クリシュナムルティ 我々は我々の議論を信念の問題で始めました、それが人間の生の中で占める役割について議論を始めました、そして、信念や教条、方式や理想が必要であるのかどうかの議論を始めました、なぜなら、それらが行動を実際に妨げるからです。精神が信念、教条、理想の足かせに懸るとき、行動は否応なく争いを生むだけではなく、矛盾を引き起こすに違いありません、従って、行動は決して無垢では、明瞭ではありません。明瞭な行動は、矛盾の生じないとき、混乱していないときにのみ可能です。人間として、我々は非常に混乱しています、そして、我々の中の少数の人しかその事実に気づいていません。我々が気づくとき、我々はそれから逃げ出そうとします。我々が混乱すればするほど、何らかの足掛かり、何らかの場所、何らかの理想、何らかの知識を見つけようとする要求が強まります、それらが、我々に明瞭さをもたらしてくれると我々が期待する当のものです。そのような混乱は社会によって、我々がその一部である社会によって、我々の中に醸成されてきました。社会は、政治や様々な種類の宗教的教条、矛盾を抱えたナショナリティ、既得権益を抱えた主権国家、それらの海軍やその他の軍事集団などを含みます。社会は、我々がその一部である社会は、そのような矛盾、そのような混乱に対して責任があります。
我々は混乱しています、そして、我々は考えます、その現象を一掃することによって、あるいは、それらを探究することによって、我々は混乱から解放されると。我々は考えます、我々は、いかなる宗教にも属さないことによって、いくつかの現象を一掃できると。今日、健全で、賢明な人は、いかなる組織宗教にも属しません、いかなる特殊な教条にも与しません、あるいは、自分の出自をいずれかのナショナリティに見出したりはしません。何らかのパターンに殉じる人たちのみが、依然として、何らかの信念やナショナリティに固執しています。我々が世界で起こっていることに気づけば気づくほど、我々は何らかの宗教やナショナリティに属すことを放棄します、人種あるいは肌の色に固執することを止めます。
我々は現象を非難して、それらの原因を探し求めます。混乱はそれよりももっと深いのです。我々はそれを議論しなければなりません、それを一緒に検討しなければなりません、行動が混乱から解放されて、行動が新鮮で、無垢で、明瞭になりうるのかどうかを、そうやって、それが更なる混乱や悲惨を生み出さないようになりうるのかどうかを明らかにしなければなりません。我々は混乱しています、そして、それは否定できません。我々が賢ければ賢いほど、我々は足掛かりを見つけます、そして、我々は考えます、そのような相対的に安定した状態から我々の行動は明瞭になると。それはそうはなりません。反対です、我々が何らかの信念に安心を覚えれば覚えるほど、混乱は深まります。これは、我々が世界を見ると明らかです。我々が我々はカソリック教徒である、ヒンズー教徒である、仏教徒であるなどと主張すればするほど、我々の生は矛盾します、そして、そのことが益々戦争を引き起こします。それは、この上なく破壊的な手段を発明する科学者たちが、それでも、こう言うのと同じです、その人たちはその人たちの子供たちを愛していると。その二つは一緒になりえません。その人たちはこの混乱について責任があります、そして、我々の一人ひとりにもまた責任があります、なぜなら、我々は依然として我々のナショナリティに、我々の個別の宗教に、我々の個別のイデオロギーに固執しているからです。
我々はこの混乱の問題を議論しなければなりません、なぜなら、それは我々が恐れに対してどのように向き合うのかを理解する助けになると思われるからです。精神が恐れていないとき、それがいかなる種類の恐れも抱いていないとき、そうするときのみ、それは途方もなく明瞭に機能することができます。そうすると、それはそれ自身の混乱を作り出しません。もし我々が我々は混乱していると気づくなら、最初に、なぜ我々は混乱しているのでしょうか? 我々がなぜと問うとき、我々はその現象と原因を検討します。
人間として、私は混乱しています、そして、私は言います、“なぜ”と。私は分かります、私はヒンズー教徒です、あらゆる私の迷信を抱えています、あらゆる私の特殊な真理を抱えています、私の特殊な方法などそれら全てを抱えています、そして、それらは恐れている精神の発明です。私はそれら全てに固執して、矛盾を作り出します、あなたと、キリスト教徒であるあなたと、私との間に、ヒンズー教徒である私との間に矛盾を生じさせます。あなたはいかなる特殊の形の信仰も嫌います、そして、その人たちはあなたのそれを嫌います、そのように、我々はお互いを嫌い合います。我々はお互いを許容するけれども、我々は友愛などそのようなナンセンスについて語るけれども、実際には、私が私の宗教に属し、あなたがあなたのそれに属している限り、我々の間には矛盾が生じます。我々は許容するかもしれないけれども、いつも、その敵対意識が生じて、それが否応なく混乱を生むに違いありません。
私は願います、あなたがなぜあなたは混乱しているのかを自分自身に問うていることを。あなたはこの問いにどう答えますか? あなたはその原因と現象を検討しますか? あなたはその混乱を生み出した原因を検討しますか―なぜなら、あなたは何らかの宗教あるいはナショナリティに属しているからです、あるいは、何らかの行動に殉じているからです、共産主義者として、社会主義者として、それが何であれ。あなたは言いますか、“私は明瞭になるために、混乱しないために、それらから自由になっていなければならない”と。それがあなたの一般的に取る行動です、違いますか?
