アウトサイダー―時間的蛸壺の外へ

不動滝2

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クリシュナムルティ このことをもう一度と一歩一歩見ていきましょう。心理的に私は混乱しています、私は恐れています。私はこのことを知っています。私はこの恐れから、この不確かさから、私が何らかの概念を発明することにも気づいています。その心理的な状態を完全に理解するためには、私はその概念をやり過ごさなければなりません。もし私がその恐れにいかに面と向かうのかの問題に戻るなら、私はそれをやり過ごしていません。私はすでに歩を進めていて、私はその恐れを検討しています、私はそれをやり過ごしていません。私がその信念や目的や観念や理想をやり過ごしているとき、私は立ち止まって、一息入れます。そうすると、私の精神はもはや観念の、概念の重荷を背負っていません。そうすると、私は見ることができます、そうすると、私はどのように見るのかを明らかにできます。それが全てです。
 我々は一緒に話し合っているので、我々は物事を明瞭に見ています。我々は心理的な防御の構造を取り除く必要があります、そして、それが、行う最も難しいことの一つです。そのようなエネルギーを、事実を見るためのそのような活力を手にすることは可能でしょうか、あるいは、我々は、心理的に防御するとき、そのような活力を失うに違いないのでしょうか? 私は、我々がそうできるのかできないのか、答えられないと思います。我々はそうするのか、それとも、そうしないのかのいずれかです。我々がそのように防御するのは明らかな事実です、そして、我々はそうやって生きて、そして、死んで行きます、そうやって絶え間なく悲惨や混乱や争いを抱えて死んで行きます。我々が目を見開くためには、見るためには、探究するためには、明かにするためには、我々は立ち止まらなければなりません、我々は、我々があらゆる防御を完全にやり過ごしているという感覚をもたなければなりません。
 我々一人ひとりは、我々がこのテントを去るとき、我々は我々が背負っているものを脱ぎ捨てたという感覚を、我々の理想を放り出したという感覚をもてるでしょうか、そうすることによって、我々は我々自身を現にある通りに見ることができるでしょうか? そうすると、我々は先へ進むことができます、我々は明らかにすることができます、我々はどうするのかを議論できます。我々は事実が変えられうるのかどうかを議論できます、あるいは、事実に単に向き合うだけで何らかの変質がもたらされるのかどうかを議論できます。それは、もし我々が一方をやり過ごしていると、起こるだけです。明日、我々は唯一の問題を一緒に話し合うことになります、いかに事実と向き合うのかです、いかに理想を取り除くのかではありません。
 もしあなたが、これらおよそ一時間半を経過して、それらを取り除いていないのなら、幸運を祈ります、それらを持ち帰ってみて下さい、しかし、私は、あなたがそれらをやり過ごして、今、立ち止まっていることを願います。立ち止まるとはどういう意味か分かりますか? それは喫煙する人のようです、その人は言います、“私は止めます”と、そして、実際に喫煙しません。もしその人がこう言うなら、“私は何かを選択しなければなりません、私は頭の中を他の何かで一杯にするために他の何かを見つけなければなりません、そうやって、喫煙のことを考えないようにしなければなりません”と、その人は依然として喫煙しています。しかし、もしあなたがあなたの理想をやり過ごすことができるなら、あなたは自分自身で分かるでしょう、新しいエネルギーが生まれているだけではなく、新しい香りも生じていると、そして、それは熱気のそれであり、その香りなしにあなたは見ることができないと。

               ......

