Quiv="Content-Type" content="text/html; charset=Shift JIS"> アウトサイダー―時間的蛸壺の外へ

アウトサイダー―時間的蛸壺の外へ

鳥居

   見世物小屋の珍獣とは何でしょうか?

クリシュナムルティ) 我々は問うています、人が自分自身の中に抱えている見世物小屋のあらゆる珍獣をいかにやり過ごすのかを。我々はそれら全てを議論しています、なぜなら、我々は―少なくとも私は―見て取るからです、人は不可知の何かへ踏み込んでいく必要があると。結局、善き数学者、あるいは、物理学者なら、誰もが不可知の何かを探究するはずです、そして、恐らく、善き芸術家も、もしその人がその人自身の情動やイマジネーションに過度に振り回されていないなら。そして、我々、日常の問題を抱えている通常の人間たちも、深い理解の感覚を手にする必要があります。我々もまた不可知の何かに踏み込んでいく必要があります。精神が発明してきた見世物小屋の珍獣―ドラゴン、蛇、猿―を、それらの問題や矛盾を抱えて、いつもそれらを追いかけている精神は―それは我々です―恐らく、不可知の何かに踏み込んでいくことはできません。ただの通常の人間であり、優れた知力もビジョンも持ち合わせていなくて、ただ日常の、単調な、醜いちっぽけな生を送っている我々ですが、我々はそれら全てを瞬時にいかに変えるのかに関心があります。それが我々の検討していることです。
 人々は、新しい発見、新しいプレッシャー、新しい理論、新しい政治的状況で変わります、それら全ては変化の何らかの質をもたらします。しかし、我々は、人の存在の中の根本的な、基礎的な革命について話しています、そして、そのような革命は、徐々になのか、あるいは、瞬時にもたらされるのかどうかを話しています。昨日、我々は検討しました、それを徐々にもたらすことに関する全てを、距離と時間と努力がその距離を埋めるのに必要とされるあらゆる感覚を検討しました。そして、我々は言いました、人はそのことを何千年も試みてきたと、しかし、どうにも、人は根本的に変わることができていません―恐らく、一つか二つを除いて。そこで、我々は、我々の一人ひとりは、従って、世界は―なぜなら、世界は我々であり、我々が世界だからです、それらは二つの分離した状態ではありません―瞬時に、全ての労苦を、怒りを、憎悪を、我々が作り出してきた敵対心や人の抱く辛辣さを振り払うことができるのかどうかを見て取ることが必要です。明らかに、辛辣さは我々の抱く共通の情動の一つです、そのような辛辣さが、それら全ての原因を知って、その全体の構造を見て取って、瞬時に払い除けられることがありえるのでしょうか?
 我々は言いました、それは観察が生じるときにのみ可能であると。精神が非常な熱気を帯びて観察しうるとき、そのような観察が正に辛辣さを葬る行為です。我々は行為とは何かの問いも検討しました、つまり、正に自由で、自発的で、非意志的な行為があるのかどうかです。それとも、行為は、我々の記憶、我々の理想、我々の矛盾、我々の傷、我々の辛辣さなどに基づくのでしょうか? 行為は、いつも、それ自体を何らかの理想、主義、パターンに近づけているのでしょうか? そして、我々は言いました、そのような行為は行為では全くないと、なぜなら、それは“あるべきこと”と“現にあること”との間に矛盾を作り出すからです。あなたが何らかの理想を抱いているとき、現にあるあなたとあるべきあなたとの間を埋める距離が生じます。その“あるべき”は何年もかかるかもしれません、あるいは、多くの人が信じるように、あなたがその完全なユートピアに達するまで、あなたは多くの生を何度も何度も生まれ変わるのかもしれません。我々はこうも言いました、昨日が今日に生まれ変わることがあると、その昨日が何千年も前であろうと、あるいは、ただの二十四時間前であろうと、そのこと―“あるべきこと”―は、依然として、過去、現在そして未来の分断に基づく行為が生じているとき、作用していると。それら全てが、我々は言いました、矛盾を、争いを、悲惨をもたらすと、それは行為ではないと。気づくことが行為です、その正に気づきが行為です、それは、あなたが何らかの危険に遭遇するとき生じます、瞬時に行為が生じます。私は思います、我々は、昨日、その点にまで歩みを進めたと。