我々は混乱しています、混乱しているので、我々はその原因を現象を通して検討します、そして、我々は言います、“我々はそれらの原因を取り除かなければならない”と。我々は混乱していない精神の状態を手にしたいので、我々はそれらを取り除きたいと思います。
私は、私が何らかの愚かな宗教に属しているので、混乱していると分かります。あらゆる宗教は愚劣です、なぜなら、それらは、事実に、生に、恐れに向き合うのを恐れている非常に狡賢い精神の発明だからです。私は自分自身に言います、“私はそれを取り除かなければならない”と。現象を通して、私はその原因を見つけようとします、そうして、その原因を取り除こうとします。それは混乱していない精神の状態を生みますか? どうか、同意あるいは不同意しないで下さい。注意深く、それを検討して下さい。
質問者 それは新しい争いです。
クリシュナムルティ はい、そして、私の精神は何らかのプロパガンダによって条件づけられています。あらゆる宗教は、あらゆる新しい革命はプロパガンダです。私は混乱しないために、それを取り除きたいと思います。取り除くこと、取り去ることは争いです、そして、それが更なる混乱を引き起こします。
質問者 私は社会が我々の混乱の唯一の原因だとは思いません。
クリシュナムルティ 勿論です。社会は、関係性は...
質問者 それら全てです。我々は我々の人間的性質によって混乱しています。
クリシュナムルティ それは社会の心理的構造の一部です、それはあなたを含みます。
質問者 それはそれだけではありません。
クリシュナムルティ 分かりました、それをもう一つ加えて下さい。
質問者 私が危険に遭遇します、私は反射的に反応します、私は本能的に守ろうとします、そして、私は私自身がその危険に関して混乱しているのが分かります。
クリシュナムルティ 我々は自分自身を物理的にも心理的に守りたいと思います、そうして、我々は信念、教条、神々を発明します、それら全ては我々の文化、我々の引き継いできたもの、我々の社会の一部です。それら全てが混乱を引き起こします。どのようにして我々はその混乱を取り除くのでしょうか? もし我々がそれを取り除かないなら、行動はいつも混乱していて、いつも争いを引き起こします。我々は一般的に言います、“私は混乱している、その原因が存在する、私はその原因を取り除きたいと思う”と。我々はその原因をその現象を通して見つけます。我々は検討します、検討します、その現象を検討します、その様々な原因を見つけます、そうして、それらを何とか取り除こうと格闘します。それは精神を混乱から解放しますか? 私は事実に―恐れに―向き合いたいと思います、そして、その事実に向き合うと、私は行動する必要があります。私はただ座っていて、こう言うことはできません、“あーっ、私は恐ろしい”と。私は行動する必要があります、ネガティブにもポジティブにも、そして、行動するためには、精神があらゆる混乱から解放されていなければなりません。そうでないと、私は更なる恐れを作り出します、更なる混乱を生じさせます。私はどうするのでしょうか?
......
