自棄になっていないあなたを見ると、私はあなたに苛つきます、私は辛辣になります。その他の全てのことが生じます。あなたは見て取りますか、観察しますか、傷の働きに余すことなく気づきますか?
 (聞こえず)
 ちょっと待って下さい。私は理解します。私はあなたの質問を理解します。最初に、このことを最後まで言わせて下さい。あなたは観察しますか、あなたは、この働きに余すことなく気づきますか? それとも、あなたは、それに部分的に気づくだけですか、従って、あなたはこう言いますか、“どのようにして私はそれを乗り越えるのか”と。その働きに部分的に気づくとき、そうすると、その反応はこうです、“それをどのように乗り越えるのか私に話して下さい”。そうすると、その“どのようにして”がメソッドになります。しかし、傷のあらゆる働きを余すことなく観察するとき、“どのようにして”は生じません、あなたはそれを見て取るのです。それが何なのかに閃くのです。分かりましたか?
 宜しいでしょうか、質問は、その婦人が問います、なぜ私はそれを煩わしく思うのでしょうか、ということです。なぜ私はその閃き、そして、気づきを経るのでしょうか? なぜなら、人間は暴力的だからです、人間は辛辣だからです、人間は内に閉じているからです、きつく内に閉じているからです、あらゆるものが自己中心的です、活動すればするほど、より自己中心的になります―神の名のもとに、社会活動の名のもとに、何々...のもとに、しかし、実態は、益々、益々、益々、内に閉じていきます、従って、益々、不安になります、貪欲になります。そして、このことを観察する人は言います、“なぜ私はそのように生きるのか”と。
 (聞こえず)
 あーっ、いえ、いえ、いえ、いえ、...はありません。あなたは...繰り返し言うのを許して下さい―私は、あなたは理解していないと思います。私は言いました、閃きは何らかの活動ではないと。それは、その中に活動の生じない直の気づきです。
 (聞こえず)
 あなたは私の言ったことに耳を傾けてきましたか?
 (聞こえず)
 あーっ、いえ、いえ、いえ、どうか、彼女に言わせて下さい、お願いします。
 私は、活動は生じないと言いました、誰かが活動するのではありません。いいえ、あなたは...どうか、マダム、我々は旧知の友人です、我々は、長年、知り合ってきました。我々は言っています、閃きは非活動を意味すると。違いますか?
 それはどこへ向かっているのですか?
 どこへも向かっていません! (笑) いいえ、あなたは私の要点を見失っています! どうか。
 (聞こえず)
 いいえ、マダム、あなたは理解していません。どうか、あなたは耳を傾けていません、そう言うのを許して下さい、しかし、あなたは言われていることに耳を傾けていません。
 (聞こえず)
 宜しいでしょうか、私は言います、あなたや私に当てはまる何かを、そして、言葉、表現には意味がありません、そして、あなたは言います、“私はそれを理解します”と。そのように理解することは非行動です、違いますか? あなたはそれを理解しています。
 そこで我々は袂を分かちます。
 ごめんなさい。袂を分かたないようにしましょう、それは、誰もが、同意しない、あるいは、理解しないときに行うことです。どうか、ちょっと待って下さい。“我々は袂を分かつ”という言い方をしないで下さい、それは最悪の...