 そしてまた、大きな危機、挑戦あるいは大きな悲しみが生じるときにも、瞬時に何かが生じます。そのとき、精神は瞬時に途方もなく鎮まります、それはショックを受けます。私は知りません、あなたがそれを観察したのかどうかを。あなたが夕刻あるいは早朝の山を見るとき、その山上の途方もない光や影、その計り知れなさ、その荘厳さ、その深い単独性を感じて見るとき―あなたがそれら全てを見るとき、あなたの精神はそれら全てを取り込むことはできません、一瞬、それは完全に鎮まります。しかし、それは直ぐにそのショックをやり過ごして、それ自身の条件づけに従って、それ自身に特有な個人的問題などに従って反応します。そのように、精神が完全に鎮まるとき、瞬時に何かが生じます、しかし、それはそのような絶対的な鎮まった感覚を維持できません。そのように鎮まることは何らかのショックによってもたらされません。ほとんどの我々は、大きなショックを受けるときの、その絶対的に鎮まる感覚を知っています。それは何らかの出来事によって生み出されうるのか、あるいは、それは、人工的に、内面的に、禅の僧院で行われているように、一連の不可能の質問によってもたらされうるのか、あるいは、何かを想像する状態によってもたらされうるのか、精神を力づくで鎮めさせる何らかの方式によってもたらされうるのか―それはかなり子供じみていて、未熟な何かです―ということです。我々は言っています、我々が話してきている意味で気づくことのできる精神にとっては、その正に気づきが行為です。気づくためには、精神が完全に鎮まるのでなければなりません、そうでないと、それは見て取れません。もし私があなたの言っていることに耳を傾けたいと思うなら、私は沈黙して耳を傾けなければなりません。いかなる取り留めのないな思考も、あなたの言っていることのいかなる解釈も、いかなる抵抗感も、実際に耳を傾けることを妨げます。
 そのように、耳を傾けたい、観察したい、見て取りたい、あるいは、見守りたいと思っている精神は、当然にも、途方もなく鎮まっているのでなければなりません。そのように鎮まることは、恐らく、いかなるショックの衝撃によっても、あるいは、何らかの観念に没入することによっても、もたらせられません。子供が玩具に夢中なとき、子供は非常に静かです、子供は遊んでいます。しかし、その玩具が子供の精神を吸収しています、その玩具が子供を静かにさせています。薬物を手にするとき、あるいは、何か人工的なことを行うとき、その何か大いなるものに吸収される感覚が生じます―それが絵画であれ、何らかのイメージであれ、何らかのユートピアであれ。そのように鎮まった、穏やかな精神は、あらゆる矛盾、倒錯、条件づけ、恐れ、歪みの理解によってのみ、もたらされえます。我々は問うています、そのような恐れ、悲惨、混乱が、全て、瞬時に、払い除けられうるのかどうかを、そうやって、精神が、観察するために、深く踏み込むために、鎮まるのかどうかを。
 人は実際にそうできますか? あなたはあなた自身を実際に完全な静けさで見ることができますか? 精神が活動しているとき、それはそれが見ることを歪めています、解釈しています、言い換えています、言っています、“私はこれが好きです”、“私はそれが好きではありません”と。それは途轍もなく高ぶっていて、情動的です、そして、そのような精神は、恐らく、見て取ることができません。
 そこで、我々は問うています、我々のような通常の人間がそのように行えるのかと。私は自分自身を見て取ることができるでしょうか、たとえ私が何であろうと、“恐れ”あるいは“辛辣さ”のような言葉の危険性を知って、そして、その正に言葉が“現にある通りのこと”を実際に見て取るのを妨げているのを知って。私は観察できるのでしょうか、言語の落とし穴に気づいていて。そしてまた、いかなる時間的な干渉も―“いかなる達成感”も“いかなる排除感覚”も―許すことなく、ただ観察するのです、静かに、熱気を帯びて、気を付けてそうするのです。そのように熱気を帯びて気を付ける中に、精神の隠れている通路、未発見の深奥が見て取られます。その中には、分析の入る余地は全くありません、気づくだけです。分析は時間を意味します、そしてまた、分析者と分析されるものを意味します。分析者は分析されるものと異なりますか―もし異ならないなら、分析には意味がありません。人はそれら全てに気づく必要があります、それら全てをやり過ごす必要があります―時間、分析、抵抗、到達しようとすること、乗り越えようとすることなどです―なぜなら、その扉から入ると、悲しみは消えないからです。
 これら全てに耳を傾けてきて、人は実際にそれを行うことができますか? これは本当に重要な問いかけです。“どのようにして”ということではないのです。あなたにどうするのかを語り、あなたに必要なエネルギーを与える人はどこにもいません。観察するには大いなるエネルギーを要します、つまり、静かな精神が、いかなる浪費とも無縁の余すことのないエネルギーです、そうでないと、それは鎮まっていません。そして、人は自分自身をこの余すことのないエネルギーで完全に見て取るので、見て取ることが行為であり、従って、その終わりであると、なりうるのでしょうか? 
