飢えた泉

─ act.2 ─




V.

 目が覚めると、見知らぬ天井を見上げる格好で寝かされていた。
「ん……」
「気がつきましたか、藤木さん」
 柔らかい声がして、頬を温かい感触が撫で上げていく。これは、誰かの手……?
 熱に導かれるように瞼を開けると、視界のごく近いところに何かがあった。
 それが人間の手だと気づくまで、俺はその温もりをぼんやりと見つめていて。
「ここは……」
「俺の家です。大丈夫ですか? 具合悪くないですか?」
 手が離れていったのと入れ替わりで近づいてきた顔は、今一番見たくなかった顔だった。
「清水…………」
「……よかったです、気がつくのが早くて。このままずっと目を覚まさなかったら医者を呼ぼうと思ってたんです」
 冗談めかして笑い、そそくさと顔を離す。その一瞬に見えた表情で、あの人とのことをこいつに見られたんだと悟った。
 気を失う直前に声をかけてきたのは、あれは清水の声だった。
 いったい……どこから見られていたんだろう?
「今ちょうどご飯の準備ができたところです。藤木さんも食べますよね? あっ……おかゆのほうが、よかったですか?」
 似合わないのにどこか着慣れた感のあるエプロン姿の清水は、立ち上がって躊躇うように聞いてきた。
「普通の飯で大丈夫だ」
 何も食べたくなかったが、おかゆなんて作られたらさらに落ち込みそうで、仕方なくそう答えてしまう。
「あ、じゃあすぐに持って──」
「いい。お前と一緒にテーブルで食う」
「え? ……は、はい」
 即答した俺を驚いたように振り返った清水は、布団から起き上がっている俺を見ると引き止めてはこなかった。
「じゃあ、あっちに用意してありますんで……」
「ああ、……っ」
「危ない!!」
 立ち上がろうとして一瞬ふらついた俺を、清水の太い腕ががっしりと捕まえてくれる。
「大丈夫ですかっ!?」
「──ああ」
 膝が笑ってうまく立たない身体を叱咤し、なんとか両足を踏ん張って身体を支えると、清水の腕を振り払う。
「行くぞ」
「……ええ」
 先に歩き始めた俺の後を、清水は細心の注意を払ってついてくる。過剰すぎるあいつの心配にはうんざりしたが、もう何も言うつもりはなかった。
 全裸で横たわっていた俺の身体に、あいつは何を見たんだろう。暴力の痕か……それとも、濃すぎる情交の跡か。
 だからって変な気は遣ってほしくない。慰められたいわけじゃないし、腫れ物に触るように優しくされたいとも思わない。
 あれはあれで、俺が望んだ結果だったんだから。
 ──ああすることで、自分を楽にできると思ったのだから。


