飢えた泉

─ act.3 ─




W.

 何度目かの昇天を同時に迎え、息を切らしながら布団に横たわった俺を、清水の腕がゆっくりと包んだ。
 不思議な感覚。こうして男と抱き合うことは数えきれないほどあったのに、初めて感じる温もり。
 何かを……錯覚してしまいそうな、体温。
「藤木さん……」
 掠れた声が俺の名を呼ぶ。その吐息の熱さを耳元に感じたとき、咄嗟に耳を塞ぎたくなった。

【そんなに熱のこもった声で、俺を呼ばないでくれ。
 いらないんだ……そんな感情は。俺には必要ないんだ。
         俺が、欲しいのは──       】

「…………藤木さん?」
 気だるい身体をゆっくりと起こし、胸の上に乗っていた清水の手を払いのけるようにどかす。
「どうしたんですか?」
 戸惑ったような声すら不快に思えて、全身を包んでいた温もりを絶つように勢いよく布団から這い出た。
「もう電車動いてるだろ。帰るよ」
「え? 今からですかっ? 今日……休みですよ?」
「だから家でゆっくりしたいんだ」
 止める隙を与えないように即答しながら、脱ぎ捨てられた下着を身につけ、部屋の隅にかけられていたスーツに近づく。
「シャワー浴びてから──」
「家で風呂入るからいい」
 本当は今すぐ熱い湯を頭からかぶりたかったが、これ以上この部屋に長居したくなかった。
 こいつと一緒にいると、胸の中の嫌悪感が募っていくような気がして……。

 家に戻ってからすぐに洗濯してくれたのか、汗とそれ以外のものでぐしょぐしょだったはずの下着とYシャツは、しわ一つない状態で几帳面に折り畳まれていた。
 それを無造作に身にまとい、ハンガーにかけられていたスーツを着る。……スーツはどうにもできなかったのか、まだ湿っぽさが残っている。
 帰りの準備を進めていく俺の様子を、それ以上は引き止めることもなく見ていた清水がふいに口を開く。
「あの、俺……こんな形で藤木さんと、あの……しちゃいましたけど、だけど俺ずっと──」

【聞きたくない。そんな言葉はいらない。
 そんな言葉を言われるくらいなら── 】

「俺ずっと藤木さんのこと──」
「あのさ」
 清水の言葉の先にあるものがなんとなく予測できて、俺は清水の声を咄嗟に遮った。
「よかったよ、お前」
「え?」
「男もけっこういいだろ? よかったな、これからは2倍楽しめるぜ?」
「ふ、藤木さん……?」
「また相手してほしかったら言えよ。いつでも挿れさせてやるから」
「そ、んな……」
 俺の突然の言動にどうすればいいのかわからず、俺を視線見つめたまま呆然と固まる清水。
 その顔を見て、俺の中で残虐な考えが頭をもたげた。

 傷つけてしまえばいいんだ、こんな奴。
 本当の俺のことなど何も知らないのに、身体だけの付き合いよりさらに先を望もうとするなら……こっぴどく傷つけて、二度と近づいてこないようにしてしまえばいいんだ。

「熱がないと駄目なんだよ、俺は。誰かとセックスしてないと生きてるって気がしない」
「そんな……」
「相手は誰だっていい。男だったらな。……女は、抱けない」
 あの日──あの光景を目の当たりにしてから、女の肉体ほど俺の恐怖心を煽るものはない。
 けれど、そんなことをこいつに説明するつもりはなかった。
「俺もあいつと切れたばっかだし、やりたくなったら声かけるから……また頼むぜ」
「…………」
 傷ついた顔。予想していた通りの清水の反応に、嘲るつもりがなぜか胸が痛んだ。
「……じゃあな」
 布団の中から出られないでいる清水を置いて、俺はそのまま家へと帰った。
 じわじわと胸を締めつけてくる、不快感を引き摺ったまま。