 我々は、昨日、精神から、あらゆる信念や観念、概念、方式、理想を、そして、あらゆる目的意識的、指向性的行為を解放しえるのかどうかを議論していました。もし我々が、非常に明瞭に、なぜ精神が心理的に信念から解放されることが重要であるのかを理解しないなら、我々は決して事実と向き合うことができないでしょう、現にあることに直に触れることができないでしょう。我々は、今朝、精神が、信念や観念や概念をもつことなく、実際にある通りのことに向き合えるのかどうかを議論しようと思います。我々は、精神が、全く逃げないで、信念などをもつことなく、恐れに向き合うことができるのかどうかの問題をも検討するでしょう。我々は恐れのこの問題とそれについて何をなしたらよいのかを、究極のところに至るまで見てみようと思います。このことを十分に議論するためには、我々は、最初に、行為が、いかなる種類の活動も、方式とは無縁に、観念とは無縁に―観念は組織化された思考です―なりえるのかどうかを検討する必要があります。
質問者 私自身に向き合うことは可能ですか? なぜなら、私自身と事実は全て記憶や伝統や私が育てられてきた文化の心理的構造だからです。
クリシュナムルティ 我々の議論していることを非常に明瞭にしましょう。
質問者 我々はいかなる争いとも無縁に生きなければなりません。
クリシュナムルティ 理論を弄ばないようにしましょう。我々は知的体操をしているのでも、我々は一つの理論を別のそれに対立させているのでもありません。我々は事実に向き合おうとしています、それは行うのに最も難しいことです。我々が、昨日、言ったように、我々は我々自身の周りに信念や観念や言葉やシンボルの防御壁を築いてきています、そこから我々は現にある通りのことに向き合おうとします。それは、明かに、不可能です。
 私は本当に信念から解放されえますか―私はこうすべきである、私はこうである、私はこうでしたなどから? 私はあなたの特殊な思いを、あなたの個人的な質問を言い表していないかもしれませんが、それは全てのことに関連しています。私が方式とは無縁に行為することは、何かを行うことは可能でしょうか? それは本当に途方もなく重要な問いです、なぜなら、これまで、我々はいつも何らかの観念に従って、何らかの信念に従って、誰かが言ってきたことに従って―それがマルクスであろうがキリストであろうが問題ではありません―機能してきました、活動してきました。我々の活動はそれ自身を何らかの信念や観念に近づけてきました。我々は、今、全く異なることを言っているので、観念とは無縁に行為することを言っているので、それは完全に狂気じみていて、神経症的な何かに聞こえるかもしれません。それは真実かもしれませんし、誤りかもしれません。我々はそれを非常に、非常に深く、一歩一歩検討する必要があります、我々は、一瞬一瞬を、新鮮に行為することが可能であるのかどうかを、自分自身で明らかにする必要があります。観念は決して新しくありません、信念は決して新しくありません。あらゆる行為が、それが何であれ―性的なそれであろうと、会社へ行くことであろうと、いかなる活動も―記憶に、概念に、理想に、伝統に、記憶を所持する思考に基づいています。それから自由になることは可能でしょうか? それは可能であるとか、あるいは、それは不可能であると、私に言わないで下さい。一方に偏らないで下さい、あるいは、こう言わないで下さい、“もし我々がこうすれば、それは起こる”と。それらは全て理論です、それなりの理論です、しかし、それらは、この世界をいかなる観念―人類同胞主義や全体的に人間がまとまることや神の愛などそれら幾多の観念―とも無縁に生きることは可能かどうかを本当に明らかにしたいと思っている人にとっては何の意味もありません。

               ......

質問者 我々は科学的研究の成果に注意を払わなければなりません、そうでないと、我々は全ての科学的知識を放り出します。
クリシュナムルティ 我々は科学的知識を必要とします、そして、それに関するあらゆる意味合いを必要とします。それは、人間がこう言う心理的要求とは全く異なります、つまり、“私は信念をもたなければならない”と。キリスト教徒の信念があります、ヒンズー教徒の信念があります、共産主義者の信念があります、社会主義者の信念があります、それぞれが人をますます分断しています。我々は問うています、いかなる信念ももたないことは可能かと、そして、観念とは無縁に行為することは可能でしょうかと。

              ......

クリシュナムルティ 私は現にある通りの私が好きではありません、そして、私は自分自身に言います、“私は現にある通りの私を変えて、私のあるべき姿に向かわなければならない”と。その“あるべき”というのは観念です、概念です、私が発明した方式です、そして、私は考えます、私はそれから離れ去ることによってこれを成し遂げるでしょうと、しかし、それはこれと同じです、なぜなら、これが新しい当の中心になるからです、そこから私は他のどこかへ行きます、そして、その新しい何かが別の当の中心になります。私は、本当は全く離れ去っていません、私は単に一つの中心から別の中心に変わっているにすぎません、それは依然として“私”であり、私の好きではないそれです。私が私は離れ去っていると考えるとき、私は、本当は、動いていません。そのことを発見するのは、ただごとではありません、私は私が離れ去っていると考えていますが、私は、本当は、動いていないのです。そこで問題が生じます、どのように動いていないものを打ち破って、動かないものをそれ以上作り出さないようにするのか、ということです。

               ......