 それから俺と清水は、決して広いとはいえない台所で向かい合って黙々と飯を食った。
 あいつからは何も聞いてこないと気づいて、俺は少しだけ気になっていたことを聞くために口を開いた。
「清水」
「……はい?」
「俺のこと、どうやってここまで連れて来たんだ?」
 ここにくるまでの記憶がまったくないということは、俺は完全に気絶していたということだ。
 気を失う直前まで俺は全裸だったはずで……しかも、全身汚液まみれだった。
 その状態の俺を外に連れ出すほど、こいつに常識がないとは思えないし──。
 清水はためらうようにちらっと俺を見たが、俺の強い視線に観念したのかぽつりぽつりと話しはじめた。
「あの……俺、ハンカチしか持ってなくて、それを何度か濡らして藤木さんの身体を拭いてから服を着せまして……おぶって会社から出て、すぐにタクシー捕まえてここまで乗ってきました」
「……おぶった?」
「あ! で、でも、誰にも見られてないですよ!? 時間も遅かったですし、ちゃんと人目がないか確認しましたから!!」
 弁解するような焦った声。その言い方が清水らしくて思わず笑ってしまう。
「別にお前におぶられてるところくらい、誰かに見られたってかまわないさ」
 体格のいい清水の背中になら、俺の身体なんて苦もなく収まったんだろう。顔が隠れてしまう程度には。
「悪かったな、変なもの見せて」
 ばつが悪いような顔をしている清水に、そんなに気にすることはないんだと伝えてやるために軽い口調で言ってやる。
「そ、そんなこと……ないです」
「どうしてお前あんな時間に会社にいたんだよ」
「や……飲み会に誘われて、1回飲みに行ったんですけど……藤木さんが残業するって言ってたの思い出して、もしまだいたら腹減ってるんじゃないかって思って……」
 話しながら清水が無意識に動かした視線の先に白いビニール袋が見えて、俺は立ち上がってその袋を覗きに行った。……まだ、全身がだるい。
 袋を開けると、中から馴染みの匂いが漂ってくる。
「タコ焼き…………」
「藤木さん、タコ焼き好きでしたよね? たまたま露店があったんで買ったんですけど──あ! もう冷めてるから不味いですよっ」
 清水が止めるのも聞かずに手掴みで1つ口に入れると、それは芯までしっかり冷えきっていて。
 ソースもマヨネーズも固まっていて、とてもじゃないが旨いとは思わなかったが、清水の気持ちを汲むことくらいはしてやろうと思ったのか、口が勝手に動いていた。
「旨いよ。……ありがとな」
「いえ……俺の方こそ、無理して食べさせちゃってすみません」
「無理なんかしてないさ。今度また買って来てもらうぞ、あったかいやつを」
「──そうですね」
 軽口を叩くように笑いながら言った俺につられるように、清水もいつものように笑った。
 だが乾いた笑いはすぐに途切れ、狭い部屋は再び気まずい沈黙に包まれる。
 重い空気を断ち切るように勢いよく飯をかき込み始めた清水に、再び重い口を開く。
「清水」
「──はい?」
「……何も、聞かないのか?」
「え……?」
「何があったのか、聞かないのか?」
「あ…………」
 自分から触れることはないのかもしれない。けれど、聞かずにはいられなかった。
 ──醜態を見られた相手に……今さら何も取り繕えるわけがないのだけれど。
 清水は俺の視線を見ようとせず、言葉を探すようにせわしなく目だけを動かした。
「誰にだって…言いたくないことって、ありますから」
 ようやく口を開いたと思ったらそんな聞き分けのいいことを言った清水に、俺の口から嘲るような笑いが洩れる。
「でも興味はあるんだろ? なんたって会社の上司と先輩がオフィスでセックスしてたんだからな。……しかもどっちも男でさ」
「そ……それは……」
「驚いただろ、男が男に突っ込まれてヨガってたんだから。……別に演技してたわけじゃないぜ? あいつに突っ込まれてホントに感じてたんだ、俺」
「────」
「悪かったよ、精液まみれの汚ねえ身体触らせて。あのまま転がしておいてもよかったんだぜ?」
「風邪、ひいちゃうじゃないですか」
「ひかないよ、あれくらいじゃ。あんなのいつものことだし。サドッ気強いんだよな、あいつ」
「…………」
「見られたのがお前で助かったよ。お前口固そうだもんな」
「……誰にも言いません」
「ああ、サンキュ」
 笑いながら顔をあげると、清水が強ばった顔をしているのに気づく。
 非難か……それとも軽蔑か。清水の心情は俺にはわからない。
 だが、こいつが俺に対して失望してるのだけははっきりとわかった。
 こいつにとっての俺は、『仕事のできる頼れる先輩』ってやつだったんだろうから。

「……帰る」
 持っていた箸を置き、唐突に立ち上がった俺を、そう言い出すのを予想していたように落ち着いた声が止める。
「もう電車ないですよ」
「タクシーで帰るよ。そんなに遠くないから」
「この辺でタクシー止めるの大変ですよ」
「…………なんで」
「これくらいの時間だとタクシー通りませんから。乗せてきた人を下ろしたら、速攻Uターンして帰っちゃうんです」
「…………」
「だから、始発が出る時間まで待った方がいいですよ」
 そこまで言われてしまえば頑固に『帰る』と言い続ける気にもならず、俺はしぶしぶ持っていた鞄を置いた。清水は嬉しそうな、どこかほっとしたような顔で俺を見上げてきて。
 ……このまま家に帰したら、俺がどうにかなってしまうとでも思っていたのか。

 ──それとも、俺が泊まっていくことで『何か』を期待していたんだろうか…………。


 時間はすでに午前2時を回っていた。
 俺は清水の用意した風呂に入り、風呂から上がるとすぐにさっきまで寝かされていた布団に入った。
「狭くてすみません」
 俺の布団の横に自分の布団を敷き、風呂から上がってすぐにその布団に潜り込んできた清水は、何度も俺に頭を下げた。
「気にするな。俺が迷惑かけてるんだからな」
「そんなことないです。俺、あまり家に人呼んだりしないから……たまにはこういうのも楽しいです」
「……彼女とかいないのか?」
「え? あはは、いませんよ。彼女がいたら週末に1人でなんて過ごさないじゃないですか」
「それもそうだな」
 人のいい笑顔。いつも変わらないその顔が、なぜだかすごく眩しくて──知らず知らずのうちに息を飲んでいる自分がいた。

