アウトサイダー―時間的蛸壺の外へ

華厳の滝

       『叡智の目覚め』

クリシュナムルティ これが最後のトークです。水曜の朝、十時三十分にデスカッションがあります、そうですね?
 宜しいですか、我々は世界の様々な矛盾について話してきました、我々の内面の矛盾について話してきました―難民たち、その人たちに対するひどい扱い、戦争の恐怖、貧困、国家間の分断、人々の宗教的な分断、経済的社会的不正です。それは単なる言葉の表明ではなく世界中で実際に起こっている事実です―暴力、ひどい混乱、憎悪そしてあらゆる形の腐敗です。そして我々自身の中に同じ現象が起こっています。我々は我々自身の中で争っています、我々は不幸です、不満足です、我々は何か分からないものを探していますが、我々は暴力的に何かを求めています、我々は攻撃的です、我々は腐敗していて驚くほど惨めです、我々は孤独でひどく苦しんでいます。そしてどういうわけか我々はそれらから抜け出せないように思われます、それらの条件づけから自由になれないように思われます。我々は様々な形の行動療法を試みてきました、宗教的な賞罰とその試み、僧院生活、犠牲的生、何らかの拒絶や抑圧、そして盲目的な何らかの探究、書物や宗教的なグルの渉猟、政治改革、革命などです。我々はたくさんのことを試みてきました、それでもどういうわけか我々は自分自身をこれらのひどい混乱から解放できないようです、内面的にも外面的にも。そして我々は我々自身の悲惨から抜け出る方法を、その万能薬やそのための何らかのシステムを提示する今どきのグルに追随します、そしてそれもまた我々のいかなる問題も解決しないように思われます。そして私は思います、この場にいる普通の人はこう問うと、すなわち、私は私がそれら全てであると思います、私は文明の罠に囚われています、惨めです、私の生は相当に矮小であり悲しみに満ちています、私はこれやあれを試みてきましたが、どういうわけか私はこれら全ての途方もない混乱の中に今なおいます、私は何をすればよいのでしょうか、どのようにして私はこれら全ての混乱から抜け出すのでしょうかと。
 我々は話してきました、様々なことをこれら七つのトークで取り上げてきました、あるいはそれらが何であろうと―秩序、恐れ、痛み、愛や死、悲しみなど―そして最後の日に、それらのミーティングの終わりにあたって、ほとんどの我々にとり我々は我々が始めたところにいます、恐らく多少良くなり、多少表面的に変化していますが、我々の存在の根のところでは我々の全構造や性質は大なり小なり元のままです。それではそれら全てがどのようにして実際に衝撃を受けて破壊され、我々がここを去って少なくとも一日あるいは一時間、何か全く新しいことが起きるのでしょうか、本当に意義のある生が生まれるのでしょうか、何らかの意味と深さや広がりのある生が生まれるのでしょうか。
 私は、今朝、もし宜しければ、とても素敵な朝ですが、私は知りません、あなたがそれらの丘々や山々、川や長く伸びた朝の影、青空に生える松の樹々、そして光や影に満ちたそれら途方もない丘々に気づいているのかどうかを。このような朝、テントの中に座って、様々なことを話すことは些か馬鹿げているように思われます、我々の周りのあらゆるものが歓喜の中にあって、天に向かって大地の美と人の無残さを叫んでいます。しかし我々が、幸か不幸かここにいる限り、私は今朝あらゆる問題を異なる見方で取り組もうと思います。あなたはただそれに耳を傾けるのです、その言葉の意味だけではなく、その表現だけではなく、耳を傾けるのです、なぜなら表現というのは、先日我々が言ったように、決してそれが表現しようとしているその当のものではないからです。あなたはそれらの丘々や樹々や河川や影を言葉で表現するかもしれませんが、もしあなたがそれらを自分自身で見ないなら、あなたの心やあなたの精神で見ないなら、その表現は非常に意味のないものになります。それはちょうど空腹の人に美味しそうな食べ物を言葉で表現するようなものです、その人には食べ物が与えられなければなりません、正に言葉ではないのです、言葉で表現された香りではないのです。
 私はこれら全てをどのように違う言葉で言うのか知りません。私は試みたいと思います。私はそれがどこへ向かうのか全く分かりません、私は何の準備もしてきていません、論理的に考え抜いて、ここへ来て、そしてそれを言おうとしているのではありません、しかし私は検討したいと思います―もしあなたが私と共にそうするなら―これら全て違う見方で、全く異なる次元から検討したいと思います。通常の次元ではありません―私とあなたや我々と彼ら、私の問題と彼らの問題、これをどのように終わらせるのか、それをどのように手にするのか、どのようにもっと美しくなるのか、聡明になるのか、愛らしくなるのか、高尚になるのかなどではなく、そうではなくて我々がこれら全て現象を全く異なる次元から観察できるのかどうか一緒に見ていくのです。そして恐らく我々の幾人かはそのような次元に慣れていません、我々は実際に異なる次元があるのかどうか知りません。我々はそれについて思惟を巡らすかもしれません、我々は想像を巡らすかもしれません、しかし思索や想像は事実ではありません。そのように我々がひたすら事実を扱っていて何らかの思索や信念や思想を扱っていないとき、私は思います、話し手の言おうとしていることに耳を傾けるだけではなく、それらの言葉や説明を超えて行こうとすることには何らかの価値があると。それが意味するのは、あなたも十分に気をつけていて、興味を持ち、我々が恐らく全く触れたことのない次元の意味に十分に気づかなければならないということです、そしてそれは私が今朝そのような次元を私の目だけではなく客観的な叡智や美や興味の眼で見ることができるのかどうかということです。

......首無しの赤い鳥居の丹田とは何でしょうか?......

 私はあなたがこれまで空間について考えたことがあるのかどうか知りません。空間があるところに沈黙が生じます。思考の産物の空間ではなく境界の全くない空間です、計ることのできない空間です、それは人が企てて作り出す空間ではありません、それは本当に想像を超えた空間です。なぜなら人が空間を抱くと、それは本当の空間のことです、その広がりや深みや計り知れなく広がる感覚が生じます、それは人の意識のそれではありません、それでは、それは中心から計ってそれ自身を広げているのにすぎない思考の別の形です―しかし、その空間は思考では知覚できない感覚です。宜しいでしょうか、そのような空間のあるところには完全な沈黙が生じます。そして、人口の密集する都市に、その騒音や矛盾する説教師たちやグルたちや爆発する人口に、ますます物理的な制限が課せられます、ますます空間がなくなります。私は知りません、あなたがこの谷の中に新しい建物が林立していて、さらに多くの人々、ますます多くの車、汚染、すべての恐怖が、人口の密集する都市のように、進行しているのに気づいているかどうかを。

...蛸壺の“牢獄”(クリシュナムルティ)とは何でしょうか?...

 そのように外面的にますます空間がなくなります。混雑する都市を歩くとあなたはこのことに気づくでしょう、とりわけ東洋がそうです。どこへ行っても、あなたは多くの人たちが歩道で寝ているのを見るでしょう、人口の密集です、歩道で生活しています。そして、大都市では、ニューヨーク、ロンドンなど、パリでは、ほとんど空間がありません、家屋が小さくて、人々はまるで引き出しのようなところに閉じ込められて窮屈しています。そして、空間がないところには暴力が生じます―経済的に社会的に空間がありません、あるいは、我々の精神の中に空間がありません、従って、空間を持たない我々には、このような暴力に関して何らかの責任があります。そして、我々自身の精神の中の我々が作り出す空間は分断です、それは我々自身の周りに築く壁です。どうかそれをあなた自身の中に観察して下さい、話し手がそのことを語るからではなく、それを正に観察して下さい。我々の空間は分断と引きこもりの空間です、我々はもうこれ以上傷つきたくないのです。我々は我々が若いとき傷ついています、そして、その傷が癒えないので、我々は引きこもります、我々は抵抗します、我々は我々自身の周りに、我々が好むと思う人や愛すると思う人の周りに壁を築きます、そして、それは非常に限られた空間です。それは壁越しに他の人の庭を覗くようなものです、あるいは、他の人の精神を覗くようなものです、しかし、依然として壁がそこにあります。そして、その壁の中は非常に狭い空間です。そのような空間の中で、狭い、狭い、見掛け倒しの空間の中で、そこから我々は行動します、我々は考えます、我々は愛します、我々は機能します。そして、そのような中心から、我々は世界を改革しようと試みます、これやあれやの党に加わります。あるいは、そのような狭い小さな穴倉から、それは確かに狭い空間です、我々は我々に悟りの最新の方法を教えようとする新しいグルを見つけようと試みます。そして、知識や噂や意見やお喋りが詰まっている我々の精神の中には、空間はほとんどありません。
 私はあなたがこのような途方もない現象に気づいているのかどうか知りません、我々が生きて観察すればするほど、気づけば気づくほど、単にお金を稼いで銀行口座に書き込むだけではなく、お分かりでしょうか、セックスやあれやこれやだけではなく、それは生の一部ですが、もし人が観察してきているなら、人の周りや自分自身の中のことに気づいているなら、人は気づいているに違いありません、人の抱く空間は何と狭いのかと。我々自身の中は何と込み合っているのでしょう。どうかあなた自身の中を見て下さい。そして、人は、そのような狭い空間の中に、抵抗の、観念の、攻撃的な途方もない厚い壁を築いて孤立したままで、どのようにして本当に計り知れない空間を手にするのでしょうか? 先日、我々が言ったように、思考は計られうるものです、思考は計ることです。そして、どのような形の自己進化も計られうるものです、そして、明らかに自己進化は孤立の最も硬化した形です。そして、人は分かります、思考は、完全で全くの沈黙が生まれる途方もない空間を生み出すことができないと。お分かりでしょうか。思考はそれを生み出せません。思考はそれが思い描く目的に沿って進化し発展しうるだけであり、それは計られうるものです。そして、そのような空間、思考が作り出す、想像上あるいは何らかの必要性に促されて作り出すそのような空間は、思考に由来しない空間の次元に決して入れません、入っていけません。私の質問がお分かりでしょうか。思考は何世紀にもわたって、非常に、非常に、限られた、狭い、孤立した空間を築いてきました、そして、この正に孤立や狭さのせいで、それは分断を作り出します、そして、分断のあるところには、国家間の、宗教上の、政治的な、あらゆる形の関係性に関する争いが生じます。それらの争いは計られうるものです―小さな争いや大きな争いなどとして。
 私の質問はこうです、思考はどのようにして他の何かへ入っていけるのか、ということです。それとも他の何かはなくて...思考はそこへ入って行けないのか―お分かりでしょうか。私は思考の結果です、私の全ての活動は思考に基づいています―論理的であれ、非論理的であれ、神経症的であれ、あるいは高度な教育を受けていようと、洗練されていようと、理性的であろう、科学的であろうと、技術的であろうと。私はそれら全ての結果です。そして、それは抵抗の壁の中にその空間を手にします。それでは、精神はどのようにしてそれら全てを変えて全く異なる次元である何かを発見するのでしょうか? 私の質問がお分かりでしょうか。我々は一緒に検討していますか? 我々二人はそれを分かち合っていますか? 完全な沈黙の中にある自由、従って、その壮大な空間、そして、思考が作り上げた抵抗の壁、その狭い矮小な空間―我々二人はそれらを分かち合って一緒に検討していますか? どうでしょうか? このことが人間にとって問題となってきました、宗教的に。人が非常に深く検討するとき、このことが問題になります。私は私の矮小な自己にしがみついて、私の矮小な空間にしがみついて、私が収集してきた様々なものにしがみついて―知識、経験、希望、快楽―私は我々二人が活動しうる異なる次元へ入っていけますか? 私は神の右手に座りたいと思いながら神から自由になりたいと思うのです。私は大いに喜びや快楽や美しい生を送りたいと思いながら、それでも、私は思考の触れることのできない計り知れない喜悦を手にしたいと思うのです。お分かりでしょうか。私は快楽や喜びを欲します。私は快楽の働きを知っています、快楽の欲求や追求が、あらゆる恐れや労苦、悲しみ、苦悶、不安などを伴うことを知っています。そして、また、私は、招き寄せることのできない、思考の手にすることのできない喜悦も知っています―もし思考がそれを手にすると、それは快楽となり旧知のお決まりのことが始まります。そのように、私は両方を手にしたいと思います―俗世間とそうでない何かです。
 このことはほとんどの我々に言える問題だと私は思います―違うでしょうか? この世界で心躍るときを過ごしたい―それはいけないことでしょうか?―そして、あらゆる苦痛、悲しみを避けたいと思います、なぜなら、私は触れることのできない、腐敗とは無縁の大いなる喜びが生まれる他の瞬間も知っているからです、私は両方手にしたいのです。それが我々の追い求めていることです。我々のあらゆる重荷を背負いながら、それでも自由を追い求めるのです。私にそれが可能ですか? 私の意志を駆り立てることによって、それは可能ですか―先日、意志について我々の言ったことが分かりますか? 意志は“ある通りのこと”とは何の関係もありません、意志は実際のこととは、“ある通りのこと”とは何の関係もありません、意志は“私”としての欲望の表現です、そして、我々は何となく意志の働きによって他の何かに出会えると考えます。そうして、我々は自分自身に言います、“私は思考をコントロールしなければならない、私は思考に規律を課さなければならない”と。“私”が“私はコントロールしなければならない、私は思考に規律を課さなければならない”と言うとき、それは依然として思考がそれ自身を“私”とそれとは分離した何かとしての思考とに分けているだけです、しかし、それは依然として思考です、“私”と“私ではない何か”とに分離した思考です。そして、思考は、人はこう悟ります、計りうるものであり、ノイズであり、お喋りであり、至る所に顔を出して、独楽鼠の空間を作り出してきたと、それは、それ自身の尻尾を追いかける猿であると。そこで、人は言います、どのようにして思考は鎮まるのかと。なぜなら、思考が技術的な世界を作り上げてきたからです、途方もなく混乱した世界を、戦争の世界を、国家間の分断を、宗教的分断を作り上げてきたからです、思考は悲惨や混乱や悲しみをもたらしてきました、思考は時間です。そのように、時間は悲しみです。そして、人はこれらのことが分かります―もし、人が、非常に、非常に、非常に深く検討するなら、誰かの教えに従うのではなく、ただ単に、このことを世界や自分自身の中で観察するなら。

 ....死んでやり過ごす守宮の尻尾とは何でしょうか?....

