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クリシュナムルティ(K) 私は思います、観察の、見て取ることの性質と美を理解することは重要であると。精神が何らかの仕方で歪められている限り―神経症的な衝動や感情によって、恐れや悲しみによって、健康によって、野望や俗物意識や権力志向によって―それは恐らく耳を傾けることが、見守ることや見て取ることができません。見て取ること、耳を傾けること、見守ることの霊妙な働きは育まれる何かではありません、それは進化や漸進的成長の問題ではありません。人が危険に遭遇するとき、人は即座に行動します、それは身体と記憶の本能的で、待ったなしの反応です。子供の時から、人は危険に遭遇するとき、そのように条件づけられてきました、精神はそのように即座に反応します、そうでないと、身体的な破壊に陥ります。我々は問うています、正に見て取るとき、いかなる条件づけとも無縁に振舞うことが可能かどうかを。精神は、いかなる形の歪みからも解放されて自由に、そして、即座に反応して、振舞うことが可能でしょうか? つまり、気づき、行為そして表現は全く一つであり、それらは分断されていません、バラバラになっていません。正に見て取ることが行為であり、それがその見て取ることの表現です。何らかの恐れに気づくとき、それをとても間近に観察するので、その正に観察がその恐れから解放されます、それがその行為です。我々はこのことを、今朝、検討できますか? 私は感じます、このことは非常に重要であると、つまり、我々は不可知の何かに踏み込んでいけるかもしれません。しかし、精神が何らかの仕方でそれ自身の恐れや野望、欲望、絶望などその他の全てによって深く条件づけられていると、それは、恐らく、途方もなく健全で、正気で、バランスのとれたハーモニアスな存在が求められる何かに踏み込んでいくことはできません。
そこで、我々の問いはこうです、精神が―それは全存在を意味します―何らかの形の歪み、何らかの形の奮闘や暴力に気づけるのかどうか、そして、それを見て取って、それに終止符を打つことができるのかどうか、徐々にではなく、即座にそうできるのかどうか、ということです。このことが意味するのは、気づきと行為との間に時間を介入させないということです。あなたが危険に遭遇するとき、時間的な間隙は生じません、即座に行動します。
我々は我々が徐々に賢くなる、明晰になるという観念に慣れています、一日一日見守っていくことによって、一日一日実践することによってそうなると。それが我々の慣れ親しんでいることです、それが我々の文化、我々の条件づけのパターンです。そこで、我々は言っています、精神がそれ自身を恐れや暴力から解放するためのそのような漸進的なプロセスは、恐れをさらに増大することであると、暴力を更に促すことであると。
暴力に終止符を打つことは可能でしょうか―外面的なそれだけではなく、我々の存在の深くに根差すそれです―攻撃性に、権力欲に終止符を打つことは可能でしょうか? それを正に完全に見て取るとき、我々は、時間を介入させることなく、それに終止符を打つことは可能でしょうか? 我々は、今朝、このことを議論できますか? 通常、我々は見ることと行うこととの間に時間を介入させます、“現にあること”と“あるべきこと”との間の時間的間隙です。我々に、他の何かを成し遂げるための、他の何かになるための、現にある通りのことを取り除く欲望が生じます。人はこの時間的間隙を非常に明瞭に理解しなければなりません。我々はそのような観点から考えます、なぜなら、子供の時から、我々はそのように考えるように育てられ、教育されています、つまり、次第に、徐々に、我々は何かになると。外面的に、技術的に、人は分かります、時間は必要であると。私は一級の大工にはなれません、あるいは、物理学者には、あるいは、数学者にはなれません、多くの年月をそれに費やさなければ。人は明晰な能力を―私は“直観”という言葉を使いたくありません―人がとても若いときに、数学的な問題を見て取るためのそれをもっているかもしれません。そして、人は認識します、新しい技術や新しい言語を学ぶときに要する記憶を育むためには、時間が絶対的に必要であると。私はドイツ語を明日話せません、私には多くの月日が必要です。私は原子工学について何も知りません、そして、それについて学ぶためには、私は恐らく多くの年月を必要とします。ですから、何らかの技術を学ぶために要する時間的要素と、気づきと行為に時間を干渉させる危険性とを混同しないようにしましょう。
質問者(Q) 我々は子供たちの成長について話すべきでしょうか?