 (聞こえず)
 マダム、私の言おうとしていることにただ耳を傾けて下さい。私はあなたの言っていることは分かります、あなたの言っていることを理解しました。あなたは私の言っていることを理解していません。私はあなたの言っていることを理解しました。私はそれを理解しました、どうか、私を信じて下さい。決して、言わないで下さい、“我々は袂を分かつ”と。それが最初に学ぶことです。それは、あなたと私がお互いに対立することを意味します。あなたと私が、あるいは、二人の人間が、“我々は袂を分かつ”と言うとき、それは最悪の言い方です。どうか、私に耳を傾けて下さい、あなたは私に耳を傾けていません、あなたはあなた自身に耳を傾けています。我々は、我々がこう言う点にまで決して至らないようにしましょう、“あなたは北へ行きます、私は南へ行きます”と、なぜなら、我々が此処で行おうとしていることは、我々の人間の問題を理解することです、何が真実で、何が偽りであるのかを明らかにすることです。私の真理でも、あなたの真理でもありません、あるいは、あなたの偽りでも、私の偽りでもありません、何が真理なのかです、それは非個人的な何かです、それはあなたのものでも、私のものでもありません、それは真理です。そして、それが我々の理解しようとしていることです。そのように、もし、あなたと私が、何が真理なのかを検討することに関心があるなら、袂を分かつことはありえません。我々は比較的ゆっくり歩むかもしれません、他の誰かはより早く歩むかもしれません、しかし、我々は同じ道を歩んでいます、同じ方向を向いています―道はありません。
 そのように、どうか、誰か他の人にそう言うことはこの上なく醜いことです、“我々は別れる”と、それは離婚のようです。
 (聞こえず)
 放っておいて下さい、放っておいて下さい、放っておいて下さい。
 閃きと知識、あるいは、閃きと理解、我々はそれを議論できますか、そうして下さい。
 はい。閃きと知識―我々はそれを議論できますか? そしてまた、議論するより多くのことがあります、イメージ造りの責任、そして、イメージとは無縁に生きること。そしてまた、無防備について、そして、動機とは無縁に生きること。それら全ての問いが含まれます。
 我々はこう問うことから始めました、なぜなら、それが、我々の最初に同意した問いだからです、つまり、理解することとは何か、です。もし私が、ある点にこだわっているなら、そして、あなたがその点から離れて行くなら、あなたと私との間には、理解することは生じません、なぜなら、私は私の意見に、私の信念に、私の経験に、私の考えることにこだわっているからです。従って、あなたと私との間のコミュニケーションは消滅します。なぜなら、話し手は信念をもたないからです、文字通り、いかなる信念も、いかなる意見も、もたないからです、彼はただ検討しているだけです、洞察しているだけです、探索しているだけです。しかし、もしあなたが何らかの立場に立つなら、そうすると、そこで終了です、あなたはそれを検討していません。我々は言いました、何が真理であるのかを検討することは、そして、それを検討するためには、我々は言葉の意味を理解するのでなければならないだけではありません―英語であろうとフランス語であろうと何であろうと、ドイツ語であろうと―そうして、その言葉を超えていきます、そして、あなたがその言葉を超えていけるのは、あなたが言葉を糧とする思考を理解するときだけです。あなたはこのことを理解しますか? それは言葉を糧にしています、そして、それを超えていくことは、それが、本当のコミューニオン―直に触れ合うこと―であり、そうすると、それが、恐らく、閃きをもたらすことになりえます。それが、我々の言ったことです。何が偽りで、何が真理であるのかに閃くことです。そして、それには、非常に警戒して、観察しうる何かを要します、何らかの偏った見方に基づかない何かを要します。
 そこで、我々は別の質問を検討します、つまり、人間は傷ついています、なぜなら、人々は考えるからです、人々は無防備であると、なぜなら、人々は繊細だからだと、そして、その質問はこうです、無防備であることでより傷つくのかと、従って―無防備になるな、オープンにするな、なぜなら、そうすると、あなたは、益々、益々、益々、傷つくと。違いますか? それが質問の一つでした。