 そうするとこの問いが生じます、思考は完全に鎮まりうるのかと、必要なときにだけ機能するだけなのかと。お分かりでしょうか。必要なときにそれは知識や技術を使うことになって、仕事に出向いたり、会話などをしたりして、それ以外のときは完全に鎮まるのです。なぜなら、そのような空間や沈黙が多くあればあるほど、それは論理的に、健全に、健康的に知識を駆使して機能できるからです。そうでないと知識はそれ自身を目的として甚だしい混乱を招くのです。あなたはこれらのことがお分かりでしょうか。私に同意するのではなく、それを自分自身で見て取って下さい。
 そうすると問題はこうです、思考、それは記憶や知識や経験や時間の反応です、そして、思考は意識の内容です、そして、思考は知識と共に機能しなければならないと知っています、そして、それは空間と沈黙があるときにのみ、そして、そこから機能するときにのみ、高度な叡智と共に機能しうるだけであると。明確になっているでしょうか? どうですか? どうでしょうか? 言って下さい。私を励ましてくれませんか?(笑) いえいえ、私はあなたに励ませてもらいたくありません、ごめんなさい!(笑)
 そのように、それは私の問題です。つまり、壮大な空間と沈黙がなければなりません、なぜなら、そのような空間と沈黙があるとき、美が閃くからです、愛がそうすると生まれるからです。人の手になる美ではありません、建築、つづれ織り、磁器、絵画、詩、建築家の建築美など、そうではなく、壮大な空間と沈黙がもたらす美の感覚です。それでも思考は働かねばなりません、機能しなければなりません。そこにはいられないので、ここに降りてこなければなりません。そのように、それが私の問題です―私の問題では本当はありません、なぜなら―お分かりでしょうか。私がそれを問題にすることで、我々はそのことを一緒に検討できます、あなたと私がこのように検討することで、全く新しい何かを発見するのです。それが我々の行っていることです。思考は沈黙することができますか? そして、思考は、知識の領域で、全く、完全に、客観的に、健全に、健康的に、理性的に機能しなければなりませんが、そのような思考は、それ自身を消滅させることができますか? つまり、思考は、過去であり、記憶であり、数多くの昨日である思考は、それら全てが全く消滅することはありえますか、それら全ての条件づけが消滅して、沈黙が生じることが、空間が生じることが、途方もない次元の感覚が生じることがありますか?
 そこで私は自分に問います、そして、あなたはそれを私と共に問います、どのようにして思考は消滅するのか、そして、その正に消滅する中で、それが歪んで何らかの想像的な状態へ向かったり、ひどく偏った、神経症的でうつろな状態になったりしないようにするにはどうすればよいのか問います。思考は大いなる活力やエネルギーと共に論理的に健全に機能しなければなりません。そこで私は問います、そのような思考が、一方でそのように機能しなければならない思考が、他方で完全に働きを止めるにはどうすればよいのかを問います。お分かりでしょうか。私の質問がお分かりでしょうか。あなたは私の質問がお分かりでしょうか。宜しいでしょうか。このことは、真剣で宗教的なあらゆる人の問題となってきました―何らかの宗派に属する人ではありません、キリスト教徒であろうと、ヒンズー教徒であろうと、仏教徒であろうと何であれ、それらは組織的信仰やプロパガンダに基づいています、従って、“宗教”という言葉で表記されざるをえない本当の何かでは全くありません―このことが問題となってきました。人が非常に、非常に、非常に深く探究すると、その二つは一緒に機能することがありえますか? お分かりでしょうか。その二つは一緒に働くことができますか、一体化するのではありません、連結するのではありません、一緒に働くのです。そして、それらは、もし思考がそれ自身を観察者と観察されるものとして分離しないなら、一緒に働くことができるだけです。分かりますか? お分かりですか? 私は先へ進みたいと思います!
 宜しいでしょうか、生は関係性の中の活動です、絶えず活動しています、変化しています、そして、その活動はそれ自身を維持できます、思考者とその思考の間で分断が生じないとき自由に活動できます。つまり、思考がそれ自身を“私”と“私でないもの”に分断しないとき、思考がそれ自身を観察者や経験者と観察されるものや経験されるものに分断しないときです。なぜなら、そこでは分断が生じて争いが起こるからです。思考がそのことの真理を見て取ると、それは経験を追い求めなくなります、そうすると、それは正に“経験している”活動となります。このことがお分かりでしょうか。あなたは、今、それを行っていますか? 宜しいでしょうか、私は言いました、今、正に、思考はあらゆる知識と共に、いつもそれらを収集蓄積していて、生きている何かです、死んでいる何かではありません、従って、壮大な空間が思考と一緒に活動することができます。そして、思考がそれ自身を思考者や経験者として分離するとき、経験者や観察者や思考者が過去の何かになり、分断が生じて、争いが起こります、そして、停滞している過去は―違いますか?―従って活動できません。お分かりでしょうか。私は独り言を言っているのですか、それとも我々はこのことを分かち合っていますか?
 私は、このような探究の中で、精神は、思考の中に分断が生じると活動が不可能になると見て取ると思います。何らかの活動です。分断が生じると過去が這い入ってきて、その過去が停滞して中心になります、不活動な中心になります。不活動な中心は修正されたり、追加されたりしますが、それは不活動の状態であって、そこには自由な活動は存在しません。
 そこで、私の問いはこうです、私自身に対してもあなたに対しても、思考はこのことを見て取りますか、それとも気づくのは思考とは全く異なる何かですか? あなたは...私は人々と分かち合うことができません! 宜しいでしょうか、人は世界の中の分断を目にします、国家間の、宗教上の、経済的な、社会的などそれら全ての分断を、階級間の分断を、そして、そのような分断の中に争いが生じるのを目にします。それは明白です。そして―ただこのことに耳を傾けて下さい、私は分かりました―私自身の中に分断が生じると、断片化が生じると争いが起こるに違いないと。私自身の中で、私が、観察者と観察されるもの、思考者と思考、経験者と経験として分断されるとき、そのような正に分断は思考によって作り出されます、そして、思考は過去の産物です。今、私はこのことの真理が分かります。私の問いはこうです、思考がこのことを見て取るのか、それとも、他の何かがこのことを見て取るのか、ということです。このことがお分かりですか? 我々は理解していますか? そして、私は私がこのことを、この真理を見て取ると言うのか、思考がその真理を見て取るのか、それとも、他の何かがその真理を見て取るのでしょうか? それとも、新しい何かは叡智であり、思考ではないのでしょうか?
 後にして下さい、どうかお願いします、私はまだ話し終えていません。
 宜しいでしょうか、思考と叡智との関係とは何でしょうか? 私の質問がお分かりでしょうか。私はこのことにとても個人的に関心があります、あなたが一緒に歩めるのかどうかです。私は本当に...このことを検討するのは途方もないことです。思考はこのような分断を作り出してきました、過去、現在、未来です。思考は時間です。そして、思考はそれ自身に言います、私はこのような分断を内にも外にも見て取りますと。そして、私はこのような分断が争いの要因であると分かります。そして、それはそれを超えていくことができません。従って、それは言います、要点は何かと、私は私が始めたところにいます、私は依然として争っています、なぜなら、思考は言います、私は分断や争いの真理が分かりますと。宜しいでしょうか、思考はそのことを見て取りますか、それとも、叡智の新しい要素がそのことを見て取るのでしょうか? 宜しいでしょうか? それでは、もしそのことを見て取るのが叡智であるなら、思考と叡智との関係性とは何でしょうか? 叡智は個人的なものでしょうか? 叡智は書物の知識や論理や生活や経験の産物でしょうか? それとも、叡智は思考の作り出した分断から自由であって、論理的にそのことを見て取り、それを乗り越えることができないでいて、それと共にあって、それと争うことをせずに、それを乗り越えようとしないことから生まれるのでしょうか? 違うでしょうか? 私は明確に話しているでしょうか?
 宜しいですか、我々は叡智とは何かと問うています。叡智は育まられるものですか、叡智は生まれつきのものですか? そして、思考は争いや分断などその他の全ての真理を見て取るのですか、それとも、それは精神の質ですか―分かりました、それは精神の質です―それは事実を見て取って、事実に向き合い完全に鎮まるのですか、事実に向き合い完全に沈黙するのですか、それを乗り越えて行こうとしないのですか、それを乗り越えようとしないのですか、それを変えようとしないのですか、しかし、事実に向き合って完全に鎮まるのですか? そのように鎮まることが叡智です。お分かりですか? そのように叡智は思考ではありません。叡智はそのような沈黙です、従って、全く個人的な何かではありません。それは、いかなる集団にも、いかなる個人にも、いかなる人種にも、いかなる文化にも属しません。
 そのように、私は発見しました、精神は発見しました、沈黙するところに、思考や規律、何らかの実践など、それら全てのひどい恐怖によって作り上げられるのではなく、見て取ることによって、思考は恐らくそれ自身を超えていくことができないと見て取ることによって、なぜなら、思考は過去の産物だからです、そして、過去が機能していると、それは分断を作り出すに違いなく、従って、争いや悲しみなど、その他の全てを作り出すに違いないからです、そのように見て取ることによって、それはそれらと向き合って完全に鎮まっていると。宜しいですか、それは悲しみと向き合って完全に鎮まっているようなものです。宜しいですか、あなたが愛する人、あるいは、あなたが気づかう人、あなたが世話をしてきた人、大切にしてきた人、愛してきた人、気にかけてきた人、その人が亡くなると、孤独や絶望に襲われます、孤立感やあらゆることがあなたに降りかかります、そのような悲しみの中で、それと向き合うことです、説明や理由、なぜその人は亡くなるのか、なぜ私ではないのかを探りません、それと向き合って完全に鎮まるのです。それと向き合って完全に鎮まるのが叡智です。そうすると、そのような叡智は思考の中で働きます、知識を使って働きます、そうすると、そのような知識や思考は分断を作り出さないでしょう。私は分かりました。あなたは分かりますか?
 そうすると、そこから、この問いが生じます、精神はどのようにして、あなたの精神です、ひっきりなしにお喋りをしているそれです―このことに耳を傾けて下さい、どうかそのことに耳を傾けて下さい―それは癒しがたいブルジョア的な何かです、罠に嵌っています、もがいています、何かしらを追い求めています、何らかの師匠やグルを追い求めています、何らかの規律を課しています、そのような精神が、どのようにして完全に鎮まるのでしょうか?
 宜しいですか、ハーモニーとは鎮まることです―ハーモニーです、不調和ではありません―身体と心と精神のハーモニーです。完全な調和です。それが意味するのは、身体が、あなたの身体が精神による何らかの負荷を受けてはならないことです、精神によって何らかの規律を課せられてはならないことです、それが何らかの食べ物を好むとき、煙草や何らかの薬物―お分かりですか?―それら全ての刺激を好むとき、精神によってコントロールされることです、そうすると、それは何らかの負荷です。一方、身体が鋭敏で、生き生きとしていて、それ自身の叡智が働くとき、それは汚されていません。人はそのような身体を持たなければなりません―とても生き生きとしていて、鋭敏で、活動的で、何らかの薬物に汚されていない身体です。そして、また、人は何らかの心も持たなければなりません―お分かりですか?―興奮しない、感傷的ではない、感情的にならない、熱中するのではなく充溢する感覚です―宜しいですか―何らかの深みや質や活力です。それは愛の生まれるときにのみありえます。そして、それは際限のない空間を持つ精神です。そうするとハーモニーが生じます。

......首無しの赤い鳥居の丹田とは何でしょうか?......

 それでは、精神は―このことに耳を傾けて下さい―どのようにしてこのことに触れるのでしょうか? あなた方はみなこのことを問うているに違いありません、恐らく、そこに座っていないとき、家にいるとき、道を歩いているとき、何かを見ているとき...どのようにして人はこのような完全に統合する感覚、いかなる歪みや分断や断片化の感覚とも無縁な全体的な感覚―身体と心と精神―を手にできるのかと。あなたはどのようにしてそれを手にすることができると思いますか? 宜しいですか、あなたはこの事実を見て取ります、違いますか? あなたはその真理を見て取ります、あなたは自分自身の中で完全なハーモニーを手にしなければならないと、精神と心と身体です。それは奇麗な窓ガラスを手にするようなものです、汚点がなく、傷とは無縁で、汚れていません、そうすると、あなたはその窓ガラス越しにあらゆるものを何の歪みもなく見ることができます。それでは、あなたはどのようにしてそれを手にできるのでしょうか?
 宜しいですか、誰がこの真理を見て取るのですか? お分かりですか? 誰がこの真理、このようなハーモニーが、完全なハーモニーがなければならないことを見て取るのですか? 我々が言ったように、ハーモニーがあるところには沈黙が生じます。その三つの一つが歪むと問題が生じます、ノイズが生じます。しかし、精神と心と有機組織が完全なハーモニーを奏でるとき沈黙が生じます。それでは、誰がこの事実を見て取るのですか? 私の質問がお分かりでしょうか? あなたは、それを何らかの観念や理論やあなたが何かをすべきこととして見て取るのですか? もしあなたがそうするなら、それは全て思考の活動です。そうすると、あなたは言うでしょう、“私にそのシステムを教えて下さい、その真理を手に入れるためには、どのようなシステムを私は手にすればいいのか教えて下さい、私はそれを実践します、私はその通りに何かを否定します、私はその通りに規律を課します、私はその通りに自分を茶色に染めます”と。それら全てが思考の活動です。しかし、あなたがこの真理を見て取るとき―真理です、“すべき”何かではありません―あなたがそれは事実であると見て取るとき、それはそういうことであると見て取るとき、そのように見て取るのが叡智です。従って、叡智こそがそのように働いて、このような状態を生むのです。おわかりですか? 思考ではありません。私はこれ以上何も言えません。
 そのように思考は時間を出自とします。叡智は時間を出自としません。そのように、叡智は計り知れません―科学的な叡智ではありません、技術者の叡智ではありません、主婦の叡智ではありません、途方もなく何かを知っている人の叡智ではありません。それらは全て思考と知識の領域の中です。そして、精神が完全に鎮まっているときにだけ―それは鎮まりうるのです、あなたはそれを実践する必要はないのです、それは完全に鎮まりうるのです―そして、そのとき、ハーモニーが生じます、壮大な空間と沈黙です。そのときにのみ計り知れない何かが生じるのです。
質問者) (聞こえず)
クリシュナムルティ) 紳士は言います、彼は話し手に五十年耳を傾けてきました、そして、それは、今、それまでよりもずっとリアルです、それはずっと事実です、彼の生の中で今までよりもずっとリアルです。そして、彼は他の人々から確証を得たいのです―五十年耳を傾けてきた他の人々が同じように感じるのかどうか。どうかそれに応じないで下さい。これは告白ではありません。
 あらゆる瞬間死ぬことです。
 あらゆる瞬間死ぬことです。はい。一瞬々々死ぬのです。私はそのように言ってきました、そして、彼は言います、それが今まで以上にリアルであると。はい。 あなたは話し手に五十年耳を傾けなければなりませんか? そして、五十年後にあなたはそれを手にするのでしょうか、あなたはそのことが分かりますか? それは時間を要しますか? それとも、あなたが何かの美を即座に見て取るので、それが美なのですか? 宜しいですか、なぜ人々は、誰であれ、あなたや他の人々は、なぜあなたはこれらのことで時間を要するのですか? 私の質問が分かりますか? なぜあなたは非常にシンプルなことを理解するのに何年も費やさなければならないのですか? そして、それはとてもシンプルなことです、私は保証します。それを説明すると非常に複雑になるだけです。しかし、事実は途方もなくシンプルです。なぜ、人は、その単純さや真理やその美を即座に見て取って、生の全体が変わらないのですか? なぜですか? それは我々がひどく条件づけられているからですか? そして、もしあなたがひどく条件づけられているのなら、なぜあなたはそのような条件づけを即座に見て取れないのでしょうか、それとも、あなたは、その条件づけを、玉葱の皮をはぐように、一つ一つ取り除かなければならないのでしょうか?
 それは人が怠惰で、無精で、無関心で、自分自身の問題に囚われているからでしょうか? もしあなたが自分自身の問題に囚われているなら、一つの問題に囚われているなら、その問題は残りのあらゆる問題から分離していません、それらは全て関連しています、もしあなたが一つの問題を取り上げて、その行き着くところまで行くなら―それがセックスのことであれ、関係性のことであれ、孤独のことであれ、それが何であれ―その行き着くところまで行くのです。はい、宜しいでしょうか。そして、あなたはそれができないので、あなたは哀れな誰かに五十年耳を傾けなければならないのです。あなたが意味するのは、そのような山々を目にするのに五十年を要するということです。
 あなたは私の提出したその質問に答えられますか?
 いいえ、ただ質問して下さい。何と! 長文の質問です。簡潔に言ってもらえますか?
 イマジネーションの働きのことです。
 はい。質問者は言います、私はハタヨーガを実践している多くの人たちが、ただ自己を偽っているだけなのを知っています、その人たちは明らかにイマジネーションの世界を生きています。あなたはヨーガについて何か知っていますか? あなたは私にそれについて話して欲しいのですか? そうですか? 困ったことだ!(笑)
 私は言われました、ハタヨーガとそのあらゆる複雑さは―私は簡単に見ていこうと思います―およそ三千年前に発明されたと―私はそう言われました、私はそれを読んでいません―私はその全部を非常に注意深く研究した人から言われました。その当時の国の支配者たちは、彼らの頭脳や思考を非常に明瞭にしておく必要がありました。そこで、彼らはヒマラヤ山脈に生育するある種の植物の葉をかみました―それを探さないで下さい、それは絶滅しました!(笑)そして、その植物が絶滅すると、彼らは人間の組織の中の様々な細胞を健康的に精力的に維持できるメソッドを発明しなければなりませんでした。そして、彼らはヨーガを発明して、身体を非常に健康にしておくために実践しました―若くするのではありません、そのような愚行に翻弄されてはいけません。身体を生き生きと健康に保って、精神が非常に活動的で明瞭になるようにするのです。そして、ある種の運動や座法などを行って細胞を、ある種の細胞を、ある種の運動を行って、非常に健康に活動的に保つのです。
 そして、彼らは正しい呼気と吸気の呼吸が役に立つのを見つけたのです、悟りに至るためではありません、そうではなく、精神や脳細胞に十分な空気を供給して、それらが働くようにするためです。そうすると、それを悪用するものが現れて言います、もしあなたがそれら全てを実践するなら、あなたは手にするでしょう―分かりますね―あなたは沈黙する静寂な精神を手にするでしょうと。それらの沈黙は思考の沈黙です、それは腐敗であり、従って、死です。そして、彼らは言いました、そのように実践すると、あなたは様々な身体の中枢部に、クンダリーニやそれら全てのものに目覚めて、あなたは驚くべき悟りを体験するでしょうと。そして、もちろん、宜しいでしょうか、我々の精神は、とても熱意に溢れて、貪欲で、より多くの経験を欲します、他の人よりもより良くいたいと願い、よりよく見えるように、よりよい身体になるように、これやあれがよりよくなりたいと願い、そのような罠に陥ります。しかし、人はこの種のヨーガ―ハタヨーガ―の中に様々なエクササイズがあるのが分かります、話し手は一日に二時間行います。真似をしないで下さい、あなたはそれについて何も知りません。
 宜しいでしょうか、人が何かをイメージすると、それは思考の全機能ですが、あなたが何を行おうと、精神は決して鎮まりません、大いなる内面の美や充溢感を伴う穏やかな何かになりえません。宜しいでしょうか。
 この調和されていて、統合された状態の中で、精神が厳密に技術的な仕方で機能するとき、観察者と観察されるものとの分離が起こるのでしょうか? ハーモニーが存在していて、精神が技術的な領域で機能しなければならないとき―そうすると分離が生じるのでしょうか?
 はい、分かります。質問は分かります。質問者は問います、このハーモニーの感覚が生じているとき、そして、そのとき思考が機能しているとき、思考者と思考との分断は生じるのでしょうかと。あなたはどう思いますか? 質問がお分かりですか? 完全なハーモニーが生じているとき、想像上のハーモニーなどその他の全てではありません、本当のハーモニーです、身体と心と精神の完全なハーモニーであり、統合されたそれであり、断片的ではありません、誰もそれを統合できません―宜しいですか、統合という言葉はかなり難しい言葉です―そのようにハーモニーである叡智の感覚が生じるとき、そのような叡智は思考を駆使しますが、そのとき観察者と観察されるもの、その分断が生じるのでしょうか? 明らかに生じません。違いますか? ハーモニーが存在しないときに断片化が生じます。不調和が生じるとき、思考が“私”と“私ではないもの”の分断を作り出します、観察者と観察されるものです。このことはとてもシンプルです。違いますか? 終了する時間ですか?
 あなたは二回目のトークで人は日中の時間だけではなく睡眠中も気づいているべきであると言いました。
 知っています、はい、知っています。あなたはそのことを私に検討させたいのですか? 今十二時十分前です。これが最後の質問です。
 質問者は言います、あなたの二回目のトークで―彼は覚えています、私は覚えていません―あなたの二回目のトークであなたは言いました、あなたが寝ているときにも気づきが生じます、あなたが覚めているときに気づくだけではなくと。あなたはそれ以上検討しませんでした、あなたはもっと検討したいのですか? そういうことでしょうか? 質問がお分かりですか? つまり、日中、人は表面的に、あるいは、深く気づいています、気づくのです、内面で起こっているあらゆることに気づきます、思考の全ての活動、分断、争い、惨めさ、孤独、人は快楽を追い求めている自己に気づきます、野望の追求や欲望や不安に気づきます、あなたはそれら全てを知っています―気づいています。あなたがそのように日中気づいているとき、そのような気づきは夜中の睡眠中にも夢の形で続きますか? そういうことでしょうか? あるいは、夢は生じなくて、ただ気づくだけです。違いますか?
 宜しいでしょうか、私は日中―どうかこのことに耳を傾けて下さい―私は、あなたは、日中の思考のあらゆる活動に気づいていますか? あなたは気づいていません、違いますか? どうか正直に、どうかシンプルに思い起こして下さい。我々はそうしていません。我々はところどころ気づいています。私は二分間気づいています、そして、大きな空白が生じます、そして、再び数分後にそうします、あるいは、半時間後にそうします、私は言います、“何と、私は自分を見失っていました”と、そして、再び我に返ります。我々の気づきの中には間隙があります。我々は決して継続して気づいていません、そして、我々は考えます、我々は継続して気づく必要がある、年がら年中気づいている必要があると。
 宜しいでしょうか、最初に、気づきの中には大いなる空白があります―違いますか? 気づいていて、そして、気づかなくなることが日中生じます。どちらが重要ですか? 宜しいでしょうか、どちらが重要ですか―数分気づいていて気づかなくなる、そして、再び気づきます、気づきの継続です。どちらが重要ですか―継続的に気づいていることと短時間気づいていることです。そして、あなたは、あなたが気づいていない長い時間、どのようにそれと向き合いますか? それら三つの中で何が重要ですか? 何が重要であるとあなたは考えますか? 私は私にとって何が重要なのか分かります。私は、短時間気づいているとか、継続して気づいていたいとかに関心がありません。私はただ私が気づいていないときに関心があるだけです。お分かりでしょうか? それが私の問いかけです。お分かりですか? 私が気をつけていないとき、私は言います、私は、今、非常に興味津々ですと。私が気づいているときではありません、そうではなく、なぜ私は気をつけていないのか、私はそのように気をつけていないことに、気づいていないことにどう向き合えばよいのか、ということです。それが私の問いかけです。継続的に気づいていることではありません―お分かりですか―もしあなたがこのことを非常に、非常に、非常に、深く検討していないなら、あなたは精神を病むでしょう。そこで、私の関心はこうです、なぜ私は気をつけていないのか、その気をつけていないときに何が起こるのか、ということです。それが私の問いかけです。お分かりですか? 私は私が気づいているときに何が起こるのか知っています。私が気づいているとき―宜しいですか―何も起こりません。なぜなら、私はその中で生き生きと活動し、躍動し、生命力に溢れているから、何も起こりえません、何かが起こる選択の余地がないからです。宜しいでしょうか、私が気をつけていないとき、気づいていないとき、何かが起こります。そうすると、私は本当ではないことを言います、そうすると私は神経質になり、私は―お分かりですか―不安になり、何かに囚われて、私は絶望します。それでは、なぜこのことが起こるのでしょうか? あなたは私の要点が分かりますか? それがあなたの行っていることですか? それとも、あなたは年がら年中完全に気づいていることに関心があるのですか? 努めて、年がら年中、気づいているように実践しているのですか? 私は知りません、あなた次第です。
 宜しいでしょうか、私は私が気づいていないことが分かります、そして、私は私が気づいていないとき、そのような状態の中で何が起こるのか見守りたいと思います。宜しいでしょうか、私が気づいていないことに気づくことが気づきです。いいえ、笑わないで下さい、どうか、このことに耳を傾けて下さい。これは笑い事ではありません。私は私が気づいているのを知ります。気づきが生じるとき、それは全く異なる何かです。そして、私は、私が気づいていないときに、私が神経質になるのを、私が私の手を捻るのを、私の眉をかきむしるのを私は知っています―宜しいですか、それら全ての馬鹿げたことです。そのように、気づいていない状態の中で気をつけていると全て埒があきます―あなたは私の話していることが分かりますか? 気づいていないその瞬間、私は私が気づいていないのに気づきます、それで終了です。分かりましたか? そうすると、私はもがく必要がありません、年がら年中、気づいていなければならないと言う必要はありません、どうか気づくためのメソッドを教えて下さい、お願いします、そのような実践が―宜しいでしょうか―愈々厳格さを増して益々馬鹿げたものになります。しかし、気づいていないとき、私は気づいていないと私が知ると、あなたは全活動の変わるのが分かります。
 それでは睡眠時に何が起こりますか? あなたの寝ているときに、日中と同じような気づきが生じますか? もしあなたが、日中、折に触れて気づいているなら、それはあなたが寝ているときも続きます―違いますか―それは明らかです。しかし、あなたが気づいているとき、更に、あなたが気をつけていないことに気づいているとき、全く異なることが起きます。そうすると、あなたが寝ているとき、完全に鎮まる気づきが生じます。精神はそれ自身に気づいています。私はそれらのことを検討しません、なぜなら、それは不思議なことではないからです。それは途方もない何かではありません、それはどこかへ赴いて、香をたいたりするようなことではありません。あなたは、日中、深く気づいている精神が分かります、そのような深い気づきが、完全に鎮まっている睡眠時に、精神に何らかの質をもたらします、なぜなら、日中、あなたは観察してきました、あなたは気づいていました、折につけて、あるいは、気をつけていないあなたに、そうすると、日中、あなたが経験するように、あなたが寝ているとき、頭脳が日中の秩序を確立するように働きました。そして、頭脳は秩序を要求します、その秩序が神経症的な信念であろうと、ナショナリズムであろうと、あれやこれやそれが何であろうと、その中に頭脳はとりあえず秩序を見つけます、従って、それは否応なく、秩序の混乱をもたらします。しかし、あなたが、日中、気づいているとき、そして、あなたが気づいていないのにも気づいているとき、そうすると、ようやく本当の秩序がもたらされます。そうすると、頭脳は秩序をもたらそうと夜中にもがく必要はありません。従って、頭脳は休息します。それは鎮まります。従って、頭脳は、翌朝、途方もなく生き生きとします、死んでいる、腐敗した、薬物まみれのそれではありません。宜しいでしょうか。                         ―1971年 8月1日 ザーネン叡智の目覚め