質問者 恐れを検討するのです。
クリシュナムルティ あなたは恐れを検討すると言い、別の人はその事実を見ることと言います。あなたは検討するということの、見るということの意味を知っていますか? “検討する”と言うことはとても容易です、そして、“その事実を見る”と言うことはとても容易です。あなたは検討するということに何が含まれるのか知っていますか? 何かを検討するためには、混乱するものがあってはなりません、自由でなければなりません。もし科学者がその人の研究室へ、その人の家族の心配事や何やらを抱えて行くなら、その人は見ることができません。その人は研究するために自由でなければなりません。事実を見るためには、私もまた自由でなければなりません、私は混乱した精神を持ち込んではなりません。どのようにあなたはこの問題に相対するのでしょうか?
質問者 いかなる刺激、いかなる影響、いかなるプロパガンダに殉じるいかなる形も、それが宗教のそれであれ、あるいは、ビジネスマンのそれであれ、それが何であれ、私の妻のプロパガンダあるいは私の妻に対する私のプロパガンダ、それは、それが何であれ、混乱の温床です。
クリシュナムルティ そうすると、私は問題を抱えています。私は相当に沢山のものに殉じています、私は信じます、そして、私は信じません、私には野心があります、成功することを追い求めています、地位を、名声を、力を追い求めています。私は高慢です、そして、私のある部分は臆病であり、謙虚の気持ちもあり、引きこもることもあり、親切でありたいとも願います。そのような計り知れない矛盾が私の中にあります、そして、その一つを正に私が否定する中で、そのこと自体が混乱を引き起こす争いを作り出しています。私はそれら全てが分かります。私はどうしたらよいのでしょうか?
質問者 私がそれら全てを見てみるとき、私が自分自身に唯一問えるのは、分析が必要であるのかどうかということです。
クリシュナムルティ 私は願います、これら全てに耳を傾けてきたあなた方の幾人かがそれを議論することを。分析は必要でしょうか? もしそれが必要でないなら、そうすると、どのようにして我々はその原因を見つけるのでしょうか、そして、その原因を見つけると、分析を通じてではなく、直に気づくことによって見つけると、どのようにして我々はそれを取り除くのでしょうか?
質問者 私は思います、私が...という願いを持つ限り...
クリシュナムルティ あなたが“...という限り”、あるいは、“いかなる願いももたないとき”と言うや否や、あなたは問題をただ引き延ばしているだけです。
質問者 あなたは混乱を、生の美しい、喜ばしい、そして、必要な部分として受け入れる必要はありません。
......
“蛸壺囚人”(J.クリシュナムルティ)の日本人というアイデンティフィケイションとは何でしょうか?
......
クリシュナムルティ 私は受け入れません。混乱は酷いものです! それは世界を破壊しています。政治家、聖職者、科学者はみな混乱しています。私は私の関係性の中で混乱しています。我々の囚われているあらゆるものが混乱です。私はそれを受け入れる必要はありません、それは事実です。私はどうしたらよいのでしょうか?
ここに事実があります、つまり、我々は混乱しているという事実です。それは美しいということではありません、それは我々が耐えなければならない生の一部です。賢明な人ならそれに耐えたいとは思いません。その人はそれを蹴飛ばしたいと思います、その人はそれを放り出したいと思います、そして、それを取り除く正にその行為の中にも混乱が生じます。あなたどうするのでしょうか?
質問者 もしできるなら、我々は我々の精神を沈黙させるべきです。
クリシュナムルティ 例えば、あなたはそのとき空腹であったに違いありません、そして、食べ物をそのとき正に欲していました。
質問者 はい、しかし、私は待ちました。
クリシュナムルティ あなたは待ちました、しかし、あなたはそれを手にしました。宜しいでしょうか、あなたは言います、“私が沈黙を育めるのかどうか待って見てみましょう”と。その待って沈黙を育んでいる間、あなたは更に混乱を生み出しています。どうか言わないで下さい、“もし...”、“...のとき”、“いつか”、“どういうわけか”と。それらには何の意味もありません。
我々は混乱しています、そして、我々はその混乱の原因を非常に良く知っています―新聞であり、ラジオであり、聖職者であり、政治家であり、我々自身の欲望です―そのような騒動が年がら年中止むことはありません。どのようにして我々はその騒動から自由になるのでしょうか?
