真夏のおでんもオツなもの


【第3話】


 勢いよく立ったせいで椅子が大きな音を立て、その音と後ろを振り返った俺に気づき、酔っ払いどもが視線を上げる。
「──なんだ兄ちゃん、なんか用か?」
 赤ら顔のハゲ頭が俺に向かって言うのと、ナツが俺を振り返るのは同時で。その目が潤んでいるのを見たとき、俺の理性はぶち切れそうになった。
 それを必死で抑えつけ、無理やり愛想笑いを作る。
「……すんません、こいつまだこの店に慣れてなくて。俺も店員なんすけど、もう上がろうと思ってたんで」
「なんだ、そうか。おい、ビール持ってこいよ! 熱燗なんて持ってこさせるな!」
「申し訳ないですけど、今日ビール終わっちゃって。冷酒しかないんすけど、いいっすか?」
 ナツの手からグラスの載った盆を受け取ると、そのまま無造作にテーブルに置く。
「あーあー、熱くなきゃなんでもいい。早く持ってこい!」
「はい、ただいま!」
 俺は酔っ払いに返事をしながらナツの手を引き、カウンターの中へと戻った。ナツの手はそれまでより何度か体温を下げていて、まるで真冬の冷たさにさらされていたかと思うほどだった。
「ナツ、空の一升瓶ってあるか? それと氷な」
 俺が言うと、ナツは強張った表情のままのれんをくぐって奥に行き、すぐに氷を持って戻ってきた。空いていた一升瓶をおでん鍋の下から出すと、まだ震えたままの手が俺に差し出してきて。
 一升瓶を受け取ってからその手をぎゅっと掴み、俺は自分のほうにナツの身体を引き寄せた。
 軽い身体はなんの抵抗もせず俺の腕の中におちてきた。その背を一瞬だけ抱いて、
「大丈夫、俺がついてるから。……な?」
 励ますように、元気づけるように言うと、ナツは泣き出しそうに顔を歪め──歯を食いしばってから小さく頷いた。
「…………うん」
「……よし。じゃあナツは──そうだな、昨日の残りのおでんってあるか?」
「ある……けど……」
「じゃあそれを、あるだけ皿に盛ってくれ。冷たいままでいいぞ」
「うん……」
 ナツは『?』って顔をしてたけど、俺は軽くウインクして自分の作業に取りかかった。
 ぎゃあぎゃあ騒いでる奴らをチラリと横目で確認してから、ナツに持ってきてもらった氷をボウルに移してその中に水道水を入れて。
 熱燗につけた酒をほんの数滴たらし、空の一升瓶になみなみと入れた。
「特製冷酒、完成〜」
 それを呆気にとられているナツの前で軽く振ってみせてから、酔っ払いたちへと持っていった。
「お待たせしましたー、冷酒です!」
「おー! 待ってたぞ!」
 味覚の狂いまくった奴らはそれを旨い旨いと呑み始め、そこへすかさず、
「新商品の『冷やおでん』です。どうぞ〜!」
 ナツがきれいに盛りつけてくれた昨日の残りのおでんを出してやった。
「新商品か!」
「うん……うん、旨いぞ!」
「いけるじゃねーか、兄ちゃん!!」
「ありやとっす!」
 口々にそう言うのを、俺は大満足で聞いていた。
 ナツは俺の後ろで、そいつらの様子をハラハラと見守っていたのだった。──俺の洋服の裾を掴んだまま。