              ......

クリシュナムルティ) 私は観察者と観察されるもの、そして気づきの問題を話したいと思います。これが最後のデスカッションあるいはダイヤローグです。我々はこれまで検討されてきたものの他に何を話しましょうか?
質問者Q) (聞こえず)
 いえ、いえ、ヨーガは全く異なる意味をもちます―私は説明します。
Q 叡智と瞑想について話すことができますか?
 叡智と瞑想。そして別の紳士は言いました、我々は宗教的な生について話せますかと―その“宗教”という言葉の意味は結び合わせるということです、我々はそれについて話せますか、“ヨーガ”のように、それは結び合わせることです。
Q 私はこの地球に存在する我々の目的について話せないかと思います。
 この地球上に存在する目的―神のみぞ知る!(笑)
それでは宗教的生について我々は話せますか、そして恐らくその中で、それについて話すとき我々は観察者と観察されるもの、叡智と瞑想などその他の全てに向き合うでしょう。宜しいでしょうか。あなたはそのことを検討したいですか。
 “ヨーガ”という言葉を片づけましょう。一般的に理解されているように、その“ヨーガ”という言葉は、結びつける、結び合わせるというように一般的に理解されます。私は学者たちに言われました、その“ヨーガ”という言葉はそういう意味では全くないと、それに関するあらゆる実践でも、それらに纏わる胡散臭い何かでもないと。それは結合する気づきを意味します、あらゆるものを余すことなく、一つのこととして気づくことを意味します、そのような働き、あるいは、そのような気づき、あるいは、全存在を一つとして見て取ることを意味します―結合する気づきです、それがその意味です、その“ヨーガ”という言葉の意味です。宜しいでしょうか?
 宗教的生とは何でしょうか? 私はあなたが宗教の意味することを明らかにすることに興味があるのかどうか知りません、その言葉が一般的に受け入れられている意味ではありません―何らかの救世主への信仰、何らかの神への信仰、何らかの儀式などへの信仰、それらは全てプロパガンダです、私にはそれらは何の価値もありません―それは宗教的生ではありません。
 我々はそこから検討できますか? 我々はみなその事実を間違いなく見て取りますか? カトリック教徒は何かを信じるように育てられます―救世主などです、ほとんどのキリスト教の神話がそれに基づいているように。つまり、人は子供の時から条件づけられています、何かを信じることです―洗礼です、宜しいでしょうか、それら全ての類です。そしてインドや世界中の他の地域でも同様です―子供の時からあなたは何かを信じるように条件付けられます、神やアートマンやブラフマン、何らかの生き方です、何らかの宗教的な生活です、それはあらゆる賞罰や犠牲を伴います、それらの儀式や教条や聖職者たちやそれらの組織など全てを伴います。それでは我々は本当にそれらを全て脇へ追いやることができますか? できますか?
 無神論者になるのではありません、こう言うのではありません、それらは全て馬鹿げている、何も存在しないと、そうではなく我々は宗教とは何かのあらゆる問題を検討しようとしています、宗教的生とは何かです。我々はそのようにできますか―もし我々が心底真剣なら―我々はそれら全てを脇へ除けることができますか? あなたはそれら全てを脇へ除けていますか? 宜しいですか。私は分かりません、あなた次第です。あなたは神を信じる、あるいは信じないいかなる宗派にも、いかなる集団にも、いかなる共同体にも属していないかもしれません―そのような神への信仰や非神の信念は恐怖の別の形です。違いますか? 何らかの安心、確かさを願う精神です、なぜなら我々の生はとても不確かで、とても混乱していて、とても意義を欠いているので、我々は信じる何かを欲するのです。それでは我々はそれらも同様に脇へ置くことができますか? 我々の外側にある何かで、優れた働きを我々にもたらすとされるそのような何らかの存在を願うのです―我々は検討しようとしています、従って、それら全てが明らかに脇へ除けられなければなりません。我々はそこから取り組めますか?
 それでは宗教的生とは何でしょうか? 我々にとって宗教とは何を意味するのでしょうか? その言葉あるいはその感情は、人が何千年も探し求めてきた、探究してきた、追い求めてきた、人がそのように追い求めているそれと瞑想との関係とは何でしょうか? 宜しいですか? 我々はそこから進めていけますか? つまり、人の精神は完全に組織的信仰の誤謬を理解してきました、組織的宗教、組織的教会、組織的聖職者たちのもたらす救世者たちや神々や儀式などの誤謬を理解してきました、精神は完全に...それを理解して乗り越えてきました。
 さらにまた精神は何かを見つけようとする欲望を超えて行かなければなりません、その追い求める欲望です。それはさらにずっと難しいことです―知的に人は宗教の愚かさの全てを見て取ることができます、しかし精神は追い求めています、探究するのではなく追い求めています。私は我々が追い求めることと探究することとの違いを見て取るのを願います。追い求めることが意味するのは...(飛行機の音)...追い求めることが意味するのは、ある集団から他のそれへ、あるグルから別のそれへ、ある宗派から他のそれへ、あなたが幸せを、心の安らぎを、満足を仏教の中に、あるいは禅の中に、あるいはヒンズー教の中に見つけることができるかどうかを追い求めることです―お分かりですか―追い求めるのです。そしてあなたが欲するものを提供するあらゆる人々がいます、仏教について多くを語る人々です、仏教を説明します、そしてあなたは追い求めます、あなたは分かりません、不満です、不幸せです、悲惨です、混乱しています、そしてそのような罠に嵌っています。そしてあなたは言います、“ついに私は見つけた”と。あるいはあなたは他の宗派に加わるか共産主義者になって言います―“ついに本物を見つけた”と。
 そのように追い求めことは何らかの認識をも意味します、見つけることです。そして追い求めることはあなたが見つけたことの中にある何らかの認識を意味します。違いますか? それは、あなたが追い求めるとき、あなたはすでにそれを知っているのです、それは明らかなことです。従って、それは真理ではありません、そのように、精神はあらゆる形の組織的信仰から自由でなければなりません、従って、あなたは恐らくいかなる集団にも、いかなる人物にも従うはずはありません―それは個人的なカルトではありません。そして我々は探究に関心があります、従って、追い求めることや見つけることは全く問題外です。
 そこで我々は言います、我々は問います―私はあなたにそのように問いかけてもらいたい、我々は一緒に問うています、違いますか―そこで我々は問います、人がこれまですでに実際に探究してきたものとは何かを―お分かりですか―思考の産物ではない真実があるのかないのかの探究です。宜しいでしょうか。思考はあらゆるものを発明しえます。ある人がいました、私たちは知り合いでした、彼はとても面白いことを実験しました。彼は奇妙な形の石ころを拾い、それを暖炉の上に置いて、毎日その石に花を捧げました。一年経つと彼は...その花やその石が彼の真実でした。私はあなたがこれらのことを理解するかどうか分かりません。彼はただ面白くてそれを始めました、そうして彼はそれに囚われました。
 そのように思考はあらゆるものを発明できます、想像できます―神々、非神、天使―お分かりですか―それはあらゆる形の神経症的知覚を、観念を、結論を生み出せます。そうしてそのことを知的に知って、人は言います、“そのような思考はどのようにして鎮めうるのか、そうして精神は自由に探究できるのか”と。宜しいでしょうか。このことがお分かりでしょうか? なぜなら、もし思考があらゆる形の結論を、人間の精神が安心を見出すイメージを思い描けるなら、発明できるなら、想像できるなら―それはできます―そのような安心は、そのようなイメージは幻想になります―救世主、ブラフマン、アートマン―お分かりですか―あなたがあらゆる形の規律などの下に手にする経験です。私は願います、あなたが...
 そうすると、問題はこうです、思考が完全に鎮まることはありえるのか、ということです。そして人々は言います、あなたはそれを何らかのシステムを通じてのみ鎮めることができると。お分かりでしょうか? 宜しいでしょうか、我々は話し合っています、話し手の言っているいずれもただ単に受け入れないで下さい。なぜなら、人々はみな精神が完全に鎮まる必要性を見て取るからです、なぜなら、あなたは精神が鎮まるとき、物事をある通りに、発明や想像とは無縁に、さらに多く見たり聞いたりできると分かるからです。それでは精神は完全に絶対的に鎮まりえますか? そしてそれは、人々は言います、何らかの規律を通じて、何らかのコントロールの下に、彼らの師たちが発明した特別なシステムを通じてのみ鎮めうると。違いますか? お分かりでしょうか? 何らかのシステムや規律や順応によって精神は鎮まりえますか、本当に鎮まりますか? それとも何らかのシステムに従うことによって、毎日毎日それを実践することによって、精神は機械的になるのではないのですか、そしてそれが機械的になると、あなたはそれをコントロールできます、あらゆる他の機械のように、あなたは機械をコントロールできます。お分かりでしょうか? しかし頭脳は鎮まっていません、それはそれが実践してきたシステムによって形づけられ、条件づけられています。従って、そのような頭脳は、機械的なので、それはコントロールされえます、そしてそれは考えます、そのようなコントロールが鎮まりであり、静かさであると。違いますか? 従って、明らかにそれはそうではありません。
 それでは精神は...精神は何らかの強制や強制力や規律とは無縁に完全に鎮まることが可能ですか―規律とは何らかの意思であり、抵抗であり、抑圧であり、順応であり、あらかじめ確立されている何らかのパターンに適合することです。もしあなたがそうするなら、あなたは精神を力ずくで、格闘して、何らかのシステムによって確立されたパターンに順応させています。お分かりでしょうか? そのように通常の意味の規律は問題外です。“規律”という言葉は学ぶことを意味します、順応することではありません、抑圧することではありません、コントロールすることではありません、そうではなく学ぶことです。
 そうすると頭脳と精神は、頭脳と精神の全構造は、意思による、欲望による、思考によるいかなる形の歪みとも無縁に完全に鎮まることが可能ですか? そのようにそれが問題です。そしてそのことを知って、人々は言ってきました、“それは不可能です”と、従って、人々は他の方向へ向かいました―コントロールや規律やあらゆる種類のまやかしです、禅に目を向けました―それら全てに目を向けました、人々はそこで座りました、注意を払いました、足の指にです―お分かりですか―見つめ続けました、そしてもしあなたが眠ると、あなたは目を覚ますようにと背中を叩かれました。この類の途轍もない規律です、それは機械的です、従って、それはコントロールが可能です、そしてそうすることによって...真実と思われる何らかの経験を成就することを願ってそうするのです。違いますか? あなたはこれらのことを一緒に検討していますか、それとも私一人が検討しているのですか?
Q (聞こえず)
 私は検討します、宜しいでしょうか。私と一緒に検討して下さい―我々はこのことを検討します。しかし問題を最初に見て取って下さい、精神は頭脳と異なるかどうかや頭脳は精神と異なるかどうかなどの細部のことではなく―問題の全体をただ見て取って下さい。ある人が言いました、宗教史の中で―私はそれを読んだのではありません、友人たちが私にそれらについて話しました、彼らは本当の学者たちです―ある人がある途方もない超絶体験を探究する中で言いました、“精神は、それがそれまで経験したことのない何かを、それがその香りや質を味わったことのない何かを受け取るためには、精神は完全に鎮まらなければならない”と。従って、彼は言いました、“精神は鎮まらなければならない”と。そして人々は言いました、精神を鎮める方法が一つだけありますと―力ずくでそうするのです。そして精神を鎮めようとする意志の働きが存在するとき、何らかの歪みが起こります。違いますか? 宜しいですか? 従って、歪んでいる精神は、恐らくある通りのことを見て取れません。違いますか? 我々は一緒に歩んでいますか? あなたはこのことを行っています、つまり、あなたは意思を働かせていません、あなたは精神を力ずくで機械的にしていません、いかなる形の規律によっても、システムによってもそうしていません、その中にはヨーガが含まれます、ヨーガのあらゆるまやかしです、それは全くの誤りです。何らかの身体的な実践を教えるそれらの人たちは全くの詐欺師です!
 それではそれら全てを見て取って、精神は完全に鎮まることができますか、精神と頭脳です、なぜなら頭脳が完全に鎮まることが非常に重要だからです。お分かりでしょうか? 頭脳はあらゆる知識や経験などを抱えた時間の産物です、それはあらゆる刺激に対していつも反応します、あらゆる影響や印象に対して反応します―そのような頭脳も鎮まることができますか? 
Q なぜそれは鎮まるべきなのですか?
 なぜそれは鎮まるべきか?―私は説明しました。それは知識の領域の中で反応するに違いありません―違いますか?―なぜならそれがその機能だからです。もし私がコブラはこの上なく危険な蛇であることを知らないなら、私はそれと戯れて死ぬでしょう。それが有毒であるという知識は自衛的です―違いますか?―従って何らかの知識はなければなりません―技術的などあらゆる意味で。そしてそのような知識が獲得されてきました、しかし我々はそのような知識を問題にしているのではありません、我々はあなたが知識を手にしてはならないと言っているのではありません、反対です、あなたはこの世界の知識を、事実として手にしなければなりません。そしてその知識は非個人的に使われることになります―お分かりですか―私はそれらを検討しません。
 宜しいですか、そのように頭脳は鎮まる必要があります、なぜなら、もしそれが働くと、その働きは安全性の方向へ向かいます―違いますか―なぜなら、それは何らかの安全性の中でのみ機能しうるからです、その安全性が神経症的なものであれ、合理的なものであれ、非合理的なものであれ何であれ。続けて宜しいですか? そのように頭脳はそのような感受性をもつ必要があります、そうするとそれは何らかの知識の中で十分に、完全に、効率よく、健全に、健康的に働きえます、私の国のためではありません、私の利害関係者たちのためではありません、私の家族のためではありません、私のためではありません。しかしまた頭脳を完全に鎮めるような感受性の質もなければなりません―それが問題です。
 宜しいでしょうか、私は問題を説明していますか―説明が説明されているその当のものではないことを知っていてそうしていますか? 宜しいですか? 私は山を描写できます、しかし山は描写されたそれではありません、その絵はその山ではありません、山はそこにあって、その絵は他の何かです。そのように私は説明しているにすぎません、描写しているにすぎません、それはその事実とは何の関係もありません。事実はあなたが、このことに耳を傾けていて、あらゆる形の組織的信仰を、もっともっと経験したいというあらゆる形のあなたの願望を脇へ除けているかどうかです。宜しいですか? なぜなら、もしあなたがもっと経験したいと願うなら、そうするとその願望が働くことになります、そしてそれは意思の働きです。そのように事実はこうです、どうでしょうか、もしあなたが宗教的生とは何かを探究することに興味があるなら、あなたはそうする必要があります、これは本当に非常に、非常に真剣な生です―薬物は問題外です、...は問題外です、それら全ての愚かなことは問題外です。そしてまた何らかの経験を追い求めたり願ったりすることもそうです、なぜなら、あなたが何らかの経験を追い求めているとき、それが超絶体験であれ、神秘体験であれ、それをあなたが何と呼ぼうと、あなたは日常的な経験に飽き飽きしているので、あなたは何かを追い求めているのです。そしてあなたはそれら全てを超えた何かを経験したいのです。そしてあなたが超絶的あるいは別の次元の経験と称されるものを経験しているとき、そこには経験者と経験されるものがあります、経験している観察者と経験である観察されるものがあります。そのようにそこには分断があります、従って、そこに何らかの争いが生じます。そうするとあなたはもっともっと経験したくなります。そのようにそれもまた完全に脇へ除けなければなりません、なぜなら、あなたが探究しているとき、経験には居場所がないからです。違いますか?
 そうすると人は明瞭に見て取ります、頭脳、精神、全身体、全ての細胞組織が鎮まなければならない絶対的な必要性が分かります、なぜなら、人が見て取れるように、もしあなたが何かに耳を傾けたいなら、音楽に耳を傾けたいなら、あなたは耳を澄まします、違いますか、あなたの身体は鎮まります、あなたの精神は鎮まります、あなたは耳を傾けます。そしてもしあなたが有意義なことあるいは的外れのことを話す人に耳を傾けていると、あなたは耳を傾けていて、あなたの身体は鎮まります。そのように、精神、頭脳、身体、全組織が自然に鎮まります、あなたが何かを理解したいと思うとき自然にそうなります。違いますか? あなた方が静かにそこに座っているのを御覧なさい。あなたは静かにそこに座っているように自分自身を強制していません、なぜなら、あなたは明らかにすることに興味があるからです。そのような正に興味が精神、頭脳、身体を鎮める炎です。宜しいでしょうか。
 それでは、瞑想と鎮まる精神との関係とは何でしょうか? 瞑想は精神を鎮めるようにできますか? 呼吸法は―お分かりですか、ヨーガの中にも体系的な呼吸法があります、精神を鎮める呼吸法です。宜しいですか? おお! 宜しいですか、正真正銘の愚か者がこの上なく見事に何らかの呼吸法を実践して見せて悦に入ります。しかしその人の頭脳は依然として極めて矮小です、その人は依然として取るに足らない人であり、その人には依然として野望があり、貪欲です、違いますか? そのように呼吸法や静かに座ることの問題は全て血液をいかに頭脳に送るのかの問題であり、それ以外のことは何もありません、なぜなら、より多くの酸素が細胞へ送られるなら、観察する能力がより向上して、より増すからです。違いますか? あなたはそれらのことを行ったことがあるに違いありません、それらの悪戯をしてみたことがあるに違いありません、それらを少しは弄んだことがあるに違いありません。ですから、どうかグルたちやあなたにヨーガを教える師たちの口車に乗らないで下さい、その人たちは言います、あなたは彼らの特殊なシステムの下でニルヴァーナや天国や悟りに達しますと。それらとは異なるヨーガの体系がありますが、私はそれを検討しません―それは全てインドにあります、あなたはその書物を読むことができます―しかし主となる、中心の、根本的なヨーガはラージャヨーガであり、それは全ヨーガの王です、そしてそれは何らかの実践や呼吸法とは何の関係もありません、それは精神をいかに見て取るかということであり、いかに生の全き美が理解されるかということです。宜しいでしょうか。
 それでは瞑想は静かな精神とどういう関係でしょうか? “瞑想”という言葉は計ること意味します―その根本的な意味です。お分かりでしょうか? 計ることです。そして思考だけが計ることができます、思考は計ることです。宜しいでしょうか。どうか、これを理解することは重要です。そして“瞑想”という言葉―人はその言葉を本当は使うべきではありません。宜しいでしょうか、思考は計ることに基づいています、そして思考を育むのは計る働きです、技術的にも、生活の中でも。計ることなしに現代文明はありえません。違いますか? 月へ行くにもあなたは計る能力を持たねばなりません、際限なく。そのように問題は―もし我々が別の言葉を見つけることができたら良いのですが、我々はそうします―とても重要なこの計ることが、明らかにとても必要とされるこの計ることが、計られる、計ることであるこのような思考がどのようにして...入っていかないように―別の言い方をしましょう。精神と全有機組織が絶対的に鎮まっているとき―頭脳を含みます―その中で計ることが止んでいます、思考である計ることが止んでいます。そうすると人は計り知れない何かがあるのかどうかを探究できます、計ることと計り知れない何かです。計ることは思考です、そして思考が機能している限り、計り知れない何かは...理解されえません。従って人々は言いました、コントロールせよ、思考を押さえつけよと。そしてアジア世界はみな計り知れない何かを探究しました、計ることを軽んじて。あなたはこれらのことがお分かりですか?