質問者 混乱は亀裂があるとき生じます。もしあなたがその亀裂を認めるなら、あなたはもはや混乱の中にいません、あなたはもはや分断されていません。
クリシュナムルティ それは再び“...のとき”そして“もし...”です。私は食べ物を見つけたいのです、そして、あなたは私に灰を与えているのです―“...のとき”、“もし...”、“...すべきである”、“...でなければならない”、“信じました”、“それら全てを信じてはならない、これを信じなさい”と。
あなたが提案している全てのもの―“これをしなさい”、 “それをしてはいけません”、 “こう考えなさい”、 “そう考えてはいけません”、 “あなたは...すべきである”、 “あなたは...すべきではない”―それら全てには何の意味もありません。
質問者 なぜ行動が必要なのでしょか?
クリシュナムルティ 生きることは行動です。このテントから出て食事をするためには、私は行動しなければなりません。もし私が幾分正気でないなら、私はこう言えます、“行動というものはありえない、私は行動できない”と、そして、誰かが私に食べ物を持ってくるのをただ待つのです。そのような人たちはいます。
我々は混乱しています、そして、我々はその原因を知っています。その原因を明らかにするのに大した知力あるいは大した叡智を要しません―我々自身と社会や宗教、政治、軍隊、海軍、王、女王などとの関係です、そして、ナショナリティの分断であり、様々な偏見であり、爆弾投下であり、破壊の恐るべき手段を発明し、その人たちの言うところの、その人たちが愛する子供たちを育てている科学者たちです。あなたはあなたが行動しなければならないのを知っています。あなたは単にこう言うことはできません、“私は誰かがどうすればよいのかを私に言うのを座って待ちます”と。あなたはどう行動しますか?
......
質問者 あなたは世界の中で何らかのハーモニーを目にしませんか? 我々は此処で非常に美しい建物の構造を目にします、あらゆる梁が互いに良く組み合わさってできています。それは混乱ではありません、それはハーモニーの一例です。
クリシュナムルティ 世界の中にハーモニーが、実際に、理論的にではなく、存在しますか? 天国では、あらゆるものがハーモニーを奏でます。実際に、世界の中に、ハーモニーが存在しますか、私と私の妻との間に、私と私の両親との間に、私と何であれ?
質問者 我々が世界のことを知れば知るほど、そして、我々がそれを理解すればするほど、我々は驚くべきハーモニーを沢山見つけます。
クリシュナムルティ あなたは言います、我々が知れば知るほど、多くのハーモニーが存在すると。我々は沢山知っています。我々は二百万年生きてきました。過去数千年に一万五千の戦争が起こりました、それでも、我々は知っています、我々はお互いを殺戮し合ってはならないと。我々は知っています、我々自身をフランス人、ドイツ人、イギリス人などと分断することがいかに馬鹿げているのかを。我々は新しい装置の発明の仕方も知っています、そして、月へ行きます。我々は沢山のことを知っています、それでも、我々はハーモニーを奏でてはいません。
あなたの問題を見て下さい。あなたは混乱しています。何らかのハーモニーの存在を発明しないで下さい、あなたの頭上の天使があなたを守っていると。もしあなたがそれら全てを切り捨てると、あなたはそうしなければなりませんが、あなたはこういう事実と向き合います、つまり、科学者たちはハーモニーの欠落を作り出します、政治家、職場でのあなた、ビジネスマン、軍隊、海軍、空軍―あらゆる人がそれに次から次へと加わっています、それぞれがお互いに矛盾しています、誰もが言います、あなたはこうしなければならない、そして、あなたはそうしてはならないと。ムッソリーニ、ヒットラー、チャーチルがいました、みな我々に何をなすべきか告げます。あなたはそれら全てを知っています。あなたは何をするのでしょうか? あなたはもっと何らかの信念を発明しますか、もっと何らかの組織に加わりますか、新しいリーダーに従いますか? もしあなたが気づくなら、あなたはどうしますか?
