uiv="Content-Type" content="text/html; charset=Shift JIS"> アウトサイダー―時間的蛸壺の外へ

アウトサイダー―時間的蛸壺の外へ

五月鳥居

 

言葉でではなく、知的にではなく、実際にです

クリシュナムルティ 我々は我々が、昨日の朝、話していたことを続けても宜しいでしょうか? 我々は私たちの間で会話を交わしていました、生の大変な問題についての会話です、我々が生きている社会についての会話です、そして、人間の生のあらゆる困苦です―苦しみ、恐れ、不安、快楽そして悲しみ、そして、数え切れない傷、我々が子供の時から死ぬまで受ける心理的な傷です。そして、我々は、一緒に、二人の友人として、道を歩きながら、交通の往来がないところを、恐らく、森の中の小道を歩きながら、そして、一般的に、友人同士が彼ら自身の生について行うように、我々もそうしていました。そして、二人の友人の会話の間、彼らは自由について話しました、人はどれほど自由を失っているのか、人は人がそれを手にしていると考えるけれども、世界中でどれほどか実際に人の自由が否定されているのか、どれほどか人は様々な文化や教義や信仰や信念によって条件づけられているのか、そして、人が様々なメディアから受け取るあらゆる印象などについてです。人はもう一人に言っています、実際の自由は存在しないと。本当の深い心理的な自由が存在しないなら、人は自分自身を破壊しています。そして、自由は愛をも意味します。その言語学的な意味は、他の意味の中にあって、大いなる愛を手にすることです―愛です。そして、そのような愛と共に熱気をも意味します。熱中ではありません、強い欲望ではありません、人自身の欲望のあらゆる表現ではありません、そうではなく、人が本当に生きることの深い意義を理解するときに生まれる熱気の質です、そして、悲しみの消滅と共に生じるそれです。そして、このような熱気と自由から行動が生じます。そして、一方の人が彼の友人に言います、生は本当に非常に複雑ですと、そして、我々は、確かに、それをシンプルに取り組むのでなければならないと、そうやって、我々は本当に深く踏み込んで行きますと、単に知的にではなく、あるいは、情動的にではなく、感傷的にではなく、非常に深く踏み込んで行くと、もしそれが可能なら、非常に、非常に、少数の人が検討してきたにすぎない、あるいは、探究してきたにすぎない、あるいは、関心を抱いてきたにすぎない、あるいは、控えめに取り組んできたにすぎない、あらゆる心理的な世界に踏み込んで行くと。
 もし我々が本当に真剣に関心をもつのでなければ、人間はいつもお互いに争います。我々はそのことについて、昨日の朝、話しました、争いの消滅です。我々はこうも言いました、争いは、いかなる種類の決意によっても、いかなる思考や欲望の活動によっても消滅しえないと、そうではなく、それは、争いの性質と構造が何であるのかを観察することであると。争いの本質は、我々は、昨日、言いました、それら二人の友人は共に話していました、我々は、昨日、言いました、分断があるところにはどこでも、それがナショナリステックなそれであろうと、人種的な、階級的なそれであろうと、あるいは、男と女の間の分断であろうと―心理的な分断です、物理的な分断は存在するけれども―心理的な分断が争いの基本的な要因です、そのような分断が、余すことなく―それに橋を架けるのではなく―消滅しうるのかどうかです。そして、我々はこうも共に話しました、それは消滅しうると、もし人が人の中にある実際の争いを観察するならと。そのような観察を指示するのではなく、人が観察していることに反射的に反応するのではなく、実際に、いかなる心理的な反応もやり過ごして観察することです。そして、一方の友人が言います、それは、非常に、非常に、行うのが難しいことです、なぜなら、我々のあらゆる条件づけは、言語的にも、一般的にも、即座に反応することだからです、反射的に反応することだからです、言葉でも、情動的にも、あるいは、何らかのイデオロギー的な概念によってもと。そのように、争いの実際の事実を観察することは非常に難しいことです。それは、あなたが、争いの当の何かに、余すことなく気を付けて、そこに踏み込んで行って、そして、それを消滅させるようなものです。気を付けるということは、炎のような何かで、それは実際の事実を焼き払います、理論的な事実ではなく、実際の事実を焼き払います。我々は共にそのことについて、昨日、話しました。