 それでは、何が傷つくことをもたらすのでしょうか? 我々は言いました、傷は、私自身のイメージが作られて、そのイメージが傷つくときに生じると。それは極めてシンプルです、違いますか? 私は私自身についてのイメージをもっています、私は偉大な人間である、あるいは、私は愚かな人間である、そして、私が私自身について抱くいかなるイメージも傷を負います、そして、そのイメージは私です。その“私”とそのイメージは異なりません。そうすると、私が私自身について何らかのイメージを抱く限り、そして、私自身がそのイメージである限り、傷つくことは避けられません。違いますか? それは明らかです。
 なぜなら、何らかの抵抗が生じるからです。
 その通りです。なぜなら、抵抗が生じるからです、なぜなら、私は何らかの立場を取っていて、それが私には非常に快いからです、そして、あなたがやって来て、それを脅かすと、私は傷つくからです。そのように、もしイメージが存在しないなら、傷つく可能性はなくなります。違いますか? 我々はどのようにそのイメージを乗り越えるのかの問いを検討しました。我々は、先日、それを非常に注意深く検討しました。宜しいでしょうか、いかなるイメージももたないことは、完全に無防備であることです。どうか、注意深く耳を傾けて下さい。抵抗するときにのみ、傷つきます。
 (聞こえず)
 あなたはそうできません。もしあなたが何らかのイメージを手にしているなら、それは抵抗するに違いありません。それは自然なことです。それは壁で囲うようなものです。
 しかし、あなたには身体があります。
 待って下さい。あなたは身体にもどります。つまり、細胞組織はある程度は耐えられても、それ以上は無理ですと。分かりました。身体、細胞組織、生物的な何かは、恐れをある点までは許容できても、それを超えると、それは許容できない、それは耐えられない、それは粉々になると。そうすると、あなたは身体を健康にしておく必要があります―正しい食事、そして、正しい運動などその他の全てです。質問は何でしょうか?
 そのイメージがないと、私は何も手にしていません。
 その通りです。
 そして、私が何も手にしていないとき、何ものも私を傷つけません。
 “何ものも私を傷つけません”ではありません。
 それは私自身の問題です。
 分かります。
 植物人間だけがそのような状態を生きられます。
 植物人間だけがそのような状態を生きられます。私は植物人間ではありません。どうか、私は生きてきました、この当のものは、八十年以上、生きてきました。あらゆる種類の侮辱を受けてきました、あらゆる種類の献身がありました、あらゆる種類のおべっかを受けてきました、あらゆる種類の言い方を蒙ってきました、この人物はあらゆる種類のレッテルを張られてきました―醜悪なレッテルです―ひどいものです。そして、いかなるイメージも抱いていません、従って、決して傷つくことはありません。私は植物人間ではありません。あなたは言うかもしれません、“おーっ、それは、あなたがその中で生きている幻想です”と。私は言います、いいえ、私は、どのように幻想が生じるのか探究してきました、それは、感覚、プラス、欲望、プラス、思考、イメージです。あなたがそのプロセスを手にするとき、必ず、幻想が生じます。私はそれを手にしていません。私はそのことを徹底的に検討してきました。そのように、私は植物人間ではありません、そして、他の人間たちもそのようにできます。

...我々は日本国憲法の第9条の“無防備”を生きることはできないのでしょうか?...
...地獄へと通じる道は、これ見よがしの“善意”で敷き詰められているのでしょうか?...

 それでは、進めましょう。イメージの生じるところには、傷が生じます。イメージが全く生じないとき、そして、それが最も重要なことであり、それは可能です、そして、それは、あなたがイメージ造りの全活動を理解するときにのみ、そのイメージ造りに閃くときにのみ可能です、そうすると、イメージを作らず、完全に無防備になるだけです。部分的に無防備なときにのみ、傷つきます。
 それでは、次の質問を取り上げます、つまり、このイメージ造りの中で、他の人に対する我々の責任とは何かです。宜しいでしょうか? それを終えた後で、我々は次の質問にいきます、つまり、人は、人の生の中で、動機なしに生きることは可能か、ということです。

      ......他人とは何でしょうか?......