「ありがとーございましたー!」
 きっちりと金を払わせて(もちろん不当にはもらってない。おでんと、極上酒一升瓶分しか、な)、酔っ払いどもを店から追い出すと、すぐにのれんをしまって鍵をかけた。店の前であいつらが騒いでるのが聞こえたけど、そんなものは知ったこっちゃない。
「大変だったな、こんな日に限ってあんな客が来て」
 まだカウンターの中で固まっているナツに近づいて、その頭をぽんぽんと軽く叩いた。ナツは心底安堵したように小さく頷いて、ようやくほっと息を吐いた。
 居酒屋でバイトした経験があってホントよかった。酔っ払いになれてなかったら、さすがの俺もあたふたしてただろうから。
「……悪かったな。ナツのこと、この店の新人なんて言っちまって」
 頭の上に乗せた手がなんとなく離し難くて、そのまま肩へと移動させる。嫌がられるかと思ったけど、ナツは俺の手を振り払おうとはしなかった。
 それどころか、
「……ううん」
 頭を緩く振ると、そのまま『ことん』と俺にもたせかけてきて。
「…………ありがとう」
 俺には表情を見せたくなかったのか、俯いたままそう小さく呟いたんだ。
 ──そのとき、急に。
 本当に急激に、俺は自分自身の気持ちがわかってしまった。
(俺……こいつが好きだ)
 この、人見知りが激しくて、おでんのことはすごく頑固で……実はどうしようもなく不器用なナツが、俺は好きなんだ。
 好きだから、ナツを助けたいと思って──ナツを涙ぐませたあの酔っ払いたちを殴りたいと思ったんだ……。
「太一、さん……?」
 押し黙ってしまった俺をナツの声がそっと呼ぶ。ナツに名前を呼ばれるのは初めてのことで、俺は心臓をぎゅっと掴まれたような衝撃を受けた。
「太一でいいよ。俺、お前と年同じだし」
「え……?」
「呼んでくれよ、ナツ」
 ナツの声でもう一度名前を呼ばれたくてそうせがむと、ナツは俺を見上げてきて、
「…………太一?」
 と、小さな声で囁いてくれたんだった。
 その声の柔らかい響きに俺の心臓はさらに高鳴る。
「……どーしよ」
「え?」
 思わず声を洩らした俺に、ナツが不思議そうな目を向けてくる。……澄んだ目が眩しすぎる。
「俺、おまえのこと……好きだわ」
 堪えきれず、今自分でも確信したばかりのことが口からポロリと出てしまい、はっと我に返ったときにはもう遅かった。
「好き……?」
 ナツは俺の言葉を確認するように呟くと、少ししてからようやく意味が把握できたのかぽっと顔を赤くした。その様子がまたかわいい……(おかしくなってないか、俺!?)。
 俺はナツの身体をさらに自分に引き寄せて、そのまま腕の中に閉じ込めた。その途端、ナツの身体がカッチーンと凍りついたのがわかる。
 そこでやっと正気に戻った。そうだよな、いくらなんでもこれはやりすぎだよな。
(やべーやべー)
 ナツの反応がかわいすぎて、つい調子に乗りすぎちまった。
「嫌に決まってるよな。男に好きなんて言われたって嬉しくねぇって」
 名残惜しみつつナツの身体を離そうとしたら、突然ナツが俺の腕をぎゅっと握ってきて。
「ナツ?」
 どうした? と俺が聞くと、顔を俯かせたまま小さな声が言った。
「……ちくわぶ」
「え?」
「ちくわぶ……太一なら全部食べても、いい」
「全部?」
「他のも、好きなだけ食べていいから」
(──それって)
 ……つまり俺に、ナツのおでんを──ナツ自身を独占させてくれるってことか?
 そう思って、はっと気づいた。
 考えてみたら、夏場だし客がそんなに来るわけないってわかってるはずなのに、ナツが毎日あれだけのちくわぶを用意してたのは……もしかして俺のため?
 今日1人で店をやったのも、俺が来るって思ったから?
(それってつまり……ナツも俺のことを嫌いじゃないってこと?)
 そう決めつけるのは安着すぎるかもしれないけど、俺にはそうとしか思えなくなってた。誰だって、自分と同じように相手にも好きでいてもらいたいって、そう思うもんだろ?
「ナツ。……俺のこと、嫌いじゃない?」
 期待と不安の混じった問いを投げかけると、たっぷり二分くらい沈黙したあとで、
「………………うん」
 小さな頭がこくりと頷いた。
「いいのか? 俺、しつこいぞ?」
「……いいよ」
「毎日おまえの顔見に来るぞ?」
「……うん」
 俺のしつこいくらいの念押しにも、こくんこくんと頷くナツ。俺の言ってることちゃんと理解してんだよな?
「おまえのこと……食べちゃうかもしれないぞ?」
 いきなりこんな鬼畜なことを言ったら逃げ出されてしまうかも──とは思ったけど、聞かずにはいられなかった。……ナツを食いたいってのはホントだし(い、いずれなっ)。
「それでもいいのか?」
 白い頬に手の平を当て、俺の顔を見るように上向かせると、ナツの頬は朱色に染まってて。…………すげーかわいいぜ、ちくしょーっ!!
「…………うん」
 答えるのにすごく勇気がいった、と顔にはっきり書いたナツは、恥ずかしそうに……それでもまっすぐに俺の目を見返してくる。
「……ナツ」
 俺の服の袖を掴むナツの手がすごくすごく愛しくて。
 俺はナツにゆっくり顔を近づけ、ナツの唇にそっと唇を押し当てた。
 体温の低いナツの唇は、それでも少しだけ……温かかった。