 それではどのような関係が―我々は依然として“瞑想”という言葉を使いますが、それは我々が説明したように異なる意味のそれです―それは非常に鎮まった精神とどのような関係があるのでしょうか? 思考は鎮まりえますか? そしてもしそれが鎮まりうるなら、本当に、想像ではなく、それは身体、精神、心が完全なハーモニーの中にあることを意味します、そして思考は計るものであり、思考が生み出したあらゆる知識は重要であるという真理を見て取って、そして計るものである思考は計り知れない何かを決して理解できないという真理を見て取るなら...そうすると、もし人がそこまで歩を進めたなら、この計り知れない何かの質は日常生活とどのような関係性を持つのでしょうか? お分かりでしょうか? 宜しいでしょうか。あなた方はみな目を覚ましていますか? あなた方はみな話し手によって催眠術を掛けられているのですか?
Q (聞こえず)
 何でしょうか? 何ですか?
Q 我々はあなたの言うことがよく聞こえません...
 おーっ、あなたの言うことがよく聞き取れません。誰かどうにかして下さいますか? 御免なさい、あなたは私の言うことがよく聞き取れないと言います、彼らは何もできないと私は思います―とても暑いのです。
設営技術者 あなたがもう少しマイクに近寄って話すなら...
 私はもっと近づいて話さなければなりません―これで良いでしょうか?
参加者 はい。
 あーっ、なぜもっと早く言ってくれなかったのですか?
 我々は問うています、思考は計ることであると知ります、思考が人間生活にもたらしてきたあらゆる災いを知っています―宜しいでしょうか―その悲惨です、その混乱です、人々の間の分断です―あなたは何かを信じます、そして私は信じません、あなたの神は私の神ではありません―お分かりですか―思考は世界中の大混乱を引き起こしてきました。そして思考は知識でもあります。そのように思考は必要です、そしてその真理を見て取って、そして思考は計り知れない何かを決して探究できないことを見て取って、従って、思考はそれを経験者と経験されるものとして決して経験できないことを人は見て取ります。宜しいでしょうか? そうすると、思考が絶対的に鎮まるとき、人に...計り知れない何かが自ら働く状態あるいは次元が生まれます。それではそれは日常生活とどのような関係があるのでしょうか? なぜなら、もしそこに何らかの関係性がないなら、私は私が非常に注意深く計った私の―お分かりですか―私のモラルの生を送るでしょう、そうすると私の活動は思考が計ることによって非常に限られたものになります。違いますか?
 それでは不可知と既知との関係性とは何でしょうか? 計られるものと計りえないものとの関係とは何でしょうか? 宜しいでしょうか。そこには連絡する何かがありますか、そしてそれが叡智です。叡智は思考とは何の関係もありません。あなたはとても賢いかもしれません、非常に議論が巧みかもしれません、非常に博識かもしれません、あなたは様々な経験を積んできたかもしれません、あなたは途轍もない生活を送ってきたかもしれません、世界中を駆け回ってきたかもしれません、あなたは探究してきたかもしれません、探索してきたかもしれません、見て回ってきたかもしれません、多くの知識を収集蓄積してきたかもしれません、禅を実践してきたかもしれません、ヒンズー瞑想を実践してきたかもしれません、しかしそれらは叡智とは何の関係もありません。叡智は精神、心そして身体が実際にハーモニーを奏でるときに生まれます。
 従って―このことに付いてきて下さい―身体は非常に感受性が鋭敏でなければなりません、粗野であってはなりません、宜しいでしょうか、食べたり、飲酒したりするなどその他の全てのことです、セックスのことです、宜しいでしょうか、それら全てが身体を粗野にしてはなりません、鈍くしてはなりません、鈍重にしてはなりません。従って、あなたはそれら全てを理解する必要があります。あなたを小食にする、身体を...にする、身体自身の叡智が働く事実を正に見て取ることです、強制されることなく身体は気づくことを―その他の全てを―正に見て取ることです。そうすると身体は非常に、非常に、非常に鋭敏になります、宜しいでしょうか、それは美しい装置のようです。心も同様です、つまり、それは決して傷つきませんし、決して他の人を傷つけません。それが心の無垢です―傷つけないし傷つきません。そして精神は、恐れを抱くことなく、快楽を求めることなく―それはあなたが生の美を喜べないことではありません、樹木の美を感じないのではありません、美しい顔の美を感じないのではありません、子供たちを見る喜びを感じないのではありません、水流の美を感じないのではありません、山々や草原の美を感じないのではありません―それには大いなる喜びがあります。しかしその喜びが思考によって追い求められると快楽になります。そのように精神は、お分かりですか、明瞭に見て取るために空になる必要があります。
 そのように計り知れない何かと...不可知と既知との間にある関係性とはこの叡智です、そしてそれは仏教とは、禅とは、私とはあるいはあなたとは何の関係もありません、権威や伝統とは絶対に何の関係もありません。宜しいでしょうか、あなたはそのような叡智を手にしていますか? それが要点です。そうするとそのような叡智はこの世界で倫理的に働くでしょう。お分かりでしょうか? 倫理はそうすると秩序です、そしてそれは徳です―それは社会の徳や倫理ではありません、それは全く非倫理的です。そのようにその叡智が秩序をもたらします、そしてそれが徳です、従って、それは生きている、機械的ではない何かです。違いますか? 従って、あなたは決して良い人間を実践したりしません、あなたは決して謙虚になろうと実践したりしません。そのような叡智が生まれるとき、その叡智が自然に秩序をもたらします、そしてそれが秩序の美です。
 宜しいでしょうか、そうするとこれが宗教的な生です、それはそのことに纏わるあらゆる愚かな言動とは異なります。それではあなたは、話し手に耳を傾けていて、このことを理解しましたか―言葉ではなく、知的にそうするのではなく、実際にこのことの真理を見て取りましたか? 従って、もしあなたがその真理を見て取るなら、それは働きます。もしあなたが蛇は危険であるという真理を見て取るなら、その真理です、あなたは何らかの行動を起こします。もしあなたが断崖絶壁の危険性を見て取るなら、その事実を、その真理を見て取るなら、あなたは何らかの行動を起こします。もしあなたがヒ素の真理を、その毒の真理を見て取るなら、あなたは何らかの行動を起こします。
Q 宜しいでしょうか...
 待って下さい。それではあなたはこのことを見て取りますか、それともあなたは依然として観念の世界を生きるのですか? もしあなたが観念の世界を生きるなら、何らかの結論である観念の世界を生きるなら、それは真理ではありません、それはただの思考の産物です。
 そのようにそれが本当の問いかけです、このことに耳を傾けていて、あなたはこの三週間耳を傾けてきました、その中にはあらゆる人間の存在の在り方が含まれます、苦しみや苦痛、快楽、セックスさらに非倫理などその他の全てが含まれます―社会的不正、国家の分断、戦争―あなたがこのことの真理を見て取るのかどうかです、従って、そのような叡智が働くのかどうかです。“私”が働くのではありません。あなたがこう言うとき、“私は自分自身を見失ってはいけない”、それは現代の世代の決まり文句です、つまり、“私は自分自身を見失ってはいけない”、あなたがこれらの“私は自分自身を見失ってはいけない”という言葉―自分自身―を検討するとき、自分自身とは何でしょうか? 夥しい言葉の連続、様々な結論の洪水、伝統の数々、様々な反射的反応、様々な記憶、過去の記憶の束です。そしてあなたは言うのです、“私は自分自身でいたい”と、つまり、お分かりでしょうか、単なる“ままごと”です。
 それでは、これらのことに耳を傾けてきて、そのような叡智が目覚めていますか? そしてもし叡智がそのように目覚めているなら、それは働いて、あなたは“私は何をすればよいのか”と言う必要はなくなります。そして恐らく今週ここに千人の人がいて、その人たちは...この三週間耳を傾けてきて―もしその人たちが本当にそのように生きるなら、あなたは何が起こるのか分かりますか? 我々は世界を変えるでしょう。我々は世界の塩になるでしょう。
 宜しいでしょう、それでは先へ進みましょう。
Q 宜しいでしょうか、私は思考が知覚するのを正しく理解するでしょうか、精神は安全性を追い求める毒の真理を深く見る必要があります。それがあなたの言ったことですか?
 部分的にはそうです。
Q そうすると困難なことはこのように思われます、つまり、この思考はそれを見ません、そのように精神はそれを見ません、そして精神が何かを見るためには鎮まる必要があります、そうするとそれは悪循環のように思われることです。
 いいえ、そうではありません。そうではありません。最初に、なぜ精神は鎮まるべきなのですか、なぜそれはお喋りを続けるべきではないのですか? 精神がお喋りをしていると、宜しいでしょうか、お喋りし続けていると、あなたは何も非常に明瞭に見て取ることができません、違いますか? あなたは誰かに正確に耳を傾けることができません。もしあなたが山を見ているなら、その美を見ているなら―それを正に“見ている”のです―あなたの精神は自然と鎮まるはずです。違いますか? それはあなたがそれに文字通り気を付けていなければならないことを意味します...正に“見ている”のです。それが全てです。つまり、もしあなたが見て取るなら、もしあなたが思考は計ることであるという事実に耳を傾けるなら、思考は人間を分断してきたことを見て取るなら、思考が数々の戦争を引き起こしてきたことを見て取るなら―もしあなたがその真理を見て取るなら、その説明ではありません、その正当化などそれらではありません―ただその事実を見て取るなら、思考の行ってきたことを見て取るなら―明らかにそれらの事実を見て取るためには、あなたの精神は鎮まらなければなりません。違いますか? そのようにそれは悪循環では全くありません。
Q (聞こえず)
 はい。話し手はいつも山々の美について話します、丘々や草原について話します、そしてまた生の醜い部分についても―インドの難民収容所、パキスタンの戦争、黒人間の争い、貧民窟、スラム街、貧困。宜しいでしょうか、あなたはそれもまた同じように見ることができますか―お分かりですか?―暗部と明部を同じように文字通り気を付けて、精神の同じ質で観察できますか? 宜しいでしょうか、ただ注意深く耳を傾けて下さい、暗部と明部、スラム街と非スラム街を観察するのです。あなたはそれを見守ることができますか? あなたは見守ることが...それらが分断されない気づきがありえますか? お分かりでしょうか? 貧困と繁栄の分断が存在しない気づきが生じますか―分断です、分断は存在しないということではなく、あらゆる不正、非倫理―お分かりですか―それら全てです―その事実、その気づきです、その気づきの中にはそのような分断は存在しません。宜しいでしょうか? お分かりになりましたか? つまり、精神は丘の美と他の汚さを観察できますか、一方を好んで他方を遠ざけたりしないで観察できますか―お分かりですか―そのようにいかなる選択とも無縁な気づきが生じますか? あなたはそうできます。そのような貧困が続かないように、あなたが何かを行うのではありません―政治的にも、社会的にも、そうではありません。そうではなく、精神です、分断から解き放たれた、伝統的な富者と貧者の分断から、美と醜の分断から、それら全ての分断から―それらの対極をなす分断から解き放たれた精神です。
 誰かが私に書いてよこしました、我々は終わりにしてはどうかと、11時50分です、我々の多くは汽車に乗らなければなりませんと。
Q 宜しいでしょうか、私はあなたに問いたいと思います、あなたにとって思考と思索との間に何らかの違いがあるのでしょうか、時折そう思います。
 思考と思索との間に違いがあるのか。しかしそれは依然として思考です―なぜ思考と思索との間に違いがあるのでしょうか? 誰が思索しているのですか―思考が思索しているのではないのですか? 思考が、神は存在する、神は存在しない、針の上に天使は何人座れるかなどを理論化しているのではないのですか―お分かりですか―思索するのは全て思考のなせる業です―何の分断もありません、同じことです。宜しいでしょうか。
Q (聞こえず)
 あなたは客観的に樹木や山や人に気づくことができます。思考はそれ自身の活動を観察できますか?
Q (聞こえず)
 思考がそれ自身を見守るというような気づきがありますか?
Q 私は“思考”という言葉が好きではありません。
 分かりました、...の気づき...
Q それ自身の。
 それ自身の。宜しいですか、ちょっと待って下さい、ただ見て下さい。あなたは問題を理解しましたか? あなたはその樹木に気づけます、その丘に気づけます、そこに座っているあなたに気づけます―そのような気づきが生じます。あなたが気づいているという気づきが生じますか? 宜しいでしょうか? あなたが気づいているという気づきです。宜しいでしょうか? どうかそれを問いかけて下さい。あなたはあの樹木に気づけます、あの雲に気づけます、あなたのシャツの色や女性たちの着ているものが何であれ、それらに気づけます、そしてあなたは客観的に気づけます、そしてまたあなたの思考がどのように働いているのかにも気づけます、しかし気づいているのに気づくことがありますか? 宜しいですか。
 あなたが観察者としてその樹木に気づくとき、それは気づきですか―樹木はそこにあります、そしてあなたはその樹木に気づきます。あなたはそうすると観察者になります、そしてその樹木が観察されるものになります、そして話し手は言います、それはそういうことではありません、そこには分断があります、観察者と観察されるものとしての分断がありますと。ちょっと待って下さい、待って下さい。雲と同じです、そこに座っているあなたと同じです、壇上に座って話している人と同じです、観察しています。その中にも分断があります。この中にもあなたを見ている観察者と観察されるもの―その中に分断があります。人は思考に気づけます―私は一歩一歩進めます―思考、気づかれる思考です。その中にも分断があります、気づいている人は自分自身を思考から分離しています。
 宜しいですか、あなたは問うています、つまり、気づきは...気づきはそれ自身を知るのか、あるいはそれ自身に気づくのか、ということです。
Q 観察者なしに。
 観察者なしに。あーっ! 勿論、観察者なしにです―観察者がいなくなるや否や、気づいているという気づきは生じません。それは明らかです、それが私の...要点はそこです。私が私は気づいていると気づくや否や、私は気づいていません。はい、そこに留まって下さい、二分間だけ、そうして下さい。私が私は謙虚であると気づくや否や、謙虚でなくなります。違いますか? 私が私は幸福であると気づくや否や、幸福でなくなります。そのように、もし私が私は気づいていると気づくなら、それは気づきではありません、そこには分断があります、観察者と観察されるものとの分断があります。宜しいですか、あなたは問うています、つまり、観察者と観察されるものとしての分断が消滅する中に気づきがあるのかと。違いますか? それは明らかです―気づきとはそういう意味です。気づきとは観察者がいないことを意味します。
Q (聞こえず)
 待って下さい、待って下さい、それを見て下さい。あなたが樹木を見るとき、そこに空間があります、あなたと樹木との間に空間があります―待って下さい、待って下さい―あなたが...のときではなく...ただ...我々は一歩一歩進んでいます―一つずつ検討しています。あなたがあの樹木を見るとき、あなたとその樹木との間に空間があります。違いますか? そのような空間があると、分断が生じます。そのような分断は観察者が存在するとき生じます―樫の木あるいは松の木としてのその樹木のイメージを抱えている観察者です。そのように、その知識が、そのイメージが観察者を観察されるものから分離します、二つのものに分離します。それでは、あなたは―どうか、検討して下さい、それを見て下さい―あなたはその樹木を何のイメージも抱かずに見ることができますか? そうすると、もしあなたがその樹木を何のイメージも抱かずに見るなら、それは樫の木であるとか、それは美しいとか、美しくないとか、好きだとか嫌いだとか言わずに見るなら、何が起こりますか? お分かりですか? 観察者がいなくてただ観察されるものだけが存在するとき、何が起こりますか? 検討して下さい、何が起こるか私に言って下さい―私はあなたに答えるつもりはありません。
Q それは合一と称される。
 その紳士は言います、合一が生じると。何の合一ですか?
Q (聞こえず)
 いえ、いえ、いえ―合一。合一は観察者と観察されるものが存在するときにのみありえます、その二つが一体になるとき。
Q 一体です。
 一体もまた―同じ意味です。
Q 気づきです。
 いいえ―発明です、思索です。
Q (聞こえず)
 それを検討しましょう、それを検討しましょう、それを検討しましょう―どうか、お願いします!
Q それが合一するとあなたは安らぎます。
 それが合一するとあなたはどうなります?
Q 安らぎます。
 安らぐ?
Q (聞こえず)
 いいえ、マダム...(フランス語で)
 宜しいですか、私はあなたに言いました―どうか聞いて下さい、一歩一歩です―私はあなたに言いました、あなたが普通に樹木を見るとき、あなたとその樹木との間に分断が生じると。あなたが観察者で、その樹木が観察されるものです。それは事実です。あなたは、あなたのイメージで、あなたの何らかの偏見で、あなたの希望やその他の全てでそうします、それが観察者です。従って、観察者としてのそれが存在する限り、あなたと樹木との間に分断が生じるに違いありません。観察者が存在しないとき、ただその対象だけが存在するとき、何が起こりますか―止めて下さい...何が起こりますか―想像しないで下さい、試みて下さい。
Q (聞こえず)
 我々は静かになります。おーっ、何としたことでしょう!
Q あなたはその樹木になります。
 あなたはその樹木になる―何と、私はそうならないことを願います。(笑) 私は象になります。
Q 観察者もいなければ...
 どうか耳を傾けて下さい。それを試して下さい。樹木を見て、あなたがそれをいかなるイメージも抱かずに見ることができるのかどうかを見てみて下さい。それは極めて簡単です。しかしあなた自身をいかなるイメージも抱かずに見ることは、あなた自身を観察者抜きに見ることはそれよりもずっと難しいのです、なぜなら、あなたの見るものは不愉快であったり、愉快であったり、あなたはそれを変えたいと思ったり、あなたはそれをコントロールしたいと思ったり、あなたはその形を変えたいと思ったり、あなたは何かしたいと思ったりするからです。それでは、あなたは自分自身を観察者とは無縁に見ることができますか―樹木を見るときそうするように。それは自分自身に完全に文字通り気を付けていることを意味します。完全に文字通り気を付けているときにはイメージは存在しません。それはあなたがもっと良い食事をしたいと考えているときだけです、あるいはそんな風に見ようと、あなたがその樹木を見ているときだけです、つまり、文字通り気を付けていないときだけです。
Q 宜しいでしょうか、もし私が我々はいつも気づいている状態にいると言うなら、私は間違っていますか?
 おーっ、そうではありません!
Q しかし我々は...
 そうではありません、宜しいでしょうか。それはもう一つの思考の思索です、つまり、我々はいつも気づいている、気づきの状態にある、時々我々は眠るだけであると。我々は時々眠ります、時々我々は文字通り気を付けていないときがあります、それが重要な点です、我々が文字通り気を付けていないときです。
 私は終わりにした方がよいと思います、なぜならもう12時15分前です。もっと続けますか?
Q (聞こえず)
 あなたは聞こえましたか? 我々は聞こえませんでした。あなたは何と言いましたか?
Q (聞こえず)
Q 我々はあなたの言う限りない愛情を...(聞こえず)...叡智が愛に...の中に気づきますか。質問者はそのように言おうとしているのだと私は理解しました。
 我々はあなたが叡智とその生との関係性を言ったとき、限りない愛情に気づきますか、我々は限りない愛情に気づきますか―それはあなた次第です、宜しいでしょうか。
Q (聞こえず)...その気づきはそれ自身ですか?
 私が私のイメージに気づくとき、そのイメージは存在しますか―それは存在しません。
Q そうするとそれは気づきそれ自身です。
 その通りです。気づきそれ自身で、いかなる選択とも無縁です。
 宜しいでしょうか、これらのことで重要なことは、あなたが聞いたことではなく、人が正に学んでいることです。学ぶのは知識の収集蓄積ではありません。あなたがここを離れると、あなたは気づきや愛、真理、恐れなどその他の全てについての様々な観念を抱くでしょう―それらは観念です。そして正にそれらの観念が学ぶことを妨げます。しかしもしあなたがそのことに少しでも気づくなら、あなたは学んでいます。そうすると叡智が学ぶことを通して日常生活の中で働きます。
 宜しいでしょうか。―1971年8月10日ザーネン叡智の目覚め

