飢えた泉

─ act.4 ─




Y.

 長いようで実際には短い時間が終わり、俺は力の入らない身体を引きずって部屋を後にした。
 朦朧とした脳では真直ぐ立つこともできず、壁に縋りつくように手を這わせながら前へと急ぐ。
 幸いそのフロアには一般社員が出入りするような部屋がないため、誰にも醜態を見られることなくトイレまで移動することができた。
 あまり使われていない個室へと倒れ込み、蓋を開けた途端それまで張っていた緊張の糸が切れた。
「う…………っ」
 込み上げてくるものを抑えられずに吐くと、体内で燻っていたものが一気に排出されるかのようにとめどもなく口から流れ出した。
 視界は熱いもので遮られ、気づくとそれが滝のように頬を濡らしていた。
 関係に溺れていた頃は心地よい満足感すら覚えていたはずなのに、今の自分に残っているものは、快感にはほど遠い激しい嫌悪感だけで。
「くっ…そ……」

 どうしてこんなことになったんだろう。──どうしてこんなにも苦痛を感じるようになったんだろう。
(こんなに惨めな思いをすることになるなんて…………)

 ヤメテオケバヨカッタ
 アノ人ニ縋リツカナケレバヨカッタ

 こんな思いに身をやつすためにこの関係を続けてきたわけではないのに……またしても俺はいつもの二の舞いを踏んだのか。
「猿以下だ、こんな──」
(学習能力も持たずに同じことを繰り返すなんて)

 あとどれくらい繰り返せば気づくのだろう。
 汚れた身体が満たされることなど────永遠にないのだということを。


「ふっ……ふ、ふ…………っ」
 汚れた唇から乾いた音がこぼれたとき、俺以外誰もいないはずのその場所にふいに声が響いた。
「──藤木さん?」
 聞き慣れた声。今──一番聞きたくなかった声。
「藤木さん? いませんか?」
 答える声がないにも関わらず、一向に出て行く気配がない。まるで、俺がここにいると確信しているかのように。
 あいつに会いたくない。会ったらまたどんな醜態を晒してしまうか、自分でもわからないから。
(早く出て行け……清水)
 そう思っていたはずなのに、そのまま黙っていれば清水はどこかへ行ったかもしれないというのに──気づけば俺は無意識に口を開いていた。
「し、みず……」
「──藤木さんっ?」
 掠れたような声をしっかりと聞き取った清水は、カツカツと軽く靴音をさせて俺が閉じこもっている個室に近づいてくると、間髪入れずにドアをノックしてきた。
「大丈夫ですか、藤木さん? 俺……清水です。ドア、開けてくれませんか?」
 病人を労るような声。少し荒れた息遣い。──俺を探して走ってきたのだろうか。
(どこまでお人よしなんだ……)
 入社当時から、俺があいつの存在を邪険に扱っていると気づいているはずなのに。
 俺のあんな姿を見ておきながら……軽蔑されて当然の真実を突きつけてやった俺を、どうしてこうも気にかけるのか。
 いいかげんおせっかいな清水の言動に、小さく息が洩れる。
「…………、っ」
 ──だが。
『放っておいてくれ』
 口から出そうとした言葉は、なぜか喉の奥で止まってしまった。
 動くことも話すこともできずに、俺は固く閉ざしたドアを見上げたまま清水の行動を見守ることしかできなかった。

 清水を拒絶しきれない。傍にいられると落ち着かない気分になるというのに。
 俺とは180℃違った価値観を持った人間なのに……突き放せない。
 ……俺は、いったいどうしたいんだろう…………?


「藤木さん? どうしたんですか? 大丈夫ですか?」
 返事をしない俺に業を煮やしたのか、力を込めて拳でドアを叩く清水。いつも温厚な奴にしては珍しく、焦れたように声を荒げる。
「開けてください、藤木さん。まさか……気を失ってるんですかっ!?」
 焦ったようにノブを回す音がして────

『ガチャガチャッ』

 その音を聞いた途端、全身が激しく震え上がった。
 ──抑えつけていた記憶がオーバーラップする。


『開けて……純也……ここを開けて』
(嫌だ、来るな! 入ってくるな!!)
 俺を侵さないでくれ……これ以上、苦しめないでくれ!
 俺はあんたの
──────じゃない…………!!