 そして、また、我々はこうもお互いに言っています、人は生の中で、非常に真剣になる必要があると、そして、非常に僅かの人々しか、そうしてはいないと。人々はエンターテインメントに浸ることを欲します、人々はおだてられたいのです、指図されたいのです、影響を受けたいのです、何をすべきかを言われたいなどです。それら全てをやり過ごしながら、踏み込んで行って、自分自身を理解することは非常に難しいことです。自分自身を理解することが重要になります、何らかの心理学者たちや哲学者たちに従うのではなく、あるいは、最新の精神科医に従うのではなく、むしろ、あらゆる専門家たちや権威者たちを、古代から現代までのそれらを―それが禅や仏教徒やヒンズー教徒やキリスト教徒であろうと―それら全ての様々な形の権威者たちをやり過ごして、我々自身を見て取ることです、あらゆる思考に気を付けることです、なぜそれがそこに生じるのかの理解を怠らないで、一つの思考をも見逃さないことです。それら全てのためには、深い心理的な規律を要します。“規律”という言葉は、言語学的に、“弟子”という言葉に由来します。弟子とは、進んで学ぼうとする人のことです、従うのではありません、言われていることに同調するのではありません、受け入れるのではありません、そうではなく、学ぶのです。そして、学ぶということは、単に記憶することではありません、聞いたことを頭脳に記憶として保持することではありません。記憶は非常に限られたそれです、あなたは記憶を拡張できます、更なる知識をそれに付け加えることができるなどのことです、そのことについて我々は、昨日、話しました、しかし、学ぶということは、川の流れのようなものです、それは絶えず動いています、大いなる速さで流れています。そして、観察することです―そのような観察が正に規律です。
 そのように、我々は一緒に、今朝、歩んでいます、我々は真剣です、何らかのエンターテインメントに浸ろうとしてはいません、宗教的なそれにも、あるいは、情動的なそれにも、あるいは、知的なそれにも、我々は一緒に、言うなれば、そのような小道を歩きながら、議論しています、一緒に、心置きなく話しています、愛情をこめて、我々が心理的に抱いている多くの問題を探究するために、見ていくために、なぜなら、もし我々が心理的に最初に理解するなら、そうすると、我々は外側のものを形作ることができるからです。しかし、不幸にも、更に、更に、外側のものが途方もなく重要になっています、様々な組織のせいで、何千もの様々な機関のせいで、そして、それらによって人間性が根本的に変わることを期待するせいで。そのように、我々は、本当に、さしあたり、外側のものをやり過ごすべきです―様々な機関、印象、団体、そして、専門家たちが言ってきたこと―そして、非常に間近に見ていくべきです、なぜなら、人は、非常に遠くまで行くためには、非常に近くの我々自身からスタートしなければならないからです。そして、それは現にある通りの我々のことです―あなたと話し手は一緒にこの非常に複雑な旅をしています。そして、そのためには、我々がお互いに聞き合うことを、お互いに耳を傾けることを要します。それらの言葉に耳を傾けるのだけではなく、それらの言葉の内容にも、それらの言葉の意味にも耳を傾けるのです、なぜなら、二人は友人だからです―二人は何年もお互いのことを知っています―それらの言葉を超えて、非言語的にも理解するのです。そして、そのためには、大いに気を付けて聞く必要があります、ただ単に心地よくないそれらをやり過ごして、心地よいものだけを見て取ることではないのです。
 そのように、それら全てを言ってから、一緒に見てみましょう、我々の恐れです。我々は何百万年も、古代の人から現代の人まで、生きることと死ぬことの恐れを抱いてきています。恐れは我々の大きな問題の一つになってきました。そして、我々は、決して、一見すると、恐れの性質に、その原因に、なぜそれが生じるのかに、その背景に、その根源に気を付けてきていません。そして、一方の友人が言います、あなたはこう言っているのですか、様々な恐れの形に関心をもつなと―闇の恐怖、世論の恐れ、他の人が言うかもしれない恐れ、自分の妻や夫の恐れなど、失う恐れ、得る恐れ、明日や昨日の恐れ―我々はその類の恐れには関心がないと、それは樹木の枝を剪定しているようなもので、決してその驚くべき樹木の根を理解していないと。そのように、どうか、我々は、さしあたり、恐れの様々な場面には関心がありません。そうではなく、その根源とは何かにのみ関心があります。我々のほとんどは―恐らく、人は一方の人にこう言います―決して、それら全てに思考を注ぐな、決して、恐れが消滅しうるのかどうかに関心をもつな、あるいは、人は死ぬまで果てしなく恐れを抱いて、生きるに違いないと。他の人たちが何を言ってこようと―天国と地獄、正しいことをしなさい、そうして、天国へ行きなさい、悪いことをすると、地獄です、このことを信じなさい、もしあなたがそうしないなら、あなたは異教徒で、そうすると、それら全ての中に恐れが生じると。様々な宗教も、恐れとその恐れを存続させて、それを育んできていることに責任があります。南インドに有名な寺院があります、その地方では非常によく知られたそれです。そこでは、三日ごとに、聖職者たちが、その寺院の権威者たちが、三日目ごとに百万ドルを集めます。そして、それが宗教と称されます。そして、それは恐れを存続させます、なぜなら、あなたは祈るからです、あなたは誓いを立てるからです、あなたは誓いを立てて、何か良いことがあなたに起こることを願います。そして、そのように、恐れが生み出されて育まれます、あらゆる宗教がそうするように。そして、我々は決して問うてきませんでした、疑問を呈してきませんでした、検討してきませんでした、恐れは正に消滅しうるのかどうかを。そして、我々は、今朝、そのことを正に問おうとしています。外面的な恐れだけはなく、より深い内面的な、人自身の頭脳の深奥に潜む恐れもです。