 責任とは何でしょうか? 他の人に対する我々の人間の責任とは何でしょうか、それぞれがそれぞれについて何らかのイメージを抱いているとき。お分かりでしょうか? あなたは何らかのイメージを抱いています、そして、私は何らかのイメージを抱いています、そして、我々の関係性はそれらのイメージに基づいています。違いますか? もしあなたがあなた自身を、二秒、観察するなら、それは明らかな事実です。私は人間と共に生きています、そして、その人間と共に生きて、我々の生き方から、私は何らかのイメージを築き始めます―傷、苛立ち、心地よい同伴性、言葉―お分かりでしょうか?―私は年齢を重ねながら、次第に、私は強力なイメージを作り上げてきています、他の人が私について強力なイメージを作り上げているように。そのように、その関係性は、それら二つのイメージの間のそれです。あなたがそれを好もうが嫌おうが、それは事実です。そうすると、もしそれらの一人が全てのイメージ造りから、文字通り、全てのイメージ造りから足を洗うなら、その人の他の人に対する責任とは何でしょうか? それが、私の理解する限り、その問いです。そうでしょうか? それで宜しいでしょうか? 
 人は、実際に、全く、イメージから自由ではありません。
 はい、人は、実際に、イメージ造りから完全に抜け出していません。そうすると、我々はそのことに関心をもつ必要があります、その責任ではありません。我々は、なぜ我々がイメージを作るのかに関心を寄せる必要があります。それは極めてシンプルです。
 恐れからです。
 いいえ、...を持ち出さないで下さい。なぜ、あなたは、あなた自身について何らかのイメージを抱くのでしょうか? あなたはあなた自身について何らかのイメージを抱いています、違いますか? 逡巡しないで下さい、それはシンプルなことです。(笑) あなたはあなた自身について何らかのイメージを抱いています、それはどのようにして生じるのでしょうか? あなたはあなた自身について何らかのイメージを抱いています―あなたではありません、私は個人的にあなたに問うているのではありません―あなたはあなた自身について何らかのイメージ抱いています、なぜ、あなたは、それを抱くのでしょうか、そして、それはどのようにして生じるのでしょうか?  思考を通じて。
 いいえ、それをシンプルに見て下さい。
 子供の時から。
 子供の時から、あなたは言われます、あなたはあなたの兄弟ほど優秀ではないと、あなたはあなたの兄ほど賢くはないと、そうして、あなたはそのイメージをゆっくりと築き始めます。あなたの友人たちが手を貸します、そして、あなたは、あなたの友人たちに、そのようなイメージを作るのに手を貸します。社会があなたに手を貸します、あなたの両親があなたに手を貸します。そのように、徐々に、学校で、大学で、カレッジで、あなたはあなた自身のその途轍もないイメージを築き上げます、あなたは賢い、あるいは、賢くないと、あなたはこれやあれと、そのように、あなたは何らかのイメージを手にします。そして、非常に稀に、人はそのことに気づきます。違いますか? 人はそのイメージに気づきません。そのイメージは私です、そして、人はそのことに気づきません。宜しいでしょうか、そのことに気づくことが最初です。あなたはそのことに気づいていますか? こう言うことではありません、“私はそれが好きではありません、あるいは、それが好きです”と、あなたがあなた自身について手にしているイメージに気づくことです―あなたはそうできますか?
 私が傷つくとき、はい。
 宜しいでしょうか、そうではありません。あなたが傷つくときではありません。宜しいでしょうか、私は問うています。あなたは何らかのイメージを手にしています、遠回しに言うのは止めましょう。それはとてもシンプルなことです。
 (聞こえず)
 マダム、我々は愛のことを話しているのではありません。宜しいでしょうか、シンプルになって下さい。
 宜しいでしょうか、そのイメージに気づくことです、つまり、そうすると、あなたは、それに、それが観察者と異なるかのように、気づきますか? どうか、その問いにシンプルに答えて下さい。あなたは、そのイメージに、それを見ているあなたとは異なる何かとして、気づきますか? 観察者はそのイメージと異なりますか? 当然にも、異なりません。そのように、観察者がそのイメージです。違いますか?