K 子供は成長する必要があります。子供はとても沢山のことを学ぶ必要があります。人がこう言うとき、“あなたは成長しなければならない”と、それはとても軽蔑的な言葉です。
Q 宜しいでしょうか、部分的な心理的変化が我々の中で起こります。
K 勿論です! 人は怒ってきました、あるいは、人は怒っています、そして、人は言います、“私は怒るべきではない”と、そして、徐々に、人はそのことに取り組んで、少し怒りが収まります、少しいらだちが収まります、そして、よりコントロールされた状態を生み出します。
Q 私の言うのはそういう意味ではありません。
K それでは、どういう意味でしょうか、マダム。
Q 私が言うのは、あなたが手にして、そして、あなたが失う何かのことです。混乱が再び生じるかもしれませんが、それは同じではありません。
K しかし、それはいつも同じ混乱ではないのですか、ただ少し修正されたそれではないのですか? それは修正された継続性です。あなたは誰かに頼るのを止めるかもしれません、依存する苦しさや孤独の痛みを経験して、あなたは言います、“私はもはや依存しません”と。そして、恐らく、あなたはそれを止めることができるでしょう。そこで、あなたは言います、何らかの変化が生じていると。次の依存は以前のそれと全く同じではないでしょう。そして、再び、あなたはそれを検討して、あなたはそれを止めるなどします。そこで、我々は問うています、依存の全性質を見て取って、即座にそれから自由になれるのかどうかを―徐々にではなく―あなたが危険に遭遇するとき即座に行動するように。このことは我々が言葉だけではなく、深く、内面的に検討すべき本当に重要な事柄です。その意味することをよく見て下さい。アジアでは輪廻転生を信じます、つまり、人が次の世に再び生まれる様子は、あなたがこの世をどのように生きてきたかに拠ります。もしあなたが残虐に、攻撃的に、破壊的に生きてきたのなら、あなたはそれを次の世で償うことになります。あなたは必ずしも動物になるのではありません、あなたは人間の状態に戻って、より苦痛に満ちた、より破壊的な生を送るのです、なぜなら、以前、あなたは美的な生を送っていなかったからです。そのような輪廻転生の観念を信じる人たちは、そのような言葉だけを信じていて、その言葉の深い意味を信じていません。あなたの、今、行うことが明日にとって計り知れなく重要です―なぜなら、明日、それは次の世ですが、あなたはそのことを償うことになるからです。そのように、徐々に異なる形に達するという観念は、本質的に、東洋でも西洋でも同じです。いつもその時間的要素が関わります、“現にあること”と“あるべきこと”です。“あるべきこと”を成し遂げるためには時間を要します、時間は努力であり、精神集中であり、気を付けていることです。人が気を付けていないとき、あるいは、精神集中していないとき、気を付けるように実践する努力が生じます、そして、それは時間を必要とします。
この問題に取り組む全く異なる方法があるはずです。人は気づくことを理解しなければなりません、見て取ることと行為です、それらは分離していません、それらは分断していません。我々は、同様に、行為、行うことの問題を検討するのでなければなりません。行為とは、行うこととは何でしょうか?
Q 視覚を欠いた盲目の人はどのように行動するのでしょうか?