 私は願います...人は願います、あなたもこのことを深く進んで検討していることを。ただ単に、聴いて、同意したり不同意であったりすること―それには全く効果がありません、あなたが同意しようと、あるいは、不同意であろうと―しかし、事実は人が恐れていることです。そして、その恐れが正に消滅しうるのかどうかです。それが本当に生の大きな問題の一つです。なぜなら、もし恐れが完全に消滅するなら、恐れのあらゆる困苦の中で浪費されている、途轍もなく大きなエネルギーが息を吹き返すからです。そして、また、教会や寺院やモスクや神々の必要性はなくなります。正に、恐れから、我々は天国と地獄を作り出してきました、我々は宗教のあらゆる害悪を作り出してきました。話し手は無神論者ではありません、彼は宗教的な人間ですが、いかなる宗教にも属していません、なぜなら、それらは迷信、信念、教条や儀式のネットワークだからです。そのように、一緒に、我々は、この恐れを消滅させることを見ていこうと思います。
 その原因とは何でしょうか? 原因があるところには、その原因の消滅があります。もし人が何らかの病気を患って、その病気の原因を知るなら、そうすると、その病気は治療されて治癒します。そのように、もし我々が一緒にその原因を明らかにしうるなら、その根源を、恐れの枝葉ではなく、正に、その根源を、そのためには、根気強い真剣な探究を要します、恐れが完全に消滅しうるのかどうかを自分自身で発見することに献身的になることが、心理的に最初に要求されます。心理的に安心できない恐れなどその他の全てです。そうすると、恐れの因果関係とは何でしょうか? それは時間ではないのですか? そして、恐れだけではなく、時間をその要因として理解することが重要です、あるいは、時間の根源です。昨日としての時間、今日としての時間、明日としての時間―日の出、日の入り、光と闇―時間です。時計的な、物理的な時間だけではなく、思考が心理的に発明してきた時間も同様です。それは、あなたが、明日は、今日のあなたと異なることです。もしあなたが、今日、暴力的なら、あなたは追い求めます―その正に追い求めるという観念が時間を意味します―追い求めます、暴力がその中に存在しない状態を追い求めます。そのように、我々の生の中には、時間が非常に重要です―此処からあそこへ、ある地点からある地点へ、表面的に、無知から博識になることです、取るに足らない人間から高名な人間になるなどその他の全ての類です、外面的に。そして、また、心理的に、この時間があります、それは何かになることです、つまり、私はこうです、不完全です、暴力的です、生のあらゆる困苦を抱えています、そして、ある日、私はそれら全てから自由になります、それは明日です、あるいは、十年後です、私がもっと理解するそのときです。そのように、時間は外面的にも内面的にも我々の生の要因です。それが恐れの主な原因でしょうか―時間です。
 どうか、我々は一緒にこのことを探究しています、受け入れないで下さい。問うて下さい、話し手の言っていることを疑って下さい。人は明日を恐れます、あなたは職を失うかもしれません、とても多くの失業状態が生じています、外面的に。内面的に、人は安全性を追い求めます、人が確かに立っていられる何らかの土台を追求します、混乱が生じているところに確かさを追い求めます。そして、我々のほとんどは混乱しています、心理的に不確かです。そして、その混乱の中で、我々は、我々に、あるいは、お互いの関係性の中に、何らかの安全性をもたらす概念を確立しようとしたりします―それら全ては何かになることです。何かになること、その正に何かになるという言葉は時間を意味します。時間は、我々は問うています、恐れの主な要因の一つでしょうかと。 明らかに、そうです。私は...恐れます、人は死ぬことを恐れます―恐らく、人が九十あるいは百であるとき。あるいは、何かがあなたに起こるかもしれません、あなたは成功しないかもしれません、あなたは落伍者かもしれません、などです。そのように、時間が、本質的に、深いところで、恐れの要因の一つです。そして、時間は、もしあなたがかなり深くそれを検討するなら、できればそうしていただきたいのですが、時間とは何でしょうか? 時計的な時間や何かになるという時間ではなく、時間とは正に何でしょうか?
