クリシュナムルティ 我々は、なぜ人間が、この我々の周りに驚くべき世界を抱えている人間が、つまり、その美、その途方もない自然、その水の性質、鳥たち、海や大地、そして、人間の頭上の空と天空などを抱えている人間が、なぜ人間はあらゆるものをその狭い、小さな原子に、その小さなものに矮小化してきたのかを真剣に検討しています、そして、それについて途轍もない書物をものにし、そして、それをいかに取り除くかのか、何をすべきか、実践し、瞑想し、否定し、断食し、あらゆることを行って、その小さな“私”をいかに取り除こうとしてきたのかを検討しています。自己犠牲の不毛さ、“私”の否定の不毛さ、そして、それ自身を何か他のものと、家族や国家、信念、神、国際的な...などと同一化することの不毛さ―お分かりですか、数知れない形の同一化です―それらは問題を解決しないでしょう。何がこのことを解決するのでしょうか、とても腐敗していて、いつも力や地位、権威を追い求めていて、あらゆるものをそれ自身のために手中に収めようとしている、知識を更なる成功や更なる力、更なる耽溺などのための手段として用いているそれを解消するのは何でしょうか?
それでは、我々は実際に観察できますか―“私”という観念だけではなく、その中心の観念だけではなく、感覚の働きも、様々な感覚の働きも、その実際の知覚の働きも観察できますか? それらの知覚、触覚などそれら全ては、それらの知覚は存在します、実際に働きます、働くに違いありません、あなたは知覚の働きを否定できません。しかし、思考がそれ自身をそれらの知覚と同一化するとき、その中心の構造が形成され始めます。宜しいでしょうか。どうか、これは知的な観念ではありません、ただの普通の日常的な事実です、もしあなたが諸々の知覚を観察するなら。人は何らかの食べ物が好きです、飲酒や喫煙、何らかの薬物を好みます、そして、思考は、そうすると、それ自身をその特定の食べ物と、そして、その味わい、その香りと同一化します、そして、その同一化で、その同一化の中で、中心が形成されます。それは明らかです。
それでは、あなたは観察できますか―どうか、このことに耳を傾けて下さい、それは非常に興味深いことです、もしあなたがそれを検討するなら―あなたは感覚の働きを観察できますか、それが性的なものであれ、それが食味のことであれ、聴くことや見ることであれ、あなたはそれらの通常の自然な感覚の働きを同一化とは無縁に観察できますか? お分かりでしょうか? あなたはこのことを理解しますか? 私は何か奇妙な、神経症的な、気味の悪いことを言っているのでしょうか? それを理解するのは非常に重要なことです、なぜなら、我々はこの同一化の問題を検討するからです。同一化が生じないところには、中心は生じません。違いますか? それは、この絶え間ない私の諸々の感覚との、私の身体との、私の思考との同一化です―お分かりですか―その同一化の全活動です、執着である同一化です、不分離の執着としての同一化です、そして、あらゆる連想との同一化です、そうすると、この同一化は何らかのエネルギーの働きです、そして、そのエネルギーは益々限られたものになります、そして、それがその当の中心です。違いますか?
そこで、我々は問うています、つまり、思考がそれ自身を何らかの知覚と同一化するいかなる形の思考とも無縁に、感覚を観察することが生じるでしょうかと。お分かりでしょうか? 知覚は自然なことです。もしあなたが知覚しないなら、あなたは全く麻痺しています―恐らく、ほとんどの我々がそうです、ただの一つの方向にしか目を向けていません、性的なそれか、あるいは別の方向です。しかし、我々はあらゆる感覚の働きのことを話しています、一つの特定の感覚ではありません。もしあなたがその論理を、その理由を見て取るなら、思考がそれ自身を何らかの知覚と同一化するや否や、あるいは、あらゆる知覚と同一化するや否や、そのような同一化は、壮大なエネルギーをその狭い隘路に導きいれる働きです。違いますか? 私は説明しましたか? 私はそれを明瞭にしましたか? 私ではありません―話し手はいません。これは我々の間の議論であるにすぎません、二人の人間として、我々はこのことを発見しています―あなたが発見しています、話し手ではありません、話し手はいません。そのように、あなたは発見しています、いかなる形の同一化も、感覚とだけではなく、家族や国家、観念、結論などとの同一化は、その壮大なエネルギーを矮小化して、それ自身を限界づける始まりであると、従って、それは生の壮大な働きに反抗していると。違いますか? 一息入れても宜しいでしょうか?