クリシュナムルティ もしあなたがそれに気づくなら、それは途轍もないことです、あなたは完全な絶望の問題に向き合っています。もしあなたが何らかの哲学を発明しないと、あなたは絶望します、なぜなら、あなたは変化をもたらそうとする何らかの活動は変化では全くないと気づくからです。あなたは言います、“私は現にある通りの私です、何てことだ!”と。それは苦悩です。ほとんどのあなた方はそのような苦悩を抱えて生きています。もしあなたがあなたはそれを打ち破らなければならないと言うなら、あなたは異なる生き方を見つけなければなりません、生がただの苦悩だけではないそれです、どのような行為がなされうるのかを見つけなければなりません。あなたが知っている唯一の行為はここからそこへという活動です。あなたがそれは不毛の活動であると気づくとき、それには何の意味もないと気づくとき、あなたは問います、観念に基づかない行為があるのかどうかを、あるいは、それ自身を観念に近づけるのではない行為があるのかどうかを。あなたがそれを明らかにするまで、あなたは絶望に囚われています、そして、その絶望から、あなたは逃げ出します。何かへ逃げ出すのは絶望と同じです、しかし、あなたはそれに異なる名称を与えてきました。あなたはあなたの絶望を永遠に抱えて生きるつもりでしょうか? 絶望から絶望ではない他の何かへ逃げ出す行為は依然として絶望のそれです。あなたはこの先の四十年を絶望して生きるつもりでしょうか?
 それがほとんどの人々の行うことです。人々は言います、“私は生きています、私には理想があります、私には信念があります、私が目にする素晴らしい人々がいます”と。それら全ては絶望から生まれます、従って、それらは依然として絶望です。信念や観念や概念や方式に基づかない行為を、あるいは、それ自身を何かに近づけようとしない行為を発見するには、何をすれば良いのでしょうか? 
質問者 あなたが中心とは無縁に行為するときの行為があります。
クリシュナムルティ それは仮説です。それは空腹の人にこう言うようなものです、“私はあなたに素晴らしい食事の調理法を事細かく紹介しているレシピ本を送ります”と。

               ......

クリシュナムルティ あなたがこのテントを出るとき、何らかの観念や記憶に従って行動しないで下さい。
質問者 あなたが何かを争っているとき、アイデンティティーを失う恐れが生じます、もし経験者と経験との間の違いが消失すると。
クリシュナムルティ あなたは何と一体化しているのでしょうか?
質問者 それが起こる瞬間、何もありません、しかし、人を引き戻す反射的反応があります。

               ......

クリシュナムルティ 私は何をすれば良いのでしょうか? それを明かにするために、私は観念の中で機能する問題を検討する必要があります。もし我々が観念を携えて、信念を携えて、教条を携えて機能しないなら、行為とは何でしょうか、実際の事実に関して、その行為とは何でしょうか、絶望に関して、その行為とは何でしょうか、何らかの未来に関するそれではない行為とは何でしょうか? もし私の行為が希望やあれやこれやに基づいているなら、それは答えではありません。私は明らかにする必要があります、どのように私が...どのように精神がその既知から離れ去るのを拒絶するのかを、どのようにその異なる働きを拒絶するのかを明らかにする必要があります。

               ......