質問者 私はそれら全てを捨て去って、私自身の生を歩みます。
クリシュナムルティ あなた自身の生は、あらゆる他の生と関連しています、あなたはそれら全てを放り出すことはできません。
私は分析の不毛さをはっきりと見て取ります。私は見て取ります、原因を発見しようとすることは馬鹿げていると。私はそれらの原因が何であるのか知っています、即ち、私の恐れ、私の保護の要請、私が抱く信念―私の国はあなたの国より偉大であり、高貴である、私のリーダーはあなたのリーダーより完全である、唯一の救済者が存在する、そして、唯一の神が存在する―戦って、戦って、戦うのです。私はそれら全ての一部です。私の右手は私の左手の知らないことを行います、そして、私の左手は私の右手の知らないことを行います、科学者たちのように、政治家たちのように、聖職者たちのように、なぜなら、それら全ての人たちには信念があるからです。その人たちは何らかの結論から始めるのです。私はそれら全てを見て取ります、そして、私はその一部です、そして、私は現象を通じて分析するのは時間の無駄であることも見て取ります。従って、私は自分自身に言います、“私は何をすればよいのか”と。
私はこれら全ての手の込んだやり方を見てきました。個人的には、私はそうしてきていません、しかし、私は人々が一つの教会から別のそれへ行くのを、政治から非政治に向かうのを、共産主義へ向かって、そして、共産主義をお払い箱にするのを見てきました―一つの混乱から別のそれへ、一生涯四十年間そうするのを見てきました。異なる取り組み方があるのでしょうか? それら全ての異なる見方があるのでしょうか、余すことのない、断片的ではないそれがあるのでしょうか? あらゆる思考が断片的です―私の国、あなたの神に対する私の神です。どのような形の思考も断片的であるに違いありません。私はあらゆるものを断片的に見てきました、天上の神、地上の地獄、お金を稼ぐ、新しい建物に興味をもつビジネスマン、そして、ヴェトナムを破壊しています、組織的宗教が権力を、地位を追い求めて、より多くの人々を改宗させ、その宗教の更なる拡大を図ります、人々は飢えています、そして、人々は自らを国家として、人種として分断しています。それら全てが断片的です。私は自分自身に言います、“それは混乱を理解する方法ではない、それは断片を通じてそうしている”と。思考はその混乱を解決できません、なぜなら、思考が混乱を醸成してきたからです。
質問者 私の思考は私の感情と対立しています。
クリシュナムルティ 思考が感情と対立していると言わないで下さい、感情はあなたの思考の一部です。我々はそれらを分離できません。我々は何もかもを余すことなく見て取ることができないようです。我々は物事を断定的に見ます、我々は物事を思考を通して考察します、そして、思考は本質的に混乱を生み出します。政治家の本来の機能は、あるいは、いかなる人間のそれも、人類のまとまりを生み出すことです、イギリス人やフランス人やドイツ人としてではなく、全人類としてのまとまりです、東洋、西洋、南、北ではないそれです。それらは断片的な精神の発明です、そして、その断片化は思考の結果です。思考それ自体が断片的であり、それはその問題を解決しないでしょう。それがその問題を解決しようとするとき、思考は更なる混乱を引き起こす更なる断片を作り出すだけです。
あなたはこの全問題を見ることができますか、つまり、教会や宗教が善や神について語っています、ビジネスマン、科学者が子供たちを育てて、その子供たちを戦場に送って、その子供たちの血肉を破壊しています。あなたはそれら全てを放り出すことができますか、それら全てです、思考を巡らしてそうするのではありません、誰かがあなたにそうするように告げたからではありません。あなたは、思考が矛盾や分断や混乱を生み出してきたと見て取って、こう言います、“何てことだ! 私は何ものにも従属しない。私は自分自身を何ものにも殉じさせない”と。あなたはその立場にいますか? あなたは正直にこう言えますか、あなたはいかなるものにも殉じない、いかなる方式にも、いかなる宗教にも、いかなる聖職者にも、ローマの聖職者だけではなく、カンタベリーやベナレスのそれだけでなく、モスクワあるいは労働党のそれにも殉じないと。あなたはあなたの家族に、あなたの国家に、何らかの信念の形に、何らかの快楽に殉じています。たとえ快楽が苦痛を生もうと、あなたは依然としてそうします。あなたはこう言いません、“その問題は断片的な思考では全く解決しえない”と。あらゆる思考は断片的であるので、思考が、国家として、宗教として、神として、聖職者として、王として、女王として作り出してきたものが全て消え去るのでなければなりません! それはこの上ない革命です。あなたはそれら全てを完全に脇へ払い除けることができますか、努力とは無縁に、なぜなら、あなたは見て取るからです、それが争いを生み出すと、それは毒なので、あなたはそれに触れません。
質問者 聖職者がやって来て、私に話しかけると、私は自分が再び混乱しているのが分かります。
クリシュナムルティ 聖職者たちを避けなさい! 彼らに近寄ってはいけません! それが政治家であろうと、聖職者であろうと、プロパガンディストあるいは書物であろうと、それに近寄ってはいけません。
質問者 あなたが彼らと何らかの関係があるならどうしますか?