そのように、我々は、あなたがそこに座っていて、問うています、つまり、あなたは、あなたの感覚をいかなる同一化とも無縁に観察できますかと。あなたの身体との同一化です―宜しいでしょうか、それは、我々が検討していることは、非常に、非常に真剣なことです。もしあなたが耳を傾けたくないなら、そうして下さい、他の何かについて考えて下さい。しかし、もしあなたが耳を傾けるなら、あなたの心で、あなたの精神で、あなたの全存在で耳を傾けて下さい、なぜなら、我々は途轍もないエネルギーの解放の問題を検討しているからです、それは、今、非常に非常に小さくて狭い隘路の牢獄に追い込まれていて、そこから我々は行動しているからです。そして、感覚との同一化が生じているだけではなく、従って、身体との同一化も生じていて、そうして、何らかの名称との同一化もまた生じています―勿論です。たとえあなたが自分自身に新しい名前を与えても、あるいは、新しい番号を与えても、それは依然として同一化であり(笑)、それは聖職者たちなどが行う類のことです。なぜ思考は絶えずそれ自身を何かと同一化するのでしょうか? あなたは私の質問を理解しますか―それはあなたの行っていることです、つまり、“私の妻”、“私の息子”、“私の家族”、“私の彼女”、“私の彼氏”、“私の家”、“私の資質”、私は多くのことを経験してきました、私はその経験に固執しなければなりません、私は自分自身をキリストと、クリシュナと同一化します、お分かりですか、同一化する対象があらゆる領域に及びます。なぜ思考はいつもあれやこれやと同一化するのでしょうか?
あなたは、もしこう問わせていただければ、話し手としてではなく、あなたは自分自身に問うているのでしょうか、あなたはなぜ自分自身に問わないのでしょうか? なぜ私は自分自身を何らかの形と、名称と、私が収集してきたあらゆる経験と同一化するのでしょうか、あるいは、未来の何かに同一化するのでしょうか? なぜでしょうか? なぜ思考はいつもそうするのでしょうか? “私の家”、“私の妻”、“私の信念”、“私の神”、“私の国家”、“私はイギリス人”、“あなたはフランス人”、“私はドイツ人”、“あなたはロシア人”―お分かりでしょうか? なぜでしょうか? それは、絶えず流動している思考は―どうか、明らかにして下さい、私はただ検討しているだけです、明かにして下さい―思考は絶えず流動しているので、それは絶えず活動しているので、何らかの安全性を手にする必要があるからでしょうか? 検討して下さい、どうか、...は止めて下さい。あなたは検討しています、あなたは自分自身にこのことを問うています。あなたがこう言うとき、“それは私の家である”と、そうすることによって、それはあなたに何らかの確かさ、安定性、安全性をもたらします。思考がそれ自身をその家と同一化するとき、それは必要なことです―違いますか―そのことはそれに安全性をもたらします、保護されている感覚、安心感、守られている感覚をもたらします、家と物理的に同一化することで、そのことはそれに安全性をもたらします。しかし、それをよく見て下さい。物理的に必要とされる同一化が心理的なそれへと移行します。違いますか? そちらでは必要なことが、こちらでは全く必要ではないかもしれません。しかし、我々は絶えずそうしています―そちらの必要性から―衣類の必要性から、私は自分自身を私のズボンあるいはシャツやブラウスや衣類のその他と同一化してはいないけれども、しかし、そのような執着、物理的な必要性が、その必要性が心理的な領域へ移行して、そこで、あなたはこう言います、“それもまた必要なことである”と―それはそうではないかもしれません。あなたはこのことが分かりますか?
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質問者 人はどのようにして真実を、真理である経験の正確で不変な意義を、誤ることなく知る、あるいは、感じるのでしょうか? 私がそれは真理であると気づいて、感じるときは、いつでも、私がそれを伝えようとする誰かが私に告げます、私は単に自己欺瞞的であるにすぎないと。私は理解したと私が考えるときは、いつでも、誰かがいて、私は幻想を抱いていると私に告げます。私自身について何が真理であるのかを知る方法があるのでしょうか、錯覚ではなく、自己欺瞞ではなく。
クリシュナムルティ いかなる形の同一化も幻想に至るに違いありません。精神疾患による幻想と心理的な幻想があります。我々は精神疾患による幻想とどのように向き合うのかは知っています。人が人はナポレオンであると考えるとき、あるいは、偉大な聖者であると考えるとき、あなたはどのように対処するのか知っています。しかし、心理的な同一化や幻想は全く異なります。政治家が、宗教者が、自分自身を国家あるいは神と同一化します。その人は国家です、そして、もしその人に何らかの能力があるなら、その人は他の世界にとって悪夢です、平和的であろうと暴力的であろうと。様々な形の同一化があります、つまり、権威との同一化、国家との同一化、観念との同一化、信念との同一化、そうすることによって人はあらゆる種類のことを行います、イデオロギーとの同一化があり、そのために、あなたは進んであらゆる人とあらゆるものを犠牲にします、あなた自身とあなたの国を含みます、あなたの願うことを成就するためです、ユートピアとの同一化があり、そのためには、あなたは他の人々を何らかのパターンに従わせます。そうすると、それを実践する者の同一化が何らかの異なる役割を果たします。そして、ほとんどの我々はその立場から行動し、何らかの態度を表明します、それが意識的であろうと無意識的であろうと。