 電車になどとても乗る気にならず、ようやく通りかかったタクシーを止めて倒れ込むように乗り込み家へと向かわせた。
 運転手に訝しげな視線で見つめられながら、家に着くまでシャツの喉元を掴んだままじっと黙り込んで。
「……大丈夫ですか? お客さん。ずいぶん顔色悪いようですけど……」
 降り際にそう声をかけられたが、「大丈夫だ」とそっけなく答えることしかできず、マンションの出入り口から部屋までの距離を早足で通り抜け、急いて仕方ない手で鍵を開けて家の中に飛び込んだ。
 後ろ手にドアを閉めながらネクタイを外し、靴を脱ぎながら上着を脱いで、風呂に向かいながらシャツを脱ぎ捨ててベルトを外す。
 シャワーのコックを全開にして冷たい水を頭からかぶると、目の裏でぼやけていた清水の顔がはっきりと浮かんできた。

 傷つけた。清水を、俺のことを心底心配してくれていたあいつを傷つけてしまった。
 胸が痛む。ぎりぎりと、まるで心臓を鷲掴みにされているように。
 これはなんだ? この痛みと……この感情は、なんだ?

「いてぇ…………」
 唇から零れた言葉が、胸に重くのしかかったままいつまでも消えなかった。


X.

「ふっ、藤木っ!!」
 内線でかかってきた電話にぺこぺこ頭を下げながら対応していた部長は、受話器を置くと同時に俺の名を叫んだ。
(──来たか)
 予想していた展開だ。早急に手を打とうと考えたんだな、……あの人は。
 内心の億劫を押し隠して部長に近づくと、くしゃくしゃのハンカチで額の汗を拭いながら早口で用件を告げてくる。
「専務がお前を呼んでいらっしゃるっ。すぐに監査室へ行ってこい!」
「……はい」
「く、くれぐれも、粗相のないようになっ!!」
 先日の俺の態度に対する苦言か。念には念を押さねば、といった様子で部長は俺に釘を差し、早くしろと急き立てた。
「いいか、絶対に口答えするなよ! お前が余計なことをいってうちの部署に変な圧力がかからないとは言い切れないんだからな!!」
「わかってます」
 部署に、というよりは自分に害が及ぶのを恐れているらしい部長は、俺とあの人の間で行われようとしていることにはまったく気づいていないんだろう。
(……この人に俺とあの人の関係をバラしたら、いったいどんな顔をするんだろう)
 そんな自虐的な思いが胸にせり上がり、だがさすがにそんなことまでする気にならず、俺は踵を返した。
 何事かとざわめく連中を尻目にドアへ向かうと、背後から小さな声が俺を追いかけてくる。
「藤木さんっ」
 声と共に肩に手がかかり、抗えない程の力ではなかったが俺は足を止めた。……止めて、しまった。
 ゆっくりと振り返ると、そこには心配そうな……不安そうな清水の顔があって。
「あの……大丈夫ですか?」
「何が?」
「いえ…………」
 周りに聞こえないようにと考慮したのか小さな声で聞いてきた清水に、俺はそっけない言葉だけを返す。……だが、清水の歪んだ顔を見た途端、無意識のうちに口が動き言葉を付け加えていた。
「……大丈夫だ。お前が心配するようなことは何もない」
「そう……ですか」
「そんな顔するな。みんなに変に勘ぐられるぞ?」
「はい……」
「──じゃ、行ってくるから」
 離れ難そうにしている清水をその場に置いて行くのがなんとなくはばかられたが、いつまでも清水と話しているわけにもいかず、俺はそのまま部屋を後にした。

 わからない。なんで、こんなに胸が締めつけられるような気持ちになるんだ?
 あいつの顔を見ただけで……どうしてこんなにも苦しくなるんだろう。

 前に踏み出す足が重い。先に進めばどうなるか、身体がわかっているように。

 清水は俺の言葉を信じたんだろうか?
 ……いや、信じているわけがないか……。


「失礼します」
 音をさせないようにドアを開けると、そこには彼と彼の秘書だけがいた。
「おお、来たか藤木くん」
 彼が片手で追い払うような仕種をすると、秘書は小さく頭を下げてから何も言わずに部屋を出ていった。……俺の隣を通り過ぎるとき、しっかりと俺を見据えていったが。
 きっとあの人には、彼と俺の関係などバレてしまっているんだろう。──俺の勘が正しければ、あの人も彼と深い関係なのだろうから。