 あなたはそのことを見て取れます、もし...
 “もし”ではありません。あなたは見て取りますか、あるいは、閃きますか、あなたは、あなたはそう考えます、そのイメージと異ならないと。あなたが閃くとき、あなたは、そうすると、こう言います、“私はそのイメージです”と。それは明らかです。宜しいでしょうか、注意深く見て下さい、ここからは、ただ、ゆっくりと、進みましょう。あなたは観察者です、そして、あなたはあなた自身で発見します、そのイメージ、観察者が、正に観察されるその当のものであり、観察者がそのイメージであると。そうすると、何が起こるのでしょうか? 思索しないで下さい。こう言わないで下さい、“はい、もしそのようなことが起こるなら、それは起こるでしょう”と。それには意味がありません。何が起こるのでしょうか、観察者が、その人の観察しているものがその人自身であると悟るとき。そのように、観察者が正に観察されるその当のものです。そうすると、そのことに閃くと、何が起こるのでしょうか? ゆっくり進めて下さい、いいえ...とは、何か...が生じます、ゆっくり進めて下さい。何が起こるのでしょうか? 
 (聞こえず)
 あなたはそれを見守っていません。あなたはとても複雑すぎます、シンプルになって下さい。それが非常にシンプルなとき、あなたはそれを非常に複雑にしています。
 私は途方に暮れます。
 あなたは途方に暮れます。あなたは...お手上げです、あなたはあれやこれやお手上げです...宜しいでしょうか、ちょっと待って下さい。そのことを見て下さい。どうか、そのことを見て下さい。このことは、本当に、この上なく、重要なことです。一度、あなたがこの要点を把握すると、本当の何かをあなたが見て取ると、そうすると、あなたは多くのことを明らかにします。観察者が正に観察されるその当のものであるとき、経験者が正に経験されるその当のものであるとき、思考者が正にその思考されるその当のものであるとき、何が起こっているのでしょうか? 何が、実際に起こっているのでしょうか? その二つの間の分断が消滅しています。違いますか? 以前、我々はこの分断を手にしていました、観察者が言いました、“私は観察されるものとは異なります”と。違いますか? そのように、その分断の中に、争いが生じていました。違いますか? そうして、観察者は言います、“私は観察されるものについて何かをするのでなければなりません。私はそれをコントロールするのでなければなりません、私はそれから逃げ去るのでなければなりません”と。そうすると、観察者が、その人が正に観察されるその当のものであると見て取るとき、争いは消滅します。違いますか? アラブ人が彼はイスラエル人であると悟るとき、その戦争は終了します。お分かりでしょうか?

 ......ロシア=ウクライナ戦争とは何でしょうか?......

 そのように、観察者が、その人が正に観察される当のものであると悟るとき、そうすると、争い、格闘などそれら全てが消滅しています、なぜなら、その人は他の何ものもできないからです、その人がそれだからです。違いますか? 分かりましたか? その人がそれです、従って、争いは完全に消滅しています。ヒンドゥー教徒が、彼はイスラム教徒であると悟るとき―お分かりでしょうか?―イスラム教徒は異なる習慣を身に着けているかもしれませんが、本質的に、彼は彼自身です、そうすると、彼は言います、“後生だから、戦わないようにしましょう、愚かにならないようにしましょう”と。そのように、争いは消滅します。それは、あなたにとって事実でしょうか? それとも、あなたは私の事実を受け入れているのでしょうか?