そのように、我々の難しさは、我々が我々自身を国家と、政治的党派と、プロパガンダと、信念と、イデオロギーと、指導者と同一化することです―それら全てが一つの同一化です。
そして、我々自身の経験との同一化があります。私は何らかの経験をしてきました、わくわくする経験です、そして、私がそれを思い起こせば思い起こすほど、それが更に強烈になり、更にロマンティックになり、更に感傷的になり、更にそれが曖昧になります、そして、それに私は神という名称を与えます―あなたはそのような数え切れないほどの自己欺瞞の有様を知っています。確かに、幻想は私が何かに執着するときに生じます。もし私が何らかの経験をしていて、それは済んだことで、終わったことであっても、私がそこへ思いをはせると、私は幻想の中にいます。もし私が何かが繰り返されることを望むなら、もし私が何らかの経験の繰り返しに固執するなら、それは必ず私を幻想へと導きます。そのように、幻想の基礎は同一化です―何らかのイメージとの、神の観念との、何らかの声との同一化です、あるいは、我々が執拗に執着する経験との同一化です。それは我々が執着する経験との同一化というより、我々が経験しているその瞬間の我々が経験したその経験の知覚との同一化です。その人自身の周りに様々な同一化のメソッドを築き上げてきた人は、幻想の中を生きています。何らかの知覚のために、その人が執着する観念のために、何かを信じる人は、必ず幻想の中を、自己欺瞞の中を生きることになります。従って、あなたが顧みる、あるいは、拒絶するあなた自身についてのいかなる経験も必ず幻想に至ります。幻想が止むのは、あなたが経験を理解して、それに執着しないときのみです。その所有欲が幻想の、自己欺瞞の基礎です。あなたは何かであろうと願います、そして、その何かであろうとする願望が―幻想的プロセスを、自己欺瞞のそれを理解するためには―理解されなければなりません。もし私が私は偉大な教師に、偉大な何かの達人に、来世でブッダに、X、Y、Zになると考えるなら、あるいは、もし私が私は今正にそれであって、それに執着していると考えるなら、確かに、私は幻想の中にいるに違いありません、なぜなら、私は観念である何らかの知覚を糧に生きているからです、そして、私の精神は、それが誤りであろうと真実であろうと、観念を糧にしているからです。
どのようにして人はあるときの経験が真理であるのかどうかを知るのでしょうか? それは問いの一部です。なぜあなたはそれが真理であるのかどうかを知りたいと思うのでしょうか? 事実は事実です、それは真実か、あるいは、誤りかではありません。私が事実を私の知覚に従って、私の思考に沿って解釈したいと思うときにのみ、私は幻想の中に踏み入ります。私が怒っているとき、それは事実です、自己欺瞞の問題は生じません。私の欲望が強いとき、私が貪欲であるとき、私が苛立っているとき、それは事実です、私がそれを正当化し始めるときにのみ、そのための説明を見つけようとし始めるときにのみ、それを私の偏見に従って私に優位に解釈しようとし始めるときにのみ、あるいは、それを避けようとし始めるときにのみ―そうするときにのみ、私はこう問う必要があります、“真理とは何か”と。つまり、我々が事実に情動的に、感傷的に、何らかの思考を働かせて取り組むや否や、我々は幻想と自己欺瞞の世界に足を踏み入れます。事実を見て、それら全てから自由になるためには、途方もなく見守ることを要します。従って、この上なく重要なことは、自分自身で明らかにすることです、人が幻想や自己欺瞞の中にいるのかどうかではなく、人が同一化する願望から解放されているのかどうかを、あなたが経験と称する何らかの知覚を手にしたいと願うことから、繰り返しや所有すること、あるいは、何らかの経験に立ち返る願望から解放されているのかどうかを明らかにすることです。結局、一瞬一瞬、あなたは自分自身を現にある通りに知ることができます、事実として、思考のスクリーン―それが知覚です―を通してではなく。あなた自身を知るためには、真理を、あるいは、真理ではないことを知る必要はありません。あなた自身を鏡で見るためには、そして、あなたが醜いのか美しいのかを見るためには、事実として、ロマンティックにではなく、そうするためには、真理を要しません。しかし、ほとんどの我々にとって、難しいのは、我々がそのイメージ、その表現されているものを見るとき、我々はそれについて何かをしたいと思うことです、我々はそれを変えたいと思うことです、それに異なる名称を与えたいと思うことです、もしそれが快いものなら、我々はそれと同一化します、もしそれが苦痛なら、我々はそれを避けます。そのプロセスの中に、確かに、自己欺瞞が潜んでいます、そのことをあなたは幾分か分かっています。政治家たちはそうします、聖職者たちはその人たちが宗教の名の下で神を語るときそうします、そして、我々自身も同様です、我々が観念的な何らかの知覚に囚われていて、それらに執着するとき―それは真実である、それは誤りである、師たちは存在する、あるいは、存在しない―それら全てはとても馬鹿げていて、未熟で、子供じみています。しかし、事実が何であるのかを明らかにするためには、人は途方もない注意深さや、その中に非難や正当化の存在しない気づきを必要とします。
