クリシュナムルティ もし宜しければ、私は指摘したいと思います、これは真剣なトークであるということを、今日も明日もそうです。これはエンターテインメントではありません、知的にも、感情的にも、情緒的にも。我々は、あなたを何かで説得するために、新しいイデオロギーや哲学や異国のナンセンスをもたらすための、いかなる種類のプロパガンダも行っていません。そのように、どうか、これは、あなたと話し手の対話です。とても沢山の人がいるので―対話は二人の間でのみ可能です、そうすると、あなたと話し手の間の会話がよりずっと相応しいものになります、あなたは話し手の言っていることに加わります、単に言葉に耳を傾けるだけではなく、あるいは、知的にそうするのではなく、その言葉の内容にも、その言葉のより深い意義にも耳を傾けるのです。これら全てには、大いに気を付けること、大いなるエネルギーを要します。我々のほとんどは我々の生を浪費しています。我々はとても多くの仕方で我々の生を浪費しています。そして、生や死の全意義を把握するためには、そして、時間を超えた何かを明らかにするためには、あるいは、それと相対するためには、人は大いなる熱気を要します、大いなる自由の感覚を要します、そして、そのためには、日常の行為が欠かせません。そして、我々はそれら全てのことを検討しようとしています。
最初に言います、我々は一緒に話し合うべきです―正に一緒にそうするのです、あなたが話し手の言っていることを聞いて、同意したり同意しなかったり、あるいは、何らかの観念を受け入れたり、他のそれらを拒絶したりすることではないのです、そうではなく、我々は生の全意義を扱っています、人間性の全問題を扱っています、我々一人ひとりの個別の問題だけではなく、人間の全存在を扱っています。それは何か大袈裟に聞こえるかもしれませんが、そうではありません。なぜなら、我々一人ひとりが、我々は、我々の欲望、不安、痛み、快楽、儚い愛、憎悪、敵対意識を抱えて生きているからです、そして、全人間が、その中に生きていると思われる、果てしのない争いを抱えて生きているからです、この上なく遠い昔から現代に至るまで、そのように生きているからです、それら全てのために、我々は一緒に考えることを要請されています。話し手の言っていることを受け入れるのではなく、一緒に考えるのです、そして、それは非常に稀有なことです。なぜなら、もし我々が一緒に考えることができるなら、あなたの個別の方法や傾向によるのではなく、あるいは、人の条件づけによるのではなく、我々が議論しようとしている、それら様々なことについて考えるなら、もし我々が、しばらくの間、我々の個人的な意見を何としても脇へ置くことができるなら、もしあなたがそうできるなら、そして、また、我々の様々な傾向や何らかの信念がもたらす感傷やそれら全ての類を脇へ置くことができるなら、もし我々が一緒に観察することができるなら、一緒に考えることができるなら、そうすると―それは可能です―人は感じます、人は自由というその深遠な奥行きの世界を理解できると。
一人ひとりが、自由とは何かの概念を持ち合わせています。古代の昔から、ギリシャ人やエジプト人、中国人やインド人は、自由について多くを語ってきました―あらゆる束縛からの自由です、言わば、自ら作り上げた自前の牢獄からの自由です、社会が押し付ける、あらゆる宗教的構造に由来する、様々な印象からの自由です、完全に自由であることです、いかなる個別のイデオロギーにも与しないことです、あらゆる複雑さを内に含む、人自身の個別の快楽を追い求めないことです、自由の本当の深さを理解することです。なぜなら、我々は、言わば、牢獄の中にいるからです、それは自前の牢獄でもあり、我々がその中を生きる社会のそれでもあります、そして、その社会は人間によって作り出されます。現代のアメリカ文化、その生き方、そのアメリカ的な生活様式などは、世界の中の、この地域に生きる人間によって作られます。我々には責任があります、我々一人ひとりに責任があります、我々がこの国に住んでいようとなかろうと―裕福です、まずまずのそれです、それでも経済的に不確かです、途轍もない失業状態などが存在します、あらゆる政治的な醜さが進行しています、我々が、我々一人ひとりが作り出してきた、この社会です。そのことについて、疑う余地はありません。人は問うことができます、しかし、もし人が本当に探究するなら、本当に率直に観察するなら、そうすると、人は見て取れます、我々一人ひとりは、我々がその中を生きるこの社会に責任があると、その全ての腐敗、不道徳、不正、貧困、様々な形の政治的な専制支配などに責任があると。この社会、この国だけではなく、ヨーロッパや中国、我々はそれを作り出してきました。そして、単なる改革、あるいは、社会の再組織化には意味がありません。我々は考えます、組織が再編されると、それは発展していると。私は知りません、あなたがそれら全てを観察してきたのかどうかを、公平に、客観的に、大いなる懐疑心をもって、大いなる疑いをもってそうしてきたのかどうかを。