K あなたはこれまであなたの目を布で覆って歩いてみたことがありますか? 我々は行いました、遊びで。お分かりでしょうか、あなたは他の感受性を発達させます、あなたの感覚がより鋭くなります。あなたが壁や椅子や机に近づく前に、あなたはすでにそれがそこにあるのを知ります。我々は我々が我々自身に盲目であることを、内面的に盲目であることを話しています。我々は外面的なものにひどく気づきますが、内面的には、我々は盲目です。
行為とは何でしょうか? 行為はいつも何らかの観念、信条、信念、結論、希望、絶望に基づきますか? もし人が何らかの観念、理想を手にしているなら、人はそのような理想に順応しています、そして、そこには、理想と行為との間に何らかの間隙が生じます。その間隙が時間です。“私はその理想にいつかなります”―私自身をその理想と同一化することによって、次第に、その理想が行為して、行為と理想との間に分離が生じません。何が起こりますか、その理想があり、そして、それ自身をその理想に近づける行為が生じるとき、何が起こりますか?
Q 終始比較します。
K はい、比較やその他の全てです。どのような行為が生じますか、もしあなたが観察するなら。
Q 我々は現実を無視します。
K 他には?
Q 矛盾です。
K それは矛盾です。それは偽善に通じます。私は怒っています、そして、理想が言います、“怒るな”と。私は抑えます、コントロールします、順応します、私自身をその理想に近づけます、従って、私はいつも争っていて、そして、何かを装っています。理想家は何かを装う人です。そしてまた、その分断の中で、争いが生じます。他の要素が生じます。
Q なぜ我々は前世を思い出すのを許されないのですか? 我々の進化はより容易になるでしょう。
K そうでしょうか?
Q 我々は誤りを避けることができます。
K 前世とはどういう意味でしょうか? 昨日の生ですか、二十四時間前ですか?
Q 直前の生まれ変わりです。
K それは百年前でしょうか? どのようにそれは生をより容易にするのでしょうか?
Q 我々はよりよく理解します。
K どうか、一歩一歩、歩みましょう―あなたはあなたが行ったこと、あるいは、行わなかったこと、あなたが百年前に被ったことの記憶を手にするでしょう、それは昨日のことと全く同じです。昨日、あなたはあなたが好む、あるいは、後悔する多くのことを行いました、そして、それがあなたに苦痛、絶望そして悲しみをもたらしました。それら全ての記憶が生じます。そして、あなたは千年前の記憶を手にしています、そして、それは本質的に昨日のそれと同じです。なぜそれを輪廻転生と称するのでしょうか、それは昨日の生まれ変わりではないのでしょうか、それは、今日、生まれ変わっていることです。宜しいでしょうか、我々はそのことを嫌います、なぜなら、我々は考えるからです、我々は途方もない存在であると、あるいは、我々は成長する時間を手にしていると、何かになる時間を、輪廻転生する時間を手にしていると。あなたが決して見てこなかった輪廻転生するその当のものとは何でしょうか―それはあなたの記憶です。それには神聖な何か、聖なる何かは存在しません。あなたの昨日の記憶が、あなたの行っていることの中に、今日、生まれているのです、昨日のことがあなたの、今日、行っていることをコントロールしています。そして、千年の記憶が昨日と今日を通して働いています。そのように、過去が絶えず生まれ変わっています。それは賢い方法、説明であると考えないで下さい。人が記憶の重要性と、その全くの不毛性を見て取るとき、人は決して輪廻転生について論じないでしょう。
我々は行為とは何かを問うています。行為は正に自由で、自発的で、即座な何かでしょうか? 行為はいつも時間に縛られているのでしょうか、そうすると、それは思考であり、それは記憶です。
Q 私は猫がネズミを捕らえるのを見ていました。猫は考えません、“それがネズミである”と、即座に、本能的に、猫はそれを捕まえます。私には思われます、我々も自発的に行動しなければならないと。
......
首無しの赤い鳥居の丹田とは何でしょうか?
......
K “我々は何々しなければならない”“我々は何々すべきである”ということではありません。どうか、宜しいでしょうか、私は思います、我々が時間的要素を本質的に理解するとき、我々は決して“我々は何々しなければならない”“我々は何々すべきである”と言わないと。我々は自分自身に問うています、言葉でではなく、知的にではなく、深く、内面的に、行為とは何でしょうかと。行為はいつも時間に縛られている何かでしょうか? 記憶を、恐れを、絶望を出自とする行為はいつも時間に縛られています。完全に自由な、従って、時間から自由な行為が存在するのでしょうか?
