Quiv="Content-Type" content="text/html; charset=Shift JIS"> アウトサイダー―時間的蛸壺の外へ

アウトサイダー―時間的蛸壺の外へ

鳥居

    形而上の何かとは何でしょうか?

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クリシュナムルティ) それとは異なる取り組み方をしてみましょう。愛とは何でしょうか? 愛は記憶でしょうか? 楽しいことを思い出して、それに固執することでしょうか? 愛は快楽でしょうか? つまり、その快楽を混乱させ、取り去る何もかもが非常に危険な代物だということです。私はある人物を恐れます、あるいは、ある出来事を、あるいは、何らかの事故を恐れます、それが私の快楽を取り去るかもしれないからです、従って、私は抵抗しようと思います、そして、私は攻撃的になります。愛は収集蓄積された快楽でしょうか、その憤りや誘惑、攻撃性、防御を伴うそれでしょうか? あなたはどう思いますか? 愛は嫉妬、憎悪の一部でしょうか?
 あなたは自分自身で憎悪の問題を検討したことがありますか、つまり、誰かがあなたに害を及ぼして、あなたはその人を憎悪しますか? 憎悪は記憶です、違いますか? 五年にわたって、あるいは、二日前に、誰かが私に害を及ぼしました、私はその苦痛を、その悪事を覚えています、そして、私はそのことを考え続けます。憎悪は過去の何かです、違いますか? そして、愛は過去の何かでしょうか? 愛は知性的な何かでしょうか? 言わないで下さい、“おー、違います、そうではありません、それは心に由来します”と。もしそれが心に由来するなら、なぜ憎悪や嫉妬、妬み、分断、分離などが生じるのでしょうか、それは概念的な思考の結果です、その形、内容、姿を伴う言葉の結果です。そのように、ほとんどの我々にとって、愛は快楽です、思考によって収集蓄積されたそれです、思考によって継続性を与えられたそれです、そして、その快楽が歪められ、ブロックされると、それは嫉妬、憎悪、攻撃性、恐れなどに転じます、それらは全て思考の構造と性質の一部です。そして、私は、精神は、それら全てを死んでやり過ごすことができますか? 
 仮に、あなたが私を侮辱したとします、あるいは、私を称賛したとします、そうすると、私はそれを見ます、私はあなたの言うことに非常に詳細に耳を傾けます、それに注意を払います、それは本当かもしれませんし、そうではないかもしれません。もしそれが本当なら、私は即座にあなたの言ったことの正当性を見て取ります、なぜ私は傷つくのでしょうか? もしあなたの言うことが何らかのへつらいなら、私はそのへつらいの背後にあるかもしれない動機も見て取ります、そして、私はその真理を見て取ります。精神はそれら全てに気づくことができますか? 精神は、もしそれが過去によって目を眩まされているなら、それら全てに気づくことはできません。
 そのように、人は過去を嬉々として、容易に、いかなる格闘もしないでやり過ごすことができますか、ただそれをやり過ごすことができますか? あなたは知っています、美と愛が生まれるときのそのような沈黙を、過去に触れていないそのような沈黙を。美は過去で色付けされますか? 私は独り言を言っているのですか、それとも、あなた方はみなこの議論に参加していますか? あなたは参加していないと私は思います! それとも、あなたは完全に催眠術に掛けられているのですか?
質問者Q) 愛は不可知の何かです。
 そうですか? あなたはあなたの妻あるいは夫、あなたの家族を愛していませんか? あなたはあなたの国を愛していませんか、国家という既得権益を、そこでの銀行口座を、収集蓄積された知識を、あなたの家などそれら全てを、あなたはそれを愛していませんか?
Q それは愛ではありません、それは汚染されています。
 しかし、我々は言います、我々は愛していると。あなたは言いませんか、“私は私の妻が好きです”と。あなたは言葉遊びをしているのでしょうか? 宜しいでしょうか、困難なことの一つは、我々は物事と現にある通りに向き合いたくないということです。我々はとても恐れています、そしてまた、我々にはプライドがあり、我々は我々の生の中で生じることを実際に見ようとする謙虚さを持ち合わせていません。
Q 愛の中に過去の要素が含まれます、人は死んだ人をその人が存在しているかのように愛します。
 それは非常に興味深い質問です。一度、何年か前に、夫を亡くした婦人が訪ねてきて、言いました、“私は再び夫に会いたいと思っています”と。どうか、このことに耳を傾けて下さい、私は非情になっているのではありません。私は言いました、“どの夫にあなたは会いたいのですか、あなたと同衾した人ですか、あなたを支配した人ですか、仕事場へ行って詐取された人ですか、あるいは、言われることを行った人ですか、何かを恐れていた人ですか、どの人にあなたは会いたいと思うのですか”と。どうか、あなたが答えて下さい! 宜しいでしょうか、質問はこうです、誰かが死にました、そして、私は彼を、現在、愛しています。あなたがその人の中の、現在、愛するものとは何でしょうか? 私は非情になっているのではありません、私はただ事実を見ているだけです。
Q あなたはその記憶を愛します。
 それですか? 
Q それら全てを超えて、我々は非常に異なる何かを知る必要があります、より広い意識です、恐らく、本当の何かが生じます。
 それが本当のことですか? それら全てに気づくことによって、何かが我々に生じますか? 恐らく、そういうことでしょう。よく耳を傾けて下さい。我々がこう言うとき、“私は愛します”と、それは過去の記憶でしょうか? 私は私の息子を愛します、私の夫、私の妻を愛します、その人たちはもういません、死んでいます、そして、私はその人を現在愛します。私が現在愛するその人とは何でしょうか? それはその人の私の記憶です、その執着、その苦痛、その快楽、その喜び、その同伴意識、その優しさ、彼あるいは彼女が私の生の中にもたらした深い関係性の質です、それら全てはその人の記憶です、そして、私はその人を愛します。愛は記憶でしょうか?