クリシュナムルティ 私は争いを生じさせる、混乱を引き起こす関係性を望みません。それは、私が進んで完全に独存することを、完全に無垢であることを意味します。私はあなたが私に食べ物を運んでくれなくても構いません、私はあなたが毎朝此処へ来なくても構いません。私はあなたに殉じていません。
質問者 ひとたび我々がもはや固執し合わないなら、我々は完全に誰に対しても完全に開かれています、そして、人々は我々にもはや這い入って来ません、しかし、我々は人々を退けません。
クリシュナムルティ 従って、あなたは人々を拒絶しません、人々は思う通りのことを言うことができます。
質問者 あなたがそれら全てを放り出すと、あなたはあなた自身を放り出さなければなりません、なぜなら、あなたはそれら全ての一部分だからです、そして、あなたがそれを放り出すと、あなたはすでにあなた自身の混乱を取り除いています。
クリシュナムルティ 正にそれです! 放り出される“私”はいません。私はそれら全ての結果であり、それは私が私の恐れから、私の野心、欲望から、私の嫉妬から作り上げてきたものです。私は、この世界に生きていて、独存することができますか、無垢でいられますか? 私がそれら全てを脇へ除けたとき、分析者たちや心理学者たち、医師たち、科学者たち、現代の聖職者たちなど、それら全ての人たちが何を言おうと、あるいは、口をつぐもうと、私はもはや混乱していません、しかし、それは思考の結果ではありません、それは抵抗を作り出すだけです。それは分析を通じてのそれではありません、検討してのそれではありません、混乱しないように願ったそれではありません、そうではなく、それは余すことなく見て取ることによってのそれです。私は、もし思考が働いているなら、余すことなく見て取ることはできません。そこで、私は恐れに相対する用意ができています。そこで、私は恐れが何であるのかを見て取る用意ができています、なぜなら、私の恐れがそれら全てを作り出しているからです―国家、政治家、神々、それら全てが機能するそれです。私はこうも言ってきました、“思考が断片化をもたらしている”と、そこで、私は本当に注意深くその恐れを見守るのでなければなりません、そして、思考の干渉を許さないようにしなければなりません。
私は、人間として、イギリス人としてではなく、カトリック教徒としてではなく、ヒンズー教徒としてではなく―それら全ては終了しています、ひどく子供じみたこととして、ひどく未熟なこととして、それらをやり過ごしています―私は、今、恐れを見て取ることができますか、そして、私は見て取ること、耳を傾けることが何を意味するのか分かるでしょうか? もし私が思考を交えて耳を傾けているなら、そうすると、私は断片化して耳を傾けています、あの飛行機のノイズが好きだとか、あるいは、嫌いだとかと。もし私が見て取ることや耳を傾けることが何を意味するのか知らないなら、こう言って自分に知っているふりをさせないで下さい、“私は...すべきである”、“...すべきではない”、“それは...でなければならない”、“...であってはならない”と。もし私が見て取ることや耳を傾けることの意味することが何であるのかを知らないなら...それはシンプルな事実です。そうすると、私は歩を進めることができます。ほとんどの我々には虚栄心があり、何かを装います、我々は謙虚の閃きを持ち合わせていません、そして、検討するためには、見て取るためには、その正しい意味において、聖職者のそれではなく、謙虚さを要します。
質問者 私は恐れを見て取りますが、私はそれを取り除きたいと思います。それはほとんどの健全な人々の性質です。私がそれを取り除きたいと思うとき、何が起こりますか?
