クリシュナムルティ もしあなたが瞑想とは何かを理解しようとするなら、精神があらゆる暴力や攻撃性から解放されていなければなりません。あなたはこれら全てが分かりますか? 私が言ったように、話し手が言ってきたように、これは非常に真剣なことです、もしあなたがこのことに耳を傾けたくないなら、耳を傾けないで下さい。しかし、あなたはそれら全てのことを知るべきです、それはあなたにとってそれを知ることは良いことです。我々は暴力の中で教育されています、それが我々の生き方です、我々の全ての活動は暴力の形です。我々は戦争に駆り出されます、そして、戦争は非常に収益を生みます、そして、我々は殺戮するように教育されます、我々の食べ物のために哀れな動物を殺すだけではなく、我々の隣人を神の名の下に、平和の名の下に、あなたの国家の名の下に、あなたの銀行口座の名の下に殺すように教育されます。そして、それは我々の伝統の一部です、宗教的にも、経済的にも、社会的にも、聖職者が司教になる競争があります、その階段を上ります、それが何であれ、それは精神の階層的階段です。そして、我々もまた攻撃的です、我々は考えます、攻撃的であることは進歩するために必要であると。その“進歩”という言葉は、往時、敵国へ完全武装して進軍することを意味しました。私はあなたがその言葉の意味を理解するのを願います。そして、攻撃性は安全性と同義でした、動物たちは、もしあなたがそれらを観察してきたのなら、それらの中で非常に攻撃的です―それらの長として。そのように、我々の中に攻撃性だけではなく暴力も存在します。そして、我々はそれを必要なことであると考えます。
......首無しの赤い鳥居の丹田とは何でしょうか?...... 叡智は暴力と攻撃性を乗り越えた何かです。そのような叡智は、人が暴力をそのあらゆる攻撃性と共に、内にも外にも、その余すことのない性質と構造を理解するときに生まれます。そうすると、その理解の中に叡智が花開きます。そのような叡智が我々の日常生活の中で働きうるのです、従って、暴力の必要性は全くありません。叡智は知的なものではないので、叡智は、人が余すことなく全体であるとき、人が余すことなく全存在で行うとき、人が断片的でないとき、人の行為が矛盾していないとき、そして、人が人の矛盾にいかなる選択もせずに気づくとき、生まれます。そうすると、そのような気づきから、その感受性豊かな、柔軟な、豊穣な叡智が生まれます、それは我々の日常生活の中で働きます、それは我々に深い永続する安全性をもたらします、それは暴力や攻撃性のなしえないことです。そのように、瞑想を探究している精神は、暴力や攻撃性から解放されていなければなりません。
そうすると、このような問いが生じます、あなたは叡智と暴力との間のどこに境界線を引くのか、ということです。あなたはあなたの食べ物のために動物たちを殺します、そして、動物たちは相当に高価になっています、なぜなら、それらには広大な土地が必要だからです、従って、徐々にあなたは菜食主義者になるように強いられています、必要上。ある作家が以前この国である記事を書きました、菜食主義がこの美しい国で恐ろしい病気のように蔓延していると。そうすると、あなたはどこにその境界線を引きますか? あなたは革の靴を履きます、あなたは、あなたが切手を買うとき、あなたがあなたの税を払うとき、戦争を支えます。あなたはどこにその境界線を引きますか、最小の殺戮、最小の暴力、最小の攻撃性です。そして、暴力を伴わない、攻撃性を伴わない叡智が、そのような叡智が働くとき、境界線は存在しません。それは叡智的に働きます、その問題があなたに突き付けられると。
―1974年4月28日 ニューヨーク
参考:krishnamurti Podcast;Aggression2