一見すると、この国だけではなく、世界中で、人間は相当に騙されやすくなっています。それは宗教によって促されてきました、特に、キリスト教によって、なぜなら、もしあなたが疑うなら、いわゆる宗教的な存在の全構造に疑問を呈するなら、全てのことが崩壊します。そして、アジアの世界では、特に、仏教徒や古代のヒンドゥー教徒は主張しました、あなたは疑わなければならないと、受け入れてはならないと、従ってはならないと。あなたは疑わなければなりません、あなた自身が手にしている、様々な種類の経験だけではなく、その経験の記憶も―問うのです、疑うのです、その意義を探究するのです。しかし、明かに、それは、我々の正に性質を、そして、あらゆる政治的、宗教的組織を、あらゆる形で疑うことです、探究することです。それは、探究することによってのみ、単に何らかのプロや専門家たちやスペシャリストの詮索だけではなく、我々一人ひとりが探究することによってのみ、疑問を呈することによってのみ、問うことによってのみ、そうすると、それは、頭脳にとって、非常に重要なことになります、なぜなら、疑うことによって、問うことによって、頭脳の条件づけが壊れ始めるからです。
私は願います...人は願います、我々一人ひとりがこの会話についてきていることを。話し手は残念ながら壇上に座っていますが、それは単なる便宜上のことであり、彼は何かのプロではありません、彼は何かの専門家ではありません、彼は宗教や何らかの種類の哲学についてのスペシャリストではありません。我々は一緒に存在の全問題を検討しています。そのように、我々は同じレベルで、同じ熱気で、同じ時間の中にいます。我々は一緒に歩んでいます。恐らく、人は非常に早いかもしれません、あるいは、非常にゆっくりかもしれません、しかし、我々はゆっくりであろうと、あるいは、非常に早かろうと、我々は一緒に歩んでいます。もし人が早いのなら、人はそれほど早く歩んではなりません、ゆっくり歩む人たちのために。そのように、我々は一緒に探究しています、自由とは何かを問うています。
世界では、特に、現代世界では、それはアメリカの世界です、それは世界中に広がっています、専制主義国家を除いて、それでも、不和、不同意などが生じています―この世界では、我々は専門家たちの奴隷です、特に、この国ではそうです―性の専門家、立ち居振る舞いの専門家、化粧の専門家―違いますか?―服装の専門家、歩き方の専門家、子育ての専門家などその他の全てです。そして、それらの専門家たちが世界中で、益々、力を得ています。そして、そこに自由はありますか? どうか、話し手の言っていることを真剣に検討して下さい。我々はあらゆる種類の専門家たちを必要とします、しかし、一生、こう言われると、あなたはこのように考えなければならない、こうしなければならないなどと、それは正しく頭脳を条件づけます。東洋でもヨーロッパでも、伝統が頭脳を条件づけてきました、その伝統が十日のそれであろうと、一万年のそれであろうと、その伝統が頭脳を条件づけてきました。専門家の伝統であり、政治家たちや科学者たちの伝統です。それは自由でしょうか? 我々一人ひとりは、我々が我々の行いたいことを自由に行うと考えるけれども。世界で起こっているように、一人ひとりは考えます、人は自由に表現すると、成し遂げると、主張すると、競い合うなどすると。人はそれら全てを自由と称します。そして、そのような自由が、もし人が非常に注意深く、そして、客観的に観察するなら、世界中に途轍もない大混乱を引き起こしてきました、耐え難い悲惨をもたらしてきました、一人ひとりが自分自身のために活動することになってきました。そして、心理学者の幾人かはそのことを奨励しています―あなた自身を成就しなさい、あなたの行いたいことを行いなさいなどと。そして、それが自由と称されます。しかし、それは自由でしょうか? “自由”という言葉は言語学的に愛をも意味します。一人ひとりが競い合っているとき、一人ひとりが成功などそれらを追い求めているとき、それら全ての中に愛が生まれるでしょうか? そのように、人は非常に深く一緒に本当の自由とは何かを検討するのでなければなりません。何かからの自由は自由ではありません。自由は消滅を意味します、継続性とは無縁の消滅です。そして、この自由の感覚のみが、悲しみの消滅である、あの熱気をもたらしうるのみです―それを我々は少し後で検討します。そして、熱気が生じるとき、行動が生じます。我々は、また、行動とは何かをも検討するのでなければなりません。行動と時間との関係性とは何でしょうか―私は願います、私がそれら全てを検討するのを、あなたが厭わないことを、どうでしょうか? 構いませんか?
