アウトサイダー―時間的蛸壺の外へ

中禅寺湖畔道

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クリシュナムルティ これが最後のディスカッションです、何を我々は話し合いましょうか?
質問者 どのようにして人が強烈に気を付けることによって手にするエネルギーが維持されるのでしょうか?
クリシュナムルティ 私も知りません。(笑) 我々はみな様々な異なる問題を抱えています、財政的、経済的、情動的、心理的、身体的なそれらです―何を行うのか、何を行わないのか。何らかの絶望があります、不安があります、あらゆる形の心理的な乱れがあります。我々は来年まで再び会うことはないでしょう、そして、我々の主な問題の一つはこうです、私はこの一年をどのように過ごそうとしているのか、ということです。私の生の意義、意味とは、私の仕事のそれは、私の全存在のそれは何でしょうか? 我々は此処で休日を過ごしています、我々は寛いでいます、我々は議論してきています、我々は様々な問題を検討してきました―嫉妬、エネルギー、あれこれを議論してきました―それらをあらゆる角度から、あらゆる観点から見てきました、そして、最後に我々は何を手にしているのでしょうか? 我々はどこにいるのでしょうか? もし我々が自分自身を良く見て見るなら、このひと月とは何だったのでしょうか? 我々は同じ日常生活に、同じ混乱に、同じ悲惨に戻っていくのでしょうか、それとも、我々はこの混乱の中に我々が明瞭な理解と思う何かの種を蒔いたのでしょうか? 我々はそれら全ての混乱から抜け出して、それについて何かを行おうとしているのでしょうか、何かに至ろうとしているのでしょうか? 全く異なる生き方があるのでしょうか? 私は思います、我々は自分自身に問う必要があると、単にこう問うのではなく、“それはこういうことですか、それはそういうことですか”と、そうすると、それは、我々が自分自身の生や我々が生きている社会の生に極めて重大な関心をもつとき、何の意義もありません。
 とても沢山の矛盾があります。人々は人間を月に送っています、何百万、何百万、何百万もの費用をかけています―そして、世界中に飢餓が生じています、特に東洋ではそうです。事態はとても深刻です。それは人間の問題だけではなく、世界の問題でもあり、そして、我々は行動する必要があります。我々はただ果てしなく様々なことについて理論化し続けることはできません。私には思われます、もし我々が、今朝、議論できるなら、知的にではなく、理論的にではなく、話し手の意味することではなく、あなたの意味することではなく、他の誰かが意味することではなく、それら全ての思考の類を取り除いて、我々の存在の中心的な事柄に面と向かって取り組むのなら、それは意義のあることであろうと―そのことを静かに検討することです、どのように我々が精神を余すことなく新しくできるのかを見てみることです、そして、ゴシップに逆戻りしないことです、喫煙や嫌煙を取り上げないことです、セックスをするのかしないのかではありません、我々が陥っているそれらの些末な人間の問題に関心をもたないことです。最も重要なことは、もし言わせていただくなら、精神の中に革命をもたらすことができるのかどうかを検討することです―精神はとてもひどく条件づけられてきています、それはそれ自身の中に多くの様々な矛盾を抱えています―そして、それを余すことなく新しく、若々しく、新鮮に、無垢に、エネルギーと決断に満ちたそれにできるのかどうかを検討することです。若い精神は、その言葉の本来の意味で、年齢的な意味ではなく、非常に敢然たる精神です。それは選択をしません、それは明瞭に見て取ります、そして、様々な観念とは無縁に直に何かを行います、家族がそれを受け入れようが受け入れなかろうが、そう行動します。それはとても若く、生命力があり、精力的なので、その決断は瞬時です。それは誤るかもしれませんが、それは決断します。もしそれが誤りなら、それはそれを発見して歩を進めます。頭脳や精神の全体が古くなればなるほど、緩慢になればなるほど、優柔不断になればなるほど、それらが不明瞭になればなるほど、何をすべきかを明らかにしようと探し求めることになります。