質問者 なぜ我々は事実に向き合わないのでしょうか? 何が我々を妨げているのでしょうか?
クリシュナムルティ 我々はそのことに取り組めません、我々がなぜ逃げるのかを我々が完全に理解するまで、そして、その逃亡とは何かを我々が完全に理解するまでそうできません。実際にある通りのことに目を向けないように、我々は多くの逃げ道を育んできました。なぜ我々は逃げるのかを理解しないで、その逃亡が何であるのかを理解しないで、そして、その逃亡の全構造に含まれるものは何であるのかを理解することなしに、我々は恐らく事実に向き合うことはできません。我々は行為とは何であるのかも理解しなければなりません。私の行動は事実から何かに離れ去るそれです、昨日指摘したように、それは動いていない活動です、我々はそれを実際にポジティブな活動であると考えるかもしれないけれども。我々がこのことを非常に、非常に明瞭に理解するまで、我々は恐らく事実に向き合うことはできません。何かに飛びついたり、避けたり、あるいは、飛び越えたりすることは問題外です。もし我々がこのことを非常にゆっくりと、一歩一歩検討しないなら、我々は恐らく事実に向き合うことを理解できません。
 我々がこの問いを検討する前に、私が問いたいと思うのは、毎日このように会って議論することは、少し荷が重いのかどうか、ということです。宜しいでしょうか? 我々は非常に骨を折る必要があります。何かを共にするためには、提起する人だけではなく、受け取る人もいなければなりません、それは相互補完的です、一緒の働きです。我々は共に歩まなければなりません、我々はエネルギーを手にしなければなりません、活力、興味、駆り立てる何かを手にしなければなりません。我々は七日間そのように歩を進めることができますか、それに飽きずにいられますか? あなたは、はい、と言います、それでは、我々は続けましょう。
 我々は、昨日、言いました、我々は、数知れない信念や教条、観念、方式、繰り返す活動などを、心理的自己防御の手段として育んできましたと。現にある通りのことを理解することは不可能です、もし我々が信念を手にしているのなら、なぜなら、それらの信念が我々の事実を見ることを妨害するからです。我々の全てがそのような信念や教条、観念あるいは理想をもっています。我々はいつもより良くなろうと欲します、より立派な何かを行おうと欲します、もっと理解しようと欲します。それは逃げ去ることです、現にある通りのことから逃げる行為です。我々は問うてきました、その現にある通りのことから離れ去る行為は何を意味するのかと、その行為そのものです。我々は考えます、我々はことを進めていると、活動していると、そして、我々は、昨日、分かりました、その活動は動いていないそれであると。それには活力がありません、なぜなら、人が行おうとしていることは現にある通りのものを描写したそれだからです、それはそれまであったものの継続だからです。それは新しい何かではありません。現にある通りのものから離れ去る活動は活動では全くありません。それは実際にはない何か他のものへの変化にすぎません。
 私は事実に即して行為する必要があります、現にある通りのことに即して、私の見ていることに即して行為する必要があります。何らかの行為があるのでなければなりません、そして、私は行為の意味することを探究して理解する必要があります。もし私がそのことを十分に理解しないで、もし私が事実を変えることに関心があるのなら、それについて何かを行うことに関心があるのなら、私は事実に向き合えません。私は行為とは何かを理解しなければなりません、そして、我々の行為の99.9パーセントは何らかの信念や観念、概念、イメージに近づけたものです。我々の行為はいつも何かをコピーしようとしています、何らかの観念に順応しようとしています。私は友愛の念をもつべきであるという観念を私は抱いています、私は共産主義者としての観念をもっています、あるいは、私は私がカトリック教徒であるという観念を抱いています、そして、そのような観念に従って、私は行動します。私は何らかの快楽や苦痛の記憶を抱いています、何らかの深い恐れの記憶を、その恐れのイメージを抱いています、そして、そのような記憶に従って、私は行動します、何か特定の事柄を避けて、そして、有益な何かのために、より深い幸福のために行動します。それらはみな思考の働きです、そして、その思考の働きに沿って、私は行動します。何らかの観念が生じて、行動を起こすとき、その二つの間に争いが生じます。観念が観察者であり、そして、私が行おうとしている行動がその対象です。