質問者 構いません。
クリシュナムルティ 恐らく、あなた方の幾人かは、この上なく敬意をこめて言わせていただくなら、これらの事柄について考えてきました、あるいは、あなたはそうしてこなかったかもしれません、それら全ては新しいことかもしれません、あるいは、あなたは話し手の言ってきたことを幾つかの本で読んできました、残念ながら(笑)、そして、あなたはそれをリピートするのです。恐らく、あなた方の幾人かはそれらの本を読んできています、あなたはこう言います、“私は、彼が次に言おうとしていることを間違いなく知っています”と。(笑) それはあなたが実際には耳を傾けていないことを意味します。あなたはあなたが読んできたことのあなたの記憶を持ち出してきていて、言われていることをあなたの収集蓄積してきた知識に沿って解釈しています、そうすると、あなたは実際には耳を傾けていません。私はこのことをこの上なく敬意を込めて話しています。
そのように、自由です、自由と行動との関係性とは何でしょうか? そして、行動の熱気との関係性とは何でしょうか? そして、我々は我々の生を浪費しています、なぜなら、我々は一つの生のみを手にしているからです。あなた方の幾人かは輪廻再生を信じているかもしれません、次の世です、死後です、それは非常に愉快な心地よい概念です、信仰です、しかし、死は何らかの継続性を与える何かではありません―そのことを我々はそれら全てについて話すとき検討します。そのように、あなた方のほとんどは生を浪費しています。我々が生を浪費するという意味は、我々は生計を立てる必要があるけれども、今や、益々、模倣的になっている職業のことです、朝から晩まで、九時から五時まで我々の全てのエネルギーを要求する職業のことです、そうして、何らかの形のエンターテインメントが用意されています、それが宗教的なそれであれ、性的なそれであれ、あるいは、音楽鑑賞であれ、あるいは、何らかの読書であれ、何らかの知的なそれであれ、何らかのロマンチックなそれであれ、あるいは、何らかのスリラーのそれであれ。それが我々の生です。そして、最後には死ぬのです。そして、我々は決して検討してきませんでした、どのように生きるのか、生きるアート、生きる霊妙な働きとは何かを。そして、もし我々がそのことを検討し始めるなら、そのアートを、その霊妙な働きを、あるいは、その、生の繰り返すプロセスではないアートとしての、その霊妙な働きを検討し始めるなら、そのアート、その霊妙な働きは、大いなる観察を、大いに気を付けることを、大いなる気づきを要するので―外側のものだけではなく、それは、内面的な、心理的な、精神的なプロセスの途轍もない全領域に及ぶので―それは外側の世界よりも遥かに壮大な何かです。そして、そのような心理的な世界が、外側の世界をコントロールします、形作ります、あたかも、一党独裁国家の中に見られるように、人々が、環境を変えることによって、環境をコントロールすることによって、人々を何らかの考え方に沿って考えるように強いることによって、人間は異なると。それはその人たちの教義の一つです。そして、それは失敗しました、なぜなら、精神は、それより遥かに偉大だからです、それより遥かに活力を有するからです、あらゆる外側の構造よりも遥かなるエネルギーを有するからです。そして、我々はその領域を検討していきます。
我々一人ひとりの全心理的世界を検討するためには、そして、観察するためには、あなたは熱気を必要とします、それは知的なエンターテインメントではありません、知的切開、分析ではありません―あなたには熱気とエネルギーが必要です。そして、そのエネルギーは、今や、何らかの争いによって浪費されています、なぜなら、我々の一人ひとりが、我々が富んでいようと貧しかろうと、無知であろうと、あるいは、偉大な科学者たちであろうと、我々が単調な日常生活を送る普通の人間であろうと、そして、密林の中の人間であろうと、小村の無学の人間であろうと、人は絶え間なく争っているからです。全ての人間がひどく争っています、格闘しています、傷んでいます。そして、その争いを検討するためには、その争いに、内面的に、心理的に、終止符が打てるのかどうかを検討するためには、そのことを検討するためには、エネルギーだけではなく、それを明らかにするための本当の熱気もまた要請されます。争いが、人間の争いが消滅しうるのかどうかを明らかにするための熱気です。それとも、それは果てしなく継続するに違いないのでしょうか?
私は、あなたがこう検討してきたのかどうか、あるいは、観察してきたのかどうか知りません、我々はこの地上に―考古学者たちや生物学者たちなどによると―四万年から五万年生きてきたと思われると。この上なき古代の文明から現代に至るまで、人々はみな争いの中を生きてきました、自然とのそれだけではなく、外面的な戦争を通じても、内面的な何らかの争いを通じても、そのように生きてきました。四万年あるいは五万年の人間の進化の継続は我々に現にある通りの我々をもたらしてきました、依然として、我々は争っています。私は我々がそれに気づいているのかどうか分かりません。理論的にではなく、知的にではなく、あるいは、何らかの空想的な希望ではなく、実際に、どれほどか深刻に、我々が互いに争っているのか、ということに気づくのかどうかです、お互いに争うだけではなく、我々自身の中で争っていることに気づくのかどうかです。我々は、この争いを、何らかの生きる手立てとして受け入れてきました、外面的な戦争だけではなく、何百万人の人々を破壊しているだけではなく、人々は地上の平和を口にするけれども、あらゆる宗教も、恐らく、仏教やヒンドゥー教を除いて、より多くの人々を殺害してきました―様々な宗教です、ナショナリティという部族=民族意識の美化などもそれら全てと同様です。それが争いの外面的な世界になってきています―競争、攻撃性、それぞれがそれ自身の成功を追い求めます、それぞれがそれ自身の成就を追求します。外面的に、我々は争っています、そして、内面的にも同様です。それは事実です、それは何らかの理論ではありません。もし人が自分自身を鏡に映して現にある通りの自分自身を見るなら、あなたはあなた自身が争っているのを見て取ります―あなたの妻と、あなたの夫と、あなたの隣人と、神と、人間が外面的にも内面的にも作り上げてきたあらゆるものと争っているのを見て取ります。そして、我々は決して検討してきませんでした、我々は争いから自由になりうるのかどうかを。我々は、今、一緒に、検討しています。否応なく、あなたは話し手に問います、“あなたは争いから自由でしょうか”と。ごく自然にそう問います。もし彼がそうではないなら、彼はそれについて話さないでしょう。それは偽善になります。そして、話し手は、彼の生涯を通じて、実際に、いかなる種類の不正直な、偽善的な考え方や生き方も忌み嫌ってきました。しかし、それを一緒に検討するためには、あなたが共有することを、あなた自身が関わることを、争いが、この世界を生きていながら、消滅しうるのかどうかを明らかにするために、あなた自身が献身的になることを要します―何らかの僧院へ引きこもることではないのです、あるいは、何らかの隠棲場所などそれら全てのナンセンスに逃げ込むことではないのです。なぜ我々は争うのでしょうか? その要因とは何でしょうか、争いの正にその性質と構造とは何でしょうか?