 我々は、今朝、精神がそれ自身を余すことなく新しく、新鮮にすることができるのかどうかを一緒に見てみることが、話し合うことができますか、それは、明らかに、年齢によるのではありません、我々が何年生きてきたのかによるのではありません。
質問者 もし我々が我々のエネルギーを、それを思考として使うのでないなら、それは断片的ではないでしょう。
クリシュナムルティ 我々は果てしなく問い続けることができます、つまり、それは、真剣で、問う意義と意味のある問いであるのか、それとも、それは、非常に安易に問うて、ひどく安易に答えられる問いであるのかです。しかし、我々は、今朝、それら全ての問いを脇に置いて、発見するために、実際に新鮮になるために、我々の全ての気を傾けることができますか? 我々は、年齢を重ねているだけではなく、老いていきます、頭脳はそれ自身を疲弊させています。それは、それほど若くはなく、新鮮ではなく、活動的ではなく、かつてのように精力的ではありません。我々が年齢を重ねるにしたがって、自然と、鈍さが進行しています。退化する波がいつも我々に押し寄せています。我々が非常に若かろうが非常に老いていようが、この途轍もない破壊の波は進行しています。
 あなたはあなたが余すことなくあなたの精神を新しくできるのかどうかを明らかにしたいと思いませんか、私が考えるそれではなく、あなたが考えるそれではなく、最近の神学者が考えるそれではなく、あるいは、聖職者たちが考えるそれではなく。それら全てはとても取るに足らない代物になっています。
質問者 人は依然として恐れています。
クリシュナムルティ そのことによって我々がいつも新鮮な精神をもたないのですか、理論的あるいは知的にではなく、実際に、事実として、新鮮な精神をもたないのですか? そのことが我々に生を見ることを妨げるのですか、樹木を、隣人を見ることを、その隣人が我々の身近にいる人であろうと、ヴェトナムにいる人であろうと。それが問題ですか?
 我々は、一か月、このテントの中で、我々の心と精神の様々な問題を一緒に話し合ってきました、物理的、心理的などのそれらです。最終日にあって、その探究はあなたを燃え尽きさせていませんか? あなたには明らかにしようとする熱気が本当はないのでしょうか? それが私には我々が手にする唯一の問題であるように思われます。我々は我々の振る舞いが矛盾しているのを知っています、我々は混乱しています、全く絶望しています、孤独です、悲惨です、我々は、混乱し、心配し、そのあらゆる複雑さを内に含むひどい野望を抱えています。それら全ては終わりがないように思われます、それらは引き続き継続します。この美しい谷の中に一か月過ごして、我々は心と精神が余すことなく変わるのを求めないのでしょうか? もしそのようなことが起こらないなら、我々は何をしたら良いのでしょうか?
質問者 どのようにして人は精神と頭脳が何千年も何千年も収集蓄積してきた貯蔵庫を空にするのでしょうか? どのようにしてそれはそれ自身を空にして若くなりえるのでしょうか?
クリシュナムルティ 私は同じ問いをしています。なぜなら、もしそれが答えられうるなら、私は私の日常のあらゆる問題を解決するでしょう、私の人々に対する無作法、私の人々に対する粗暴さ、辛辣な話し方、人々に怒鳴り散らすこと―その貯蔵庫が空になるまで、私は待たなければならないということではありません! 我々はそのような混乱した状態の中にいます。我々はその混乱の皮を一枚一枚剥いでいくことはできません。そのようなことを試みると、その胸の悪くなる絶望に至ります。精神がそれ自身を空にして、新鮮になり、再び若くなり、何にも汚染されないで、私が昨日の雨の後の青空を見るとき、それが私のそれまで決して見たこともない何かであることは可能でしょうか? それは同じ空ではありません、それは同じ顔ではありません、それは同じ問題ではありません、新しい何かが存在します、革命が起こっています。あなたは何を行えばよいのか知りたくはありませんか、そのことが起こるかもしれないのです。

       首無しの赤い鳥居の丹田とは何でしょうか?