Q あなたは言います、人は蛇を見て、即座に行動すると。しかし、蛇の行動は成長します。生はそれほどシンプルではありません、一匹の蛇だけではなく二匹目の蛇もいて、それは数学的な問題のようになります。そうすると、時間が関与します。
K あなたは言っています、我々は虎たち猛獣の世界を生きていると、人は一頭の虎に遭遇するだけではなく、人間の形をした数十の虎に遭遇すると、それらは残虐で、暴力的で、強欲で、貪欲で、それぞれがそれ自身の歓喜を追求していると。そして、そのような世界に生きて行動するためには、あなたは、虎を次から次へと殺戮するために、時間を必要とすると。その虎は私自身です―私の中のそれです―私の中に数十の虎がいます。そして、あなたは言いました、それらの虎を一つずつ取り除くためには、あなたは時間を必要とすると。それが正に我々の一緒に問うていることです。我々は同意してきました、我々の中のそれらの蛇を次から次へと殺戮するためには時間を要すると。その“私”は“あなた”です―“私”は、あなたの蛇たち、あなたの虎たちを抱えた“あなた”です―それら全ても“私”です。そして、我々は言います、なぜ私の中のそれらの動物を次から次へと殺戮するのかと。私の中に千もの“私”のそれらがいます、千もの蛇がいます、そして、私がそれら全てを殺戮し終えるまでに、私は死んでいます。
......
死んでやり過ごす守宮の尻尾とは何でしょうか?
......
そうすると、どうか、このことに耳を傾けて下さい、それに答えないで下さい、全ての蛇を一度に、徐々にではなく、取り除く仕方がありますか? 私は全ての動物の危険を、私の中のあらゆる矛盾を見て取って、それらから即座に自由になれますか? もし私がそうできないなら、私には希望は存在しません。私はあらゆる種類のことを装うことができます、しかし、もし私が私の中のあらゆるものを拭い去れないなら、私は永久に囚われの身です、たとえ私が次の世に、あるいは、一万年後の世に生まれ変わるなどしても。そのように、私は即製の知覚を、私の中の特殊なドラゴンを、私の中の特殊な猿を葬る行為、見方を見つける必要があります。
Q そうして下さい!
K いいえ、マダム、どうか、これは本当に途方もない質問です、あなたはただこう言うことはできません、“そうして下さい”あるいは“そうしないで下さい”と。
このことのためには途轍もない検討を要します、言わないで下さい、あなたはそれを手にしていると、あるいは、あなたはこうすべきである、あなたはそうすべきであると、そう言うことには私は興味がありません―私は明らかにしたいのです。
Q もし私がそれを見て取れれば良いのですが!
K いいえ、どうか、“もし”ということではありません。
Q もし私が何かに気づくなら、私はそれを言葉にすべきでしょうか、あるいは、それを私の中に収めているようにするのでしょうか?
K なぜあなたは非常にシンプルな言葉で言われていることを、あなた自身の言葉で解釈するのでしょうか―なぜあなたは言われていることを見て取れないのでしょうか? 我々は自分自身の中に多くの動物を、多くの危険を抱えています。私は、一つの気づきで、それら全てから自由になれませんか―即座に見て取れませんか? あなたはそう行っているかもしれません、マダム、私はあなたがそう行ってきたのか否かを問うているのではありません、そのような問いは私の無礼な問いかけでしょう。しかし、私は問うています、このことは可能かと。
Q 行動には二つの側面があります。内面的に判断する側面は即座に起こります。外面的な世界に対する行動には時間を要します。判断は内面的な行為を意味します。そのような行動の二つの側面を繋ぐには時間が必要です。それは言語の、伝達の問題です。
K 分かります。時間を要する外面的な行動があり、そして、気づきと行為の内面的な行為があります。どのように、この内面的な行為が、その気づき、判断そして即座の行為が、時間を要する他方の行動と結び付けられるのでしょうか? 問題は明瞭でしょうか?