 きっかけは、いつも突然やってくる。
 何気ない仕種だったり、たまたま絡んだ視線だったり──そいつの放つ空気だったり。
 あの人のときも、そしてその前の奴らのときも……惹かれるのはいつも一瞬だった。
 心の一番深い場所が反応して、そしてざわめきはじめる。
「俺の求めていたものはこれなんだ」──と。

「──藤木さん?」
 ふいに押し黙った俺を、不思議そうな目で清水が見ている。
 その薄い唇に、心が引き寄せられていく────

「し…み、ず……」

 飢えた心は潤わされることを望んでいる。
 一度『欲しい』と思ったら、いくところまでいかないと止まらないことはわかっていた。

「──お前、俺でヌイただろ」
 俺の唐突な言葉に、清水はぼっと顔を赤くした。──どうやら図星だったらしい。
 その赤くなった顔が、どこか見覚えがあるような気がして……でも思い当たる人物は出てこなかった。
 記憶の片隅にこびりついている人物を思い出すことよりも、今は目の前の男に満たされたいという思いが強くて。
「少しは気持ち良かったか? それとも……してほしい?」
「え……?」
「やってやるよ。慣れてるから上手いぜ、俺」
 俺は言うと、布団の中に収まっていた身体を起こして清水の寝ている布団に近づいた。布団を剥いで、横になったままの清水の寝巻きのズボンに手をかけようとしたところで、デカい手に止められる。
 慌てて身体を起こしてきた清水に、俺は股間に近づけていた顔を上げて清水を見上げた。
「……してほしくないのか?」
「…………」
「気持ちよくなりたいんだろ? 手ぇ離せよ」
「し、しなくて、いいです」
「なんで。1人でやるよりずっと気持ちいいぜ?」
「ダメですよ、こんな──こんな自暴自棄みたいなこと、ダメですよ」
 俺の手を掴んだまま、声を絞り出すように呟く。……その姿は、まるで清水が傷ついているように見えて。
「別に、気持ちよければいいだろ、なんだって」
「よくないですよっ! 自分のこと、大事じゃないんですか!? こういうことは大好きな人とするのが普通ですよ! 誰とでもなんて、そんなの……っ!!」
 それ以上何も言わず(言えなかったのかもしれないが)、膝に置いた手をぐっと握りしめる清水。
 清水が言ってることは確かに正論だろう。世間一般じゃ、俺みたいな奴のことを『節操無し』だとか『ヤリマン(ヤリチン?)』とか言うんだろうな。
 だけど、それでもいい。
 誰とでも寝れる軽薄な奴。それが「俺」なんだから。

「お前が俺にどんなイメージ持ってたか知らないけどさ、これがホントの俺なんだよ」
 俺の体格より1サイズ大きい部屋着のボタンに手をかける。
 1番上まできっちりかけられていたボタンを、清水に見せつけるようにゆっくりと外していく。
「目の前にイイ男がいるのに我慢できるような、ストイックな性格してないんだ」
 ボタンを外し終えたそれを脱ぐと、痛いくらいの視線が俺の裸の胸に注がれる。今までに何度も向けられてきた、俺を検分するような眼差し。

 ……所詮、こいつも他の奴等と変わりないんだ。

「いいだろ? 俺とやろうぜ」
「藤木さん──」
「お前も気持ちよくしてやるからさ。……俺の中に、入ってこいよ」
 たとえ知識がなくたって、俺が教えてやればいいだけのことだ。
 男同士だろうが男と女だろうが……肌を重ねることがどれだけ簡単なことなのか、身を持って知ればいい。
「……セックス、しようぜ…………」
 膨らみはじめていた股間にもう一度手を伸ばすと、俺の手を遮る手は伸びてこなかった。


 誰とも深く付き合いたくなんかないんだ。肉体的に深く繋がれることができたら……それでいいんだ。

「抱いてくれ……清水。お前の熱で、俺を──」
「……藤木、さん」
「俺を……満たしてくれ」
 零れた言葉。縋りつくように伸ばした俺の手を、清水は今度は拒まなかった。
 重ねられた唇に溺れるように、俺は清水の背中に夢中で爪を立てていた。