「ちーっす」
「おう、来たか太一!」
軽い挨拶をして店の中に入った俺に、威勢よくおやじが声を返してきた。
親方に連れてきてもらったあの日から、汗水たらして一日の労働を終えたあとここへ来るのが俺の習慣になっていた。
ここってのは、言わずと知れた銀太郎おやじのおでん屋だ。
「おっす、ナツ!」
初めて来た日に座った席が今や俺の特等席のようになってて、迷うことなくその席に腰かける俺。
「……いらっしゃい」
ちょうど俺の席の前におでん鍋があるため、いつも俺の目の前に立つことになるナツは、今日も無表情で俺の挨拶を受け流した。そんなナツの態度にも今じゃすっかり慣れたけど。
「今日は何が食べ頃だ?」
「……ちくわぶ」
「おっ! いいねぇ、じゃあくれや」
「太一、酒は?」
「もちろんいただきやす!」
今日も店の中は、常連の三井のおじじ(とおやじが呼んでた)しかいない。夏だから仕方ないけど、こんな旨いおでんがただ捨てられるのはもったいないよなー。
というわけで、どうやら親方は俺を『残飯係』として紹介するためにここに連れて来たらしい。
『毎日でも来てやってくれよ』
と言って、あの日から一度も来ない親方も、やっぱり夏は冷たいものが一番だと思ってるってことだよな。俺もそうは思うけど、こんなに旨いもんが熱いってだけで捨てられるのは忍びないからな。……とか言って、ただ単に食費浮かそうとしてるだけなんだけど。
「……どうぞ」
旨そうな色になったちくわぶが2つ、きちんと盛られて俺の前に出てくる。ここ3日くらい俺はちくわぶの食べ頃な時間に当たってて、幸運にもナツは2つずつ出してくれた(他に食う奴がいないかもしれないけど)。
「ん、旨いぞ、ナツ」
今では1日の半分以上の飯をここでまかなってる俺にはありがたいことに、ナツのおでんの味付けは飽きることがないものだった。特に、このちくわぶは。
「そう」
多くは話そうとしないけれど、それでも今の俺の言葉でナツが少しは嬉しいと思ってくれたんじゃないかと信じ、俯いたままのナツに笑いかけた。
毎日ここに来るようになって、少しずつだけどナツのことが見えてきた気がする。
すごく肌が敏感らしくて日中はほとんど外に出ないとか(これはおやじが言ってた)、おでんの具ではたまごが一番好きで、苦手なのはつみれだとか(これは本人に聞いた)。
実はけっこうお笑い好きでとん○るずが好きだとか(店の中にテレビがあって、彼らが出てる番組がやってるときにすげー笑いを堪えてたから。その顔がまたかわいくてこっちが笑いそうになっちまった)──そんなささいなことを知るたびに、ちょっとずつナツに近づいてる気がする。
もともと無口でおやじともそんなに話したりしないみたいだけど、俺にももう少し慣れてくれていずれは会話らしい会話をしてみたい、というのが今の俺のささやかな願いだ。
……叶う日は、来るんだろうか?
それから数日後。
「おい、太一! おめえに電話だぞ!!」
今日も朝から気温が上がりまくりで、昼前だっていうのにすでにぐったりしていた俺は、親方の呼ぶ声に首を傾げた。
(ここにはまだ入ったばっかだし、誰にも電話番号教えてないのに……)
休憩時間に入ってたから、地面に力なく座り込んでる他の連中をかき分けて事務所に向かうと、昔懐かしい黒電話を持った親方が待ち構えていて。
「誰っすか?」
「銀太郎だよ。ほら、早く出ろ」
「え?」
銀太郎おやじ? おやじがなんで俺に?
考える間もなく受話器を渡された俺は、「はい、太一です」と営業用(大して変わりゃしないけど)の声で答えた。
『よう、太一。昨日はありがとな』
「いえ、こっちこそごちそうさまっした。……どうしたんすか?」
『ああ、ちょっと太一に頼みがあってな』
いつもより少し落ち着いた声のおやじ(酒が入ってないせいかもな)に頼みがあると言われて、俺は思いっきり警戒した。無理難題を吹っかけられるんじゃないかと思って。
だけどおやじの頼みは、俺にとっては願ったり叶ったりなものだった。
『悪いんだけどな、今日仕事終わったらすぐ店まで来てくれねぇか?』
「え? そりゃかまわないっすけど……」
『今夜ナツの奴が1人で店やるって言うからよ、見張りって言っちゃーなんだが、ちょっと様子見ててほしいんだ。できれば店閉めるまでさ』
「──ナツが?」
それは確かに心配かもしれない。あの激しい人見知りが1人で店やるなんて……大丈夫なんだろうか。
「店、休みにできないんすか?」
俺としてはナツが店をやってくれたほうがいいんだが(夕飯がなくなるのは辛いから)、どう考えても危険だろう。そう思って聞くと、おやじはそうなんだけどよ、と溜息を洩らした。
『それがなー、ナツがどうしてもやりたいって言うんだよ。今までは俺がいないときは休みにしてたんだが……あいつにも跡継ぎとしての自覚が出てきたってことかもしれねぇからよ』
「はぁ」
『けど、いくら今が暇な時期っていってもやっぱり心配でよ』
「そうっすか……」
本人がやる気になってるのに、それを反対することはさすがのおやじもできなかったらしい。そりゃそうだよな、自分の跡継ぎには早く一人前になってもらいたいって思うもんだろうし。
「じゃあ俺、仕事終わったら速攻店に行きますんで。安心してください」
『そうか。悪いな、太一。今日は俺のおごりだ、好きに呑み食いしてってくれや』
やっと安心したのか、おやじはいつものがなり声でがははと笑うと、そんじゃ頼むぞと言い残して電話を切った。
(ナツが1人で店番……)