質問者Q) 宜しいでしょうか、あなたの問いは、同じように、不可能の問いにならないのでしょうか?
 これは不可能の問いでしょうか? もしそれが不可能の問いなら、なぜあなた方は此処にみな座っているのでしょうか、人の話す声にただ耳を傾けるのです、川の流れに耳を傾けるのです、それらの丘や山々や草原に囲まれて素敵な休日を過ごすのです。あなたはなぜそうできないのでしょうか? それはそれほど難しいことでしょうか? それは非常に賢い頭脳を手にする問題でしょうか? それとも、それは、あなたが決してあなたの生の中で実際にあなた自身を観察してこなくて、従って、あなたはこのことをとても不可能だと見るのでしょうか? 人は、家が燃えているとき、何かを行わなければなりません! あなたはこう言えません、“それは不可能です、私はそれを信じません、私はそれについて何もできません”と、そして、座って、それが燃えるのを見守るのです! あなたは実際に起こっていることに関して何かを行います、あなたがどうあるべきかと考えるそれではありません。実際に起こっているのは家が燃えていることです―あなたは消防車が来る前に火を完全に消すことはできないかもしれませんが、その間―“その間”というのは全く問題になりません―あなたは火事に対して何か行動します。
 そのように、あなたがこう言うとき、それは不可能の問いです、それはアヒルを小さな瓶に押し込むかの如く、難しいし、不可能ですと―それはあなたが家の燃えているのに気づいていないことを示します。なぜ人は家が燃えているのに気づかないのでしょうか? 家は世界を意味します、世界はあなたであり、あなたの不満を抱えたそれです、あなたの中で進行しているあらゆるものを抱えたそれであり、あなたの外の世界を意味します。もしあなたがそのことに気づかないなら、それはなぜでしょうか? それは人が賢くないからでしょうか、人が数多くの書物を読んでこなかったからでしょうか、それは人が自分自身の中で起こっていることを知るのに鈍感だからでしょうか、そして、実際に起こっていることに気づかないからでしょうか? もしあなたがこう言うなら、“ごめんなさい、私は気づいていません”と、それでは、なぜあなたは気づかないのでしょうか? あなたはあなたが空腹のとき気づきます、誰かがあなたを侮辱するとき気づきます。あなたは、もし誰かがあなたにへつらうなら、あるいは、あなたが性的な欲望を成就したいと思うとき、非常によく気づきます。しかし、今、あなたはこう言います、“私は気づかない”と。そうすると、人はどうするのでしょうか? 誰かの刺激や励ましに頼るのでしょうか?
Q あなたは言います、何らかの変質が生じる必要があると、それは人の思考や欲望を見守ることによってなされうると、それは瞬時になされる必要があると。私はかつてそのように行いました、そして、変化は生じてきていません。もし我々があなたの言うことを行うなら、それは、そうすると、永久的な状態なのか、それとも、それは、毎日、規則正しく行われなければならないのでしょうか?
 行為であるこの気づき、それは一度だけ行われうるのでしょうか、それとも、それは毎日行われなければならないのでしょうか? あなたはどう思いますか?