       ......守宮の尻尾 ......

クリシュナムルティ() 我々は今朝―素敵な朝です―愛と死の問題を話すと言いました。違いますか? 私はそれが我々の話そうとしていたことだと思います。私はそのことを話したいと思います、あなたと話し合いたいと思います、非常に真剣なことに関わる二人の人間としてそうしたいと思います。我々二人はこの問題に心の底から関心を抱いています、そしてその真実を明らかにします―単なる言葉による表明ではなく、知的な観念としてではなく、単に知的に言葉を捻りだすのではなく、実際にそれらを日常の生活の中で生きうるのかどうかを明らかにします。そうでなければそれには何の価値もありません。そのように私はそのことを話したいと思います、あなたとそのように話し合いたいと思います。
 私は愛と死を二つの別のこととして考察したことがこれまで決してありません。そしてほとんどの我々にとって死は生の終わりのことです、あるいは新しい始まりとしての終わりのことです。そして我々自身で精神は死と称されるこのことから自由になりうるのかどうか、そして毎日を新しく生まれ変われるのかどうかを明らかにするのです。それが我々の話し合おうとしていることです、今朝、もし宜しければ。恐らく、あなたは、それはこのような朝に話すには些か暗いテーマであると考えるでしょう、夥しい光と影が織りなす朝です、木の葉が煌めき、水が輝いて流れる朝です、上空には澄んだ青空が広がっています。しかしそれは問題ではないと私は思います、なぜなら、それは存在の一部だからです、それは我々の日常生活の一部だからです。
 それでは、どのように我々はそれについて話しましょうか? 死はあなたにとって何を意味しますか? あなたはこれまでその問題を考察したことがありますか? あるいは、そのような恐ろしいことを先延ばしにし続けていますか、あなたの周辺に死が生ずるのを知っていて。あなたが最近の戦争の多くの犠牲者たちを目にするとき、極東で起こっていることを目にするとき―アメリカ人がそれを続けてきているかどうかではなく、それが要点ではありません、なぜなら、アメリカ人が行ってきたこと、それは我々の責任だからです、それはアメリカではなく、それは我々の責任です、なぜなら、我々はいつも戦争に加担しているからです、破壊に加担しているからです。あなたが何であれ何かを購入するとき、あなたは戦争に加担しています、それは税金のことです。どの国も戦争をサポートしています、従って、我々全てに責任があります。そしてあなたがそれら全ての目に余る苦しみや悲惨、破壊を目にするとき、畏怖すべき樹木が爆弾によって破壊されるのを目にするとき、それらが何なのか全く分からないで道端で泣き叫ぶ哀れな子供たちを目にするとき、あなたがそれら全てを目にするとき、死とは何でしょうか? あなたはそのことを考えたことがあるはずです、あなたはそのことを考察したことがあるはずです。ほとんどの我々にとって死は生の終わりを意味するのですか―それがあなたの恐れることですか? 我々の生とは何でしょうか、あなたがそれほど恐れる生とは何でしょうか、我々がそれほど途方もなく執着する我々の日常生活とは何でしょうか? 全く、本当に!
 どうか、そのことを話し合いましょう、私に長話をさせないで下さい。
質問者(Q) 死は欲望の消滅です。
 欲望の消滅。あなたにとってそれが死を意味するのでしょうか? 宜しいでしょうか、問うても宜しいでしょうか、あなたはこれまでそのことを考えたことがありますか、あなたはそのことを探究したことがありますか、あなたはこの途轍もない問題を考察したことがありますか、有史以来人間に突き付けられてきたこの問題です。あなたはそれに向き合っています。あなたが棺の中の死や通り過ぎる霊柩車を見るとき、死がそこにあります、あなたが残酷なフィルムや人が撃たれているのを見るとき、そこに死があります、そして数々の戦争で生じた死があります。あなたはそれらを見てきたに違いありません、歴史は死に満ちています。それはあなたにとって何を意味しますか?
Q (イタリア語)
 あなたが指摘したように―イタリア語で―我々はこの生に執着しています、何らかの快楽や大いなる苦しみ、恐れ、不安などその他の全てのこの生です、それが我々の知っている全てです。そして我々はそれ以上の何かを見つけたいと思います。宜しいでしょうか、どうか、今朝はそのことを考察しましょう、つまり、死はあなたにとって何を意味するのか―あなたにとってです?
Q (聞こえず) 死は肉体の消滅です。
 おーっ、はい、肉体の消滅だけではなく、死はあなたにとって何を意味しますか? あなたは死の意味が分かりますか?
Q 死は現にある我々の消滅です。
Q (聞こえず)
 大変失礼ですが、あなたは死の意味を知りません。宜しいでしょうか、あなたは誰かが死ぬのを目にします、棺に入れられるのを目にします、沢山の花々が捧げられます、火葬されて墓に運ばれます。あなたはそれを目にします。あなたはそれをこれまで目にしたことがありますか? あなたはそれをこれまで観察したことがありますか? 男でも女でも、人が死んで棺に入れられるとはどういう意味ですか、あなたに何らかの反応が起こりませんか? あなたはこう言いませんか、それは何を意味するのか、生きているとは何を意味するのか、死ぬとはどういうことなのかと。あなたはそのように問いませんか?
Q (聞こえず)
 我々は両方を行っています、宜しいでしょうか、我々は両方を行っています。あなたはそのような死を目にします―あなたの友人です、あなたの息子です、私の兄弟です、私の叔父です、誰でもです、私は死を目にします、友人が死んで行きます。そしてそれはあなたにとって何を意味しますか、あなたにとってです、誰かが死んで行きます、人がとても残酷に殺されます、ベトナムで無益に殺されます、何のためですか? そして生きるとはどういうことでしょうか? 生とは何でしょうか? あなたはそう問いませんか?
 宜しいでしょう、それでは始めましょう。生きるとはあなたにとってどういう意味でしょうか? 実際の生です、日常の生です―会社です、工場です、喧嘩です、野望です、何らかの関係性の果てしない格闘です、残虐性です、暴力です、希望です、気晴らしです、快楽です、恐れです、それら全てが生きることです、生計を立てることです。違いますか? あなたはそのことに同意しますか?
Q それはその一部です。
 それは一部です。他の部分は何でしょうか?
Q (聞こえず)
 宜しいでしょうか、我々は我々の実際の現実を扱っています―知的な理由付け、技術、科学が成し遂げている大いなる進歩、医療、人類学そして私の日常生活、悲しみ、尽きることのない争い、時折の喜びと楽しみ、大いなる記憶、過ぎ去った思い出の数々―それら全てが私の生です、違いますか? それら全てが、こう言えます、私はいつも生きている、人はいつも生きている、既知の領域の中をと―違いますか―過去の世界です。それが我々の生です、違いますか? 過去だけではなく、あらゆるものをその領域の中に閉じ込めます―あなたの野望、あなたの欲求不満、何かと一体になろうとするあなたの欲望、あなたの格闘、あなたの争い、愛の欠如、愛されたいこと、孤独、あなたの技術的知識の誇示、あなたがもっと良くできるかどうか、あなたの妻や夫との関係、女性との関係、それが何であれ、途轍もない恐れ、仕舞いこまれているあれこれ、あなたはそれらを書物で読みます、そして起こっていることを書物から自分自身に当てはめます。それら全てがあなたの生ではないのですか? おーっ、何と!
Q 生は時間です、そして死は恐らく時間から抜け出すことです。
 生は時間です、そして死は恐らく時間から抜け出すことです。私は知りません、それはあなたの考えです。
Q 私は問うています。
 我々は明らかにしようとしています、マダム。あなたがこう言うとき、“生は時間です、そして死は恐らく時間から抜け出すことです”、それはこう言うのと同じです、“草は緑色です”と。お分かりでしょうか? 始めましょう、宜しいですか。何と我々は事実に向き合うことを避けるのでしょうか!
 あなたの生、そして世界中の人間の生は絶え間なく格闘しています、生計を得るため、生き残るため、病気にも罹ります、何らかの苦しみを抱えます、倫理的であろうとします、正しく振舞おうとします、何らかの行為を拒絶して全く異なることを行おうとします、この神やあの神を信仰します、あるいは無神論者になります、あるいは共産主義者や社会主義者になります―それが我々の生の全てです、違いますか? その全領域です。そして我々はそれにしがみつきます、違いますか―違いますか? なぜなら、それが我々の知っている唯一のものだからです。あらゆるものが何らかの思索です、違いますか?
 そのように精神は死を避けます、なぜなら、基本的にそれは何が起こるのかを知らないからです、基本的に、根本的に、それは言います、“私は生きることを知っている”と―それがいかに問題を抱えようと、いかに苦痛であろうと、いかに楽しかろうと、いかに苦悶しようと、いかに破壊的であろうと、それが私の知る全てであると。そして私はそれにしがみつきます。私は他のことは知りません、つまり、私は思い巡らすことができます、私は発明できます、私は合理的に考えることができます、私はそれについて驚くほどの信念を抱けます、しかし事実は私が既知にしがみついているということです。違いますか? 私の家具です、そして私は私が自分自身をその家具と一体化して、“それは私のものです”と言うとき、私は自分自身をその家具と一体になっています、従って、その家具が私です。違いますか? おーっ、何と! 私が自分自身を私の家と一体化しているとき、その家が私です、その類です。そのように精神はいつも安全性を求めています―違いますか―関係性の中に、永続する何かを。土地は永続します、不動産です、家を持つこと、家具を手に入れること、その人を私の妻あるいは夫と呼ぶこと、このような安定感です、安全性の感覚です。精神はいつもそれを追い求めます、そしてそのような安全性は既知の領域の中です―違いますか―既知とは知識であり、経験であり、記憶です。我々はみなこれらのことを理解していますか?
 そのように、人は言えます、観察することによって、生は大いなる労苦であると、時折の何か他のことが輝くことがあっても、そして死は既知の何かです。そのように、生きることつまり既知と死である不可知の間で争いが生じます。我々は進めますか、どうですか? 古代の人々は、エジプト人や他の人々は彼らの信じる他の世に彼らのあらゆる家具や象牙、美しいマスクや宝石などあらゆるもの、奴隷や絵画などを持ち込もうとしました。アジア人は、インドを含めて、言いました、“私”としての永続する何かがあって、魂があって、それがこの世での正しい振舞によって次の世でそれ自身を発達させると、そのように彼らは輪廻転生を信じました―来世です。それはより良き生を意味しました―いつもよりよき生のことです。そして彼らはそれを信じましたが―彼らは言いました、あなたが蒔く種はあなたが来世に摘むことになると―しかしそれらはただの言葉の表明にすぎませんでした、なぜなら、彼らの日常の振る舞いは明らかに通俗的で野蛮で嫉妬深いそれら全てだったからです、お分かりですか。そのようにその信仰は少しも意味をなしませんでした。意味をなしたのは彼らの楽しみや快楽であり、既知の世界の何かでした。宜しいでしょうか、あなたがそれら全てを観察するとき、古代から現代まで、復活を信じる人々や輪廻転生を信じる人々、現実の何かだけを信じる人々、それが何であれ、国家などを信じる人々は、いつもこの既知の生を生きています、違いますか?
 それでは、そこから始めましょう。既知とは何でしょうか、我々がしがみつくそれです。お分かりでしょうか? 私は私の生に執着します、なぜですか、何のためですか?
Q なぜなら私は空虚が恐ろしいからです。
 私は空虚が恐ろしい。あなたはその意味が分かりますか、あるいは、それはただの言葉ですか? あなたはそれにこだわりますか? あなたはそう言えません! 宜しいでしょうか、なぜ精神は既知にしがみついて死と称される何かを避けるのですか? 医者たちや医学は身体を更に五十年生かします、それがひどく苦痛を感じるなら、癌なら、投薬します。そしてその人たちは身体を更に長く生かすことができます、患者の同意のもとに、あるいは親族の同意のもとに。それでは、なぜ精神は、あなたの精神やあなたの欲望は、何もかもが、なぜそれはそのことに執着するのですか?
Q 私は私の生を楽しむのだと思います。
 私は私の生を楽しむのだと思います。それがあなたの唯一思うことですか、あなたはあなたの生をただ楽しむだけです、従って、あなたはそれに執着するのですか?
Q 私は苦しみもあるのが分かります。
 そのようにあなたは苦しみの生じるのが分かります、欲求不満が生じるのが分かります、楽しみの中にはあらゆるものが含まれるのが分かります、それでもあなたはそれにしがみつきます。なぜ精神はそのように儚いものにしがみつくのですか? お分かりでしょうか? 私は今日何か楽しい経験をするかもしれません、そしてその楽しいことから明日苦痛が生ずるかもしれません、そして私はこの楽しみがとても儚いこと、消えてなくなることを知っています、しかしそれでも私はそれにしがみつきます―なぜですか?
Q それが私の知っている唯一のものです。
 なぜ精神はそれほど儚いものに執着するのですか?
Q それが我々の手にする唯一のものです。
 それがあなたの手にする唯一のもの。あなたは何を手にしていますか? あなたはそれを検討していません、あなたはただそれを述べているだけです。あなたが手にしているのは何ですか―老年、老年のあらゆる問題、病、苦痛ですか?
Q それが我々の知っている唯一のことです。
 私はそのことをよく知っています。私は問うています、なぜ精神は、あなたの精神はあなたが既知と称するものに執着するのですか、それらの実体のない、あらゆる苦痛やそれらの中の猛威を伴うそれらに執着するのですか? それは既知がそれに安全性を与えるからですか?
Q それは我々に生命を与えます。
 そうすると生命はこの戦い、このプロセスであるとあなたは言うのですか、そうですか?
Q はい、そうです。
 はい、私は知っています。
Q (イタリア語で)
 いいえ、宜しいでしょうか、彼は言います、あなたの質問に答えるのは不可能ですと―我々の友人、イタリア人の彼は言います、それは不可能の問いであると! いいえ、そうではありません。もし死の中に永続する、安全な何かをあなたが見つけるなら、あなたはそれも愛するでしょう、違いますか? そのように精神は安全性を欲します、つまり、それがどんなに儚くても、どんなに苦痛でも、どんなに破壊的でも、暴力的でも、どんなに楽しかろうと何であろうと、それら全ての中に何らかの安全性、何らかの生き残れる感覚、何らかの既知の感覚があります。既知は精神に安全性を感じさせます。違いますか? それは明らかです、違いますか? そして精神はそれにしがみつきます。宜しいでしょうか、ちょっと待って下さい、あなたは死をあなたの執着する生をあなたが知るのと同じように知ることができますか? お分かりでしょうか?
Q それが問題です。初めに、我々は死を知りません...
 いいえ、そうではありません、ただ私の言ったことをあなたがそれを問う前に耳を傾けて下さい。私は生が何であるのかを知っています、私はそれを四十年、五十年、八十年生きてきました。私はその全ての内容を知っています、丘々や草原の美、木の葉のざわめき、穏やかな海、私はそれら全てを知っています、それらあらゆるものを見てきました、私はそれを知っています、私はそれを感じてきました、私はそれを生きてきました、私は苦しんできました、私はあらゆる種類の気分、快楽、苦痛を経験してきました。私はそれを十分に知っています、そのように私はそれに執着します。私は私がその領域を知るのと同じように死と称されるものも知ることができますか、私はそれも知ることができますか? そうすると―お分かりですか―もし私が両方を知るなら問題は生じません。私の話していることがお分かりでしょうか? あなたは私の言ったことを理解したでしょうか? 理解していない? 待って下さい。私は言いました...耳を傾けて下さい。私は私が生を知るようにその意味することを知りえますか―死のことです。あなたは私の質問が分かりますか?
Q 分かりません。