そう聞いただけで言いようのない不安に襲われ、俺は仕事が終わったら急いで店に行こうと決心した。
「うーっす!」
現場から走ってきたせいで滝のように流れる汗を、首にかけたタオルで拭きながら店に入ると、そこはいつもと少し違った空気が流れていた。
おやじがいないせいか、テレビの音がやけに大きく聞こえる。
すっかり顔なじみの三井のじいさんとも挨拶を交わし、俺はナツの前の席に座った。
「おう。今日は1人なんだってな」
「……うん」
いつもと同じように、汗一つかかずにおでんの具を突くナツ。だけどナツが緊張してるんだってことに俺はすぐ気づいた。
ナツの箸はいつもおでん鍋の中のすべての具の上をまんべんなく動くのに、今日は一つのちくわぶをちょんちょんと転がしてるだけで、他の具はいっさい気に止まらないようだったから。
「ナツ、そのちくわぶいいか?」
俺はいつも通りの調子でナツに話しかけ、ナツが突いていたちくわぶを指差していった。
「あ……うん」
ナツは焦ったように頷くと、いつもの落ち着いた動きはどこへやら、何度も取り落としそうになりながらようやくちくわぶを皿にのせた。それを俺の前に出すと、鍋の中に浮いていたもう一つのちくわぶにそわそわと箸を戻す。
「辛子は?」
「あ、──ごめん」
俺の催促に珍しく(いや……初めてか)謝ると、慌てた様子で辛子を用意し、俺に差し出してくる。
その白い手が皿を置いて戻っていくところを、俺は素早く捕まえてぐっと握った。……相変わらず冷たい手だ。
「な、なに?」
俺の突然の行動にうろたえて視線を彷徨わせたナツをじっと見返して、それからにかっと笑ってやる。
「そーんな緊張しなくていいんだって。今は俺と三井のじいさんしかいねぇんだからさ。いつもと同じメンバーだろ?」
そんなに気負う必要はないんだと言ってやると、ナツはテーブル席に座っていた三井のじいさんのほうに視線を向けた。俺もそれを目で追うと、三井のじいさんが深く頷いているのが見えた。
それを見てようやくほっとしたような表情になったナツ。三井のじいさんはナツにとって本当のじいちゃんみたいなもんらしいから、言うこともすんなり聞けるみたいだ(ちょっと羨ましい……)。
「……わかった」
こくりと頷き箸を持ち直すと、いつものようにおでん鍋の具をいじりはじめる。俺はほっと胸を撫で下ろし、さっそくちくわぶにかぶりついた。
「うん。今日も旨いぞ、ちくわぶ」
もう恒例となってしまった俺の一言に、ナツは薄く笑う。──そう、俺にはナツが笑ってるのかどうかちゃんと見分けられるんだ!(と勝手に思ってる)
このまま何事もなく終わるだろうと俺は安心しきって、いつものように熱燗を呑み始めた。
────だが、そうは問屋がおろさなかったのだ。
閉店まであと1時間。今日の客は予想通り俺と三井のじいさんだけだった。
三井のじいさんもさっき帰ってしまい、店の中には俺とナツの2人しかいない。
俺が黙ってしまうとあとはテレビの音が聞こえてくるだけで、だけどその沈黙も今日はどこか心地よかった。
(『店閉めたら……一緒に飯でも食いに行かないか?』)
ナツはいつもより口数の少ない俺を不思議に思ってかもしれないけど、俺の胸にはそんな言葉が用意されていて。誘うきっかけを計ってたら無口になっちまったんだけど、そのことを気にする余裕はさすがになかった。
それはもう何日も温めていた言葉で、いつもおやじがいて照れくさくて言い出すことができなかったんだけど。……なんか、もっとゆっくりナツと話してみたくなったんだ。
子供の頃のこととか、銀太郎おやじのこととか、好きなものや嫌いなもののこととか……とにかく、あいつのことならなんでもいいから知りたいって思ったんだ。
──なんでそんなふうに思ったのかは、自分でもよくわからないんだけどさ。
(今日は必ず誘うぞ!)
グラスに半分くらい残ってた酒をぐっと飲み干し、気合を入れて口を開こうとした──そのとき。
ガラガラッと勢いよくドアが開き、どやどやっと黒い集団が店の中になだれ込んできたんだ。
(な、なんだっ?)
それはサラリーマンの集団で、どこかですでに呑んできてるのかどいつもこいつもおぼつかない足取りだった。
俺の後ろのテーブル席にガタガタと座ったそいつらはそれぞれが意味不明なことを言っていて、俺は(こりゃタチの悪い客が来ちまったな)と内心舌打ちした。
酔っ払いってのは、どこの店でも招かれざる客だからな(水商売は別だけど。気が大きくなって金使いまくる奴がいるからさ)。
「お〜い、酒持ってこい!」
一番年嵩の男が叫び、ナツは慌てて人数分のグラスと火にかけた酒を持って行く。
「あ、おい待て、ナツ!」
その行動を制止しようと小さく叫んだものの、必死のナツには聞こえてなくて。
(熱燗なんて持ってったら、あいつらキレるんじゃねーかっ?)
と思った俺の勘は当たってしまった。
「熱燗〜? この熱いのにそんなもん呑めるか!! 夏はビールだろうが!!」
「そうっすよねー、課長!」
「早くビール持ってこい!!」
「そうだ! ビールだ!」
アホのように復唱する酔っ払いを触発しないようにちらっと見ると、グラスとやかんを持ったままのナツがテーブルの前で立ち竦んでいた。
「──っ!」
その肩が小さく震えているのを見て、俺は頭にかあっと血が昇り──思わず立ち上がっていたんだった。
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