Q 私は、それは音楽を聴いたのちに行われうると思います。
 従って、音楽が薬物のように必要になります、ただ、音楽は薬物よりもずっと社会的に敬われます。問題はこうです、人は、毎日、毎分、見守らなければならないのか、それとも、人は、ある日、それを完全に見守ることができて、あらゆることが終了するのか、ということです。私は、私が物事を、一度、完全に見て取ってしまうと、その他の時間、眠りにつくことができますか? あなたはその問いが分かりますか? 私は残念ながら、人は毎日見守って、眠ってしまわない必要があると思います。あなたは気づいている必要があります、侮辱だけではなく、へつらいや怒り、絶望だけではなく、あなたの周りやあなたの中で起こっている全てのことにも、いつも、気づいている必要があります。あなたはこう言えません、“今、私は完全に悟っています、何ものも私に触りません”と。
Q その気づきを手にする、そして、起こったことを理解するその瞬間、あるいは、その数分間、あるいは、その時間、あなたは、そうすると、あなたが侮辱を受けたときのあなたの暴力的な反応を抑圧しているのではないのですか? その気づきは、単に、起こる反応の抑圧ではないのでしょうか? 反応するかわりに、あなたは気づきます―その気づきは、ただの、その反応の抑圧かもしれません。
 我々はそのことをかなり徹底的に検討しました、違いますか? 私は嫌いという反応をします―私はあなたが好きではありません、そして、私はその反応を見守ります。もし私がそれを非常に気を付けて見守るなら、それは露わになります、それは私の条件づけを露わにします、私が育ってきた文化を露わにします。もし私が依然として見守っていて、眠りに落ちないなら、もし精神が露わにされているものを見守っているなら、多くの、多くのことが暴かれます―抑圧という問題は全く生じません。なぜなら、私は起こっていることを見て取ることに興味があって、それら全ての反応をいかに乗り越えるのかに興味はないからです。私は、精神が見て取れるのかどうかを、私の正に構造に、エゴに、自己に気づけるのかどうかを明らかにすることに興味があります。そして、その中に、どのようにして何らかの抑圧が存在しうるのでしょうか?
Q 私は、時々、静かな状態を感じます、その静けさから何らかの行動が起こりうるでしょうか?
 あなたはこう問うているのでしょうか、“その静けさは維持できるのか、保持できるのか、続けられるのか”と―そういうことでしょうか?
Q 私は日常の仕事を続けられますか?
 日常の活動が沈黙から生じうるのか? あなた方はみな私がそのことに答えるのを待っています。私は託宣者であることの恐ろしさを感じます、なぜなら、私はたまたま壇上に座っているけれども、それは私にいかなる権威も与えないからです。質問はこうです、非常に静かでいる精神は日常生活の中で行為できるのか、ということです。もしあなたが日常生活を静けさから分離するなら、ユートピアから、理想から―それは沈黙です―その二つは決して出会うことはないでしょう。私はその二つを分断させたままにできますか、私はこう言えますか、これが世界です、私の日常生活です、そして、それは私の経験してきた沈黙です、私が手探りして感じてきた沈黙ですと。私はその沈黙を日常生活の何かとして解釈できますか? あなたはできません。しかし、もしその二つが分離していないなら―右手は正に左手です―そして、その二つの間にハーモニーが生じるなら、沈黙と日常生活の間にハーモニーが生じるなら、そうすると、何らかのまとまりが生じるとき、人は決してこう問いません、“私は沈黙から行動しうるのか”と。
Q あなたは熱気を帯びて気づくことを、熱気を帯びて見ることを、熱気を帯びて見て取ることを話しています。こう言えないのでしょうか、人が醸し出す熱気の度合いが、それを可能にする最初の要件であると。
 人は本質的に熱気を帯びると、そして、人の醸し出す、そのような深い、基礎的な熱気が存在すると―そう言うことでしょうか?
Q 人は熱気を帯びてそこに至ります、そのための熱気ではありません、しかし、それが最初の要件であるように思われます。
 それを我々はすでに手にしています。そうですか?