 私は私が恐れているのが分かります。私は恐れについて何らかの観念を抱いています、私のすべきこと、どのようにして私はそれを避けるべきかなどです。私は何らかの意見を保持しています。“私”というのは観念であり、意見であり、記憶であり、何らかの方式であり、観察者であり、検閲者です、そして、その恐れは私がその観念に従って行おうとしている対象です。観察者と観察されるものとの間に争いが生じます、それが、理解するうえで、思い至る、あるいは、乗り越えるうえで、最も難しいことの一つです、そして、もし私がそれを理解しないと、もし私がその意義あるいは意味を深く見て取らないと、私は恐れと称される対象を扱うことができません。
 なぜ観念である観察者とその対象との間に時間や空間の間隙が生じるのでしょうか? あなたはあなたのバルコニーから見ています、そして、その山や滝を見ます。あなたとその滝のある山との間に間隙が生じます、空間があり、距離をもたらす時間的ずれが生じます。その空間的時間的間隙が生じるとき、観察者は観察者が観察しているものと異なります。どうか、同意しないで下さい、このことはこの上なく複雑なことです。あなたはその説明を言葉で追っています、しかし、説明は事実ではありません。“山”という言葉はその山ではありません、それはその山を指し示すシンボルにすぎません。事実は言葉ではありません。説明は理解ではありません。どうか、同意して、こう言わないで下さい、“はい、続けて下さい、もっと話して下さい”と。
 もしあなたが気づくなら、観察者はその人と観察されるものとの間に空間を設けると、そして、その空間の中に争いが生じると、そうすると、あなたは何かを行いたいと思います。その争いが抜き差しならなくなればなるほど、何らかの行動の要請が強くなります。観察者は言います、“私は何をすればよいのか、私はどうすればいいのか、どうすれば私はそれを乗り越えられるのか”と。
 窓から見ているあなたと山やその滝との間に距離があるのと同じように、観察者と観察者が恐れと称するものとの間に距離が生じます。その人は何かを行いたいと思います。その人はそれを打ち破りたいと、そこへ赴きたいと、それを乗り越えたいと、それを破壊したいと思います。その滝に関しては、あなたはそこへ行けます、あなたはそこへ歩いて行けます、もしあなたにそのエネルギーがあるなら。それは問題ではありません。あなたはそれに背を向けるか、それを忘れることができます、しかし、恐れに関しては、あなたはそうできません。それはいつもそこにあります。もしあなたが観念に基づかない行為を―その中には観察者も観察されるものもありません―本当に理解しないなら、あなたは事実に出会うことはできません。
 私は嫉妬深いです、それは我々の生の共通の出来事です。私は様々な理由で嫉妬を感じます。恐らく、私はそれを避けられないこととして受け入れます、愛と称される自然な一部として受け入れます、そして、私は言います、“それは私の日常的な佇まいの一部です”と。しかし、その嫉妬が不安に転ずると、憎しみに形を変えると―そして、あらゆる嫉妬は否応なくその中に憎悪を含みます―そのプレッシャーが、嫉妬の感情が非常に強くなると、私は何かをせざるを得なくなります。そうして、行動を起こします、その対象を見据えた観察者による行動です。そこで、私は言います、“私はそれを乗り越えなければならない。私は何をすればよいのか”と。不安がよぎります。
 そうすると、行動とは何でしょうか? 行動はいつも争いを生むのでしょうか? 見たところ、そのようです。我々が何をしようと、それは我々の関係性の中に軋轢を生じさせます。我々が何をしようと、その中に争いが生じます、悲惨な何かが生じます、混乱が生じます。なぜ行動はそのような不安、そのような恐れ、そのような緊張、そのような争いを生むに違いないのでしょうか? もし我々がその問いに非常に深く答えないなら、もし我々がそれに気づかないなら、我々は恐らく事実に向き合うことはできません。生は行為です、行為は生から切り離して我々が行う何かではありません。そこで、我々は問います、争いがその中に全く存在しない行為があるのかどうかを。