質問者 もし私が私に私のこれまで知らないことを問うなら、もし私が私のあらゆる先入観をやり過ごして、無条件で歩を進めるなら、私は精神がそれ自身を空にしていると分かり、私は発見できます。
クリシュナムルティ あなたは私に何らかのメソッドを話しているのでしょうか、それを行う方法を話しているのでしょうか?
質問者 私は私自身の経験を言い表そうとしています。
クリシュナムルティ あなたはあなた自身のメソッドを話しています、あなたがそれを行った方法を話しています。
質問者 私は私の行ったことを言い表そうとしています。
クリシュナムルティ 宜しいでしょうか、誰も我々に言えません、誰もこう言えません、“私はそれを手にしました、あなたはそうすべきです”と。あなたはその問いに決して耳を傾けていません。最初に、その問いに耳を傾けて下さい。それは途轍もない問いです、それはこの上なく複雑な問いです、そして、誰もが答えを言います、“これをしなさい、あれをしてはいけません”、“これが私の感じることです”、“これが私の経験です”、“これが私の行ったことです”と。最初に、そのシンプルな事実を認めましょう、それは途轍もなく複雑な問題であると。人は何世紀にもわたってそれを解決しようと異なる方法を試みてきました。教師たちは瞑想するように言ってきました、その人たちはその愚かな生を放棄するように言ってきました、僧侶や尼僧になって異なる生を送るように言ってきました。人はあらゆる可能なことを試みてきました、新しい理論、新しい観念、矛盾を乗り越える新しい方法などです。
 それがあなた方みなの行っていることです。あなたは言いません、“これは途轍もなく複雑な問題です、私は本当にそれを理解しません、それは私にはとても複雑すぎます、なぜなら、私の精神は取るに足らなくて、とても矮小だからです。その取るに足らなさから、私は答えています、様々に反射的に反応しています”と。答えるのを止めて下さい、一様に、その答えは、我々がもがいて発達させてきた、付け加えてきた、抑圧してきた、取り除いてきた矮小な、浅薄な精神からのそれです、しかし、それは依然として取るに足らないそれです。あなたは答えるのを止めることができますか―私にではなく、話し手にではなく、あなた自身に答えるのを止めることができますか?
 あなたが途轍もない問題に向き合うとき、あなたがその問題に与える答えは、あなたが科学者であろうと、あるいは、あなたがこの上なく博学な人であろうと、この上なく経験豊かな人であろうと、狭小な精神からの、断片的精神からのそれです。なぜあなたはこう言おうとしないのでしょうか、“私は答えません、私は答えられません”と、そして、何が起こるのかを見てみないのでしょうか? あなたが“私は答えられません”と言うとき、本気でそう言うとき、誰かがそれに応えるのをただ待たないで下さい。それは私が夢うつつになることを、神秘的な沈黙に陥ることを意味しません、非常に僅かの人しかそれについて知っていません。あなたがこの上なく複雑な数学の問題に向き合うとき、あなたはまず歩を止めて見てみるのではないのですか? あなたは見てみます、あなたはそれが何を意味するのかを見てみます。それが複雑であればあるほど、それが微妙であればあるほど、精神は静かになります。それは話し手があなたの問うのを妨害していることを意味しません、最初に、あなたの心と精神が、その途轍もない問題に向き合うとき、反射的に反応しないでいられるかどうかを、何らかの結論に飛びつかないでいられるかどうかを、何らかの観念を形成しないでいられるかどうかを、それらを表現したいと思わないでいられるかどうかを、それらを伝えたいと思わずにいられるかどうかを、明らかにして下さい。それら全てを止めて下さい。