 現在、今、あなたがそこに座っているように、あなたは此処にいて、現在、このホールの中にいて、耳を傾けています、今の中でそうしています。その今とは何でしょうか? その今は、その現在は、過去を含みますか―あらゆる記憶などです―そして、未来も含みますか? 私は願います、我々が一緒に歩んでいることを。そのように、その今は、あらゆる時間―過去、未来そして現在―を含みますか? そして、その今、もし根本的な心理的な変化あるいは変質が生じないなら、未来は現にある通りの我々の今です。確かに、それは明白です。“変質”という言葉は、生物的に、かなり難しい言葉です、しかし、我々はそれを便宜的に使います、それは本当に深い心理的な変化、根本的な、心理的な革命のことです。
 我々が慣れ親しんでいる時間は、進化としてのそれです。我々は、四、五万年の過去から進化してきています、そして、我々は長い時間をかけて、この段階に到達しています。そして、我々は、非常に、非常に、非常に、少ししか、心理的に変わっていません。我々は非常に原始的です、野蛮です。我々は“原始的”という言葉を、そのオリジナルな意味で使っています。そして、時間は人を変えてきていません。生物的に、時間は人を猿から今の我々に変えてきています、しかし、時間は、それは進化です、精神に、余すことなく完全な変化をもたらしてきていません、あらゆる痛み、不安、恐れや悲しみなど、それら全ての消滅のことです―時間はそれを変えてきていません。
 (赤ん坊が泣きます) 御免なさい! (笑) 人はその赤ん坊に同意します。(笑) とても退屈です。
 どうか、これは理解するうえで非常に重要なことです、ただ単に、何らかの哲学的な概念として退けないで下さい、そして、脇へ除けないで下さい、なぜなら、その今が、あらゆる時間を含むからです。その今は、我々が、過去、五十年、八十年、九十年、収集蓄積してきたあなたのあらゆる記憶です。その今は、未来でもあります、なぜなら、あなたは、あなたの記憶、あなたのイメージ、あなたの自己中心性など、人間が収集してきたそれら全てと共に継続しようとしているからです。
 そのように、時間は人の敵になります、もし根本的な変化が、今、起こるのでなければ―つまり、もしあなたが時間に依存しているなら。そして、時間は思考でもないのでしょうか? 恐れの根源も思考ではないのでしょうか? 私はこうです、私はそうであるかもしれません。あるいは、私は失敗するかもしれません。我々はそのことを一緒に、昨日、話しました、思考の始まりについて、それが記憶を通していかに生じるのかを、記憶は収集蓄積された知識です、知識は拡張されることなどです、そして、経験が生じなければ、知識は生じえないと。そのように、経験、知識には限りがあります、経験がそうであるように、あなたが神の経験をしていようと、あるいは、これやあれを経験していようと、そのように、知識は限られています、そのように、思考も限られています。そして、思考は、我々が言ったように、物質的なプロセスです、そのように、何かを失うと考えること、何かを得ると考えること、何かになると考えること、そのように、思考は、時間のような何らかの活動です。そのように、思考=時間が恐れの根源です。それは事実です、取り消せない実際の事実です。人はそのことを見て取ります。そして、人は問います、それら全てを消滅させることは可能かと―恐れです―それは、時間の性質を根こそぎ払い除けて、時間を消滅させることです―どうか、このことに耳を傾けて下さい―そして、思考をも消滅させることです。なぜなら、それら二つは一つの要因だからです、それは時間=思考であり、それが恐れの根源だからです。私の友人が問います、思考=時間は消滅しうるのかと。それはかなり馬鹿げているように思われると。私は、明日、会社へ行く必要があります、月曜日です、私は考える必要があります、私は手紙を書く必要があります、そして、私が考えるべきあらゆることを行う必要があります。どのようにして考えることを止められるのでしょうかと。 あるいは、時間は止みうるのでしょうかと。 それらは同じことです。人は友人に言います、あなたは間違った問いかけをしていますと。時間と思考はある次元では必要です。物理的次元では時間と思考は必要です―我々は我々がスタートしたところへ戻る必要があります。我々は何かを巧みに行うためには知識を収集蓄積しなければなりません。知識の収集蓄積には時間を要します、言語を習うには時間を要します。
 そのように、時間=思考は物理的次元では必要です。しかし、心理的領域の中に、時間と思考は必要でしょうか? 別の言い方をすると、何かになること、心理的に何かになることが生じるでしょうか? 我々は、生じると言ってきました。つまり、我々は猿から今の我々に進化してきました、生物的に、我々は進化してきました。そうすると、心理的な進化があるに違いありません。私はこうです、私はそうなるでしょう。我々はそのことを正に問うています。心理的に、何かになることが生じるでしょうか? それは時間を意味します。そして、時間は、過去、現在そして未来をその中に抱えている、含めている今です。もし全心理的内容の中に根本的な変化が生じないなら、それは意識の内容です、あなたは、明日、同じでしょう。それは、再び、事実です。