クリシュナムルティ なぜ私はそうしたいのでしょうか? なぜなら、それは苦痛を伴うからです、それは破壊的だからです、なぜなら、私は私の知っている快楽を保持したいと思うからです。それを取り除きたいと駆り立てる背後に快楽のエネルギーがあります。快楽を理解することなしに、私は恐れに相対することはできません。もし私が、恐れを快楽を通して見ているなら、それは断片的な観察です。私の関心は快楽を維持することです、快楽を継続することです、そして、恐れがそれに干渉します。恐れは快楽を継続させたいという思いの結果です、そこで、私は言います、“私はそれを取り除かなければならない”と。思考が―それが恐れをもたらしてきました、それが快楽の継続を要求します―恐れを否定したり、恐れに抵抗したりします。私は再び快楽の非常に複雑な問題を検討しなければなりません、私はそれを理解する必要があります。もし私がこう言うなら、“私は私がセックスや喫煙や山を楽しむことから手にした快楽を取り除くことになるのか”と、私の精神はすでに断片的に機能しています。私は快楽の全構造を理解して、それを余すことなく見て取らなければなりません。そうすると、快楽は全く異なる意味をもちます。
......
クリシュナムルティ 人間はこの上なく騙されやすいのです。我々は何でも信じます。それなりのプレッシャーを受けると、それなりのプロパガンダに晒されると、我々はその他の全てを行います。我々はとても容易に新しいリーダー、新しい観念、新しい食事、新しい医者を受け入れます。人々は我々につけ込みます、人々は我々を食い物にします、なぜなら、我々はいつも快楽を追い求めているからです、更なる健康を願っているからです、更なる叡智、更なる精神性を願っているからです、その言葉が何を意味しようと、我々はいつも我々に更なる刺激を与えてくれる人を探し求めています、その人に追随しています、その人を見上げています、我々は我々の全ての信頼を一つの籠の中に放り込みます。我々は非常に注意して、これら全ての議論や対話の間じゅう、あらゆる騙されやすさを脇へ置くべきです、大いに懐疑してかかるべきです、問うべきです、要求すべきです、決して“イエスマン”になるべきではありません、むしろ、“否と言う人”でいるべきです。我々は悪いことにも良いことにも非常に騙されやすいのです、そして、見たところ、悪いことの方がより支配的で、我々に愈々猛威を振るいます。私はただ問うています、我々は、このテントの中で、我々のために言われるあらゆるものを非常に注意深く検討すべきであると―あらゆることです。
それら全ての背後に横たわるのが、その途方もない快楽の要求です、満足する要求です、そして、それが我々みなの探し求めているものです。その快楽が挫かれると、争いが生じます、苦痛、辛辣さ、欲求不満が生じます。我々はみなそのカテゴリーの中に入ります。もし我々が恐れに向き合うなら、それから完全に自由になるなら、そして、それを乗り越えるなら、我々は、我々が昨日行ったように、様々な形の信念の問題を検討するだけでなく、なぜ我々が我々自身を防御するのか、なぜそのような信念が混乱を引き起こすのか、そして、混乱の性質とは何か、混乱の構造とは何かを検討するだけではなく、我々は快楽の複雑な問題をも検討するのでなければなりません。我々は知っています、我々の頭脳の相当な部分が依然として動物的であると、そして、動物はいつも快楽を探し求めています。もし我々がペットたちを観察したなら、我々は知っています、ペットたちは、我々がそれらを撫でると、それらに何かを与えると、いかに喜ぶのかを。犬に一目を置かれるというのが我々の自己満足であるだけではなく、その犬もまた我々を喜ばしたいのです。我々は野心を抱いて、力を駆使して、何か良いことをすることによって、リーダーや政治家になることによって、快楽を手にしようと格闘します。政治的な集団が公約をしてコントロールします、大いなるユートピアを提示します、公約で全国家を従属させます。我々はこの快楽の構造を理解しなければなりません。我々は、今朝、それを議論しようと思います。私の言うことを受け入れないで下さい、そうではなく、問うて下さい、尋ねて下さい、検討して下さい、探究して下さい、非常に注意深く言われていることに耳を傾けて下さい、そうすることで、あなたが自分自身であなた自身のために正しい答えを見つけるようにして下さい、そこで、あなたは自分自身を欺かないようにして下さい。
......