どうか、我々のほとんどは答えを待っています、誰かがあなたに答えを告げることを。それが専門家の機能です。しかし、此処には専門家はいません。我々は互いに問うています、その要因とは何かと。戦争の要因とは何でしょうか、外面的に―経済的な戦争、社会的な戦争、そして、人間の破壊―その要因とは何でしょうか? それはナショナリティではないのですか? それぞれの国家が、それは他の世界と分離していると考えます、ナショナリステックなそれだけではなく、それは部族=民族意識の美化です、そしてまた、外面的にも共産主義者のイデオロギーがあります、一党独裁国家のそれがあります、そして、デモクラシーの世界のそれがあります―異なるイデオロギー、異なる信念、弁証法的な物質主義が一方にあり、そして、他方に、神の信仰があり、デモクラシーなどがあります。それらは依然として理想です。そのように、様々な理想の間で戦争が生じています、様々な信念が戦争を引き起こしています。もしあなたがキリスト教の何らかの教条主義を信じるなら、あるいは、ヒンドゥー教や仏教の迷信や教条主義を信じるなら、それらの正に信念が、それらの正に信仰が人間を分断します。あなたはカトリック教徒です、プロテスタント教徒です、そして、プロテスタント主義の何千もの分断があります、ヒンドゥー教や仏教と同様に―北方仏教徒がいて南方仏教徒がいます。そのように、外面的な争いの主な要因は分断です。それは明らかです。私は願います―人は願います、我々が互いにこのことについて一緒に歩を進めていることを。分断があるところには争いが生じるに違いありません。そして、我々の中で、我々はバラバラになっています、断片化しています。我々の一人ひとりが考えます、人は他の人と分離していると―違いますか? 宗教は世界中で促してきました、あなたは分離していると、あなたは分離した魂を手にしていると、分離した個人であると。どうか、このことについてきて下さい、このことを拒絶しないで下さい。我々はあなたに何かを受け入れるように問うているのではありません、我々は検討しています。アジアの世界では、インドと同様に、人々はこの分離した個人を信じています、分離したアートマンなどです、あなたがキリスト教の世界で行うように、あなたの魂は分離していて、救われることになるなどのことです。そのように、子供の時から、この分断感覚、この我々自身の中の断片化が争いの根本的な要因です、一人ひとりがその人自身の救済を宗教的に追い求めています―それが何を意味しようと。一人ひとりが自分自身を表現したいと思っています、自分自身を成就したいと思っています、その人自身の理想を、その人自身の野望を追い求めています、そして、あなたの妻や夫も正に同じことを行います、一人ひとりがその人自身の快楽、その人自身の欲望を追い求めます。そのように、我々は見て取ることができます、争いは、分断がある限り存在するに違いないと。そのような分断は消滅しえますか? そのような分断、それがこのような悲惨、混乱、醜さ、そして残虐性を世界の中にもたらしてきました、このような分断は我々一人ひとりの中で消滅しえますか?
あなたはこの問いを知的に問うかもしれません、そして、それについて思索するかもしれません。恐らく、あなた方の幾人かはこう言います、“いいえ、それは不可能です。それが生き方です。自然には争いがつきものです、あらゆるものがその光を目指して格闘しています、より大きな動物が小動物を殺すなどです。そのように、我々はそのような自然の一部です、だから我々は争って生きるのでなければなりません。それが生き方です”と。我々はそのことを受け入れてきました、何らかの伝統としてだけではなく、我々は促されてきました、教えられてきました、教育されてきました、争いを継続するようにそうされてきました。そこで、我々は一緒に検討しています、そのような我々自身の中の分断が消滅しうるのかどうかを。つまり、相対立する欲望です―欲すること、欲しないこと、追い求めること、お分かりでしょう、それら他の全てです―相対立するエネルギー、それがそのような途方もない争いや悲惨をもたらします、それら全ては消滅しえますか?