そのように、人は言えます、人は自分自身を欺くと、そして、幻想が生じると、国家や信念、観念、人物などと同一化するとき、あるいは、何らかの経験―その経験の知覚―を繰り返そうとする願望が生じるとき、あるいは、人が子供のときへ帰って、そのときの経験を、その喜びを、それに近いものを、その感受性を繰り返したいと思うとき、あるいは、人が何かでありたいと思うとき。自分自身によっても、他の人によっても欺かれないことは極めて難しいことです、そして、欺くことが止むのは、何かであろうとする願望が生じないときのみです。そうすると、精神は物事を現にある通りに見ることができます、現にある通りの意義を見て取ることができます、そうすると、偽りと真実との間の戦いがなくなります、そうすると、偽りとは別に真理を探し求めることがなくなります。そうすると、重要なことは精神のプロセスを理解することです、そして、その理解は事実に基づくのであり、理論的でも、感傷的でも、ロマンティックでもなく、暗い部屋に入って、それをあれこれ考えて、イメージやビジョンを手にすることでもないのです―それら全ては真実とは何の関係もありません。そして、ほとんどの我々が、感傷的で、ロマンティックで、何らかの知覚を探し求めているように、我々は様々な観念に囚われています、そして、それらの観念は現にある通りの何かではありません。そうすると、様々な観念―それは様々な知覚です―から解放されている精神は、そのような精神は幻想から解放されています。
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クリシュナムルティ そこで、人は非常に、非常に、深く、ゆっくりと、躊躇しながら、いかなる結論とも無縁に、検討し始めます。宜しいでしょうか? 第一級の弁護士や外科医のように、その人のあらゆる概念を持ち込みません。その人は、最初に、そのケースの検討に入ります―そのケースとは我々です、我々は問題を抱えています。そのように、我々は我々の問題が何であるのかを非常にはっきりさせなければなりません、それを私は問い始めます、我々は何であるのかを。我々はとても散漫で、情動的で、感傷的です、ですから、我々はいつも問題に自分なりの色を施しています、それを、非常に、非常に、狭い、限られた視点から見ています。そうではありませんか? そこで、人は、非常に慎重に注意深く検討する必要があります、なぜ人間はそれほど破壊的に自分自身を何かで占めるのか、そのことを検討して、そして、そのように何かで自分を塞ぐことから、全く完全に自由になることが可能かどうかを検討する必要があります。自由とは自己の完全な解消です。そうすると、自由が生じます。我々はそれら全てを検討しようと思います。ひゅー! おーっ、確かに、暑いです!(笑)
人はこの自己中心的に何かで自らを塞ぐことの実際の危険を見て取りますか? そのように自らを何かで塞ぐことは、それ自身を国家や何らかの集団、何らかの理想や信念と同一化することかもしれません。それは同じプロセスです。このことが明瞭であることを願います。私が自分自身を何らかの集団や観念、信念、結論と同一化するとき、そのような同一化は自分自身で自らを塞いでいることの正に当の本質です。違いますか? 人が何かで、例えば、インターナショナリズムで占められるとき、あなたは自分自身を自分自身で塞ぐことから、あなた自身を他の何かで占めることへ移行しています。従って、そのような同一化は依然として自分自身を何かで塞いでいることになります。このことは明瞭でしょうか? 私が自分自身をキリストあるいはイエスあるいはクリシュナや何かと同一化するとき、私は依然として私自身をそれと同一化するプロセスの中にいながら、それは依然として私を私自身で塞ぐことです。このことは明瞭でしょうか? 宜しいでしょうか? もしそれが明瞭なら、我々は先へ行けますか?
そうすると、問題の核心は、人は、健全に、正気に、ハーモニアスに、何かと同一化することなく存在できるかどうかです、外面的だけではなく、内面的にも―私自身を私の経験と同一化したり、人自身をその家族や信念、慣習などと同一化したりすることです。それは人がこの世界をいかなる同一化もせずに生きることができるのかという意味です。それは人が外面的にも内面的にも、いかなる意味でも、何かに占められないで、何かと同一化しないでハーモニアスに生きられるのかという意味です。このことは明瞭でしょうか? 我々がその点について取り組む前に、最初に、問題をはっきりさせましょう。人が自分自身で塞がれているとき、人の身体で、人の美で、人の目で―お分かりですか、絶えず自分自身で塞がれているとき―あなたはあらゆる関係性を実際に否定します、あなたは誰かと同衾するかもしれませんし、あなたは誰かと手と手を取り合って、こう言うかもしれませんが、“あなたは何て素敵なの”と―それら全てです、しかし、その同一化のプロセスは人間を分離します。そして、そのことから、暴力や戦争、人種間の分断などあらゆることが生じます。違いますか?