 分からないと言わないで下さい。私は生が何なのか知っています。宜しいでしょうか。我々はみなそれを知っています。それでは私はこの死と称されるものも知ることができますか? 私は知りません、私は明らかにしようと思います。私は決して言いませんでした、私は生が何であるのかを明らかにすると、私はそれを受け入れてきました。お分かりでしょうか? 私はそれを受け入れてきました、あらゆる苦痛と共に、あらゆる汚れと共に、あらゆる惨めさと共に、あらゆる残酷さと共に、断食、飢餓、あらゆるものと共に、私はそれら全ての意味することを知っています。それでは私はこの途轍もないものも、この不可思議なものも、死と称されるものも知ることができますか? 私は知ることができますか? そのように問うことによって私は明らかにしようと思います。宜しいでしょうか? 私は探究しようと思います。宜しいでしょうか? 私は探究しようと思います。それでは一緒に探究しましょう。お分かりでしょうか? 私は決して実際に生を探究してきませんでした、存在の全プロセスを探究してきませんでした、私はそれを受け入れてきました、私はその中で苦しんできました、私はそれを何と経験してきました。それでは私は死と称されるものも知ることができますか、探究することができますか、なぜなら私は生を決して探究してこなかったからです、ただ私はそれを受け入れてきただけだからです、そして私は死を受け入れてきました、決してそれを探究してきませんでした。お分かりでしょうか? 宜しいでしょうか、私は問題を抱えています、つまり、私は生を探究してきませんでした、それが本当に意味することを探究してきませんでした、私は死の意味することを探究してきませんでした。違いますか?
 そこで我々は両方を探究しようと思います。お分かりでしょうか? 生きることと死ぬことです。あらゆる存在が―あのテントの外のノイズを聞いて下さい―あらゆる生がこの戦いでしょうか? 戦いは快楽、苦痛などそれら全てを意味します。探究していて―お分かりですか―私はそれが生ではないと見て取ります、それはひどい存在の状態です。宜しいでしょうか? おーっ、どうか、私についてきて下さい! 私はそれを検討してきました、私はそれを探究してきました、私は言います、なぜ私はこのように、なぜ人間はこのように生きるのかと。これは全くの間違いです。そして私はそれとは全く異なる生き方を見つけるでしょう。私の生の探究が、存在の探究が私に指示したのは、人の生き方、人の考え方には意味がないということです。そして非常に非常に深く探究することによって、私は全く異なる意味があることを明らかにします。私は自分自身で明らかにします、私はそれを見て取りました。そして私は言います、死です、私はそれも探究しなければなりません、私はそれが本当に意味することを明らかにしなければなりません―それを恐れるのではありません、それを脇へ除けるのではありません、それの化身があるとか、...ないとかと言って、それを説明するのではありません―何もありません。私は探究しようと思います、明らかにしようと思います。宜しいでしょうか? あなたは私の言っていることが分かりますか? おーっ、分からない。これらを繰り返すにはとても暑すぎます!
Q 生は労苦だけではありません、他の何かが幾つか煌めきます...
 いいえ、そうではありません。私は言いました、他の何かが幾つか煌めくことを、それは何らかの喜びであったり、快楽や楽しみ、嬉しさ、優しさ、寛大さであったりします。私はそれら全てを含めています、それはそれらとは無縁の他の何かではありません。あらゆることが説明されなければなりませんか? 宜しいでしょうか、先へ進みましょう。
 人間として、この世界に生きている人間として、人はいわゆる生とは何かを探究してきました。この生は絶え間ない快楽の追究であり、苦しみを避けることであり、毎年の骨の折れる仕事であり、家族を持つ責任であり、性的快楽であり、何らかの苦痛であり、子の誕生であり、何らかの欲求不満であり、何らかの苦悶であり、何らかの欲望であり、何らかの後悔であり、何らかの許しであり、それら全てが我々の言う生です。そして私はそれを生として受け入れません。我々人間はそれを受け入れてきました、そのように生きています、しかし私は言います、それは生ではないと。そのように私はそれを探究してきました、私はそれを丹念に調べてきました、探究して明らかにしてきました、私の精神がいかなる動機も持たないようにしてきました、従っていかなる方向性も持たないようにしてきました、従ってそれは何らかの意味を見つけました―その意味が何であろうと―それはしばらくの間保留にします。そして私は死を恐れてきました、なぜなら私はそれを探究してこなかったからです、それを丹念に調べてこなかったからです、その意味することを明らかにしてこなかったからです。そして私はそれを明らかにしたいと思います、そして私はそれを丹念に調べてきました。お分かりでしょうか? 宜しいでしょうか、私の精神、この精神は生を探究してきました、そして死ぬことの意味を探究してきました。そこでそれは言います、生きることと死ぬことは同じであると。私はそう言います、あなたが言うのではありません。宜しいでしょうか? それでは探究しましょう、両方の領域です―生きる領域、生きる領域と死ぬ領域です。お分かりでしょうか? 行ったり来たりしないで下さい。私の質問がお分かりでしょうか?
 あなたは生きる意味を深く探究したことがありますか? 私はあなたが生を苦痛やそれら全てとして受け入れてきたことを知っています。それは生ですか?
Q あなたはそれを死んでやり過ごす必要があります。
 いいえ、何も死んでやり過ごさないで下さい、ただそれを見守って下さい。探究して明らかにして下さい。あなたは精神を手にしています、あなたは途轍もない経験を手にしています、あなたはあらゆる種類の知識を手にしています、明らかにして下さい、それが生であるのかどうかを―会社へ行くことです、お分かりでしょうか? このひどいことを人は生から作り出してきました。それは生ではありません。そしてあなたはあなたが人―男、女、それら全てです―の作り上げてきた構造を余すことなく捨て去るときにのみ生の意味を見つけることができます。違いますか? おーっ、宜しいでしょうか! そのように、もしあなたが生の深い意味を見つけないなら、従って現にある通りの存在をただ単に受け入れるだけなら、あなたは死を探究できません。私の言っていることが分かりますか? なぜなら、生を探究していると、あなたはどのように死を探究するのかが分かるからです。それらは二つの異なる何かではありません。
Q (フランス語で)
 宜しいでしょうか。彼は言います、我々はこれらのことに熱気を抱きません、このような探究に熱気を抱きません、あなたのように、我々は言葉を弄んでいます。そうするとどのようにして我々はこの熱気を手にするのでしょうか? 脇へ置く、脇へ置くのですか? いいえ私は...あなたは全く的外れです、いいえ私は脇へ...違います。耳を傾けて下さい、どうか耳を傾けて下さい。こう言わないで下さい、“私はどうしたらいいのか”と、“私は拒絶しなければならない”と、“私は受け入れなければならない”と。あなたが送る生です、それは生ですか? それは叡智が働く、健全な人間の生き方ですか、それはそのような生ですか? あなたはどう思いますか? なぜあなたは答えないのですか?
Q それは生ではありません。
 分かりました、もしそれが生ではないなら、あなたはそれをどうしようとしているのですか? あなたはそのような生を受け入れるのですか? もしあなたがそうしないなら、その先に何がありますか?
Q 私の肉体を死んでやり過ごすことです。
 私の言い方を引き合いに出さないで下さい!
Q 私は別の生き方を明らかにしたいと思います。
 あなたは別の生き方を明らかにしたいと思う。あなたはどのように明らかにしますか? もしそれが生き方とは言えないなら、そしてあなたは別の生き方を見つけたいと思うなら、どのようにあなたは明らかにしますか? あなたは探究することによってのみ明らかにできます、違いますか? 探究によってとは、いかなる方向性とも無縁に、いかなる動機とも無縁に見ることができる精神を意味します。あなたが何らかの動機を持つとき、それはどこかに方向づけされます、従ってそれは捻じ曲げられます。違いますか? そのように生を探究しなければならない精神は、それはひどい生き方です、それは人の送る意味のない生き方ですと言います、そうすると、それを探究するためには、あなたはこう言う精神を持たなければなりません、私はいかなる動機も持たずに探究します、従って私は自由に探究しますと。宜しいでしょうか? 科学者のように、その人は顕微鏡か何かで見ます、その人は何らかの動機を抱かずにそうします、その人は顕微鏡下で起こっていることをただ見ているだけです、あるいはその人が何を行おうとそのようにします。それと同じように私はこの問題に向き合います。私はいかなる条件下でもそのような生き方を受け入れません。私はそのように生きたくありません。従って、私の精神は言います、どのように私はこのことを探究したらよいのかと、異なる生き方があるのでしょうかと。異なる生き方を見つけるためには、従って存在の異なる意味を見つけためには、私はこう言う精神で取り組まなければなりません、私はいかなる偏見も持ちません、私は怖がりません、私は何が起こるのか知りません、しかし私は明らかにしようと思いますと。それはそれが発見しようとしている何かを恐れない精神を意味します。宜しいでしょうか?
 それと同じように精神は死を探究する必要があります。そしてもしあなたが恐れているなら、それは探究できません。宜しいでしょうか? もしあなたがこう言うなら、“おーっ、私は生き残らなければならない、私はろくでもない書物を書くために次の世を手にしなければならない”と、あるいは、よりよくなるために―それは何の意味もありません。そのように私の精神―どうか、このことに耳を傾けて下さい―それら二つの生を探究するためには、それは動機とは無縁に探究できなければなりません、そのように、それは調べることも、探究することも、奥深く探検することもできなければなりません、恐れていてはいけません。宜しいでしょうか? そのように、それが探究するうえでまず初めに需要なことです―いかなる動機も持たずに恐れないことです。宜しいでしょうか?
 もう少しこのことを検討しても宜しいですか? 話し手の言っていることを微塵も受け入れないで下さい。彼はいかなる権威でもありません。彼はあなたのグルではありません。あなたは彼の追随者ではありません。宜しいですか? 我々は探究しています。
 我々の生き方には意味がありません、そして私は生きる意味とは何かを明らかにしたいと思います、異なる生き方があるのかどうかを明らかにしたいと思います。私はこのようなとき異なる生き方があると見て取ります、つまり、行為や思考や観察者と観察されるもの中に分断が生じないときです。あなたはこれらのことがお分かりでしょうか? そうすると分断が生じません、私はヒンズー教徒でもイスラム教徒でもユダヤ人でもアラブ人でもありません。宜しいですか? 私はいかなる宗派にも、いかなる集団にも属しません、あるいは、私はいかなる行動にも身を捧げません。宜しいですか? そうすると私は何を行うのでしょうか? 私はどうにかして生きます。生活します、お金を稼ぎます、衣服や住居を手にすることは的外れです、私はそれを何としても見つけるでしょう、私はそれを第一義的なことにはしないでしょう。そうすると私は探究し始めます。私はその真理を見て取ります、つまり、私自身の中に分断が生じると、私の行為の中に分断が生じると、伝統やナショナリティや政府間の分断があると、争いが生じるはずであると。それは絶対的な真理です―違いますか?―私の中の観念ではありません。考えることと行うことが異なると、それは矛盾であり、分断です、従ってそれは否応なく争いを生みます。そしてそれが我々の生の全体です―種々の異なる側面があっても、それが全てのパターンです。そこで私は自分自身に言います、私は探究します、なぜこの分断が存在するのかと、それは人工的であるのか、相続されている何かなのか、伝統的であるのか、合理的であるのか、論理的であるのか、あるいはそれは神に関わる何かかと。それはそれらのいずれでもないのが私は分かります。思考がそれを作り出しました、思考がその分断を作り出しました、外面的にも内面的にも。そのように私は思考がそうしてきたと言います。違いますか? あなたはこれらのことが分かりますか? お願いです。思考です、つまり、人は思考によって生きてきました、そして思考がそれを作り出してきました。思考がこれらひどい世界の全てを作り出してきました、聖職者たちや神々や社会的構造です―お分かりでしょうか?―あらゆるものです。
Q あなたは思考だけでは生きていけません、様々な感情...
 私はそれら全てを含めています、全てのものです。勿論です。私は何らかの感情をもっているかもしれません、もし私がその感情を認識しないなら、感情はありえません。私はそのことを今は検討しません。
Q (聞こえず)
 ありますか?
Q (聞こえず)
 宜しいですか、虎は鹿を殺します、虎です、鹿を殺します。それがその生き方です。鹿はそれに反抗するかもしれません。しかしそれは虎にとって自然な生き方です。違いますか? どうか、このことをあなたの生の中に見て下さい、虎や自然のことではありません、それをあなた自身の中に見て下さい。後生ですから!
 そのように、私は思考がこの世界を作り上げたのが分かります、現にある世界を作ったのが分かります、そして私はその世界の一部です、そしてその世界は私です。そして思考には責任があります。そのように今私は思考の探究に関心があります。私は思考が必要なのは分かります、そうでなければ私は話せません、思考は車を運転するのに必要です、思考は工場や会社で働くのに必要です、思考は私が獲得した知識を身に着けるのに必要です。私はその領域で思考が必要なのは分かります。しかし私は思考が関係性の中で全く不必要なのを見て取ります、そのイメージが不必要なのを見て取ります。従って、ある領域で働く思考と共にして、思考が関係性の中では働かないように生きることは可能ですか、なぜなら思考は愛ではないからです。違いますか? おーっ、宜しいですか、私は前へ進みます。
 私はそれらを見て取ります、そのようにして私は何かを見つけました。私は深い意味を見つけました。私は何らかの生き方を見つけました、そこでは思考は正常に、客観的に、論理的に、健全に働きます、そして心理的な働きは全く生じません―“私”としての心理的な働きです、それは思考によって作り上げられます、言葉によって、経験によって、知識によって作り上げられます。従って、その心理的な当のものは存在しません。そのように私はそれが生き方であると見て取ります。私はあなたにどのように生きるのかを話しているのではありません。それが生き方です、知識が効率よく働きます、そしてそれは心理的要素が知識の領域の中に投影されると効率よく働きえません。そして“私”あるいは自己がいる限りいつも争いが生じるでしょう。自己は思考によって作り上げられます―言葉や記憶や何らかの執着、それら全てが思考の基礎です。そこで私は言います、私はそれを発見したと、それが生き方ですと、何らかの観念としてではなく、実際の何かとしての生き方ですと。宜しいでしょうか? あなたのためではありません。(笑) もしあなたがそのように生きるなら、もしあなたが探究したなら、それを根本的に検討したなら、そうするとそれはあなたのものです、そうすると我々は何らかの関係性をもちます、そうするとそれは本当に面白くなります、議論するのが、本当のことを話し合うのが大いなる喜びになります。
 同じように私は死が何であるのかを探究したいと思います。私はそれが何を意味するのか知りません。私は人々がそれについて話してきたのを知っています。私の息子は死にました、私の妻、私の夫、男子、女子、私はそのことを知っています。私は涙を流してきました、孤独を感じてきました、その惨めを、そのぞっとする儚さを感じてきました。宜しいでしょうか? そこで私は死の意味することを明らかにしたいと思います。私の精神はそれが知らない何かを探究できますか? お分かりでしょうか? 私は死の意味することを知りません。私はそれを見てきました。私は死があらゆる生に触れるのを見てきました、最も貧しい人たちから最も高名な人たちに至るまで、最も放縦で、愚かで、表面的に生きている人たちから非常に深く考えていると思っている人たちに至るまで、死はあらゆる人、あらゆるものに触れてきました。違いますか?
