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ソウル訪問記(1998.2.27-3.2)

その3

村バスとソウルの地形

ソウルには「村バス(マウルバス)」というものがある。これは一般バスとは別のバスシステム(運賃も別)であり、一般の路線バスの利用が不便な住宅地と地下鉄駅との間を結ぶ循環型バスである。車両はマイクロバスないしは中型バスが用いられる。路線距離が短い(路線全体の6割は6km以下)村バスは韓国独自のシステム(日本では武蔵野市で運行されている「ムーバス」が村バスにもっとも近い)であり、路線数は1995年時点で188路線を数える。この村バスは、1980年代からバス路線が無い地域での問題を解消するため、社会団体が行った自家用バスを用いた運送行為に対して許可が出て普及したものである。現在では限定乗合バスの枠組みで運行されている。ソウルで村バスが普及した背景の一つとして、ソウルの市街地はかなり高低差が激しく、急坂を控えている場所が多いことが挙げられるだろう。(高低差が激しく自転車が利用できないため)、地域住民の交通機関の確保は平坦な土地が多い東京と比べても深刻な問題だったと考えられる。

その「村バス」に乗ってみる。地下鉄の駅を出た、交差点の角のところにマイクロバス(日本のそれと同じ)が泊まっている。発車すると少しの間は普通に走るが、対向車とすれ違えなくなるほどに道が狭くなると、後はジリジリと坂を上り始める。それでもものの7-8分で終点についてしまう。終点の高台は学校であった。

市内を歩く

3日目、3月1日。この日は朝寝坊をする。昨日は地下鉄駅のテレビで韓日戦の結果を知るべくホテルでスポーツ紙を見たが、結果が1面に載っていない。

街を見ると、市内各所に国旗が掲げてある。今日は三・一運動(1919年3月1日、ロシア革命やウイルソンの十四箇条などの影響で日本からの独立運動を起こしたが、鎮圧された。これを三・一運動(万歳事件)といい、以後の朝鮮民族運動の出発点となった(引用1))の日である。同行した友人らと共に南大門市場まで歩く。市場は狭く色合いが暗くで少しむさ苦しい、それでいて人がごった返し極彩色の商品が溢れている。まさに「市場」の雰囲気であった。しかしこの南大門市場はやはり観光地であり、活気のない市場独特のうらぶれた雰囲気が全く見られなかったことを後で観光客が寄らない別の市場を見て気づいた。ここでベルトを買う。

そのまま歩いて行くとソウル駅前に出る。ここの食堂で昨日食べ損なった参鶏湯を食べる。鶏が一羽塊で入っており、その中に米や栗、ナツメから朝鮮人参まで入っている。スタミナ料理というよりは薬膳料理であり、食べた後は心が落ちつく。7000Won。

この日は一旦ホテルに戻って、噂に聞く「アカスリ」をやってもらう。ホテルの中のサウナ(22,000Won)に入る。中は銭湯とサウナがあり、その角にアカスリ台が並んでいる。足先から首まで派手にこすってもらった。

その後はロッテデパートに行き、街に出てお土産を物色する。デパートの地下食品売場ではいろいろなものを売っていたが、その中には寿司(一カン500Won)やキリンビール(韓国ビールの倍の値段)などもあった。ここで(ゴマ油風味)味付け海苔を買う(5000Won)。その他いろいろなものの値段をメモしておいたが、惜しいことになくしてしまった。その後、ロッテリアでプルコギ(焼肉)バーガーを食べてから地下鉄で江南を見てくる。

梨泰院

最終日は別のところに泊まってみよう、ということで梨泰院に移る。梨泰院には鉄道がなく、荷物も多いのでタクシーで移動する。

ここ梨泰院は旧市街地とは南山を挟んで反対側に、江南とは漢江を挟んで反対側に位置している。昔は異国人(日本人)が住む町、異国人との間に産まれた子供を育てるところとして「異他人」「異胎院」と呼ばれていた(出典2)。朝鮮戦争後は近くにある米軍基地に勤める米軍関係者でにぎわった街である。日が暮れてきたこともあって、歓楽街でもある梨泰院の街にはネオンが溢れている。

今晩は留学生の人の奥さんと娘さんも同席して、豚カルビをいただく。店は広々としたオンドル部屋であり、焼肉コンロは炭火である。豚カルビは非常にこってりとした味であり、若い人にはこたえられないだろう。例によっていろいろなキムチ類が並ぶが、その中の一品に「スルメをコチュジャンで和えたもの」が出てきた。これが非常に酒に合い、ついつい飲み過ぎてしまった。また韓国で「辛いものも大丈夫」と図に乗って注文したユッケジャンを食べたら気分が悪くなった。大急ぎでトイレに行く。慣れない酒の飲み過ぎと胃腸への過負荷、それと旅の疲れが出たのかもしれない。宴席の後、今晩は1人ホテルで静養する。その帰り道、コンビニに行ってお土産になりそうなものを買っておく(レトルトのカレー、炒醤麺ソースなど、そう言えば韓国ではあまり「カレー」は見かけなかった気がする。

夜10時、梨泰院の夜はまだ更けず、飲みに行った面々も当然まだ帰ってこない。

江南

3月2日、帰国の日であるが、帰りのフライトは午後のである。午前中は留学生の方のご好意で職場の「交通開発研究院」を見学させていただく。ここは交通問題に関する国の調査・研究機関であり、職場の人数は125人に達する。研究は道路・鉄道・都市交通・物流・航空・交通経済など多岐にわたっている。日本では交通関係の調査・研究機関は各分野ごとに独立していることもあって、この「交通開発研究院」に匹敵する規模の機関は存在しない。この建物からはソウルのオリンピックスタジアムが見渡せる。

そのあと江南に出る。江南はソウルの旧市街地に対して漢江を挟んで反対側に位置している氾濫原であった。しかし、経済成長(これらはよく「漢江の奇跡」などと呼ばれる)の成功によるソウルの膨張と共に急速に発展をした一帯である。社会基盤の整備水準も高い。歩道の幅も広い非常に幅の広い道路が碁盤の目のように走っている。その枡の中に高層の企業社宅が並んでおり、道を挟んだ反対側には雑居ビルが立て込んでいる。漢江には旧市街と新市街とを結ぶの橋が何本もかかっているが、その一つである聖水大橋は以前に大きな落橋事故を起こしている。その他地下鉄2号線の橋も欠陥が見つかり現在掛け替え工事が行われている。

帰国

そんなこんなで午後2時頃になり、空港に向かうバスに乗る。バスは江南にあるCATから出る(航空会社によってはここからのチェックインも可)。バスターミナルからは江南沿いを走る道路沿いに30分ほど走る。空港はお土産屋や食堂が何軒もあるが、少しく野暮ったい。出国手続きの先には免税店が大スペースを展開しており、覗いてみるが取り立てて興味深いものは並んでいない。搭乗口の椅子に座って離陸を待つ。隣の飛行機は日航の福岡行きが止まっているが、このような短距離フライトでは機内サービスは受けられるのだろうか?

帰りのユナイテッド航空の飛行機に搭乗。夕暮れの朝鮮半島をスッと離陸してしまう。3時間で成田着、空港は日が落ちた後であり、離陸便の数も少ない。

引用・参考文献
1)村川堅太郎ほか『再訂版 詳説世界史』、山川出版社、1991年3月、p301を引用
2)『地球の歩き方 16 韓国』、ダイヤモンド社

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更新日 2005.09.26/無断転載および無断引用はご遠慮ください/Link Free/・・・
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