               ......

クリシュナムルティ どうか、“もし”と言わないで下さい。私はしびれを切らしているのではありません、私は質問を避けているのではありません、しかし、それらの“もし...”、“...のとき”、“...すべき”、“...である限り”という発言は、それら全ての条件語句は、あなたが事実を実際に見るのを妨げます。
質問者 見ている当のものは何でしょうか?
クリシュナムルティ 我々はまだそのことを検討していません。問題を異なる点から見てみましょう。我々は生を何らかの格闘として見て取ります、争いとしてそうします、それは希望を喪失した絶望、孤独、怒り、支配欲の温床です、そして、それは、我々は抑圧されているという感情の温床です。それが我々の生です。それが我々の存在や生と称するものです、そして、その領域の中で我々は行動します。あらゆる行動が―それらがどれほど相互に関連し合っていようと―更なる争いを、更なる戦いを、更なる混乱を作り出します。最後に、我々は問います、決して混乱や争いを生まない生、活動、行為があるのかどうかを。

               ......

質問者 もしあなたが子供を儲けるなら、それは可能ですか?
クリシュナムルティ 私は残念ながら思います、もし私が子供を儲けると、それは争いになるだろうと! (笑) 私は思います、その質問は此処にいる母親たちが答えうるだけであると。(笑) 宜しいでしょうか、我々は全く意味のない何かに戻っています。どうか、存分に笑って下さい、―彼女をだしにして笑うのではありません、我々は彼女を笑っているのではありません、そうではなく、その全観念です。
質問者 私は私自身を観察者としても、私が行う行動としても全く理解しないので、どうしたら私は新しい行動について話せるのでしょうか?
クリシュナムルティ 私は新しい行動について話していません、あるいは、あなたに新しい行動を見つけるように問うているのではありません。最初に、あなたは気づく必要があります、あなたは決して観察者と観察されるものがあるという事実を見て取らないと。客観的に、あなたは言うかもしれません、山があり、そして、あなたがいると。その山に行くために、あなたは列車に乗るか、車で行くか、あるいは、歩いていくかします。行動が生じます。あなたは決して気づきません、心理的に、観察者がいて、そして、観察されるものがあると、私がいて、観察者である私がいて、そして、観察されるもの、怒りがあると。あなたは言います、“私は怒っている”と。それがあなたの知る全てです。あなたはこのことに気づかなければなりません、あなたは決して観察者と観察されるものという事実を見てきていないと。
質問者 私は本当の愛を欠いています。
クリシュナムルティ 我々は本当の愛、あるいは、偽の愛のことを話していないと私は思います。我々は実際の事実について、私は愛を欠くという事実について話しています。宜しいでしょうか、私は愛を欠きます。それが対象です、“私”が観察者です。私は愛を欠きます。我々はその分離を認識しません。我々は言います、“私は愛を欠きます”と、しかし、我々がその分離を認識するとき、我々が愛と称するものと、それを欲する私、あるいは、それを手にしていない私との分離です、そうすると、観察者と観察されるものが生じます。最初に理解することは、認識することは、私の中に、心理的にその事実があるということです、ほとんどの我々はそのことに気づきません、私が私の観察するものと分離しているという事実です。“私と神”は我々が弄ぶ古来のまやかしの一つです、つまり、私は神に到達しなければならないと。対象があり、そして、観察者がいます。私がこのことを認識するとき、私はそれを手中に収めたいと思うか、それを征服したいと思うか、それを支配したいと思うか、それを抑圧したいと思うか、それとも、私はそれについて意見をものにするのかのいずれかです。次に、私が認識する必要のある事実は、観察者が、観念に、記憶に、方式に、意見などにすぎないということです。
 私はあなたが意見をもつべきではないと言っているのではありません。観察者、検閲者、そして、判断する、非難する、是認する当のもの、支配する、成就したいと思う当のものがいるということです。私は偉大な作家になりたいと思うのです、あるいは、私は作品の中で、私が素晴らしいと考える独特の文体を手にするのです。何らかの分離が生じます、つまり、私とそれです。行動が何かを成就するための手段になります、あるいは、対象を乗り越えるための手段になります、そして、争いが生じます。
質問者 観察して、何らかのもの見る、対象を見るその当のものとは何でしょうか?
クリシュナムルティ その質問は容易に答えられます、しかし、その答えを見つけるためには、相当の洞察、閃きを要します。
 私は山を見ます。勿論、私とその山は同じではありません。私は私自身をその山の美と一体になりたいと思いますが、私はその山ではありません。それは事実です。どれほど私が装うとも、あるいは、どれほど私がその山で神秘的な体験をしていようと、私はその山と異なるという事実は残ります。我々が理解するとき、最初に、“私”と対象は二つの異なる状態であるということを理解して検討することは、更に複雑に、更に難しくなります。私がそのことを理解するとき、私は行動します。そして、その行動が更なる争い、更なるトラブル、更なる困苦、更なる苦痛をもたらします。私は、嫉妬に関して、私が誰かを支配したいという欲望に関して、何をすればよいのでしょうか? 私は分かります、私の行うことが更なる争いを引き起こすことを、そして、私は言います、“なんて私は馬鹿なのか、私はそれ以上争いを引き起こしたくありません、私は更なる緊張を願いません”と。どのように私は行動上の争いに終止符を打つのでしょうか?
質問者 行動しないことです。
クリシュナムルティ 私の生は行動です。話すことは行動です、呼吸することは行動です、何かを見ることは行動です、車に乗ることは行動です、私の家に行くことは行動です。私の行うあらゆることが行動です。あなたは言います、“行動するな!”と。それはただ私が居るのを止すことを意味するのでしょうか、考えないこと、感じないことを意味するのでしょうか、神経麻痺することを、死んでしまうことを意味するのでしょうか?
質問者 観念―それは真実ではありません―と真実は一緒になりえません。
クリシュナムルティ 私は行動が生であると認識します。もし私が全く麻痺していないなら、死んでいないなら、あるいは、鈍感でないなら、私は行動します。私は、あらゆる行動が更なる苦痛、更なる争い、更なる困苦をもたらすと分かります。私は争いが全く生じない行動があるのかどうかを明らかにしたいと思います。