そうすると、次の問いはこうです、つまり、この世界を日常的にいかなる意味の同一化もせずに生きることは可能か、ということです。諸々の感覚―身体―とだけではなく、名称やあらゆる過去、引き継がれてきている何か―お分かりですか―イギリス人、ドイツ人、あらゆる過去のあらゆる歴史、それら全てから完全に自由になって、それでも、日常生活の活動とハーモニアスに生きることは可能か、ということです。この問題は、今、明瞭でしょうか?
最初に、話し手はいません、我々が先日指摘したように。あなたはあなた自身に話しています、あなたはあなた自身を見ています。話し手は鏡かもしれません、しかし、その鏡には何の価値もありません。あなたは電話で話します、しかし、電話それ自体には非常に少しの重要性しかありません。電話であなたが話す内容が重要です。そのように、同様に、話し手はここにはいません。あなたはあなた自身と話しています、あなたはあなた自身を観察しています、あなたはあなたがあなた自身で塞がれていることを観察しています、そして、あなたの日常の活動の中で起こるそのようなことの結果を観察しています、そのことが作り出しているそのような世界の大混乱を観察しています。人々が自分自身をロシアと同一化するとき、何らかのイデオロギーと同一化するとき、あなたは酷く残酷になります、あなたは進んで人々を拷問に掛けるなどします―我々はそれら全てを検討しません、誰もがそれについて知っています。あらゆる雑誌が、あらゆる新聞がそれら全てを記事にしています。
そこで、次の問いはこうです、つまり、精神は、それが獲得して貯め込んできていて、それに執着している知識と余すことなく手を切るだけではなく、精神はそれでも孤立しないでいられるのかどうか、ということです。なぜなら、人はこう考えるからです、もし人が自分自身何かに占められていないとすると、あなたは他の人たちといかなる関係性ももたないで、あなたは全く完全に孤立すると。それらは全て概念であり、結論であり、理論です。そこで、我々の言っているのはこうです、つまり、精神は、頭脳や感覚器官を含むそれは―我々が“精神”という言葉を使うとき、私はそれら全てを含んでいます、頭脳であり、思考の働きであり、知識として収集蓄積された経験であり、記憶であり、思考の全活動や諸々の感覚など、それら全てが精神です、それは本質的に意識です―違いますか?―そのような精神は、それはとても幾千年と条件づけられてきています、なぜなら、我々の精神、頭脳は非常に、非常に、非常に古くて、あなたが生まれた時からあなたが獲得してきたそれは新しい何かではありません、それはそれ自身をそれ自身で占めるようにしっかりと条件づけられている途轍もなく古い精神です、そのような精神はそれ自身を完全に過去から―それは知識や伝統、受け継がれてきたものなどそれら全てを含みます―自由にして、日常生活をハーモニアスに、健全に、生き生きと生きることが可能か、ということです。それは可能でしょうか? 宜しいですか? あなたは問題を理解していますか? 中東で起こっているイスラエル人とアラブ人との間のアイデンティフィケイションの問題があります、ロシア人が何らかのイデオロギーで占められていて、人をそのイデオロギーに沿って、その人をそのように形づけるよう強いるとき―それは破壊的などの権威主義的な専制主義です。人はそのように自己が何かで占められることの途轍もない危険を、人間を破壊しようとしているそれを見て取ることができますか?