 そのように、もしそれがあなたにとって事実なら、そうすると、あなたは、争いの全く生じない生き方をしています、それは対極の生じない生き方です。お分かりでしょうか? あなたはこのことを理解しますか? 対極が生じません、つまり、対立する欲望、こうすることを願うこと、そして、そうすることを願わないこと、それは、互いに対立しています。あなたが、欲望が異なる目的を有しても、依然として、それは欲望であると認めるとき、そうすると、対立が消え去ります。あなたはこれら全てのことに付いてきていますか? 欲望だけが生じています。そうすると、欲望とは何でしょうか? そうすると、あなたはそれを検討して、欲望が生じうるのは、感覚プラス思考、そして、それが欲望になるときのみであると見て取ります。そのことから、何らかのイメージが生じます。私は、あなたがこれら全てに付いてきているのかどうか知りません。諸々の感覚、思考、欲望、そうして、イメージ造りです。私はその車を見ます、それを観察します、何らかの感覚が生じます、そうして、思考が言います、“何て素敵なことか、もし私がそれを運転できるなら”と―欲望、そして、そのイメージ、それは私がその座席に座っていて、そのことを満喫しているイメージです。違いますか? 
 そのように、イメージ造りが生じている限り、傷つくことが生じるに違いありません。イメージ造りが生じないとき、傷つく可能性は全く皆無です。そして、そのことに閃くことによって、あなたはイメージ造りから解放されます。違いますか?
 そして、次の質問です―それはその婦人が問うたのではありません、私が問おうとしています―一方の人が、実際、イメージを抱かないで、他方の人がイメージを抱くとき、その両者の関係性とは何でしょうか? そうすると、その二人の間の関係性とは何でしょうか? お分かりでしょうか? それは起こりえます。お分かりでしょうか? それは起こります。あなたは結婚しているかもしれません、そして、あなたの妻はイメージ造りから解放されているかもしれません―何と! それは驚くべきことです! (笑) そして、彼女は、もしあなたがいかなるイメージも抱かないなら、それは驚くべきことだと賞賛します。そうすると、彼女のあなたとの関係性はどうなりますか―彼女はいかなるイメージも抱きません、そして、あなたは何らかのイメージを抱きます。宜しいでしょうか? それはあなたの責任です、私のそれではありません。

...マルセル・デュシャンの遺作:デュシャン版モナリザ”とは何でしょうか?...

 私は答えられません。
 あなたは答えられない。はい。
 彼女は彼を愛すべきです。
 あーっ、あなたは知りません。宜しいでしょうか、あなたは、すでに、何らかのイメージを作っています。もしあなたがいかなるイメージも抱かないなら、あなたの世界に対する責任、他の人に対する責任とは何でしょうか、そして、この人間関係の中に、いかなるイメージも形成されないなら、何が起こるのでしょうか? あなたは知りません。違いますか? それが真理です。あなたは知りません。形成される何もかもが、ただのイメージ造りです。あなたは知りません。あなたは知らないという事実に留まって下さい、それは途方もない発見です。お分かりでしょうか? あなたは、いつも、答えを用意しています、しかし、自分自身にこう言うことです、“私は、もしイメージ造りが生じないなら、何が起こるのか、本当に知りませんと、しかし、私は明らかにしようと思います”と。お分かりでしょうか? 宜しいでしょうか、あなたが確かな何かからスタートするとき、あなたは疑念に終始します。あなたがいかなる確かさとも無縁にスタートするとき、あなたは完全に確かになります。お分かりでしょうか? そのように、あなたは知りません。そこから歩を進めて、明かにするのです、あなたがイメージから解放されうるのかどうかを、そして、それは何を意味するのかどうかを、そして、他の人たちに対する責任とは何かを。お分かりでしょうか? 驚くべき何かが生まれています、開花しています、あなたはそれを発見します。