               ......

質問者 我々は我々の行動を理解しなければなりません。
クリシュナムルティ どのようにして私は行動を理解するのでしょうか? 何かを理解するためには、私はそれを見なければなりません、私はそれを検討しなければなりません、私はそれについて偏見を抱いてはなりません、私はそれに対して防御してはなりません、私はそれから逃げてはなりません、私はそれに非常に通じていなければなりません。何かを理解するためには、私は私自身と私が見るものとの間に壁を築かないで見なければなりません。しかし、私は壁を築きます、私はその汚らわしいものを抑圧したいと思います、私はそれから逃げ去りたいと思います。
質問者 もし人が人の思考や感情や活動を見守るなら、人は理解し始めます。
クリシュナムルティ その思考を見ていて、“私はそれを理解します”と言う、その見守る人とは誰でしょうか? 観察しているその当のものは思考と異なるのでしょうか?  思考がその当のものです、それは、観察者が観察されるものであるということを意味します。
 私は自分自身に言います、“私は私の感情、私の思考、私の活動、私の関係性を理解しなければならない。私が何を行おうと、私は見なければならない、観察しなければならない、見守らなければならない”と。私は私の思考を見守ります。それはあらゆるところに赴きます、彷徨します、矛盾を引き起こします。私はそれを見て、それを理解しようとします、それをコントロールしようとします、あるいは、私自身をそれと一体化しようとします。私は努力します、そして、その努力は争いです、しかし、私が、その思考者、その観察者がその思考であると、観察されるものであると気づくとき、争いは止みます。

               ......

質問者 我々は思考と思考者が一つであると認めます。
クリシュナムルティ 認めるということではありません、一体化するということではありません、一緒にするということではありません。
質問者 なぜ我々は一緒に一足飛びに歩を進めることができないのですか?
クリシュナムルティ なぜなら、我々は非常にシンプルな事実に向き合うのを拒絶しているからです。我々はあらゆることをひどく複雑にしたいと思うのです。我々は頭上を飛んでいるあの飛行機の騒音にただ耳を傾けることができません。我々があのノイズに耳を傾けるとき、聞き手とそのノイズとしてではなく、しかし、我々が完全にそのノイズに気を付けているとき、そうすると、ノイズだけが生じていて、聞き手とノイズは存在しません。
質問者 我々は、その当の中心があって、そして、思考があるという事実を感じています。
クリシュナムルティ 電子頭脳はそれが所有する情報に従って問題に答えます。我々は情報を経験や継承してきているもの、文化、印象、影響、気候などを通じて蓄えてきました。電子的貯蔵が思考者であり、それがそれ自身を思考から分離して、そして、言います、“私はそれについて何かを行わなければならない”と。実際の事実は、思考者がその思考であり、その記憶であり、その経験であり、観察者であり、経験者と経験されるものであるということです。もしあなたがこのことに気づくなら、もしあなたが本当にこの非常に、非常にシンプルな事実を理解するなら、生は余すことなく、絶対的に、明日ではなく、今、変わるでしょう。
質問者 我々は消えてなくなります。
クリシュナムルティ 消えてなくなりますか? (笑) 私はこの上なく真剣です、私はそれをシニカルに、あるいは、ユーモラスに言っているのではありません。あなたがあの花を何も“考えず”に見るとき、何が起こりますか?
質問者 見ている状態だけが生じます。
クリシュナムルティ あなたたちはどう言いますか? あなたはこれまで花を、あらゆる分析をやり過ごして、あらゆる思考をやり過ごして、見ようとしたことがありますか―それをただ見るのです。何が起こるのでしょうか?