それは、恐らく、何らかの意欲によっては、それは意志です、消滅しえません。私は願います、我々はこれら全てについて歩を進めていると、我々は一緒にそうしていますか、少なくとも、幾分かはそうしています。私は続けます、もしあなたがそれを許すなら、恐らく、あなた方の幾人かは、幾週間もの後で、とても疲れています。それでは、我々はこのことを検討します。そのような分断は消滅しえますか? 我々は言っていました、いかなる形の意欲、欲望、動機をもってしても、その争いを終わらせようとのいかなる願いをもってしても、その争いを終わらせようとする欲望が正に更なる争いを生み出しますと、違いますか? 私は争いを終わらせようと願います。なぜでしょうか? なぜなら、私は非常に平和な生を送りたいと願うからです、それでも、私はこの世界で生きる必要があります―ビジネスの世界です、科学のそれです、そして、お互いの関係性の世界などです―現代の世界です。私はこの世界の中で争いとは無縁に存在できるでしょうか? あらゆるビジネスの世界が争いに基づいています―競争、一つの会社が、ビジネスのそれが他のそれと対立します―そのような終わりのない争い、それが外面的に進行しています。そして、内面的に、最初に、それは消滅しえますか? 外面的にではなく。我々はいつもこう話しています、私はこの世界の中で外面的に争いとは無縁に生きられるのかと、しかし、我々は、正しい答え、正しい行為を見つけるでしょう、我々が我々一人ひとりの内面的に抱く争いを正に検討するときに。そのような分断は―相対立する欲望、相対立する要求、個人的な衝動―それら全ての分断は消滅しえますか?
それはもし人が有能なら消滅しえます―私はその“有能”という言葉は使いません、御免なさい―もし人が観察しうるなら。争いを観察するのです、それを消滅しようとしないで、別の争う形に変質させようとしないで、それを観察するのです。それは、気づくことを意味します、争いとは何かに、それがどのように生じるのかに完全に気を付けることを意味します、それは二元的な相対立するエネルギーの衝動です、それをただ観察するのです。
あなたはこれまで何かを完全に観察したことがありますか? あなたはその窓の外を見るとき、そして、あなたがその海を見るとき、朝は荒れ狂っていて、夕方には全く凪いでいるそれを見るとき、あなたはこれまでいかなる言葉も挟まないで、何て美しいのか、何て五月蠅いのか、全く何て騒々しいのかと言わずに、観察したことがありますか? あなたはこれまであなたの全ての感覚を総動員して、あなたの全存在を働かせて、その途方もない海の水を、その海を観察したことがありますか? いかなる反応も生じさせずに、観察することです、ただ見守ることです。もしあなたがこれまでそうしたことがあるなら、同じように、いかなる反応も生じさせずに、いかなる動機とも無縁に、観察することです、なぜなら、あなたが何らかの動機を抱くや否や、その動機が何らかの方向性をもたらすからです。そして、その方向性の中に、争いが生じます、しかし、ただ、争いの全現象を観察することです、その要因です、分断だけではなく、模倣、順応など全てです。ただ、争いの性質と構造に余すことなく気づくことです。あなたが完全に気を付けるとき、そうすると、あなたは自分自身でその争いが消滅するのかしないのかを見て取るでしょう。しかし、それには、我々が言ったように、大いなるエネルギーを要します、そして、そのエネルギーは、その背後に熱気が存在するときにのみ起こりえます、あなたが本当に明らかにしたいと思うときに。あなたはお金を稼ぐために大いなる時間とエネルギーを費やします、何年もそうします、あなたが何らかのエンターテインメントに浸るために、大いなるエネルギーを費やすように。しかし、あなたは、争いが正に消滅しうるのかどうかを明らかにするために、エネルギーを心から深く費やしません、完全に気を付けることをしません。そのように、観察のことです、意欲ではありません、それはいかなる意志の働きでも、あるいは、決意でもありません、あなたの全存在で、争いの性質と構造とは何かを観察することです。そうすると、頭脳の条件づけの一つが消滅します。なぜなら、世界中の全ての人間が条件づけられているからです―カトリック教徒、プロテスタント教徒、ヒンズー教徒、仏教徒、イスラム教徒やマホメット―人間的発明のあらゆる寄せ集めです。
我々の条件づけを検討することです。我々は条件づけられています、あなたはアメリカ人です―アメリカ的な生活様式です。もしあなたがカトリック教徒なら、あなたは二千年条件づけられてきています、もしあなたが―ただ、カトリック教を、法王を取り除いて、他の誰かと結婚したいと思った―ヘンリー八世の時代からのプロテスタント教徒なら同じことです。様々な形の条件づけが、インドや日本や世界のその他の全ての宗教的、社会的、文化的条件によって形成されます。我々は条件づけられています。そして、そのような条件づけが我々の意識です。
私は願います、一つのトークの中で、これが手に余らないことを。しかし、我々はもう一つのみトークを行いますので、我々は二つのトークの中に、できるだけあらゆることを含めなければなりません。私はあなたが構わないことを望みます―もしあなたがそれに耐えうるなら、そして、もしあなたが話し手と共に歩を進めうるのなら。