 そのように、それら全てを、非常に、間近に、気を付けて、あなたのあらゆる熱気とエネルギーと共に知ると、観察すると、その正に気を付けることが、その何かになることに終止符を打ちます。そうすると、消滅します。もし我々に時間があるなら、消滅の性質を理解することは非常に重要なことです。私は知りません、あなたがこれまで消滅とは何かを、終止符を打つとは何かを自分自身に問うてきたのかどうかを。終止符を打った後で継続することではありません、なぜなら、我々は継続性にとても関心があるからです。それが伝統の形です、様々な政治的な構造や組織などの形です。これは本当に非常に複雑な問題です、私は知りません、我々が、今、そのことを検討すべきかどうかを、しかし、あなたはそうすべきです、もし私に指摘させていただくなら、消滅するとは何かを自分自身に問うことです。
 そのように、もし人が気づくなら、この時間=思考の全プロセスに気を付けるなら、それは恐れの根源です―それを観察するのです、それから逃げ去らないのです、それと共に生きるのです、それを、あなたは、言わば、あなたの両の手の中に置いて見るのです。それは、あなたが両の手の中に宝石を置いて見ているようなものです、それはあなたがそれに気を付けていることを意味します。あなたがそのような熱気で気を付けて観察するので、その正に気を付けていることが、その何かになるということ―それは時間と思考を出自とします―に心理的に終止符を打ちます。
 我々はまた、もし我々に時間があるなら、苦しみについても話すべきです。快楽についてではありません―それはかなりシンプルなことです、なぜなら、誰もが世界中で快楽を追い求めているからです―所有する快楽、権力の快楽、地位の快楽、所有権の快楽、性の快楽、この馬鹿げた世界の中で何かになるという快楽 (笑) 益々、不健全になっているこの世界、なぜなら、我々がこの不健全さを快楽で作り上げてきたからです。そして、人はそれを果てしなく追求してきました―果てしない快楽、神や啓示、悟りの追求。それが究極の快楽です。そこに、あなたが満足する、あなたが喜びを感じる完全な希望が生じます。悟りは時間を出自としません。それは何らかのプロセスではありません、それはあなたが瞑想によって成し遂げる何かではありません。悟りは時間の消滅です―それを、もし我々に時間があれば、我々が瞑想について話すときに、我々は検討します。
 そこで、我々は悲しみと死に関心をもつのでなければなりません。むさくるしいホールの中で、素敵な朝に、死について話すことを許して下さい、海が輝いています、そして、あなたは、遥か彼方の、何マイルもの向こうに、丘を、地球の美を目にすることができます。死について話すことは、かなり憂鬱なことに思われますが、そうではありません。そうすると、苦しみがその要因の一つです、快楽や恐れのように。そして、人は決して悲しみを消滅させてきませんでした。全人類の悲しみです。人の個別の悲しみではなく、人の、人間のそれです。あなたがこの地上のどこへ行こうと、この上なく未開の小村から高度に洗練された都市に至るまで、いつもその扉の背後に、そのカーテンの背後に、この悲しみが存在します。悲しみ、それは戦争による人間の殺戮によってもたらされてきました、身体を切り刻まれること、涙、戦争の目に余る残虐性です、他の人間たちを殺害することです。人々は個別の戦争に反対の意思表示をしてきました、核爆弾に反対の意思表示をしてきました、しかし、人間と宗教は決してこう言ってきませんでした、“これ以上、人々を殺すな”と。我々はみな平和について語ります、教会や宗教はあなたの隣人を愛すことを語ります、それら全ては、宗教が戦争を支えるとき、途轍もないナンセンスになります。それら、過去、五千年から六千年の歴史上の戦争の中で、人は苦しんできました、傷ついてきました、涙を流してきました、そして、我々は、依然として、同じ悲しみと残虐性を抱えています。悲しみに終わりがあるのでしょうか? あるいは、人は果てしなく悲しみを引きずるにちがいありません、なぜなら、悲しみが生じるときには、愛は生じえないからです。悲しみが生じるとき、慈しみは、その途方もない叡智と共に、生じえません。悲しみが生じるとき、あなたは死の性質を理解できません。悲しみが消滅すると、熱気が生じます。熱気は培われる何かではありません。熱気は、恐れから、快楽から生じる何かではありません。悲しみが消滅するときにのみ、その途方もない日常生活の中の行動と共に、そのような熱気が生じます。