そうすると、問題はこうです、つまり、それら全てのもつれをどのように解きほぐして、どのように解いて、それら全てを脇へ除けるのか、ということです。違いますか? それでは、あなたの答えは何でしょうか? 私はそれを答えていません、あなたが答えています。あなたは鏡の中を見ています。話し手はいません。あなたが見ていて、そして、それらの問いに答えています。もしあなたがこの問いを発して、鏡を見ているなら、あなたはこう言うかもしれません、“何と言うか、それは不可能です”と―それは反射的な反応です、それは不可能ですと言うのは。もしあなたがそれは不可能ですと言うなら、あなたはあなた自身を遮っています。違いますか? それは自然なことです、違いますか? しかし、もしあなたがそれは可能ですと言うなら、それもまた、あなたはあなた自身を遮っていることを意味します。ネガティブなそれもポジティブなそれも両方とも問題を避けるやり方です。違いますか? そこで、あなたは鏡を見ています、話し手はいません、そして、あなたは受け入れることも否定することもしません、それは可能とも、それは不可能とも言いません、しかし、見ています。
そうすると、ここで問題が生じます、あなたは実際に見ているのか、それとも、あなたはあなたが思い描いてきた何らかの観念を見ているのか、という問題です。あなたは私の問いを理解しますか? あなたは実際に鏡の中を見ているのか、それとも、あなたは何らかの結論あるいは観念、あるいは、何らかの希望を手にして見ているのか、そして、そのような希望を通して、そのような観念を通して、そのような結論を通して、あなたはあなた自身を見ているのか、という問題です。お分かりでしょうか? あなたがそのように行うとき、あなたは見ることができません。もし私があなたについて何らかの偏見を抱いているなら、なぜなら、あなたが白いシャツあるいは青いシャツを着ているから、あるいは、あなたが縮れた髪の毛をしているから、あれやこれやだからと、そうすると、私は見ることができません、私の言う意味は、そうすることは全く愚かなことで、もし私があなたと触れ合いたいと思うなら、それは不可能だということです、しかし、私の言うのは、自分自身を鏡の中に見て、鏡の中の自分自身で答えを見つけるという意味です、なぜなら、誰もそれに答えてくれないからです。そうすると、あなたはこう言うかもしれません、“なぜあなたはここにいるのですか? もしあなたが話し手としてその問いに答えないなら、一体全体、私は何のためにここに座っているのか”と。それは自然な反応でしょう。しかし、我々が言ったように、我々は人間です。我々が直面しているこの計り知れない問題があります、危機があります、危険があります、破壊があります、そして、正気で、健全で、真剣な人々はこの問題に答えなければなりません、それら全てのことから答えを見つけなければなりません。そこで、話し手のいない鏡を見ながら、あなたは言います、それは本当に可能なのかと、その習慣的で、絶え間ない、見たところ取り返しのつかない、その何かで占められる活動から抜け出すことが可能なのかと。宜しいでしょうか?
そうすると、あなたは鏡を見ているのでしょうか、それとも、あなたはあなたの前に鏡があるという観念を見ているのでしょうか? その違いが分かりますか? 分かりますか? その観念、それは事実ではありません。その観念は事実の抽象であり、事実から遠のく活動です。そのように、もしあなたが答えを見つけることが、差し迫っていて、真剣なこととして、ひどく重要であるなら、観念には居場所はありません、あなたは実際に見ています。そうすると、何が起こりますか?
......
クリシュナムルティ 私はこの途方もない状態の真理を一緒に明らかにしたいと思います。どうか、これは我々の行っている非常に真剣なゲームで、それはチェス以上の、サッカー以上の、あらゆるもの以上のゲームです。それはゲームです―我々はゲームを喜んで行っています、そのゲームを楽しんでいます、従って、明かにしたいと意気込んでいる精神はこう言いません、“私は私が来世を行きたいと思うので明かにしなければならない、私は死が恐ろしい、従って、どうか、私にもっと何かがあるのかどうかを告げて下さい”と。それはゲームを行っているのではありません。そのように、我々は一緒にそれらの真理を明らかにしようとしています。なぜなら、死はこの上なく途方もない経験に違いないからです、いわゆる愛以上の大いなる何かに違いないからです、いかなる欲望、いかなる観念、いかなる結論よりも大いなる何かに違いないからです、なぜなら、それはあらゆるものの消滅であるかもしれないからです―あらゆる形の関係性の消滅、あらゆる形の回想、思い出、収集蓄積の消滅です。それは余すことのない消滅であるかもしれません。違いますか? あらゆるものの完全な消滅です。そして、人はこのことの真理が何であるのかを明かにしなければなりません。
真理を明らかにするためには、それと出会うためには、あらゆる形の同一化が消滅しなければなりません―違いますか?―あらゆる形の恐れであり、そして、安楽願望です。その安楽願望こそが幻想を作り出します、従って、人はその幻想に取りつかれて、こう言います、“はい、死後に驚くべき状態があります”と。そこで、我々は学んでいます、全体的な観察の仕方でどのように観察するのかを―それは恐れが生じないことを、安楽願望が生じないことを、幻想が生じないことを意味します、従って、精神は完全に自由に見ることになります。我々はそのようにしていますか? それは、あなたがいかなるものにも執着していないことを意味します―それは途轍もなく難しいことです、なぜなら、私は私の妻に、家に、観念に、結論に執着しているからです、従って、私は手放すことを恐れます、私は完全に単独でいることを恐れます。我々は説明しました、その“単独”という言葉が“全一”と言う意味であることを。そのように、いかなるものに対してもいかなる種類の執着も生じないことです、つまり、何らかの観念に対しても、人物に対しても、未来の希望に対しても―どうか、もしあなたがこのゲームを行っているなら、これは非常に、非常に真剣なことです―あなたの息子に対しても、あなたの娘に対しても、あなたの夫に対しても―いかなる執着も生じません、それはあなたが冷淡になることを意味しません。執着が生じるとき、幻想が生じます、そして、幻想が生じるとき、明瞭性が失われます。そして、明瞭性がなくなるとき、自由がなくなります、従って、秩序がなくなります。