「うぅ……っ!」
 収まりかけていた吐き気が再びせり上がってきて、タイル張りのトイレに俺の奇妙な呻き声がこだまする。胃の中はすでに空になっていたようで、胃液だけが苦痛を伴って逆流してくる。
 他人に聞かれるなど堪えられない音は、咄嗟に水を流して消した。
 意識が遠ざかる。
 このまま気を失ってしまったほうが楽になれるのかもしれない。

 現実は、疲れる……。


「藤木さん!?」
 大きな声で清水が叫ぶ。俺を過去の記憶から現実に引き戻すように。
「大丈夫ですか? 気分が悪いんですか? ──藤木さん!?」
(馬鹿……誰か来たらどうするんだ)
 ぼんやりと、頭の片隅でそんなことを考えた。
 珍しい清水の怒鳴り声。
 けれど、その声は耳に心地よく響いて……。

 ぼんやりとした意識の中、俺の身体はゆっくりと動き──掛けていたドアの鍵を開けていた。
 カチッと音がしたのを聞き逃さなかった清水はすぐさまドアを開けてきて、ドアに凭れ掛かったままだった俺はそのまま外へと倒れ込んだ。
「藤木さん!!」
 支えをなくした身体を大きくて柔らかい壁が受け止める。スーツが汚れてしまうのもかまわずに俺を抱きとめた清水は、しきりに俺の名を呼んでいた。
「藤木さん、しっかり!」
 俺は清水の声に答えることもできず……じわじわと伝わってくる清水の熱だけを感じていた。

 ────暖かい。

 こんなに暖かい場所を、俺は知らない…………。


「しっかりしてください、藤木さん!」
 上着のポケットに手を入れ、素早く取り出したもので俺の汚れた口元を拭う。
 俺は、顎や首まで伝ったものを丁寧に拭ってくれる清水の腕に触れ、ふいに力を込めて掴んだ。
「藤木さん? 大丈夫ですか?」
 気づかったような声が頭上から降ってきて、俺はその声に誘われるようにゆっくりと、目の前にあった胸の中に身を任せた。
「ふ……藤木さん?」
「少しだけ」
「えっ?」
「少しだけ、このままで……」
 目を閉じて清水の身体に身体を預けると、清水は拒むことなく俺を受け入れてくれた。

 どくどくと早めのリズムが響いてくる。……こんなに落ち着く音は聞いたことがない。
 俺の耳がおかしくなったのか? それとも……こいつの音が特別なんだろうか。

 身体を離し、俺を見下ろす清水と視線を絡ませたまま、数センチ上にある唇に唇で触れようとした。
「藤木さん……?」
 躊躇うように顔を引いた清水の肩に手を伸ばし、それ以上逃がさないよう固定して──軽く、唇に触れた。
 目を閉じて触れるだけのキスを繰り返す。微動だにせずにされるがままの清水。俺はさらに調子に乗って唇を押し当てた。

 柔らかい唇。優しい口づけ。初めての感覚と……初めての感情。
 啄むようにお互いの唇を吸い合うだけで、どうしてこんなにも落ち着くんだろう。
 ──胸が、痛くなるんだろう……?

 息が切れはじめたのを機に顔を離すと、無骨な指が俺の頬に流れていた涙を拭っていった。
 慣れない仕種に必死になっている様がひしひしと伝わってきて、俺は再び目の前にある灰色の布地にゆっくりと身体を預けた。
 背中に回される手の温もりが、厚い布越しにも届いてくる。

「…………清水」
「……なんですか?」
「今日…………泊まりに、行ってもいいか?」
「えっ…………?」
 短い沈黙。俺の突然の言葉に、清水は何を思っているのか。
「…………」
「…………」
 やがて重い沈黙を破るように大きく息を吸う音が響き、
「──ええ。どうぞ」
 低めの声が、はっきりとそう言った。
 聞き違いだったのではないかと凭せかけていた身体を起こし清水を見上げると、そこには屈託のない笑顔があって。
「さあ、戻りましょうか」
 気持ちを切り替えるように明るい声を出すと俺の腕を緩く掴んで立たせ、鍵を開けて個室から出た。
 一歩踏み出そうとしてよろけた俺を、力強い腕が支えてくれる。
「大丈夫ですよ、ゆっくり歩きましょう」
 清水は俺の身体を支えてくれたままで洗面台を使うのも手伝ってくれ、エレベーターから下りるまでずっと俺のことを抱きかかえていてくれた。
 さすがに人前ではまずいと思ったのか、よろめきながら歩いている俺を気遣ってはいたが手を伸ばしてはこなかった。

 以前の俺ならば、そんな態度をとられたり、素振りをされただけでうるさく感じていた。そんなことをされなくてもいいようにと早々に逃げ出していた。
 ……それなのに。

 清水の体温は、なんで心地よく感じてしまうんだろう。
 支えられて、抱きとめられて……気遣うあいつの優しさが、この胸を暖かく満たしていくなんて。


 また、利用しようとしているだけなのかもしれない。
 今までに味わったことのない感覚を、楽しもうとしているだけなのかもしれない。
 だから今夜清水の家に行きたいなんて思ってしまったんじゃないだろうか。

 わからない。
 自分の気持ちがわからない。
 どうしたいのか、わからない。
 俺は本当にどうしたいのだろう。


 ────ああ、だけど。
 わからないでいることも、清水の腕の中に戻ればわかるかもしれない。
 落ち着いて息のできるその場所に戻れば、何かがわかるかもしれない。
 ……そんな考えが浮かんだから、清水の家に行きたいと思ったのだろうか。



『あの腕の中は、どうしてあんなに────』


Z.