我々が言っていたように、我々は条件づけられています―新聞によって、あらゆる形の様々なメディアによって、宜しいでしょうか、雑誌など全て...あなたは条件づけられてきています。そして、この条件づけが我々の意識です、生物的反応だけではなく、感覚的反応、性的な反応などです、それが我々の条件づけの一部です。そしたまた、様々な形の信念、信仰や教義、イデオロギーによるもの、様々な宗教的儀式によるもの、言語的―もしそれが可能なら―条件づけ、話し手はそれを非常に執拗に問います、言語的な言い回しが頭脳を条件づけるのかどうかを。我々はこのことをある言語学の専門家たちなどと議論してきました。私は問います...人はそれを問います。私はそれを検討しません、なぜなら、それは、さしあたり、とても複雑だからです。そのように、我々は条件づけられています。我々の意識は全て我々が獲得してきた知識です、その経験です、その信仰です、その信念です、その教条です、その儀式です、そして、また、恐れや、快楽、悲しみ、痛みです。我々の条件づけは本質的に知識です。我々は、四万年かそれ以上、知識を獲得してきています。そして、我々は、その知識に、一日一日、更に更に、付け加えることをしています。科学者たちは知識を、一日一日、ひと月ひと月、彼らがすでに知っていることに付け加えています。そして、その知識は経験を通して獲得されます―テストされ、実験され、試されます、もしそれが成功しないなら、彼らはそれを脇へ置いて、再び始めます。そのように、絶えず知識の拡張がなされます、我々自身の中にも、外面的にも。そして、知識は、それが経験に基づくので、限界づけられた何かです。何についても完全な知識はありえません、神を含めて。知識はいつも―現在も未来も―いつも限界づけられています、それは拡張されえます、加えられえます、しかし、それは、依然として、それ自身の限界を抱えます。そのように、思考は、それは知識から生じます、頭脳の中に記憶として蓄積されます、そのような思考には、限界があります。完全な思考はありません。
どうか、このことを問うて下さい、そのことを疑って下さい、問うて、明かにして下さい。なぜなら、このことは非常に重要だからです、なぜなら、我々の意識は思考の本質だからです、知識の本質だからです。従って、我々の意識は―それは頭脳などの全能力です―いつも限られています、従って、条件づけられています。それは...できる、思考は想像できます、計り知れないものを、その空間を、終わりなきものなどを思索できます、しかし、思考が何を行おうと、それは依然として限られています。我々はその事実を見て取りますか? なぜなら、これは、もし人に指摘させてもらうなら、このことを理解することは非常に重要だからです、単に知的にではなく、実際に、我々が考えていることを、それが何であれ、見て取ることです、そして、思考のいかなる行動もいつも限界があることを見て取ることです、それが政治的であろうと、経済的であろうと、あるいは、宗教的であろうと。思考は神を発明してきました―御免なさい、私はあなたがこれら全てのことでショックを受けないことを願います。(笑)
質問者 宜しいでしょうか...
クリシュナムルティ ちょっと待って下さい、宜しいでしょうか。
もしあなたがいかなる恐れも抱いていないなら、外面的な出来事、事故、そしてまた、死、明日、時間などの恐れも内面的に全く抱いていないなら、そうすると、神の必要性とは何でしょうか? そうすると、あなたはあなた自身で...そうすると、永遠であるそのような状態が生じます―そのことを我々は、今、検討しません。
そのように、我々は思考の性質を理解することが重要です、それは本質的な何かです。思考はこの上なく驚くべき美しいものを作り出してきました―偉大な絵画、偉大な詩です。思考は技術の全世界を作り出してきました、中性子爆弾から簡便なコミュニケーション、戦争の全ての手段、潜水艦―あなたはその他の全てを知っています、コンピュータなどです。思考はそれら全てのことを行ってきました。ヨーロッパの大聖堂のこの上なく美しい建築、そして、大聖堂や教会の中のあらゆるものが思考によって作られています。そのように、思考は、それが外面的にも内面的にも何を作り上げてこようと、限られています、従って、断片的です。思考は物質的なプロセスです、従って、思考の作り上げてきたいかなるものにも聖なる何かは存在しません。そして、思考が作り上げてきたあらゆるものを我々は宗教と称します。あなたは言うかもしれません、それは直に天上からもたらされた神聖な啓示であると、しかし、その正に“直に天上から”という観念、あるいは、“啓示”は、依然として思考の働きです―超意識など、それら全ては、不幸にも、この国にやって来ているグルたちの発明です。あなた方はあなた方自身のグルたち、聖職者たちを手にしています―それ以上加えないで下さい。あなた方は十分に手にしています。