私に指摘させていただくなら、私は思います、それは橋渡しを要しないと。橋渡し、あるいは、二つを結び付けるということは生じません。私の言おうとすることはこうです。私は非常に明瞭に分かります、ここからあそこへ行くには時間を要すると、言語を学ぶには時間を要すると、物理的に何かを行うには時間を要すると。時間は内面的に必要でしょうか? もし私が時間の性質を理解できるなら、私は時間的要素を外面的な世界で正しく扱うでしょう、そして、それを内面的な状態に干渉させないでしょう。そのように、私は外面的な何かから始めていません、なぜなら、私は外面的なものが時間を必要とするのが分かるからです。しかし、私は自分自身に問うています、内面的な気づき、判断、行為の中に時間が果たして存在するのかどうかを。従って、私は問うています、“判断は果たして必要なのか”と―判断は時間の即製的な部分です―一秒、時間的な一点です。“私の判断”とは時間的な要素を意味します、判断は意思と欲望に基づきます、それら全ては時間を意味します。そこで、私は問うています、なぜ判断がこのことに這い入ってくるのかと。それとも、そのような判断は私の条件づけの一部で、それがこう言うのでしょうか、“あなたは時間を手にしなければならない”と。
そうすると、判断とは無縁の気づきと行為があるのでしょうか? つまり、私は恐れに気づきます、思考によってもたらされた恐れです、過去の記憶によって、何らかの経験によって、昨日の恐れが今日に生まれ変わることによってもたらされた恐れです。私は恐れの全性質、構造、内面性を理解しています。そして、判断とは無縁に、そのことを見て取ることは、その恐れから解放された行為です。このことは可能でしょうか? はい、と言わないで下さい、私はそれを行ってきていると、あるいは、誰か他の人がそれを行ってきていると―そういうことではありません。その恐れは、それが生じようとするその瞬間に即座に消滅しえますか? 表面的な恐怖が存在します、それらが世界の恐怖です。世界は猛獣の虎で溢れています、そして、それらの虎―それは私の一部です―が破壊しようとしています、従って、私―その虎の一部―と残りの虎たちとの間に戦争が生じます。
内面的な恐れも存在します―心理的な安全性の欠如、心理的な不確かさです―それら全ては思考によってもたらされます。思考は快楽を育みます、思考は恐れを育みます―私はそれら全てを見て取ります。私は恐れの危険を見て取ります、私が蛇の危険を、断崖絶壁の危険を、深い激流の危険を見て取るように―私はその危険を完全に見て取ります。そして、その正に見て取ることが、その正に行為です、それは、判断する、この上なく最小の秒的間隙とさえも無縁です。
Q 時折、あなたは何らかの恐れを認識できても、依然として、あなたはその恐れを抱いています。
K 人はこのことを非常に注意深く検討する必要があります。最初に、私は恐れを取り除こうとしたくありません。私はそれを表現したいと思います、それを理解したいと思います、それを妨げたくありません、それを生じさせたいと思います、私の中でそれを爆発させたいと思うなどその他の全てです。私は恐れについて何一つ知りません。私は私が恐れているのが分かります。今、私は、どの次元で、どの深さで、私が恐れているのかを、意識的に、明かにしたいと思います、あるいは、根源的なところで、私の存在の深い次元で―私の精神の洞窟、未探究の領域の中で恐れているのかを、明らかにしたいと思います。私は明らかにしたいと思います。私はそれら全てを呼び起こして、暴きたいと思います。そうすると、私はどのようにそうするのでしょうか? 私はそれを行わなければなりません―徐々にそうするのではありません―お分かりでしょうか? それは私の存在から完全に引き出されなければなりません。
Q もし千頭の虎がいて、私が大地に座っていると、私はそれらが見えません。しかし、もし私が平原の上空に行くと、私はそれらを扱うことができます。
K “もし”は止めて下さい。もし私が飛べるなら、私は地球の美を見るのでしょう、私は飛べません、私はここにいます。私はそれらの理論的な問いかけには全く価値がないと思います、そして、見たところ、我々はそのことを認識していないようです。私は空腹です、そして、あなたは私に理論を差し示すのです。ここに問題があります、どうか、それを見て下さい、なぜなら、我々はみな恐れているからです、誰もが何らかの種類の恐れを抱いています。深い、隠れた恐れがあります、そして、私は表面的な恐れに、世界の恐怖に非常によく気づいています、仕事やあれこれを失うことから生じる恐れです―私の妻、私の息子を失うことです。私はそのことを非常によく知っています。恐らく、より深い恐れの層があります。どのようにして私は、どのようにして精神は、それら全てを瞬時に暴くのでしょうか? あなたはどう思いますか?