 もしあなたがそうしたなら、あなたは真剣にこう問い始めることができます、精神はそれ自身を年齢の足かせから解放できるのかどうかと。あなたは知りません。最初に、それは可能でしょうか? それは何を意味しますか? あなたは途方もなく繊細な精神を手にしなければなりません、それはいつも動物のように反射的に反応しない精神です、そして、それは習慣や繰り返しや苛立ちに陥らない精神です。それは可能でしょうか? 物理的な頭脳それ自身が、そのあらゆる部位が、ただの特定の断片ではないそれが、生き生きとしていて、油断なく気を配っているので、それがいかなる理論、いかなる意見、いかなる議論、いかなる伝統にも囚われないでいるようでなければなりません。そのような頭脳のためには、それを発見する頭脳のためには、瞑想が生じなければなりません―繰り返しや言葉や祈りなどその他の全ての馬鹿げたナンセンスの愚かな瞑想ではありません―頭脳が鎮まり、あらゆる通常のいわゆる動物的な反射的反応から解放されうるのかどうかを明らかにするための瞑想です。
 我々は様々な形のそれらの反射的反応を議論してきました、あなたが私を叩きます、そして、私があなたを叩き返します、あるいは、私はそれを表現します。頭脳それ自身が途方もなく鎮まることは可能でしょうか、それでも、それは非常に精力的であり、理論的に思考できて、健全であることは可能でしょうか? 明らかに、神経症的な頭脳は、虐げられた精神は、何らかの関係性に、何らかの観念に、何らかの条件づけに絶えず従属させられて消耗した頭脳は不可能です。頭脳細胞それ自身がひどく条件づけされてきているので、ひどく快楽や苦痛、愛、憎しみなどの繰り返しで、それら一連の繰り返しで痛めつけられているので、最初に明らかにすることは、頭脳が動物的な反射的反応とは無縁でいられるのかどうかです。それは瞑想の一部です。さらに歩を進めると、次の瞑想の働きは、精神が余すことなく―それは頭脳であり、身体的存在であり、神経組織の反応であり、情動であり、不安です―それ自身を解放できるのかどうかです。

      死んでやり過ごす守宮の尻尾とは何でしょうか?

 我々はそれらのいずれも行いません、我々は、我々が何をすべきか、何をすべきでないか、話し手が何を言ったか、何を言わなかったか、彼はそう意味したのか、こう意味したのでなかったかなどの観念で一杯です―我々は果てしなくそうし続けることができます。我々は我々がどのように反射的に反応するのかを見てみるために時間を費やさなければなりません―時計的な時間です、心理的な時間ではありません。私は、先日、話し手に四十年耳を傾けてきた人のことを聞きました。彼は委員会の席で何事も全く気に留めませんでした。我々はみなその調子です。もしあなたが我々の痛いところに触れれば、我々は苛立ちます。我々は我々の憎しみの単純な反射的反応に気づけますか、我々が我々より少し力のある人に嫉妬するのに気づけますか―単純なことです、この上なく複雑なことではありません―そして、そこから歩を進めるのです、汚れた町や村を流れる川のように。それは流れて、流れて、流れ続けます。この新たにする働きが唯一可能なのは、我々がこの上なくシンプルなレベルから始めるのかどうかです、そのためには、あなたは書物を読む必要はありません、何らかの集まりに参加する必要はありません―恐らく、この集まりを除いて!(笑) あなたは何らかの社会や組織に参加する必要はありません。階段の一段目から始めて、決してその階段を上らないことです。我々はいつも上がろう、上がろう、上がろうと、高く、高く、進もうと欲します、虚栄心から。最初の一段を、最初の一歩を最後のそれにしましょう。どこにも上る何ものもありません、成し遂げる何ものもありません。その沢山の階段はどこにも通じていません。ただの一歩があるだけです、最初の一歩です、そして、もし我々がその最初の一歩をどのように踏み出すのかを知るなら、もし我々がそのことの全てを知るなら、あらゆる大騒ぎは終了します。そうすると、謙虚になります、本当の謙虚です、なぜなら、我々は上って、上って、上っていないからです。謙虚になると、学ぶことになります―収集蓄積するのではありません、階段を上るのではありません。学ぶことは上らないことを意味します、知識を貯め込まないことを意味します、“私の国”というような偏見を抱かないことを意味します―それら全ての愚かなナンセンスです!