そのように、我々は思考の性質を正に理解する必要があります。思考は知識から生まれます、記憶として頭脳に蓄えられます。そのように、思考は物質的なプロセスです。そして、知識は存在のある次元では必要です―私には手紙を書くための知識が必要です、此処から何処そこへ行くためのそれが必要です、知識は車を運転するときに必要です、物理的に何かを行うときに必要です。知識には相応の居場所があります、しかし、我々は問うています、知識は心理的世界の中にどのような居場所があるのかと。それはこうです、知識はあなたとあなたの妻、あなたの夫との間にいかなる居場所を占めるのかと。どうか、このことを検討して下さい。知識は、あなたが男と女とのそのような関係性の中で収集蓄積してきた記憶です、性的記憶、心地よい記憶、痛みを伴う記憶、敵対意識などその他の全てです、そしてまた、お互いについてのそれらのイメージ、その知識、それらの光景です。そのように、我々は非常に根本的な問いを発しています、つまり、関係性の中の知識は、争いの要因の一つであるのかどうかです。あなたは確かに手にしています、違うでしょうか、もし私に問わせていただくなら、あなたの妻についての何らかのイメージを―そして、その妻はその夫について、あるいは、女子が男子についてなどです。一人ひとりが自分自身のイメージだけではなく、他の人のイメージも作り出します。あなたは確かに―私は確かです―話し手についてのそれを作り出しています、そうでないなら、あなたは此処にいないでしょう。そして、そのようなイメージはお互いが理解することを実際に妨げています。そのように、人がこの上なく親密に他の人と生活しているとき、そして、そのような関係性を通して、あなたは、一日一日、夜も昼も、一日中、お互いの記憶を収集蓄積します。そして、そのような記憶が―それはイメージです―お互いの実際の関係性を妨げます。それは事実です。それらの記憶が分断する要因です、従って、それが男と女の間の争いです。
そうすると、関係性の中で、頭脳の記憶するプロセスは止みうるのでしょうか? あなたはこの質問を理解しますか? もし人が結婚しているなら―仮に、私が結婚しているなら、私は結婚していません―仮に、私が結婚しているとすると。聞かないで下さい、“なぜあなたは結婚しないのか”と。(笑)それは安易な打開策でしょう。仮に、私が結婚しているなら、つまり、惹かれ合うこと、性などその他の全てです。そして、一日一日、ひと月ひと月、何年もの間、私は彼女について多くの知識を作り上げています、そして、彼女も私について全く同じことを行っています。そして、人が手にするお互いのイメージ、その知識が分断をもたらしています、従って、争いをもたらしています。そのような争いは関係性の中で消滅しえますか? なぜなら、それがこの上なく重要で、本質的だからです、なぜなら、関係性は、もしあなたが争いの影を微塵も生じさせないなら、この上なく素晴らしいことの一つだからです。なぜなら、人はこの驚くべき地球上に関係性を抜きに生きることはできないからです。
孤独は余すことのない分離の形です、余すことのない分断です。そして、孤独と称されるそれを恐れて、そのあらゆる憂鬱、その孤独のあらゆる醜さを恐れて、我々は他の人と何らかの関係性を確立しようと試みます、そのような確立が意識的であろうと無意識的であろうと。従って、我々はその光景に固執します、その女性や男性の記憶に固執します、あるいは、様々な形の関係性に固執します―ホモセクシュアルなどそれらその他の全てです。それは正気とは思えない世界です、違いますか! それは、益々、不健全になっています、そして、我々は皆それに何かを加えています。そして、自由であること、それが自由です、イメージを築き上げるプロセスから実際に自由であること、それが本当の自由です―あなたの好きなことを行うことではありません、それはとても子供じみています、とても全く未熟です、しかし、その自由は、関係性の中で、記憶の収集蓄積が全く生じないとき、生まれます。それは可能でしょうか? あるいは、それは虚しい希望、あるいは、天上に思いをはせる何かでしょうか、それは、勿論、馬鹿げています。
それを検討しましょう。あなたは見て取ります、話し手がそのことを非常に深く彼自身で検討してきたことを、しかし、それを検討するためには、あなたは、なぜ頭脳が記憶するのかを検討するのでなければなりません。頭脳は記憶しています、それはその機能です、その一部です。フランス語やロシア語や、それがどの言語であれ、その学習の仕方を記憶します、様々な形のビジネスの活動を記憶します、記憶するのです―宜しいでしょうか、頭脳の全機能は記憶することです。それでは、なぜそれは関係性の中で記憶するのでしょうか? なぜ私の頭脳は私の妻の侮辱や励ましやへつらいを記憶するのでしょうか? なぜそれは記憶するのでしょうか? あなたはこれまでそのことを検討したことがありますか? 恐らく、ありません。恐らく、それら全てを検討することはとても退屈です。(笑) 我々のほとんどは我々の生き方に満足しています―受け入れます、年老いて死ぬまでそう続けます。そのように続けることはエネルギーの浪費です。その中にはアート、霊妙な働きはありません。その中には美はありません。ただ、一日一日、続けるだけです、同じ決まり事に従うのです―同じ悲惨、同じ混乱、安全の欠如など。そして、それら全ての最後に―それはとても意味を欠きます―死ぬのです。しかし、もしあなたがなぜ頭脳は記憶しなければならないのかを検討し始めるなら―ある次元では、それは必要なことです、物理的に―車の運転の仕方、腕の良い大工であること、あるいは、何らかの類の醜悪な政治家やあらゆるその類であること―しかし、お互いの関係性の中で、なぜ記憶することが生じるのでしょうか? そのような記憶は我々の関係性の中に安心をもたらすのでしょうか? 関係性の中に安心は生じますか? 私は信じます、この国では、結婚よりも離婚が多く生じていると。(笑) 私は聞きました...我々は、先日、ある女子がこう言うのを聞きました―翌日、結婚することになっています―彼女が言いました、“いつでも離婚する”と。(笑)