 そして、次の質問はこうです、人は動機とは無縁に生きることができるのか、ということです。つまり、我々は言いました、何らかの動機が生じるところには、何らかの方向性が生じると。違いますか? 思考によって設定された方向です。違いますか? 私は、裕福になりたいという動機を抱きます。有難いことに、私にはそれがありません、しかし、もし仮に、私がそう抱くなら。私は何らかの動機を抱きます、従って、私の全生活はその特殊なことに向けられます―お金を得ることです。なぜなら、そうすると、私は嬉しくなれるからです、私は旅行に出かけられます、私は家を持てます―お分かりでしょうか?―その他の全てです。そのように、我々は伝統的に教育されています、何らかの動機をもつように洗脳されています―天国、イエス、ブッダ、どのような方向性であろうと、経済的に、社会的に、宗教的に―我々は何らかの方向性をもつように訓練されています。違いますか? 従って、我々は動機とは無縁にどう生きるのか知りません。そこで、我々は問います、動機とは無縁に生きることは可能かと。違いますか? 前もって知らないので、我々は明らかにできます。私は、こう言ってスタートしません、“私は動機をもつべきではありません”と、それは愚かなことです、私がそれを手にしているとき。しかし、こう言うことです、“いずれにしても、私には動機があります”と、私は動機の中に何が意味されているのかを見てみます、ある方向性をもった活動です、心地よかろうが不快であろうが、得することであろうが損することであろうが、価値があろうと、なかろうと、などです。方向性は思考によって決められます、それは、何らかの欲望、イメージ、感覚であり、そして、一定の方向です。それが動機の働きです。そして、我々は、伝統的に、教育的に、社会的に、あらゆる仕方で、宗教的にさえ、訓練されています。お分かりでしょうか? あなたは様々な動機をもっています―様々な方向性、動機をもっています、そうすると、あなたは、なぜ思考が動機を設えるのかを明らかにできます。あなたは私の質問を理解しますか? あなたはこのことに付いてきていますか? なぜ思考は生の中に何らかの方向性を設定するのでしょうか? 方向性は全体の非理解を意味します。違いますか? それは地図を見ているようなものです―どうか、私に五分ください、飽きないで下さい、もしあなたが飽きるなら、眠って下さい、そして、耳を傾けないで下さい、しかし、少なくとも五分間だけ、目を覚ましていて下さい。時間は何時ですか、マダム。
 一二時二〇分前です。
 我々はこのことで終了します。なぜ我々は生の中に方向性をもつのでしょうか? なぜなら、一つの理由は、それが安全性をもたらすからです、少なくとも、思考は、それが安全性をもたらすと想定します。違いますか? もし私が動機をもたないなら、私は何をしてよいのか分かりません。何と、私は途方に暮れます。そのように、途方に暮れる恐れが、安全でなくなる恐れが、財政的にも、心理的にも、そして、身体的にも、思考にこう言わせます、“私は生の中に何らかの方向性をもつのでなければならない”と。そうして、それは何らかの方向性を設定します、それは、他のあらゆるものを排除することを意味します、我々がオリンピックで目撃したそれらアスリートたちの一人のように、その人は完全に一つの方向を目指していました、ダイビングに、ランニングに、それが何であれ、完全に、それに没頭し、それを訓練し、それに集中していました。そして、生のその他は、お分かりでしょうか―政治、宗教、あらゆるものが二の次です。そこでは、その人は完全に安全です。そのように、思考は、生物的にも、心理的にも、安全であるための、何らかの方向性を設定します。それは事実です。違いますか? そのように、それは、生の全地図を放棄します。それは、ある特定の村を目指した一つの方向だけを目にします。そのように、あなたが何らかの方向性をもつとき、それは伝統的であり、ノーマルなことと受け取られます、そうすると、北を目指している人と南あるいは南東、南西を目指している他の人との間に分断が生じて、それら全てを断片化します。お分かりでしょうか? あなたが何らかの方向性を抱く瞬間、あなたは生を断片的なものにしています。私はあなたが付いてきているのかどうか知りません。私は、そのことを、今、正に見て取りました。私はそのことが何であるのかに閃きました。お分かりでしょうか? いいえ、それをあなた自身で見て取って下さい。あなたが何らかの方向性をもつや否や、あなたは生を断片的なものにしています。そのように、あなたの生は断片になっています、なぜなら、あなたが何らかの方向性をもつからです。分かりましたか? あなたはそのことを見て取りますか?