Q あなたはこう言うのでしょうか、我々はその動物を一度に全て追い払わなければならないと、それとも、我々は毎回それを生け捕る必要があるのでしょうか?
K 質問者は言います、あなたは言っていると、その動物を、完全に、永久に追い払うことができると、ある日それを追いかけて、次の日にそれが戻ってこないようにできると。それを我々は言っているのです。私はその動物を繰り返して追いたくないのです。それはあらゆる学校、あらゆる聖者たち、そして、あらゆる宗教そして心理学者たちの言うことです、つまり、それを少しずつ追い払うのです。それは私の意味することでは全くありません。私は、その動物を追い払って、それが決して戻ってこないようにするには、どのようにするのかを明らかにしたいのです。そして、それが戻ってくるとき、私は何を行うのかを知ります。お分かりでしょうか?
Q 我々は、今、その動物にその正しい名称を与えなければなりません、即ち、それは思考です。そして、それが戻ってくるとき、我々はそれにどう対処するのか知るでしょう。
K 私はどうするのか知りません―我々は見て取るでしょう。あなた方はみな性急すぎます!
Q これは我々の生です―我々はうかうかできません!
K 答えるのに性急すぎます(そういう意味です)。勿論、我々はうかうかできません。これはとても難しいテーマです、あなたはそれをただ言葉にすることはできません。それには何らかの気遣いを要します。
Q なぜ我々は、正に、今、実際に気づかないのでしょうか?
K それを私は言っているのです。
Q もし私があなたに目をやると、何が起こりますか? 最初に、私はあなたについて何らかの印象を抱きます。どうか、私を見て下さい。最初に目にするのは、私の視覚的ないでたちです、違いますか? 次に何が生じますか? そのいでたちについて思考します。
K それはその婦人が言っていたことです、全く同じことです。思考は動物です。どうか、その動物から離れないようにして下さい。言わないで下さい、その動物は思考であると、あるいは、自己であると、私であると、エゴであると、恐れであると、欲望であると、嫉妬であると、そして、その別の表現に戻らないで下さい。その動物は、我々は言います、それら全てであると。そして、我々は見て取ります、そのような動物は徐々に追い払えないと、なぜなら、それはいつも異なる姿で戻ってくるからです。幾分か、このことに気づいて、私は言います、それら全ては何て愚かなことかと、そのような動物を絶えず追い回すことはと―それは戻ってきます、そして、それを再び追いかけることです。私は明らかにしたいのです、それを完全に追い払って、それが決して戻ってこないことは可能かと。
Q 私は私の中に異なる機能を見ます、異なる素早さで機能するそれです。もし一つの機能が別の機能を追い求めるなら、何も起こりません。例えば、もし情動が観念を追い求めるなら。人はあらゆる機能と共に見なければなりません。
K それは同じことで、あなたは異なる言葉でそれを表現しています。
Q あなたは何らかの説明をしようとスタートしましたが、それは中断しました。あなたは言い始めました、あなたは恐れを全く取り除きたくないと。
K 私はあなたに言いました、最初に、私はその動物を取り除きたくないと。私はそれを追い払いたくありません。私が狩猟用の鞭とベルベットの手袋を用意する前に、私はそれを追い払っているその当のものを知りたいと思います。恐らく、それは、それが追い払っているものよりもより大きな虎かもしれません。そこで、私は自分自身に言います、私はいかなるものも追い払いたくないと。その重要性を見て下さい!