「悪かったな、仕事中に呼び出して」
「……いいえ」
 相好を崩して俺に近づいてくる彼に、極力そっけなく答える。本当は顔を見るのも嫌だったが、一介のサラリーマンが上司の命令をそう簡単に無視するわけにはいかないだろう。
「どうしたんだ、純也。こっちを向きなさい」
 あからさまに顔を背けていると肩を掴まれて身体ごと向きを変えられてしまう。本当に、もう二度と近づきたくなかったのに──。
「拗ねているのか? このあいだの夜のことを」
「……そんなことはありません」
「だったらそんなにぶすくれた顔をしなくてもいいだろう。いつものように、いい顔をしてみせてくれ」
 顎を取られ、間近で見慣れた顔がゆっくりと近づいてくるのを黙って見つめる。
 吐息が触れ、唇に柔らかい感触が触れてきても……動くことができなかった。

【……ほら、やっぱり拒めない。
 体温を欲しがる飢えた身体は健在なんだ………… 】

「求めてきたのはお前の方だろう?」
 慣れた仕種で肩を抱かれてしまえば、その手を振り払うことすらできなくて。
「お前が欲しいだけくれてやる。今までもずっとそうだっただろう?」
 低い声に囁かれると、もう何も考えられなくなってしまう。
「私たちの関係は順調だ。そら……」
「あ…………っ」
 首筋を強く吸われ、痺れるような刺激が全身を走る。同時に強く感じたのは、飢えた自分の身体で……。

「来い、純也。お前から俺を求めてみろ」
 暗示のような声をかけられて、考えることを放棄した俺の脳は素直に従うことを選んでしまう。

 この人を振り切ったはずなのに、どうして俺はまた手を伸ばしてしまうんだろう。
 こんな関係は自分の心を蝕むだけだとわかっているのに……。
「……そうだ。いい子だな」
 俺の取った行動に満足して、彼が笑いを含んだ声で言う。
 不快な声だと思っていたはずなのに、痺れた脳は嫌悪を感じることすらない。

 こうして俺は堂々巡りを繰り返す。
 この腕に抱かれるだけじゃ駄目なのに、熱に触れてしまえば離れることなんてできなくなってしまう。
 ……それが一つの習慣であるかのように。

 追い込まれていく自分の姿がはっきりと脳裏に浮かぶ。
 最初から後戻りできない方法を選んでいたのは……他でもない、俺自身だったんだ。

(しみず────)

 ぼんやりと霞がかかっていく思考の中で、俺は清水とのことを思い出していた。
 清水の腕は、今までに肌を重ねてきたどの男とも違った。
 不器用で、それでいて何かを期待してしまいそうな温もりを持っていた。
 今さら『それ』を望んでいいわけがないのに──あいつの腕の中で、必死に欲する自分がいた。
 手に入れることができるかもしれないと、期待している自分がいた。

 だけど俺は、あいつの手を振り切った。
 あいつの言葉に耳を貸さず、追い払うように退けた。
 こんな俺を、あいつはどんな蔑んだ目で見るんだろう。……憐れむのだろう。

 ソファへと押し倒され、彼がいつもの行為を始めようとしたそのとき、俺の口は無意識に声を零していた。
「……た……すけ……て……………」

【 本当は
   こんな関係はいらない
     …………いらないんだ 】

 俺が望んでいたもの。俺が本当に求めていたものは何かを──お前が気づかせてくれたんだ。

「し……み、ず……」
「ん? 何か言ったか?」
 俺の洩らした言葉を聞き咎めた彼は、俺がその言葉をもう一度呟く前に唇を塞ぐ。
(清水────)
 胸の中だけで何度も何度もその名を唱えて、何も考えられなくなってしまう場所へ意識が落ちてしまうのを防ぐ。

 頬を濡らす熱いものが生理的に流れ出ているのではないと気づいたのは──それからずいぶん経ってからだった。