 ......ロシア=ウクライナ戦争とは何でしょうか?......

 そうすると、質問はこうです、私は方向性とは無縁に生きられるのか、ということです。お分かりでしょうか? 私は全地図を見ます、そして、その地図が言います、動機はいりません、方向性はいりませんと。ちょっと待って下さい。私はそのことを、ゆっくり、検討します。私は言いました、方向性があるとき、生の断片化が、生きて行くうえで断片化が生じると。それは明確です。断片化は争いを意味します―あなたはあの方向、私は別の方向、彼女は他の方向、そのように、我々はみなバラバラになっています、従って、協同的な何かが生じません、利益のためなどその他の全てを除いて、そうすると、いつも、断片化が生じるとき、争いが生じます。違いますか? 我々は歩を進めますか? そして、精神は言います、“断片化とは無縁に、方向性とは無縁に、生きられますか”と。それはこう言えるだけです、それが、断片的な生き方が何であるのかを見て取ったときに、あるいは、そのような生き方が何であるのかに閃いたときに、それは生きていると、なぜなら、それは何らかの方向を手にしたからです。あなたは私の言っていることを理解しましたか? もし私が見て取るなら、観察するなら、気づくなら、何らかの方向性をもつことは断片化を意味すると。断片化が生じるところには、争いが生じるに違いありません―アラブ人、ユダヤ人、ヒンドゥー教徒、イスラム教徒、カトリック教徒、プロテスタント教徒、生のあらゆる側面です。方向性があるところには、断片化が生じます、従って、分断が生じ、従って、争いが生じます。
 あなたはこの現実に閃きますか? それは現実です。違いますか? それは、実際の、事実として、日常の現実です、つまり、私が何らかの方向性をもつところに―私は総理大臣になりたいと思う、そして、あなたは...などです―お分かりでしょうか?―そのように、あなたと私の間に争いが生じます。分断があるところには、争いが生じるに違いありません、それは法則です。私はそのことに閃きますか? そうすると、私はこう言えるだけです、“私は動機とは無縁に生きられますか”と。前もってではありません、なぜなら、それには意味がないからです。そのように、私は知りません。お分かりでしょうか? 私はこう言いません、“私はそうできる、あるいは、できません”と、私は知りません。しかし、私は知ります、私が何らかの方向性をもつところには、断片化が生じて、争いやその他の全てが後に続くと。そして、私はそのことを十分に心得ています、見慣れています、それは我々の生の日常です。そこから、私は自分自身に問います―なぜなら、私はそのことに閃いているからです―私は自分自身に問います、動機とは無縁に生きることは可能かと。私は、本当に、知りません。しかし、私は他のことは知っています、しかし、私はこのことは知りません。そこで、私は検討しようと思います。私は見守ろうと思います。私は見守っています、私の行動の中に、私のスピーチの中に、私が何らかの動機を抱えているのかどうかの観察が生じます。そして、私は言います、“はい、私はそこに何らかの動機を抱えています、なぜでしょうか?”と。お分かりでしょうか? そこで、私はそれをブルドーザーで掘り起こし始めます、(笑) それら全てを日の下に晒します。そうすると、ついに、私は言えます、“私は動機を抱いていません”と。あなたはその意味が分かりますか? 争いのない、断片化のない、全体的で、健康的で、健全な、聖なる生です。そうすると、あなたはそのように言えるだけです、しかし、それを前もって言うと、それには意味がありません。
 私には動機があると言う、その“私”とは何でしょうか?
 私は言いました、私には動機がないと、私は言います、私は動機を抱かないと。宜しいでしょうか、それは...手短に言うと、実際に、それが意味するのは、生きる上で動機が存在しないことです。あなたはその意味が分かりますか? そうすると、それは、本当の慈しみを意味します、お分かりでしょうか?
                    ―1976年7月29日 ザーネン
                     1976年7月28日 ザーネン