 そこで、人は悲しみの原因が何であるのかを見て取れます。多くの原因があります、しかし、一つの原因だけです、それは、“自分”、“私”、当の人間です、私の意識です、そのような意識の中に、何らかのショックが生じます、解決しえない危機が生じます、そのような意識の中に、人間が生きてきた、今なおそう生きている、生の全くの虚しさを感じます―それらの浅薄さ、皮相性です。それらが悲しみの様々な原因です。息子を、夫を、妻を、友人を失う悲しみ。突然、全くの虚しさを、絶望を感じます、全く安全性を欠く感覚です。我々はみなこのことを知っています。そして、それには終わりがありません。我々はこう言ってきませんでした、それらは全て消滅しうるのかと。そして、人は一方の人にこう言います、悲しみから逃げて慰めを追い求めるなと、それを分析するなと、なぜなら、分析者が正に分析されるその当のものだからだと、分析者自身が悲しみだと、だから、彼は悲しみを理解できないと。そうではなく、その悲しみを、あなたがあなたの両の手の中に貴重な何かを手にしているように、それを受け止めて、それを見てみるのです、それに気を付けるのです。悲しみと共に生きて、それを明らかにするために、あなたの全存在でそうするのです。そうすると、あなたはそのような観察から、間近に気を付けている自由な感覚の観察から、完全に悲しみが消滅しているのを見て取るでしょう。そうするときにのみ、そこから、愛と慈しみが、その大いなる叡智と共に生じます。
 我々は死についても話し合う必要があります。 御免なさい! 再び、人間は、世界中で、決して死を理解してきませんでした、あるいは、死の問題を検討してきませんでした。キリスト教徒たちは、ある種の復活を信じました、そして、アジア的なものやインドがその類を広げて、あるとき、それがアジア全域に席巻しました、そこでは、人々は輪廻再生を信じます。私はこうです、私の生は苦痛で悲しいそれです、私は悪いことをしてきました、邪悪なことなどその他の全てをしてきました、私に次の世でチャンスを下さい。私は死ぬと、私は生まれ変わります。しかし、その信念は―それは非常に慰安をもたらします―全く意味のないものになります、もし次の世が現にある通りの今の私なら、ある程度の修正が施されようとも。重要なことは、現にある通りの今のあなたです。そして、それらの理論―それは様々ないわゆる経験によって支えられています―を信じる人々、その人たちは、決して、今の生に重きを置きません。もしその人たちが本当に輪廻再生を信じているなら、その人たちは、その人たちが今をどう生きているのかに、どのように振舞っているのかに、その人たちの倫理が何であるのかに、その人たちがどう行動するのかなどのそれら全てに、余すことなく関心をもつでしょう。しかし、その人たちはそうしません。それは非常に慰安をもたらす理論です、そして、その人たちはそれを弄びます、あらゆる幻想でそうするように。
 そのように、我々は死に関心があります。死とは何でしょうか? 老年、病、事故、そして、消滅です、生物的にも、細胞組織的にも―物質的な消滅です―そして、我々が固執しているあらゆるものの消滅です。我々の記憶、我々の地位、我々の権力、お金などの消滅です―それらの消滅です。そして、その消滅は、私の、自己の消滅でもあります、人が収集蓄積してきたものの消滅でもあります、貴重な記憶、人が享受してきた、そして、力を誇示してきた経験のそれでもあります。それら全てが消滅します、それは明らかです―あなたはあなたの記憶を保持できません、あなたがどれほど富んでいても。そうすると、死とは何でしょうか? それは消滅でしょうか? そして、それは未来の消滅でしょうか? どうか、このことに気を付けて下さい、もし宜しければ、なぜなら、我々はみな死んで行くからです、我々の誰もが。それは避けられません、それは事実です。そして、我々は我々の生に固執します、我々の記憶に固執します。生きることは複雑な何かで、様々な形の記憶です。生きることは、一日一日、向こう五十年の会社勤めでもあります。生きることは、他の人々との関係性でもあります、親密であろうと、そうではなかろうと、その中で、絶えず、格闘が、戦いが生じます。生きることは、何かを成し遂げることでもあります、名を知られることや有名になることなど、それら全ての取るに足らないことです。それら全てが生きることと考えられます。労苦、痛み、孤独、落ち込み、不確かさ、戦争、憎悪、傷などです。それが生きることと称されます。それが、再び、事実です。そのように、我々は既知に固執します。それが我々の固執する全てです、既知、我々が手にするあらゆる知識への固執です。そして、死は不可知の何かです。そのように、我々は恐れます、生きることを恐れるだけではなく、死ぬことも恐れます。あなたは生きることを恐れていませんか? つまり、あなたがあなたの職を失うかもしれない恐れなどそれらです―恐れです、それを、我々は前に検討しました。そのように、生きることは既知の何かであり、死ぬことは不可知の何かです、それらは、何かが起こる後のことであり、そして、既知の消滅のことです。既知は我々の固執する何かです。あなたの妻への固執であり、あなたの夫への固執であり、あなたの記憶への固執であり、あなたの書物への固執であり、あなたの知識への固執であり、既知への固執です。