 ──2ヵ月後。
「よお! 来てやったぜ!」
 エラそうな態度で店に入ってきた親方を、俺は威勢のいい返事で迎えていた。
「いらっしゃい! やーっと来てくれたんすか、親方〜!」
「そろそろおでんの恋しい季節になってきたからな。なかなか似合うじゃねえか太一、その格好!」
「そっすか?」
 銀太郎おやじ愛用の前掛けをかけ、豆絞りの手拭いを頭に巻いた俺の姿を、土方より似合ってると親方は笑う。
 俺の隣で親方と自分の分の酒を用意しながら、銀太郎おやじが機嫌よく言った。
「太一のおかげでよ、ナツもやっと人に慣れてきたんだぜ」
「そりゃいいこった。太一もたまには役に立つんだな」
「たまにってなんすか、たまにって」
 親方の言葉に笑いながら答えつつ、俺はそこそこ客が入ってる店内を必死の様子で動いてるナツを目で追った。
 おやじによると、ナツがああしてカウンターの外に出るなんてことは未だかつてなかったらしく、
「いい婿が来たな、銀太郎!」
「おおよ! 三郎、今日は浴びるほど呑んでってくれや!!」
 ……ってな会話でもわかるように、俺はここで働くことにしたんだ。毎日通うよりよっぽどナツの顔を見てられるからな(……不純な動機だって言われちまいそうだけどさ)。
 すっかり俺を気に入ってくれたらしいおやじは、俺がここで働きたいと言うと即OKしてくれた。
 たぶんあれが効いたんだろうなー、酔っ払いたち相手にしっかり商売したのが。『冬場の1ヵ月分の売上げと同じだぞ!!』って大喜びしてたから。
「ナツ、上がったぞ」
 テーブル席の客に注文を聞いてたナツに声をかけると、
「うん」
 誰の目にもわかるほど、はっきりと顔に微笑を浮かべたナツが俺を振り返った。
 その顔を見て、俺の隣に立っていたおやじがぐすっと鼻をすすり上げる。
「ナツがあんなふうに笑う日が来るなんて……死んだ母ちゃんにも見せてやりたかったぜ」
「確かにな〜。あの無表情のナツが……」
 おやじ2人の感慨深い声にはなんの反応も示さず、ナツはカウンターの中に戻ってきて俺の横に立った。
「どうだ?」
 ナツに指導された通りに盛りつけたおでんの皿を出すと、しばらくじっと皿を見ていたナツはやがて小さく頷いた。
「いいよ」
「そっか。じゃ、頼む」
 そう言って、皿を渡すときにさりげなく白い手を軽く握ってやる。
 するとナツは、
「……仕事中だよ」
 咎めるように言いつつも、恥ずかしそうに頬を染めて足早に皿を出しに行った。
(……かわいいんだよなぁ〜)
 ナツのあの顔が見たくて、俺がわざと手を握ってるんだって気づいてないんだろうな。
 思わずデレッとした顔でナツを見ていたら、横からぽかんと頭を叩かれた。
「仕事しろ、仕事!」
「うぃ〜っす」
 再び鍋を覗き込んで箸を動かし始めた俺に、おやじはそれ以上何も言わずまた親方と話しだした。その隙を見て俺はまたナツに視線を戻す。どれだけ見てても飽きることのないナツの顔はホントに綺麗だ。
 おやじは冗談みたいに言ってるけど、もしかしたら俺たちの関係に気づいてるのかもしれないな。俺がじーっとナツの姿を目で追ってたりすると、さっきみたいに声をかけてくるし。
 ……『関係』って言っても、別にまだ深い仲にはなってないけどさ(ときどき軽いキスをする──っつーか、させてもらうくらいだ)。
(いずれちゃんと挨拶しないと……)
『息子さんをください!』なんて言ったら怒鳴りつけられて袋叩きにされそうだけど、けじめは大事だしな、うん。
 今まで大してやりたいことなんてなかったけど、これから先ナツと一緒におでん屋をやっていくってのが俺の新たな夢になったし。
 いつかは2人で屋台を引いて、ナツの作った旨いおでんをたくさんの奴に食べさせてやりたい。きっと誰にでも「おいしい」って食べてもらえるはずだから。
 ナツは俺が食うけどな。…………いずれだけど。


(夏はビールと枝豆なんて誰が決めたんだ? 熱燗におでんだって、真夏も充分いけるんだってことを証明してやるぜ!)
 俺の情熱は、真夏の太陽より熱いみたいだ。


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