Q それは未来の可能性を認識することではないのですか?
 そうですか? 愛は時間でしょうか? つまり、愛は私の夫の記憶でしょうか、昨日の、過去の私の妻の記憶でしょうか? そして、私はユートピアを愛します、未来のイデオロギーを愛します、しかし、それは依然として何らかの記憶であり、何らかの思考です。愛は何らかの思考、言葉、方式でしょうか? 私は何らかの方式を愛するかもしれません、しかし、それは愛でしょうか? そこで、人は問います、愛は時間を出自としますかと。お分かりになりましたか? 明瞭になりましたか? 過去や未来、それぞれの記憶、それぞれの希望を携えたそれは愛でしょうか? 愛は時間を出自とするのでしょうか?
Q 死んでいる人と創造的な関係性をもつことは不可能でしょうか、なぜなら、彼あるいは彼女は生前の関係性に起因する争いごととは無縁に見えるからです。
 可能ですか? 彼あるいは彼女が生きているときには、私はそれを手にしませんでした、しかし、今、私は彼と創造的な関係性を作り出そうとしています、それはどういう意味でしょうか? それは全く何と悲しいことでしょうか、違いますか? 違いますか? 我々は様々な観念、概念、方式の中を生きています、そして、我々は愛が何であるのかを知りません。そこで、我々は問うています、つまり、愛で見ることが可能か、ということです。耳を傾けることは、この意味で、見ることと同じです。過去の重荷から解放された精神の質で、そのような愛の気遣いで見ること、耳を傾けることは可能でしょうか? 可能ですか? もしそれが不可能なら、そうすると、我々の致命的な悪循環から抜け出すすべはありません。我々は、そうすると、囚われの身です。そして、その牢獄の中で、我々は自由について、神について、愛について、真理について語ります、しかし、それには全く意味がありません、それは単なる見せかけでしかありません、そして、そうすることで、我々は偽善やプライドを育みます。愛はそれら全てと何の関係があるのでしょうか?
Q 私にはこう思われます、我々が我々は愛すと言うとき、無意識的に、我々は過去の何かを考慮していると。我々の、我々の妻や友人、家族、国家への執着は、我々の知っている何かへのそれです、そこで、我々は未来を恐れます。我々は我々の知っていることに執着します、なぜなら、我々は怖いからです。
 その通りです。あなたは言っています、つまり、私の愛は何らかの執着であると。はい、そうです、それが我々みなの言うことです。私の愛は私の家族への、私の家への、私の大切な記憶への執着です、私は手放すのを恐れます、なぜなら、手放すと、私は一人になり、そうすると、私に恐怖心が生じるのが分かるからです。そのように、その孤独、その恐怖心が執着から自由になることを妨げます。私は脱執着を試みます、それはずる賢いまやかしです、なぜなら、私は執着を手放すことができません、私は私の孤独を恐れているからです、私の虚しさを恐れているからです、何事も新鮮な質をもって見ることを恐れているからです。そのように、私はあらゆるものにしがみつきます、私の記憶に、私の仕事に、私の信念に、私の神々に、私の経験に、私の家族に、私の国家にしがみつきます、おーっ、あなたはそれら全てのことを知りませんか?
Q 宜しいでしょうか、別の質問があります。私がしがみつくものを、私は本当にそれらを知っているのか、それとも、私は知っていると思うだけなのか、ということです。
 その通りです。私は本当に私がしがみついているものが何なのかを知っているのでしょうか? 私は私の家にしがみついています、このことに耳を傾けて下さい、私はしがみつきます、私はその家にしがみついています、私がその家です! 違いますか? あなたは馬に乗っている人を見たことがありますか? あなたはそれをこれまで見たことがありますか? その馬は馬上で馬にしがみついている人よりもはるかに威厳があり、遥かに美しく、愛らしく、新鮮です!(笑) その人は馬です、しかし、その馬はその人ではありません。(笑) そのように、あなたがあなたの家具に執着しているとき、おーっ、何と! ただそのことを考えて下さい! あなたはその家具です、あなたはその絵画です、あなたはあなたが執着しているそれらです、そして、それは意味のないことです。問題はこうです、いかに明瞭に見るのかということです、そうすることによって、愛がいかに開花するのか、ということです。宜しいでしょうか、愛と美なしに、真理は存在しません、神は存在しません、非道徳になる道徳が生じるだけです。
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       首無しの赤い鳥居の丹田とは何でしょうか?
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 そうして、あなたは家に帰っていきます、あなたはそこで何を行おうとしているのでしょうか? あなたは衣食住を手にする必要があります、あなたは新鮮な精神と充溢する心で家に帰れますか? 恐ろしいことが世界で起こっています、そして、我々はみなその一部です、我々はそれを作り出してきました、家で、国家で、軍隊で、政治家たちで、歪んだ思考で、偽善で、それら全てに我々は責任があります、ヴェトナムのアメリカ人とそこでの戦争ではありません。あなたと私に正に責任があります。あなたはそれら全ての愚行、この上ない大混乱をやり過ごして、花咲くことができますか?
                   ―1968年 8月6日 ザーネン
                   THE FLIGHT OF THE EAGLE