Q 追い払うことは、結果として、あなたの死刑宣告かもしれません。
K いいえ、私は知りません。ゆっくり歩を進めて下さい、宜しいでしょうか、私に説明させて下さい。私はその動物を追いかける前に言います、私は、それを追いかけようとしているその当のものが何であるのかを明らかにしたいと思うと。そして、私は言います、それはより大きな虎かもしれないと。もし私が全ての虎を取り除きたいと思うなら、より大きな虎に小さな虎を追いかけさせることは意味をなしません。そこで、私は言います、待てと、私はいかなるものも追い払いたくないと。私の精神に起こっていることを見て下さい。私はいかなるものも追い払いたくありません、しかし、私は見てみたいと思います。私は観察したいと思います、私は、より大きな虎が小さな虎を追いかけているのかどうかを非常に明瞭にしたいと思います。そのようなゲームが永久に続きます、それが世界で起こっていることです―ある一つの専制国家がより小さな国家を追い払っています。
そこで、今、私は正に気づいています―どうか、このことを見て取って下さい―私はいかなるものも追いかけてはならないと。私はこのような原理を根絶しなければなりません、何かを追い払うそれです、何かを圧倒するそれです、何かを支配するそれです。なぜなら、“私はそのちっぽけな虎を取り除かなければならない”と言うその判断が、大きな虎に成長するかもしれないからです。そのように、全ての判断が、何かを取り除こうとする、あらゆるものを追い払おうとする全ての衝動が、完全に止むのでなければなりません。そうすると、私は見て取ることができます。そうすると、私は自分自身に言います(言葉で、という意味です)、“私はあらゆるものを追い払いません”と。従って、私は時間的な重荷から解放されます、それは虎を一頭そして別の一頭と追いかける重荷のことです。そこには、時間的な間隙が生じます、私は言います、“従って、私は何一つ行いません、私は追いかけません、私は活動しません、私は判断しません、私は、最初に、見て取るのでなければなりません”と。
私は見て取ります―それはエゴを意味しません、そうではなく、精神が見て取ります、頭脳が見守っています。私は様々な虎たちを見て取ることができます、子ずれの雌虎と雄虎です、私はそれら全てを見守ることができます、しかし、私の中により深いものがあるに違いありません、そして、私はそれら全てを暴きたいと思います。私は、それらを、行為を通して、行動を通して、暴きますか? あなたは益々怒ってから、落ち着きますか、そして、また一週間後に怒って、それから、あなたは落ち着きますか? それとも、全ての虎を、小さなそれを、大きなそれを、生まれたばかりのそれを―全ての虎を―見て取る方法がありますか? 私がそれら全てを完全に見守ることができて、私はその全体の様相を理解しているということがありえますか? もし私がそうできないなら、私の生は、慣習的な生き方の、ブルジョア的なそれの、複雑な、愚かな、ずる賢い生き方のままでしょう。それが全てです。そうすると、もしあなたがどのように耳を傾けるのかを知っているなら、今朝の“説法”は終了します。
あなたは覚えていますか、毎朝、弟子たちに説法するある師の話を。ある日、彼が壇上に登ると、小鳥がやって来て、窓枠に止まり、囀り始めました、そして、師はそれを見守りました。小鳥はしばらく囀ってから飛び去りました。そして、師は弟子たちに言いました、“今日の説法は終わりです”と。
―1969年 8月7日 ザーネン
―THE FLIGHT OF THE EAGLE