そのように、精神は、名称と、何らかの形と、あるいは、いかなる人物とも、観念とも、結論とも同一化してはなりません―それは可能でしょうか? そして、我々が言ったように、それは愛を否定するのではありません、つまり、その逆です、あなたが何らかの人物に執着するとき、愛は生まれません、その人に依存することになり、孤独になる恐れが生じます、あらゆることがひどく不安定である世界の中に、心理的にも外面的にも、一人取り残される恐れです―従って、何かに執着する欲求が生じます。
あなたが耳を傾けていて、もしあなたが死の真理が何であるのかを明らかにしたいと思うなら、その意味するものが何なのかを、生の中に起こるかもしれないその途方もないものの本当の深さを明らかにしたいと思うなら、自由がなければなりません。そして、何らかの執着が生じるときには、恐れが生じるときには、安楽願望が生じるときには、自由はありません。あなたはそれら全てを脇に除けることができますか? できますか? そうでないなら、このゲームを行わないで下さい。あなたはこのゲームを行えません。もしそうするなら、そして、私はそう願います、なぜなら、我々は死と称されるその途方もないものの真理を一緒に明らかにしようとしているからです。そしてまた、死以前の真理が何であるのかも。お分かりでしょうか? 死後の真理だけではなく、死以前の真理もです。死以前の真理とは何でしょうか? もしそれが明瞭でないなら、他のことは明瞭になりえません。そうすると、我々は非常に間近に、そして、注意深く、そして、自由に、死以前とは何かを見るのでなければなりません、それを我々は生と称します。従って、我々の生の真理とは何かです―それはあなたが何であるのかという意味です、あるいは、あなたは誰なのかという意味です。お分かりでしょうか? あなたは何なのか、それをあなたは生と称します。そして、我々はその真理を見て取ろうとしています。私はあなたに告げる必要はありません、違いますか? あなたはそれを非常に良く知っています。色濃く条件づけられた精神です、教育や環境、文化、宗教的賞罰などを通して、そして、何らかの信念や教条、儀式、私の国、あなたの国を通して、そして、絶え間ない戦いを通して、幸福でいたいと思ったり、不幸であると思ったり、落胆したり、高揚したり、不安や不確かさ、憎悪、嫉妬を覚えたり、快楽の追求や恐れなどを通しての精神です。違いますか? 一人でいる恐れ、孤独の恐れ、老年、病―これが我々の生の、日常生活の真理です。違いますか? そして、そのような精神は、その生の中に秩序―明瞭性と慈しみを通してもたらされるという意味の秩序―をもたらしてきていないそれは、全く断片的で、秩序を欠いた、恐怖を抱いているそのような精神は、それは何か他のものについての真理を明らかにすることができるのでしょうか? あなたは私の言っていることが...
そのように、人は最初に人の家の中に秩序をもたらすのでなければなりません。家は火事になっています、そして、我々は、我々の幾人かは、それに全く気づきません。それは実際に燃えています。もしあなたが新聞を毎日読むなら、あらゆる国で起こっていることを読むなら―そのように、あなたの家、そして、人間の家は燃えています。そして、我々はそれについて何もしていません。なぜなら、我々はみな我々自身の目先の安全性に関心があるからです。違いますか? そして、あなたが安全性を追い求めるとき、何と、あなたは余すことなく安全性の欠如を生み出しているのです。お分かりでしょうか?
そのように、これまでの六回のトークで、あるいは、我々が行ってきたことで、四回か五回のそれで、我々は明瞭性を生み出そうとしてきました。そのような明瞭性と慈しみから叡智が生まれます。叡智は慈しみであり、明瞭性であり、その目覚めです。そして、この悲惨の中でのその目覚めが生じうるのは、あなたがそれを完全に生きるときです。お分かりでしょうか? あなたがあなたの苦しみ、あなたの悲しみ、あなたの苦悶、あなたの...と共に生きるとき、それを完全に生きるとき、それからいかなる方向へも逃げ出さないとき、そうすると、そこから途方もない明瞭な感覚が生じます、そのことについて我々はかなり話してきました。
そうすると、この期間、あなたは、一緒に、この叡智を、生の中に、死以前に、生み出してきましたか? もしあなたがそうしてきたなら、そして、私は、人間と世界のために、あなたがそうしてきたことを願います―人は叫びたいと思います、なぜなら、我々人間はとてもひどく愚かだからです―そうすると、人は死の真理を明らかにできます―部分的に死んでいくのではありません、部分的に目覚めるのではありません、部分的に死ぬのではありません、ほとんどの人間がそうであるように、そうではなく、余すことなく消滅するのです、それは、十分な空気を吸入しなくなった頭脳が―私は正確には知りません―三分か五分だけ生きうるということです―もしあなたがそのことを知っているなら、そして、その後、それは機能できなくなります。それが死です、病や事故、老年、あるいは、老衰などによるそれです。それでは、その真理とは一体何でしょうか? 我々の幾人かは死以前が何であるのかを見て取っているかもしれません、そして、それを非常に、非常に明瞭に見て取る中で、そして、その明瞭性から慈しみが生まれます、従って、叡智が目覚めます、そして、その叡智で我々は見ようとしています。お分かりでしょうか? そうでなければ、あなたはその論理を見て取ることができません。もしあなたの家が完全な秩序の中にないなら、従って、完全な明瞭性と慈しみの中にないなら、どのようにしてあなたはそれを超えた何かを見つけることができるのでしょうか? そうすると、死の真理とは何でしょうか? つまり、完全な消滅です。何かがあるかもしれません、あるいは、ないかもしれません。宜しいでしょうか?