               ......

質問者 あなたはそのノイズと一つになります。
質問者 それがあなたを満たします、あなたはそれで満たされます。
クリシュナムルティ あなたはそのノイズに耳を傾けていますか?
質問者 はい。
クリシュナムルティ どのようにあなたが耳を傾けるのかが途轍もなく重要です。飛行機が今通過しました、そして、あなたは耳を傾けていました。あなたは言います、“はい、私はそのノイズに耳を傾けていました、それが私を満たしました”と、あるいは、あなたは言います、“私はあのノイズが好きではありません、なぜなら、私はあなたに質問したかったからです”と、あるいは、“私はあなたに耳を傾けたいのです”と。あなたは明らかにする必要があります、あなたが耳を傾ける前に、耳を傾けるとはどういうことであるのかを。耳を傾けるとはどういうことでしょうか?
 私は耳を傾けることがどういうことかを明らかにする必要があります、私はどのように耳を傾けるのかを明らかにする必要があります。ノイズは重要ではありません、しかし、どのように私がそのノイズに耳を傾けるのかが重要です。どのようにあなたは耳を傾けますか? あなたは余すことなく耳を傾けますか? それらはただの些末な問いではありません。あなたはあなたが耳を傾けているのかどうかを自分自身で明らかにする必要があります。あなたはあなたの妻に、あなたの夫に耳を傾けますか、あるいは、あなたは出来合いのパターンに従って一生涯過ごすのでしょうか、そして、そのパターンが機能するとき、あなたはそれを耳を傾けることと称するのでしょうか? 行うのに最も難しいことの一つは、あなたが耳を傾けているとき、耳を傾けるとはどういうことかを明らかにすることです。あなたは沈黙から耳を傾けることができるだけです。その飛行機が上空を通過したとき、あなた方の幾人かはそのノイズに耳を傾けていました、他の幾人かは耳を傾けていませんでした、あるいは、耳を傾けることがどういうことなのか理解していませんでした。もしあなたが耳を傾けるなら、あなたにはそれはノイズではありえません。あなたの精神がざわつくことはありえません。余すことなく沈黙しているときに、あなたは耳を傾けることができうるだけです。一般的に、我々は認識します、思考者と思考は二つの分離した状態であると、もし我々が何とかそれを認識するなら。通常、我々は無関心です、我々はただ考えるだけです。しかし、我々が、思考者は思考と分離していると認識するとき、何が起こりますか? 最初に、我々はその事実に耳を傾ける必要があります、それは我々が自分自身で発見したものです、考えることと思考は二つの分離した状態であると。そのように耳を傾けることから、我々は発見します、思考が思考者であると、その二つは分離していません。一体化しているのではありません、思考者がそれ自身を思考と一体化しているのではありません、思考が思考者です。
 あなたは、観察者は、そのマイクロホンを見ます。あなたは言います、“それはわたしではありません”と。勿論、それはあなたではありません。明らかに、あなたはあなた自身を死んだものと一体化できません、あるいは、生きているものと一体化できません。観察者と観察されるものがあります。あなたはそれをどのように見ますか? “どのようにあなたが見るのか”ということが、その対象よりも重要です。あなたはそれを多くのノイズと共に見ますか、そのマイクロホンは良いとか悪いとか、それはこうであるとか、それはあれであるとかの思考を交えて見ますか? あるいは、あなたはそれを完全に沈黙して見ますか? あなたがそれを完全に沈黙して見るとき、何が起こりますか? 私が答えるのを待たないで下さい。私はあなたに言おうとは思いません、なぜなら、それはもう一つの繰り返される戯言になるだろうからです。何かを見るためには、何かに耳を傾けるためには、完全な沈黙が生じていなければなりません。重要なことは対象ではなく、沈黙です、静けさです、気を付けることです、あなたがそれにどのような言葉を当てようと。精神が完全に沈黙しているときにのみ、あなたは正に見ることができます、正に耳を傾けることができます。そうすると、耳を傾けること、行動すること、そして、見ることは同じです。あなたはその美が分かりますか?
                     ―1966年8月 ザーネン
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