Q はい、そして、いいえ、です。
 宜しいでしょうか、なぜ我々はそれほど多くのことを憶測するのでしょうか? 人は、何も知らないで航海に出て検討することができませんか? 人自身の中へ航海に出るのです、何が良いのか悪いのか知りません、何が正しいのか誤りなのか知りません、“そうあるべきこと”や“そうせねばならないこと”を知りません、しかし、ただ、いかなる重荷も背負わずに、航海に出るのです。それが最も難しいことの一つです、いかなる重荷もやり過ごして、内面的な航海に出るのです。そして、あなたが航海に出ると、あなたは発見します―あなたは、最初に、こういってスタートしません、“それはこうでなければならない”、“そうあるべきである”と。見たところ、どうも、それが、行う上で、この上なく難しいことの一つです、私はなぜなのか知りません。宜しいでしょうか、誰も助けてくれません、話し手を含めて。信を置ける人はどこにもいません、そして、私はあなたが誰にも信を置かないことを願います。あなたに“現にあること”あるいは“あるべきこと”を語る、ある方向に歩むことを、別の方向ではないことを語る、幾つかの落とし穴に、あなたのために目印を付けておいたと注意する、いかなる権威も存在しません―あなたは単独で歩んでいます。あなたはそのようにできますか? あなたは言います、“私はそうできません、なぜなら、私は怖いからです”と。それなら、恐れに取り組んで、それを検討して、それを完全に理解して下さい。航海のことは忘れて下さい、権威のことは忘れて下さい―恐れと称されるあらゆるものを検討して下さい―恐れです、なぜなら、あなたには頼るべき人はいないのです、あなたにどうするのかを語る人はいないのです、恐れます、なぜなら、あなたは間違いを犯すかもしれないからです。間違いを犯すのです、そして、その間違いを観察すると、あなたは即座にそれから抜け出すでしょう。
 歩みながら発見して下さい。その中には、絵を描くよりも、書物をものにするよりも、ステージに登って見世物小屋の猿になるよりも、大いなる創造性が宿ります。より偉大な―もし私がその言葉を使うことができるなら―刺激が、より偉大な感覚の...が生じます。
Q 高揚感?
 おーっ、言葉を当てないで下さい。
Q もし日常生活が観察者を導入することなく行われるなら、そうすると、何もその沈黙を乱しません。
 それが全問題です。しかし、観察者はいつもまやかしを演じています、いつも影を投じています、従って、更なる問題を作り出しています。我々は問うています、あなたと私は内面的な旅に出ることができるのかどうかを、何一つ知ることなく、我々は歩みながら発見するのです、人の性的な嗜好、人の渇望、意図を発見するのです。それは途轍もない冒険であり、月へ行くよりも遥かに偉大なことです。
Q ここに問題があります、その人たちはその人たちがどこへ向かっているのか知っています、その人たちは、その人たちが月へ行くのを試みているとき、その方向を知っています。内面的には、いかなる方向もありません。
 その紳士は言います、月へ行くのは目的意識的な行為であり、我々はどこへ行くのか知っていると。ここでは、内面的に旅すると、我々はどこへ行くのか知りません。従って、安全性の欠如と恐れが生じます。もしあなたがあなたの向かっているところを知っているなら、あなたは決して不可知の何かに踏み込んで行かないでしょう、従って、あなたは決して永遠が何であるのかを発見する本当の人ではないでしょう。
Q 何らかの師の助けなしに、余すことのない、瞬時の気づきが生じうるのでしょうか?
 それが我々の話してきていることです。
Q 我々は他の問いを済ませていません、それは、我々が向かっているところを知っているので問題です、我々は快楽にしがみつきます、我々は不可知の何かを本当は欲しません。
 はい、私たちは快楽のエプロンのひもにしがみつきたがります。我々は我々の知っていることにしがみつきたがります。そして、それら全てを携えて、我々は旅立つのを願います。あなたは山に登ったことがありますか? あなたが荷物を背負うほど、それはより困難になります。それらの低い丘に登ることさえ、もしあなたが荷を背負っているなら、かなり困難になります。そして、もしあなたが山へ登るなら、あなたはより自由になる必要があります。私はその困難が何なのか本当に知りません。我々は我々の知るあらゆるものを携えていきたいと思います―侮辱や抵抗、愚かさ、喜び、高揚など、我々が経験してきたあらゆるものです。あなたがこう言うとき、“私はそれら全てを携えて行こうと思う”と、あなたはどこか他の場所へ旅立っていて、あなたが携えているその中ではありません。従って、あなたの旅は想像の中です、非現実の中です。しかし、あなたの携えているもの、既知の中へ―不可知の何かの中ではなく―旅立つのは、あなたのすでに知っているものの中です、つまり、あなたの快楽であり、あなたの喜びであり、あなたの絶望であり、あなたの悲しみです。その旅は、あなたの手にしている全てです。あなたはこう言います、“私はそれら全てを携えて不可知の中へ旅立ちたいと思います、そして、不可知の何かをそれに加えたいと思います、他の喜びを、他の快楽を付け加えたいと思います”と。あるいは、それはとても危険なことかもしれないので、あなたはこう言います、“私はそうしたくない”と。
                  ―1969年 8月8日 ザーネン
                  ―THE FLIGHT OF THE EAGLE