「どうぞ、散らかってますけど…………」
「……お邪魔します」
 おずおずと、中へと俺を招く清水。気まずさを感じながらも遠慮せずに上がり込む俺。
 もう二度と来ることはないと思っていた部屋は、以前となんら変わらない空気で俺を受け入れてくれた。
 どこか落ち着く雰囲気に、俺はまるで自分の家に帰ってきたような気分となっていた。

 定時で仕事を切り上げ連れ立って帰る俺たちを、同僚たちは物珍しそうな目で見送った。
 清水が俺に懐いているのは周知の事実だが、今まで俺が清水の相手をしたことはほとんどなかったのだ。驚くのも無理はない。
 ……しかしまさか俺たちが肉体関係を持ったなんて、誰も考えやしないだろう。


「何か買ってくればよかったですね。食べるもの何もなくて──」
 清水は慌ただしく部屋を動き回り、机の上や床に置かれていた雑誌を片づけていく。男の一人暮らしに多い食べ物の残骸はなく、清潔な部屋が俺をリラックスさせていった。
「あ、俺、買いに行ってきましょうか? すぐ近くにコンビニがありますから」
 気まずい空気から逃げ出したいのか、清水は脱いだばかりの上着に袖を通しながら言う。
 ──だが、俺はそれを引き止めた。
「……いい。何も、いらない」
「あ……そ、そうですか」
「清水」
「はっ、はいっ?」
「ここに、来い」
 勝手にソファに腰を下ろし、自分の部屋のように寛いでいた俺は、ソファの開いている部分を軽く叩きながら清水を呼んだ。清水は一瞬ためらったように腰を引き、どうするべきなのかを考えあぐねたように何事かを口ごもった。
「──来い。座れ、清水」
 命令調で続けると、清水はようやく重い足を動かして俺に近づいてくる。一瞬俺の顔を見たが、俺が何も言わないでいると、観念したように空いていたスペースに座った。
「…………」
「…………」
 清水は口を開かない。俺も何も言わない。……ただ重苦しい沈黙だけが室内を支配していく。
 けれどその重苦しさも、俺にとっては不快なものではなくて──

 ゆっくりと頭を傾け厚い肩に凭れかかると、びくんっと大きく肩が揺れ、俺の頭も小さく跳ね上がる。
 その大げさなまでの驚きように、俺は小さく笑いを洩らしていた。

 触れ合っているのは肩だけなのに、どうしてか胸のあたりから温かくなるような感覚が沸き上がってくる。
 これに似た温もりならば、何度か触れてきたことがあった。……身体が壊れてしまいそうなほど抱き合っているときや、惹かれた相手が見つかったときに。
 けれど、こんなに熱いものを感じるのは初めてだ。
 ──これは、いったいなんだ?


 ふと落とした視線の先に、大きな掌があった。
 俺は微かに指先の震える手を伸ばし、その手の上に乗せた。
「藤木さん……?」
 熱をもった手は、指先まで冷えきった俺の手をじんわりと暖めていく。
 太い指の感触を楽しむように戯れに指を動かしていた俺は、気の向くままに口を開いた
「……清水」
「──はい」
「話、していいか?」
「────はい」
 清水は俺のしたいようにさせようと思ってくれたのか、嫌がることもなく俺の話を聞く態勢になったようだった。
 俺はそんな清水の態度にほっとしながら、誰にも話したことのないそれを話そうとした。
 清水に話すことで、俺のトラウマが緩和するのではないかと、ほんの少し期待して。

 だが言葉を紡ぎだそうとした瞬間に、どっと記憶が蘇ってきて────


『純也はどこにも行かないわよね……?』
『だってもう、どこにも行けない身体だものね……』


「…………っ」
 全身から冷や汗が吹き出してきて、総毛立つような寒気に身体が震える。
 それに気づいた清水がゆっくりと身体を近づけてきて、俺の肩を抱き寄せて──
「大丈夫です。先輩が吐いても気を失っても、俺、傍にいますから。話したいこと、全部話してください」
 一言一言俺に言い聞かせるように言うと、肩を抱いた手にぐっと力を込めてきた。
 心のどこかで期待していた反応に、俺は胸を撫で下ろしていた。吐き気も、寒気も、もう感じない……。
 清水の熱で平静を取り戻した俺は、
(俺は……誰かに救って欲しかったのだろうか…………)
 ふと、そう思った。


「あれは、俺が中学に上がった年のことだ」
 封じ込めていた記憶を紐解くと、すっかり忘れていたつもりだったものがすんなりと脳裏に浮かんでくる。
 目の前に当時の光景が浮かんでくるようで、遠のきそうな意識を保つために掌をぐっと握り締めた。
「夏休みが終わった直後くらいから……母親の様子がおかしくなった」
 俺は再び鳥肌が立ちはじめた身体を清水の身体に擦り寄せ、しがみつくような体勢で話を続けた。