クリシュナムルティ 食べ物やセックス、山、野心、成就欲についての私の思考はいつも断片的であるに違いありません。もし私があの飛行機に思考を交えて耳を傾けるなら、それは断片的なノイズです、なぜなら、私はそのノイズが好きではないからです。もし思考が生じないなら、私は余すことなく耳を傾けることができます、好きも嫌いもありません、それはノイズです。快楽は苦痛を生みます、なぜなら、それは思考の結果だからです。同意しないで下さい、それを自分自身で見て下さい。思考や記憶、経験、知識とそれに対する反応などによってもたらされる快楽はいつも矛盾しているに違いありません。思考はいつも断片化を生じさせます、そして、それが我々の探し求めているものです、断片的な快楽です。科学者は、その人の研究室の中で、その人の子供たちが育って兵隊になり殺されるのかどうかには無頓着です。思考の結果ではない、非断片的な、そして、何にも矛盾しない快楽があるのでしょうか? それを発見して下さい。私の言っていることを受け入れないで下さい。私はこの上なく愚かなことを言っているのかもしれません。騙されないで下さい、そして、こう言わないで下さい、“はい、私はそのような快楽を手にしたいと思います、どのようにして私はそれを手にするのでしょうか?”と。もしあなたが我々の議論してきたことを見て取って、思考の性質を理解するなら、そうすると、否応なく、あなたは自分自身で思考によって作り上げられた快楽はいつも断片的であることに気づくでしょう、そして、断片的なものはいつも争いを招くと気づくでしょう。
質問者 確かに、快楽があって、思考の存在しない状態がなければなりません。
クリシュナムルティ 私は知りません。それは真実かもしれません。それは素敵な観念です。
質問者 あなたが空を見るとき、あなたには反射的反応は起こりません。
クリシュナムルティ あなたは、あなたがそれを問うているとき、耳を傾けていません。あなたは単に仮説を述べているだけです、あなたがこう言うとき、“...はずである”、“...のとき”、“もし...”と。
あなたはこの構造の美を見て取っていません。
セックスや食べ物、野心あるいは成就欲としての快楽は、明らかに、全て断片的です。矛盾しない何かが、思考の結果ではない何かが、従って、恐らく、私が決して知らない快楽があるのでしょうか? 私はそれが快楽であるとは言えません。私がそれを言うや否や、思考が這い入ってきています、言葉、認識、それを表現しようとする要求、それを伝えようとする要求―それら全てです。従って、精神はそれに閃く必要があります、言葉や思考の結果ではない何かに閃く必要があります、神秘主義とは何の関係もない何かに閃く必要があります。私は思考を理解しなければなりません、思考の性質、その構造、その意味です、それについての説明ではありません。どの領域でも、その行為は断片的であるに違いありません、従って、それは、矛盾や争い、そして、人間のあらゆる悲惨を引き起こすに違いありません。思考が触ることのできない領域、次元があるのでしょうか、従って、思考が決して知覚しえない快楽、喜悦があるのでしょうか?
あなたは快楽と苦痛の断片化を理解しなければなりません、一方を避けて、他方を欲することから生ずる矛盾と混乱を理解しなければなりません、そして、信念的防御によってもたらされる混乱を理解しなければなりません。あなたは思考とはどういうものなのかを理解しなければなりません、そして、認識の全構造を理解しなければなりません。それら全てが非常に明瞭になるまで、あなたは恐れから自由になれません。しかし、あなたは、恐れを、余すことなく、即座に、それら全てのプロセスを経ずに、取り除くことができます、あなたはそれを即座に取り除きます、もしあなたがそれら全てを理解するなら。
......
質問者 あなたの『最初で最後の自由』という本のタイトルはどういう意味でしょうか?
クリシュナムルティ あなたは出版者に聞かなければならないと私は思います、なぜなら、そのタイトルを望んだのは彼だからです。(笑)
......
私は願います、あなたが話されていることに飽きていないことを、あなた自身を露わにすることに飽きていないことを、それら全ては途轍もない働きです。
質問者 どうか、暴力の問題を検討していただけますか? 恐らく、それは我々に思考に関する手がかりを与えるでしょう。
―1962年、1966年 ザーネン
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