なぜなら、それは何らかの希望だからです、従って、希望が歪みを作り出します、従って、幻想を作り出します。そこで、我々はそれを切り離します。あなたはそれら全てに耐えられますか?
......
死んでやり過ごす守宮の尻尾とは何でしょうか?
首無しの赤い鳥居の丹田とは何でしょうか?
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そのように、それは消滅することです、つまり、消滅するとき、人はその真理を明らかにしうるだけです。違いますか? 宜しいでしょうか? あなたの手にするあらゆるものが消滅するときです。あなたはそうできますか? あなたの執着を消滅させます、一日の猶予も与えません、それを、今、完全に消滅させます。それが死の意味することです。あなたはそうできますか? そのように、消滅すること、完全に消滅すること―完全に消滅するとき、新しい何かが生まれます。お分かりでしょうか? どうでしょう。
宜しいでしょうか、恐れは重荷です、ひどく負担になります、そして、あなたがその重荷を完全に取り除くとき、新しい何かが生まれます。違いますか? しかし、我々は消滅することを恐れます、人の生の終わりの消滅です。我々は、それを、今、消滅させることを言っています。分かりましたか? それを消滅させるのです、あなたの虚栄心を消滅させるのです、なぜなら、消滅することなしに、何も始まらないからです。違いますか? そして、我々はその継続性に囚われていて、決して消滅しないのです。そのように、余すことなく、完全に、全体的に消滅するとき、余すことなく新しく始まる何かが生じます、あなたはそのことを恐らく想像できません。それは余すことなく異なる次元です―私がそれを言葉にしても、それには何の価値もありません。しかし、我々が一緒にこのゲームを行っているとき、その死と称される途方もないものの真理とは何かを明らかにしようとするゲームを行っているとき、人の執着を、人の恐れを、人の虚栄心や結論、神経症を消滅させようとするゲームを行っているとき―それを消滅させるのです。あなたはそうできますか? あなたはそうしますか? あなたはそうしていますか? 少しずつではありません―ある日は執着を、次の日は恐れを、三日目は虚栄心を、四日目は不安などと―あらゆるものを、今、消滅させるのです。つまり、意識の内容―それが我々の意識です―を消滅させるのです。その内容が意識になります。その内容は、恐れや執着、欲望、嫉妬、私の国、あなたの国、私の神です―その内容です。それら全てを消滅させるのです、意志によってではありません―意志では、あなたは何もなしえません、心理的な意味で。そうすると、もしあなたがそれを意志で行うなら、何らかの争いが生じます。違いますか? そして、争うことがあると、いかなるもののその深さとその真理の理解は生じません。もしあなたとあなたの妻あるいは夫が争っているなら、あなたは関係性を理解できません。争いが全く起こらないときにのみ、あなたたちはお互いを見ることができます、そうすると、あなたたちはお互いに感じ合うことができて、お互いを信頼し、愛し...お分かりでしょうか? そうすると、全く異なる状態が関係性の中に存在します。
そのように、死とは何であるのかの真理を明らかにするためには、人の意識のその内容が消滅するのでなければなりません。従って、あなたはこう問うことは決してありません、“私は誰か”あるいは“私は何なのか”と。あなたとはその内容を抱えたあなたの意識です。そして、その内容を抱えたその意識が消滅するとき、全く異なる何かが生じます、それは想像できません。宜しいでしょうか、人間は様々なことをして不死を探し求めてきました、人は書物をものにして、その書物の中に作家の不死を描きます、偉大な画家はそれを素描したり、絵にしたりします、そして、その絵画がその人間の不死になります。それら全てが終了するのでなければなりません、あらゆる芸術家は進んでそうしません。
そのように、人間として、そして、一人ひとりの人間が全人類の代表として―あなたがそう感じることを私は願います、このような発言の深さを理解するのを願います。あなたが世界であり、世界はあなたです、そして、その意識の中に何らかの変化が生じるとき、あなたは人間の意識の中に変化をもたらします。そのように、死は我々の知るこの意識の消滅です。宜しいでしょうか。
日曜日に会いましょう。
―THE KRISHNAMURTI PODCAST:Identification
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