あなたは、あなたの書物に固執しています、あなたのデスクに固執しています、あなたの古い家具のアンティークに固執しています、違いますか? あなたの固執しているものです、あなたです。違いますか? もしあなたがその驚くべき古い十五世紀の家具に固執するなら、あなたはそのデスクです―所有の記憶です。そのように、固執は事実です。そして、死がやってきて、それを切り捨てます、それを払い除けます。そうすると、この問いが生じます、我々は生きられるのか―どうか、このことに耳を傾けて下さい、もし宜しければ、我々は自殺を奨励しているのではありません、それは愚かなことです、そうではなく、固執を終了することです、それは死の消滅です。それは共に生きることです、生きることと死ぬことです―毎日毎日、夜に次ぐ夜、昼も夜も、死と共に生きることです、それは固執の消滅です。それには、途轍もなく気を付けていることを要します、そして、それには、規律の内面的な大いなる質を要します。恐らく、あなたはこのような問いをこれまで決して発してきませんでした。死と共に生きることです。
 東洋にも西洋にも、こう言った哲学者たちがいます、あなたはあなたが死んで行くことを知っている、その知識で生きるのですと。しかし、我々は全く反対のことを言っています。なぜなら、我々は記憶の束であり、我々はそれらの記憶に固執しているからです。固執です。あなたは、自発的に、容易に、嬉々として、いかなる因果関係とも無縁に、あなたがこの上なく大切にしている何かを消滅させることができますか? 固執です。なぜなら、固執は恐れを生むからです、不確かさを生むからです。固執は嫉妬、敵対意識、憎悪を生みます。そのように、消滅することと生きることを共に生きることです。もしあなたがそれを行っているなら、それはこの上なく途方もないことです。それが本当の自由です。
 我々は、今、宗教と瞑想について話します。話し手は宗教と瞑想をトークの最後におきます、なぜなら、生の中でこの上なく聖なるものとは何かを、そして、瞑想とは何かを明らかにするためには―それを明らかにするためには、恐れが消滅していなければならないからです。恐らく、いかなる利己的な動機―何らかの成就をもくろむそれや、何かを獲得しようとするそれや、何かになろうとするそれ―もありえません。そのように、彼は瞑想と宗教を、その最後に、トークの最後におきます。そのように、一緒に、検討しましょう―我々にはまだ少しの時間が残されています―宗教とは何でしょうか? なぜ人は、この上なく古代の時代から現代に至るまで、人は欲しているのでしょうか、探し求めているのでしょうか、願っているのでしょうか、この物理的な存在よりももっと何かがあるのかどうかを、あらゆる悲惨、混乱、不確かさ、憂鬱や悲しみを超えた何かがあるのかどうかを明らかにするためにそうしているのでしょうか、それら全てを超えた、それら以上の何かがあるのでしょうか? このことを人は果てしなく探究してきています。そして、古代の時代から、人は、賢い人は言います―それらの時代には、少数の人だけが書物をものにしたり、学んだりしました、そして、その人たちが聖職者になりました―彼らは言いました、“我々があなたに告げます、我々はあなたを導きます、我々はあなたを助けてそれを明らかにします”と。そのようにして、彼らは、儀式、教条、信仰、彼らの奇妙な衣装、彼らの途轍もない権力を発明しました。私は知りません、あなたがそのことに気づいているのかどうかを―途轍もない権力です。そして、彼らの思考は、宗教的な構造などそれら全ての類を、彼らの富と共に、彼らの財産と共に、彼らのあらゆる情動的な、感傷的な、ロマンチックな迷信と共に、正に世界中で、発明してきました、彼らがキリスト教徒であろうと、あるいは、ヒンズー教徒であろうと、あるいは、仏教徒であろうと、あるいは、チベット仏教徒であろうと、あるいは、イスラムの世界であろうと何であろうと。それが宗教と称されるものです―信仰であり、従うことであり、追随することであり、信じることです。そして、古代のインドでは、彼らは言いました、真理のそれを見つけるためには、思考によって発明されたのではないそれを見つけるためには、懐疑的な態度がなければならないと、疑いがあるのでなければならないと、探究するのでなければならないと、信じるのではないと。信じることは障害になります、信仰は障害になります。我々はこのことを言っています。
 そのように、思考の作り上げてきた全てのものは―宗教と称されるそれも―物質的なプロセスです、それについて聖なるものは何もありません。そのように、時間とは無縁のそのような状態を明らかにするためには、そのような状態に出会うためには、宗教の組織化された、構造化された信じる世界からの自由があるのでなければなりません。そのことは、瞑想とは何かをも意味します。いかに瞑想するのかではありません。様々なセクトのグルたちや宗教や聖職者たちが、瞑想のある種のシステム、実践的システムを提示してきました。人は訝しく思います、あなたがあらゆるシステムの何であるのかに気づいているのかどうかを、政治的、宗教的、経済的なそれらです、あらゆる種類のシステムが堕落の種子を孕んでいます―あらゆるシステムがそうです。この堕落の種子は、その都度、再組織されますが―政治的に、宗教的に、それ自身を適応させます―そのような種子は、いつも、いかなるシステムの中にも、いかなる実践の中にも内在します。