そのように、あなたは理解します、関係性は、非常に、非常に、真剣なことであると。しかし、そのような関係性の質が破壊されます、頭脳があらゆる些末な、取るに足らない出来事、小言、快楽を記録しているとき―あなたは通常の関係性の中で何が進行しているのかを知っています。一人ひとりが、それぞれの野望、それぞれの成就、それぞれの快楽を追い求めています。それが関係性を全く破壊します。そうすると、愛は思考のことでしょうか? 愛は欲望でしょうか? 愛は快楽でしょうか? 愛は記憶でしょうか? どうか、それら全てを検討して下さい―知的に検討するだけはなく、実際に、正に検討する中に行動が生じます。あなたが行動するとき、その行動は熱気を要します、ただの知的な概念や欲望ではありません。愛は欲情ではありません、愛は思考の圏内にはありません。しかし、頭脳が我々の関係性の中で単なる記憶する装置なら、あなたは愛のあらゆるものを破壊します。
あなたは言うかもしれません、“あなたがそう言うのは非常に簡単です、なぜなら、あなたは結婚していないからです”と。多くの人が私にそう言ってきました―それはナンセンスです。私は人々と暮らしています。話し手は多くの人々と共に生活しています、インドで、ヨーロッパやアメリカで、多くの人々と、絶えず、そうしています。
思考が本当に理解されているとき、その性質、その構造、その活動、その限界が―理解されているとき、つまり、観察されているとき、働きかけられているとき、その正に観察がその行動です。そうすると、全く異なる関係性の質が生じます。なぜなら、愛は頭脳の外側にある何かだからです、思考の領域の中にはない何かだからです。
そのように、我々の条件づけは思考の活動です、恐れのように。我々は恐れと共に何世紀も、百万年も、何千年も生きてきました、そして、我々は依然として恐れています、外面的にも内面的にも。外面的には、我々は安全性を、物理的な安全性を願います。人は物理的に安全性を手にしなければなりません。しかし、その外面的な安全性は、人が心理的な安心を追い求めているとき、安全性の欠如になります。私はあなたがこのことについてきていることを願います。我々は心理的な安心を最初に願います。心理的に安心すること、我々は我々の関係性の中で完全に安心することを願います―それは私の永久の妻のことです!(笑) あるいは、もしその永久性が存在しないのなら、私はそれを別の女性に見つけようと試みます。(笑) あなたはこのことを笑うかもしれませんが、それが世界で起こっていることです。恐らく、それがあなたに起こったことです。そして、恐らく、それがあなたのそのことを間髪入れずに笑い飛ばす理由です。そのように、人は、非常に、非常に、深く、何らかの安全性があるのかどうか、生の中に永久性が、内面的にあるのかどうかを検討する必要があります。あるいは、内面的な安心の追究です、それは、究極的に、神などのことです、そのような安心は幻想でしょうか、従って、心理的には、いかなる安心も生じません、しかし、その至高の叡智のみがあります―書物のそれではありません、知識のそれではありません。そのような至高の叡智が生じます、存在します、愛と慈しみが生まれるときにのみ生じます。そのような叡智が、そうすると、活動します。
あなたは言うかもしれません、“それら全てにはとても手が届かなくて、それら全てはとても複雑です”と、しかし、そうではありません。生は...生きることは非常に複雑なプロセスです、違いますか? あなたはそれら全てを話し手よりもよく知っているに違いありません。それは、非常に、非常に、複雑なプロセスです―会社へ出勤すること、工場へ行くこと、執筆すること―宜しいでしょうか―全生活が、非常に、非常に、複雑なプロセスです。そして、複雑なものは極めてシンプルに扱うのでなければなりません。心理的にシンプルでいることです、愚かしいシンプルさではありません、そうではなく、シンプルであることの質を見て取ることです。私はあなたがこれら全てを検討したことがあるのかどうか知りません。
“無垢”という言葉の言語学的な意味は、傷つけもしないし傷つきもしないことです。しかし、我々は子供の時から傷ついています―両親によって、同僚の学生たちによって、大学などを通じて―我々は絶え間なく傷ついています、心理的に傷を負っています、違いますか? そして、そのような傷を我々は、生涯、引きずります、それら全ての苦悶と共に。人が傷つくとき、傷つかないでいる恐れがいつも生じます、そうすると、人は自分自身の周りに壁を築いて抵抗するなどその他の全てを行います。しかし、決して傷つかないことはシンプルなことです。宜しいでしょうか、そのようなシンプルさで、生の、非常に、非常に、複雑な問題に取り組むことです、それが生のアート、霊妙な働きです。そして、これら全てのためには、大いなるエネルギー、熱気、そして、観察する自由の感覚を要します。
宜しいでしょうか、これで、今日は、十分です。我々は、明日、生の他の事実について引き続き検討します。
―1984年 5月5日 サンフランシスコ
1984年 5月6日 サンフランシスコ