 そこで私は明らかにしたいと思います、私の精神は言います、死とは何かと。私は死を見てきました、私はそれと共に生きてきました、私はそれを目撃してきました、私は私の息子、私の兄弟が病で死ぬのを、あるいは、爆弾で殺されるのを見てきました。私はその同じ部屋で生きてきました、私は他の人が死ぬという意味を知っています。宜しいですか? 私は恐れていません。それは探究するうえで根本的なことです。違いますか? あなたは私についてきていますか? あなたはついてきていない。勿論あなたはそうできません。そのように私は恐れていません。そして恐れていないので私にはいかなる信念もありません―その当のものが死後も生きるのかそれともそうではないのか。このことは途轍もない...私はそれを検討します。“私”は、死をとても恐れている“私”は既知の何かです。“私”は、それが家具に執着しているとき、家に執着しているとき、家族に執着しているとき、名前に執着しているとき、国家に執着しているとき、“私”は既知の何かです。そしてその“私”はそれが死を探究すると恐れます、なぜならそれは言うからです、私は消滅するかもしれないと。私は私の肉体が消滅するのを気にしません、しかしその“私”の内面はそうではありません。そして人はそれに多くの名前を与えてきました、魂やアートマンなどなど―それら全ては思考が作り上げたものです。違いますか?
 そのように精神は怖がりません、なぜならそれは永続する何ものもないことを見てきたからです。宜しいですか?
Q 私はそれら全てを知的に分かります、私はそれが分かります、しかし恐れは存在します。
 紳士は言います、私はそれら全てが知的に分かります、私は分かりますが恐れは存在しますと―そこです。私はそれが分かるが恐れは続きます。従ってそれは何を意味しますか? あなたは分かりません! それは明らかでしょう。あなたは言いません、私は断崖絶壁を見て―お分かりですか―飛び込むと。あなたは言いません、あなたが何らかの危険を悟るとき、“私は危険と分かってその危険を続行する”と、違いますか? 宜しいですか!
Q (聞こえず)
 宜しいですか、あなたの指摘を補っても宜しいでしょうか? あなたが何らかの発言を聞くとき、あなたはそれを何らかの観念に仕立て上げます、それは誰でもが行うことです、そうするとその観念と“現にある通りの何か”との間に分断が生じます。違いますか? 宜しいでしょうか、もしあなたが何らかの観念を仕立て上げずに、あるいは何らかの結論を下さずに耳を傾けることができるなら、“現にある通りの何か”だけになります。お分かりでしょうか? あなたは何らかの結論を下さずに耳を傾けることができますか?
Q それは非常に難しいことです。
 それが本当の実際の探究です。そのように私は分かります、精神は見て取ります、“私”は永続しないと、それは移り行く思考によってただ作り上げられただけであると。“私”はただの言葉や記憶の連なりにすぎません、それには実体がありません、リアリティがありません。ちょっと待って下さい、御免なさい。そのように、精神は今恐れていません、それは死の意味することを探究しようとしています。
 死は何を意味しますか? 既知を死んでやり過ごすことですか? そしてもし私が既知を死んでやり過ごさないなら、何が起こりますか? あなたは私の質問が分かりますか? 精神が既知を死んでやり過ごさないとき何が起こりますか? 既知とは“私”であり、“私”の全性質と構造です、あらゆる悲惨です―それら全てです。もしそれが既知を死んでやり過ごさないなら何が起こりますか? それは継続します、違いますか? 水の流れのようにです―どうか、このことに耳を傾けて下さい―水の流れのようにそれは継続します。その流れの中にあらゆる人間が囚われています。違いますか? このことがお分かりでしょうか? しかし人々は決して言いませんでした、既知の消滅が起こらなければならないと。人々はそれを受け入れます。人々はそこから全く抜け出せません―人々は片足をそこから抜いても他の足はその中です、しかし人々はみなそのいわゆる生の流れの中に囚われていて、それは継続します、なぜなら、精神は決してそれ自身をそこから抜け出そうとしてこなかったからです。そのように―どうか、耳を傾けて下さい―降霊会や霊媒の際のあなたの夫や妻、子供たちなどその他の全てはその流れの中から顕現します。あなたはこれら全てが腑に落ちますか? あなたは私の言っていることが分かって、あなたはすぐに受け入れます。あなたがそこに囚われている限り―あなたはその罠に囚われています、その流れの中に囚われています―あなたは死ぬかもしれませんが、その流れは世界であり、そして世界はあなたです、そして死んでいるあなたの兄とあなたが会うとき、それはその流れの中です、それはその流れの中の何かです。従って、その流れから自由になって抜け出ている人は、その人は決して何らかの“霊媒”に囚われることはありえません。お分かりでしょうか? そういうことです、よく考えて下さい、それを検討して下さい、あなたはその真理が分かるでしょう。
 それでは死ぬとはどういう意味でしょうか? なぜなら私は死を見てきました。私は私が死ぬのを知っています―病、老年、老年に関するあらゆる問題―それら全てです―死ぬことです。有機組織は何年も薬物や飲酒、放縦、病の惨めさ、苦痛などによって痛めつけられてきました、そしてついに投薬を受けていてもう数年生かされています。何が起こっているのでしょうか? そしてそれをあなたは死と呼ぶのです。私は自分に言います、それは何と馬鹿げた死に方かと。宜しいでしょうか。私は有機組織が死ぬのを知っています、それができる限り健康を保つのを知っています、宜しいでしょうか、それら全てです。私はそれが死んで行くのを知っています。それが精神の恐れることですか? それは何を恐れているのですか? 家具との一体化が消滅するのを恐れています。違いますか? 家具とは妻であり、書物であり、写真であり、お金などそれら全てです、それらは家具の化身です。これらのことがお分かりでしょうか? そこで精神は問います、私は何のために家具に執着しているのかと。お分かりでしょうか? 家具はそれら全てを含みます。私はその言葉を使って所有欲や執着、支配など全ての衝動を言おうとしています、それら全てがその言葉に含まれています、それ―“家具”―は非常に良い言葉です。私はあなたに何らかの木工品―美しい形の、親から親へ引き継がれてきた古い家具―にひどく執着している友人がいないのかどうか知りません。あなたがそうです。あるいはあなたが買ったばかりの美しい車です。それではなぜ精神は自分自身をそれと一体化するのでしょうか? 従って―それと一体化しているので―それが精神です。違いますか? それが精神の恐れていることですか、家具を失うことです。検討して下さい、どうか、検討して下さい。
 なぜ精神は何かと一体化したがるのでしょうか―私の妻や私の娘、息子、私の家、私の記憶の中の全てです、様々な快楽や苦痛―なぜ精神はそれとそれほど一体化するのでしょうか、従って精神はそれになっています―なぜですか? お手上げにならないで下さい、我々は探究しています、明らかにしようとしています。それはそれが何かに占められているからですか? お分かりでしょうか? 精神の中が家で、セックスで、知識で占められているのですか、それが何であろうと問題ではありません、それは何かに占められる必要があります、なぜなら、もしそれが何ものにも占められていないとすると、何が起こりますか? あなたはこれらのことが分かりますか? 私は家具で占められています、私はそれを奇麗にしておきます、私はそれに気を配ります、それは私のものです、誰にも触らせません、あなたはそれら他の全てを知っています、それはそれに占められています―あなたはセックスに囚われているかもしれません、あるいは料理に、神に、国家に囚われているかもしれません、それらはみな同じです、何かで塞がれることはみな同じことです。塞がれることに上品も下品もありません。我々はただ何かに占められることを話し合っているだけです。下品なものに占められてもたらす結果もあれば、上品なものに占められてもたらす別の結果もあります。我々は様々な結果のことを話しているのではありません、我々はなぜ精神が何かに占められる必要があるのかを話しています。あなたは分かります、それが何かに占められているとき、それはそれが生きていると感じると、それは活動していると、それは働いていると、そこには現実感があると。違いますか? 私が話しているのは...これは私の私自身との対話になっています! そして私は言います、なぜそれは何かに占められるのかと。なぜなら、それは言います、私が何にものにも占められていないとすると、何が起こるのかと。
Q それは存在しません。
 ちょっと待って下さい、ちょっと待って下さい。あなたは間違っています。彼は言います、それはもはや存在しないと。あなたは間違っています。あなたはそれを探究してきていません、あなたはすでに結論を下しています。なぜそれは何かに占められるのですか? それはそれが何かに占められているのが分かります、なぜなら、もしそれが何かに占められていないなら、何が起こるのか、ということです。あなたは答えが分かりますか? それは堕落します、なぜなら、あなたが何かに占められていると、あなたの精神は堕落するからです―そこです。お分かりでしょうか? そのように何かに占められることに何の新鮮味もありません、従って、あなた方の精神は、それらは日常の生の中で絶えず何かに占められているので、それらは堕落しています、鈍く、緩慢に、不活発になっています、活力を欠いています。
Q 何ものにも占められないこととは...
 私は分かりません。宜しいでしょうか、私は何ものにも占められないことを言っているのではありません。私はあなたに言いました―どうか、聞いて下さい。話し手が何か言います、そしてあなたは彼を遮って何か言います。それは間違った答え方です。私は言いました、精神は何かに占められていると、私はそれが分かります。私は私の周りのあらゆる精神が何かに占められているのが分かります。私は気づかなければならない、私は神のことを考えなければならない、私はカトリック教徒になる、私は朝から晩までこれやあれや他のことを行わなければならない、私はヒンズー教徒である、私は―お分かりでしょうか?―私は社会主義者である。私は何かに占められています―生計を立てるなどです。それではなぜ精神は何かに占められるのでしょうか? 何ものにも占められていない精神に何が起こるのでしょうか? あなたはそれを明らかにしたことがありますか?
Q それは分かります。
 あなたは何ものにも占められていない精神に何が起こるのかを自分自身で明らかにしたことがありますか?
Q それは空虚です。
 どうしてそうと分かりますか?
Q 私は知っています。
 あなたはそれを知っているのですか?
Q それはそれが何ものにも占められていないときは空虚です。
 それはそれが何ものにも占められていないときは空虚です。分かりました。それのどこが悪いのですか?
Q (聞こえず)
 おーっ、あなたたちは...あなたたちはただ言葉を吐いているだけです! 宜しいでしょうか、何ものにも占められていない精神に何が起こるのでしょうか? 宜しいですか、あなたは私の質問に答えていません、なぜなら、あなたは観念を扱っているからです、現実のことを、実際に起こっていることを扱っていないからです、質問はこうです、“私は探究してきました、私はこのことを検討してきました、何かに占められている精神に何が起こるのか、苦痛や快楽や成功すること、退屈さ、孤独、何らかの問題などに占められている生に何が起こるのか”ということです。もしそれが何らかの問題に占められていないなら、それは空虚な生ですか? もしそれが苦痛や快楽やあなたの神々などその他の全てに占められていないなら、それは堕落している生ですか?
Q いいえ。
 いいえと言わないで下さい、あなたはそのことを知りません。あなたはただ言葉を弄んでいるだけです。従って、精神が何かに占められていないとき、それは空虚な精神ですか、鈍感な精神ですか、堕落している精神ですか? 明らかにして下さい! 自分自身で試みて下さい。それを試して下さい、私は、例えば、何でしょう―お金やセックスや快楽に占められています。もしあなたがお金に占められていないなら、何が起こりますか? そうするとそれは他のものに占められます、違いますか? そしてそれは言います、いやはや、私は何ものにも決して占められないことを明らかにしたいと思いますと、そうすると何が起こりますか?
Q (聞こえず)
 おーっ、いいえ。
Q それは愛に満たされます。
 それは愛に満たされます。誰がそれを満たすのですか? 宜しいですか、紳士淑女たち、誰かが先日私に書いてよこしました、私は紳士たちに話しかけていて、私は紳士にだけ関心があると、従って私はフェミニストではないと。そして私はちょっとその気(け)があるに違いないと、なぜなら私はいつも紳士に言及するからと。何と馬鹿げた話だ、違いますか?
 宜しいでしょうか、紳士あるいは淑女たち、(笑) 私の生、あなたの生、人の生は台所で、家具で、夫で、セックスで、子供たちで、生計を立てることで、苦痛で、快楽で、不安で、恐怖で、失望で、何らかの傷で占められてきました。それが何かに占められることです。あなたは決して自分自身に言ってきませんでした、分かりました、私はそれが何かに占められていることが分かります、もし私がいかなるものにも占められていないなら何が起こりますかと。
Q (聞こえず)
 (繰り返して)私は何ものにも占められていない精神に何が起こるのか知りません。
 今日はいい日和です、いかがですか?
Q 恐らく新しい何かです。
 恐らく美しい何かです。
Q 新しい。
 新しい何かです。ただの言葉です。宜しいでしょうか、私は空腹です、そしてあなたは私に言葉を食べさせます。そのように、私はあなたの言葉は欲しくありません、私は食べ物が欲しいのです。あなたは空腹ではありません、従って、あなたはあなたの空腹を言葉で満たします。私は何かに占められていない精神に何が起こるのかを明らかにしたいと思います、どうにかして、何か一つに占められないのではなく、何一つ占めることがない精神です。
Q (聞こえず)
 私は降参します。私はこのことをあなたと共有したいと思います、なぜなら共有するときにのみ我々は発見するからです。しかしあなたは共有しません。あなたの中はいつも観念で一杯です、従ってあなたは共有する何も持ち合わせていません。もしあなたが幾分か探究しているなら、幾分か空虚なら、幾分か検討しているなら、あなたは共有するでしょう。しかしあなたはそうではありません、不幸にも、従って、あなたは言葉を投げかけているだけです、言葉を畳みかけているだけです。
 そのように、私は自分自身に問います、何かに占められている精神とは何かと、そしてもしそれが何ものにも占められていないなら何が起こるのかと。
Q もしあなたが何かに占められることを断ち切るなら、何が残るのですか?
 私は何かに占められることを断ち切るとは言いませんでした。お分かりですか、あなたはそのことをあなたなりに解釈しました。...お手上げです。宜しいでしょうか、私は非常に注意深くこれらのことを検討しました。私は文字通り気を付けていないあなたにこのことを繰り返すつもりはありません。
Q 私の精神が気づいているとき何らかの感情が生じます。
(少しの間)
 生を―生きることを―探究してきた精神に何が起こりますか、朝から晩まで何かに占められてきた生です、そして寝床で夢を見て、それらの夢を解釈します。それは何かに絶えず占められてきました。何かに占められていない瞬間はありません。そしてそれは死にも占められています―何が起こるのかと、従って、そこでもまた何ものにも占められていない瞬間は決して生じません。そこでこう探究します、精神が何ものにも全く占められていないとき何が起こるのかと。何が起こりますか? それは空虚ですか? そのような空虚は、それは堕落していますか? それは全くの空虚ですか? あるいはただ観察するだけで他に何もないのです。そしてそのような観察は観察されるものに占められている観察者が観察しているそれではないのです。そこには何がありますか? もし観察だけが生じているなら、何が起こりますか? 観察する対象は何ですか? 樹木、あなた、私、観察する対象は何ですか? 観察する何かがありますか? あるいはただ全く何もないのです。そしてそれがあらゆる人の恐れることです、全く何もないことです。そしてあなたはあらゆるものでありたいので、あなたはあらゆるものに占められるのです。そしてあらゆるあなたの問題がそこから生じます―全く存在しない、何ものでもないことです。
 宜しいでしょうか、もしあなたが話し手と一緒にそのことを検討したなら、そしてそれを共有したなら、あなたは生と愛と死が同じであることを見て取るでしょう。そしてそれを理解することはあの生と称する、生きることの途方もないものを理解することです―この生ではなく、全く異なる、いかなるものにも占められない生です、従っていかなる争いも生じません。そして争いとは無縁の精神は死から自由です。
 今朝はこれで十分です、私は話しました、いつものように。     ー1973年8月6日 ザーネン
ー『思考の限界ー知性のまやかし』『クリシュナムルティ・ノート