 それでは、瞑想とは何でしょうか? もしあなたがそれら全てのナンセンスを脇へ置くなら、世界中に、アジアやその他からもたらされたそれらを脇へ置くなら、もしあなたがそれらを、それを明らかにするために、脇へ置くなら、それら全てを疑うなら、疑問を呈するなら、それを粉々に引きちぎるなら、そうすると、あなたは問います、瞑想とは何かと。それは必要でしょうか? 意識的な瞑想、意図的なそのプロセス―結跏趺坐し、様々なマントラを唱え、黙想し、幾ほどかの時間をそれに費やすそれ―は思考の意図的な行為です。思考は言います、もし私が瞑想するなら、私は幸福になると、あるいは、私は更に害悪をなすために鎮まると! (笑) 瞑想の意図的な行為―(赤ん坊が泣きます)―(笑) 私は、子供を連れて去る必要のある人たちを気の毒に思います。いかなる形の意図的な瞑想の実践も、いかなる形の他の欲望の実践と同様です。欲望は非常に複雑な問題です、我々にはそれを検討する時間はありません―手短に、つまり、欲望の端緒、欲望の始まりは、こうです、何らかの感覚、身体的感覚、それは反射的反応です、その感じが思考によって形成されます。そうすると、その瞬間に、欲望が生じます。あなたはこのことを理解しますか? 恐らく、あなたは理解しません―それには説明が要ります。私は我々に時間があることを願います。もう少し時間を戴けますか、我々はもう少し座っていても構いませんか?
質問者 構いません。
クリシュナムルティ あなたは我々が欲望を理解する必要のあることを見て取ります。我々は欲望に促されます―とても沢山のものを欲望します。それは我々のこの上なく強力な衝動の一つです。欲望とは何でしょうか? 欲望は―私はそれを非常に深く検討できません、なぜなら、私は他のことについて話す必要があるからです―感覚は健全です―あなたは感じます、触れます、味わいます、その後で、何らかの感じを抱きます。あなたは何か美しいものを窓の中に見て、その中に入ります、それをもっと間近に見ます。それが、何かを感じるということです。そうすると、思考が這いよってきて言います、“もし私がその絵を、その絵画を私の壁に飾るなら、それは何と驚くべきことでしょう”と。そのように、思考が何らかのイメージを作り上げて、感覚に取って代わると、欲望が生じます。そこまでにしましょう、なぜなら、それは複雑だからです。そのように、あなたが意識的に瞑想するとき、それは何らかの目的を成就しようとする別の形の欲望です。その目的は沈黙であり、静けさです。そして、その目的は更なるエネルギーの獲得です、途轍もないエネルギーの獲得です。禅の実践、それは、そのように途轍もなく気を付けることです、そこからエネルギーが生まれることです、そして、あなたは実践、実践、実践します、何年もそのように気を付けます、そして、あなたはそれを手にします―それは別の形の欲望です。そして、あなたは鎮まった精神を欲します、鎮まった頭脳です、そうすることで、あなたは、より平和に、穏やかに、鎮まります。それは別の形の欲望です。そして、人々は言ってきました、もしあなたが非常に鎮まり、非常に穏やかであるなら、あなたは何かを見つけるかもしれないと。そうすると、あなたは、毎日、二十分あるいは三十分、午後、朝、夕方、実践します。それは何かの薬を服用するようなものです、何かの飲料です、あるいは、あなたの静かなときのシエスタのようなものです、しかし、それら全ては瞑想ではありません。明らかに、それは思考の活動です。
 そうすると―どうか、このことをあなた自身に問うて下さい―意識的ではない、意図的ではない瞑想がありますか? そうすると、それが意図的でないときにのみ、それがあなたの日常生活の一部であるときにのみ―気を付けています―あなたの日常生活の中で行っているあらゆることに気を付けています、あらゆる思考に気を付けています、一つの思考も、それを理解することなしに、逃しません、それを検討します、そうすることで、頭脳は途方もなく活動的になります、それは、今、現にある通り、機械的なそれではありません―途方もなく活動的です、エネルギーに溢れています。そして、この上なく高度の形のエネルギーが存在するところには、沈黙が生じます。そのようなエネルギーは、あなたのものでも、私のものでもありません、それは、名付けようのない、時間とは無縁の、この途轍もないエネルギーです。そして、そのようなエネルギーの中に―あるいは、その正にエネルギーが、人の求めてきた至高の何かです、それはこの上なく聖なる何かです。そして、そのような聖なる何かが存在するとき、そうすると、我々は我々の日常生活の中で正しく振舞います。これが瞑想です。
             ―1984年 5月6日 サンフランシスコ
              1984年 5月5日 サンフランシスコ