 学ぶところには、貯蔵庫は存在しません、神やユートピアあるいは最終的な栄光の理想に至る階段はありません。最初の一段があるだけで、その他の階段はありません。そこが頭のよい人たちの、それを少しだけ検討してきた人たちの絶望するところです、なぜなら、その人たちは分かるからです、最初の一歩だけがあり、そして、その人たちはそれを超えていくことができないと。その人たちは書物を書きます、新しい哲学を発明します、そして、言葉巧みに人を惹きつけます、二十世紀的博愛主義であるとか、実存主義であるとか、その他の言い方です。我々が最初の一歩しかないと分かると、そして、我々はそれとどう向き合うのか分からないとき、我々は果てしなく絶望に苛まれます、なぜなら、我々はその階段を上りたいからです。絶望は生じないのです、もし我々が本当に最初の一歩しかないと分かるなら。たどり着くことはないのです、獲得することはないのです、探し求めることはないのです、成し遂げることはないのです、こうは言えないのです、“私は他の誰かより上である”と。それら全ての戯言は神学者たちや聖職者たちや政治家たちや作家たちに任せておきなさい。そうすると、あなたは美とは何かが分かるでしょう。それは山の中にありません、川の中にありません、空の中にありません、それは絵画の中に、書物の中にありません、あるいは、人が作り出してきたいかなるものの中にもありません。美のあるところに愛があります。美が生まれるのは、ただ一つの行為が生じるときです、それは一瞬一瞬の行為であり、その他の行為ではありません。もし我々が何かを手にするために行為するなら、もし我々の行為に動機が存在するなら、それは更なる複雑さに向かうだけです。

      死んでやり過ごす守宮の尻尾とは何でしょうか?
      首無しの赤い鳥居の丹田とは何でしょうか?
      不動の動とは何でしょうか?

 我々は分かり始めています、この最初の一歩の中に、あらゆる生が存在するのを。そうすると、我々は分かるでしょう、この最初の一歩を死んでやり過ごすことが余すことなく新しい存在の始まりであると、余すことなく異なる精神の質であると、なぜなら、そうすると、不動の何かが、経験とは無縁の何かが、変化とは無縁の何かが存在するからです、従って、精神はいつもそれ自身を新しくしています、なぜなら、それは決して階段を上らないからです、決して比較しないからです。階段のないところに、愛があります、しかし、階段を上っている人には愛は存在しません。階段とその一段一段は精神の発明です、思考の発明です、そして、思考がその最上段に神を作り上げてきました。神は決してそこにはいません。それはただの私です、精神の発明です。
 しかし、全く異なる次元があります、それは思考によって作り上げられた何かではありません、それは、人が不動のとき、もはや階段を上らないとき、もはや探し求めないときのそれです。人がもはや逃げていないとき、人はあらゆるものに耳を傾けます。その正に不動の動こそが、その正に耳を傾けることこそが―獲得しようとすることではありません、何かを付け加えようとすることではありません―新鮮な精神をもたらします、自然に、健全に、大いなる健やかさ、能力そして精力を内に秘めたそれをもたらします。
 人は何か非常に美しいものに戻ります、山に、川に、愛らしい花に目を転じます。人は立ち返って、それを再び見たいと願います。それは自然なことであり、健全なことです、しかし、もしその山が、その川が、その花が何らかの刺激として働くなら、そうすると、それは美しさを失います。そうすると、それは単なる薬物を出ないで、あなたは途方に暮れます。
 私はこう言いましたが、“集会に参加するな”と、私は願います、我々が来年会うことを、薬物や何らかの刺激としてのそれではなく、あなたが何らかの言葉や観念に耳を傾けて、それらを何らかの概念や方式として解釈するのではなく、このように我々が集って、相対して、一緒に話し合うと、我々は途方もなく美しい何かを目にするでしょう、そして、美なしには、従って、愛なしには、我々の精神と心は、鈍く、シニカルに、辛辣に、粗野に、残酷になります。
 どうか、心地よい旅をして下さい。
                    ―1966年8月9日 ザーネン
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