              ......

       時間の消滅1975年 4月19日 オーハイ

クリシュナムルティ 人は我々の全ての問題を余すことなく理解しなければならないと私は思います、一つ一つ解決するように努めるのではありません、なぜなら、全ての問題が関連しているからです、分離している一つの問題もないからです、他の問題から分離している一つの問題もないからです。そして時間や苦しみや死の問題を探究するとき、理解するとき、我々はそれを全体として、全体の働きとして理解しなければなりません、その一部分を取り上げて、それを理解しようとするのではなく、あるいは、死や美のそれを明らかにしようとするのではなく、むしろ問題の全構造を、全内容を取り上げて、その全体をどのように観察するのかを明らかにしようとするのでなければなりません。そのことを検討するとき“どのように”検討するのではありません。なぜなら、あなたが“どのように”と方法を問うや否や、あなたは再びメッソドシステムに囚われるからです、そのような時間の中に囚われるからです、ここからあそこというような時間の中に囚われるからです。
 そのように、我々は、もし宜しければ、この全体の問題を一つのユニットとして検討したいと思います、お互いに分離した何かとしてではなく検討したいと思います。私はあなたがこれまでこの問題を、時間が消滅するのかどうかを検討したことがあるのかどうかを知りません。時間は消滅しえますか? それともそれは継続する働きか何かですか? 太陽による時間と心理的な時間は別物です。我々は心理的な時間に縛られています。我々はそのような時間の奴隷です。そして恐らく我々は昨日や今日そして明日という太陽によるそれにも縛られています。我々は両方について話そうと思います、時計的な時間と心理的な働きとしての時間です。そして私はこの問題、つまり、時間は消滅しうるのかを理解することは非常に重要であると思います。あるいは、我々は昨日、今日そして明日という時間的に移り行くものだけではなく心理的なそれにも囚われなければならないのでしょうか? なぜなら、時間の問題を理解するとき、人はこの問題も理解するでしょう、この苦しみという問題も深く検討することになるでしょう。そして我々は、もし我々にできるなら、知的にそうするのではなく、人が遥か昔から解決しようとしてきている死の問題も理解することになるでしょう。
 我々がその奴隷である時間が消滅して、従って、時間から我々は自由になることがあるのかどうかを自分自身で明らかにすることが重要です、言葉によってそうするのではありません、それは何らかの知的な、分析的なプロセスではありません、むしろ、我々は非ロマンティックに、非感情的に、非感傷的に明らかにすることが重要です。太陽に基づく時間、昼と夜としての時間、ここからあそこへとしての物理的時間は必要なことです。そうでなければ我々は物事を調整できません、我々は合理的に生きられません。もし我々が物理的にどこへ行こうとしているのかが不明瞭なら我々は混乱してしまいます、我々は途方に暮れます。そのように、昨日、今日そして明日としての物理的時間は何かを計画するにも、何かを学ぶにも必要です。

              ......

クリシュナムルティ 心理的時間があります。そしてそれが途方もなく重要になります。その中には希望や理想、成就、執着、得失、心理的な進化発達の全問題が含まれます。それが我々の攻撃しているものです、暴力的にではありません。それが我々の話していることです。もし人がこのことを理解しないなら、時間としての心理的な働きを理解しないなら、時間には終わりがありません、従って、新しいことが何も起こりません、それは時間とは無縁です。宜しいでしょうか、我々が言ったように、これはトークではなく、むしろ我々はこのことを一緒に検討しています。不幸にも、話し手は壇上に座って、あなたが私を見えるように、そして私があなたを見えるようにしなければなりません。しかし壇上に座っていても、彼には何の権威も地位もありません、彼はあなたに何かを教えているのではありません、そしてあなたは彼から何かを学んでいるのではありません、従って、ここでは教師と弟子の関係は存在しません。それは精神の領域の中では権威がこの上なく破壊的であることを意味します。そのように、我々はこのことを一緒に検討しています、我々は一緒に歩んでいます、恐らく手に手を取って、友人として、熱心に、注意深く、愛情をもって、お互いを気遣って、そしてもしそう言いたければ、愛を抱いて話し合っています。そうすると何かを共有する質が生まれます。そのように、もしあなたが何かを共有していなくて、単に何らかの観念を収集蓄積しているだけなら、言われていることを共有する可能性はなくなります。それはとても明白であると私は思います。そのように、何かを共有することはあなたの責任です、単にある言葉を聞き、何らかの結論を下して、それらの結論に従って行動するだけではないのです。そうすると、それは言葉で何かを共有するだけであり、それには全く何の重要性もありません。
 そのように、我々は問うています、何らかの原理を心理的に目指す手段としての時間があるのかどうか、何らかの概念や何をすべきかを目指す手段としての時間があるのかどうかを、そのような時間は全く存在しないのかどうかを、心理的な明日が果たしてあるのかどうかを、そしてそのような意味での心理的な時間が消滅しうるのかどうかを問うています。宜しいでしょうか、このことを非常に注意深く理解して下さい、なぜなら、このことが死と苦しみの全問題を意味するからです。もし人がこの基本的な問題を理解しないなら、他のこと、愛や死や苦しみなど、それら全てが表面的なことになります。そのように、我々は根本的な問いを発しています、つまり、時間は心理的に消滅しうるのかどうかということです。あるいは、心理的に時間は何らかのゴールや目的や成就などその他の全てに向かう活動として必要なのかどうかです。問題が明確になりましたか?

               ......

クリシュナムルティ 話し手はそれら全てを問うています。あるいは、心理的未来はなくて、ただ全くのである時間の消滅があるだけなのかを。このことがお分かりでしょうか? あなたは分かります、我々が過去の中を、記憶の中を、過去のあらゆることの中を生きているのを、あるいは未来の中を生きているのを―私はあなたに明日会います、あるいは、それはどんなにか楽しいことでしょう、あるいは、それが過去に起こったことはとても不運でした、あるいは、私は過去とても幸せでした、そして私はそのような幸せを願います、そのような喜びを、そのような素晴らしいことが明日起こるのを願います。そのように、我々はいつも過去の記憶としての心理的時間に囚われています、あるいは、未来の希望に囚われています。それは記憶としての時間です、希望としての時間です、そして我々は全き今を生きることが何なのかを知りません。なぜなら、が生であり、それは過去のものでも未来のものでもないからです。私は明瞭に話していますか、言葉のことではありません。もしあなたが自分自身を観察するなら、もしあなたが自分自身に気づくなら、それがいつも我々の中で起こっていることです―過去と未来のことです。その中に苦しみが生じます。そこで私は明らかにしなければなりません、精神は探究しなければなりません、検討して今と我々が呼ぶところの時間とは無縁の状態があるのかどうかを明らかにしなければなりません。このことが生に深く関心を寄せて探究する人たちの脳裏に取りついてきました。それは愛が記憶なのかどうかを意味します―過去のものであろうと未来のそれであろうと、つまり、私はあなたを愛するでしょう、あるいは、私はあなたを愛してきましたと。そして私は愛がの何かであることを知りますか、理解しますか、あるいは、それに閃きますか、あるいは、それに気づきますか? あなたはお分かりでしょうか、我々はこのことを共有していますか? そしてなぜ我々は、人間として、この過去と未来の争い―それは心理的時間です―の中を生きるのでしょうか? 従って、過去を忘れようとする努力、未来を脇へ置こうとする努力、そして現在を生きようとする努力が生じます。つまり、私は現在を生きたいと思うのです。我々はそれの意味することを理解しないで、我々は我々に備わるあらゆる反射的反応にただ即座に従って、馬鹿げた、合理的な、愚かな、あるいは神経症的なことを今まさに行います、我々は我々の望むものは何でも行います、それが起こっていることです。
 そして我々は問うています、つまり、人が、人間が、精神が未来に目を向けている限り、それは希望を意味します、それは理想などの展開を意味します、それは真理でしょうか、それともそれは思考が作り上げた現実でしょうか? あなたはこのことがお分かりでしょうか? どうかこのことに付いてきて下さい。思考が何を考えようとそれは何らかの現実ですが、それは真理ではありません。現実は思考がやがてそれが現実になる何かを考える行為を意味します。それは何らかの希望の現実であり、何らかの目的の現実であり、何らかの理想の現実であり、何らかの悟りの現実であり、全てが思考の思い描いたものです。従って、思考がそのような現実を作り上げました。しかしそのような現実は真理ではありません。思考は真理について考えることはできません。宜しいでしょうか、生き方、いえ生き方ではありません、未来や過去とは無縁に生きることを明らかにする真理です。それを明らかにするためには―それが真理です―思考はそれを発明できません、従って、それは架空の現実になります。
 そうすると、精神はそれ自身を心理的な過去の傷やイメージや快楽そして心理的な未来の欲求や希望や願望の条件付けから解き放つことができますか、そのような精神はそれ自身の条件付けを解いてを、全き今を生きること―従って、それが真理です―が何なのかの真理を見つけることが、見て取ることができますか?

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クリシュナムルティ 心理的な苦しみがあります、私はあなたを愛しています、あなたは私を愛していません―それが何を意味しようと。私は孤独です、不安です、何かを恐れています、私が行ったことに苦しんでいます、そして私はそれを避けたいと思っていることなどです。あなたが愛する人を失う苦しみがあります―少なくともあなたはそれを愛と呼びます。そのように、この個人的な苦しみの苦悩があります、そして集団的な苦しみがあります。違いますか? 何らかの苦しみが世界中を覆っています、子供たちが殺されています、手足をもぎ取られています、戦争が起こります、戦争がいつまでも続き、次の戦争の準備がなされます。我々は驚くべき文明を築き上げてきました、そして我々はそれをひどく誇りにしています。そして、そのような苦しみが存在します、個人的そして集団的人間の苦しみが存在します。それでは、精神は、この狂気の、正気ではない世界に生きている人間として、あなたはそのような苦しみから抜け出せますか、完全に? 意識的にだけではなく、いかなる苦しみもない深さにまでそうできますか、なぜなら、苦しみが生じると自分自身に関わる個人的な関心が生じるからです。この自分自身に関わる途轍もない関心が堕落の要因です、いわゆる自己改善、自己成就です―私は正しいことをしているのか、私は何らかの悟りを成就するための正しいシステムに従っているのか、正しい方法を私に教えて下さい―あなたはこの途轍もない自己中心性を知っています、それが鈍感さや神経症的な悪循環に通じることを知っています―あなたはそれら全てを知っています。それでは苦しみの消滅は起こりますか? 苦しみが微塵もないときにのみ人は慈しむことができるだけです。
 そうすると、人は明らかにしなければなりません、このことを探究しなければなりません、精神はこの痛みや深い苦悩や悲しみから自由になりうるのかどうかを明らかにしなければなりません。それは精神を空虚に、鈍感に、愚かにするのではありません、その反対です。我々が心理的に苦しむとき、我々はいつもそれから逃げようとします、それが我々の条件付けです。私は心理的に苦しみます、そして私はそれについて何かを行わなければなりません、私は心理分析者を訪ねて話をします、それが今どきの聖職者です、尋ねて何かを行います―私は知りません―それを忘れるために教会へ、それから逃げるために、それから遠ざかるために行きます。どうかこのことに付いてきて下さい。それはエネルギーの浪費ではありませんか、違いますか? 事実からの逃避です。事実は苦しみが存在することです、あなたが苦しんでいることです、そしてあなたはそれから言葉を駆使して、合理的に、ロマンティックに逃げているのです、あるいは、あなたは事実から何らかのエンターテイメントに逃げ込もうとしているのです。それら全てはエネルギーの浪費です、それはあなたがそのことを見るのを妨げます。それに向き合って、そこに留まることです、神経症的にではありません、病的にではありません、病的なことや神経症的なことは逃げるときに生じます、それは何かを信じることであったり、誰かに見てもらうことであったり、書物を読むことであったり、分析して要因を見つけることなどであったりします―要因は、もしあなたが事実を見るなら、そこにあります、あなたはそれらの必要はありません―それは正にそこにあります。それでは精神は―それは苦しみから逃げるように条件付けられてきました、特にこの国ではそうです、キリスト教の世界では、それはその苦しみを誰か他の人に預けることです、そしてその誰か他の人を崇拝することです。インドでは人々は別の逃げ道を手にしています、それを彼らはカーマと呼ぶなど、他のあらゆる種類の何かを手にしています。それら全てはエネルギーの浪費です、従って、そのような事実を認識することです、その真理を見て取ることです、いかなる思考の働きとも無縁に余すことなくそこに留まることです―思考は言います、逃げろと―その苦しみに余すことなく留まることです。もしあなたがそうするなら、そこから熱気が生まれます、なぜなら、その熱気という言葉の意味は苦しみと根源的にリンクしているからです。

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クリシュナムルティ それではとは何でしょうか? 自己―それは“私”です―は消滅するのを恐れていますか? それら全ての消滅ですか? 私は恐れているので私はそれを先延ばしにします。それは私がそれを避けることです、私がそれから逃げ去ることです。それから逃げ去るのは時間です。お分かりでしょうか? それではもし私がそれから逃げ去らないなら、何が起こりますか? そうすると私が行ってきたあらゆることの消滅がです。お分かりでしょうか? 従って、死としての先のことと生きている現在との間の時間的間隙、ギャップが消え去ります。お分かりでしょうか? そうすると私は死ぬことの意味が分かります、それは私が作り上げてきたあらゆるものから余すことなく自由になることを意味します。我々は何かを理解しましたか?
 そしていつも不死の探究が生じます。人は不死を願って、この問いを決して発しません、つまり、不死になろうとして いるのは何なのかと。不死は私が読んできた書物の中にあるのですか? 名前ですか、歴史上の将軍や殺戮者などそれらの名前ですか? それでは不死とは何でしょうか? それは本当に自由になることを意味します、時間が余すことなく消滅したとき精神が死の観念から、そのような精神の質から自由になることを意味します。お分かりでしょうか? そのように、これら全ては、時間、苦しみそして死―分離したそれらではなく、それら全てが一つの全体として凝縮されている―そのような全問題を理解することの中に、そしてそれを生きることの中に意味をもちます。そうするとあなたは苦しみが途方もない熱気をもたらすことを自分自身で見て取るでしょう、熱望ではありません、熱望の名の下で行われる馬鹿げたことではありません。なぜなら、苦しみの灰の中からこの途方もない熱気が生まれるからです、そしてそれと共に慈しみが生まれるからです。そしてあなたが非常に非常に深く時間とは無縁の瞬間を、時間とは無縁の全体を理解したとき、言葉で理解するのではありません、知的に理解するのではありません、あなたはこの死の恐れとは無縁に生きることの意味を理解するのです、そして死ぬことは生きることであるのを理解するのです。宜しいでしょうか。 ―THE KRISHNAMURTI PODCAST