T.
『これは大人の駆け引きだよ』
耳元に囁かれた声が、今も俺を捕らえて離さない。
未知の世界へと腕を引かれ、与えられるものにのめり込んでから──すでに数年。
不毛な想い。決して未来などないとわかっているのに……
どうして俺は、この関係を断ち切ることができずにいるのだろう。
「藤木さ〜ん!」
背後から浴びせられた威勢のいい声に、地よりも深く沈みこんでいた思考を断ち切られてはっと振り返る。
「清水……」
そこにいたのは新入社員の清水だった。清水はこっちがつられて笑ってしまいそうな笑みを浮かべて、覗き込むように俺を見下ろしていて。
「今日は残業ナシですよね? これから飲みに行きませんかっ?」
そう言われて時計を見ると、時間はすでに終業時間を数十分回っていた。定時に鳴るはずのベルの音なんて、これっぽっちも聞こえなかった。
「これから?」
「ええ! この近くにいい店発見したんですよ! 給料も出たことだし、俺が奢りますから!」
「……給料日は一緒だろ。奢られる義理なんてないぞ」
「いいじゃないですか〜。藤木さんが付き合ってくれるなら、飲み代くらい安いもんですもん!」
子犬のように俺にじゃれついてくる清水は、誰にでも受けのいい笑顔でにぱっと笑った。
俺はさっきまでずっと向き合っていたパソコンのディスプレイに目を落とし──ふっと、息をついた。
「──悪い。今日は先約があるんだ」
「えー!? またですかー!?」
「今度、また誘ってくれよ」
「そんなこと言って、いつ声かけてもダメじゃないですかー」
「次は大丈夫だからさ。な?」
「そんな可愛い顔で言われたって、次はちゃんと付き合ってもらいますからね!」
「わかったよ。次はちゃんと付き合うから」
「……じゃあ、お疲れ様でした。」
しぶしぶといった表情はそのままだったが、清水は俺を誘うことをすんなり諦めると、周りの人間に声をかけながら帰っていった。
いつまでもしつこくまとわりついてこないあたり、あいつはそこそこできた人間だと俺は思っている。
清水は今年大学を卒業して入社してきた。根から明るくて他人を気遣うこともできる性格は誰からも好かれ、俺と清水が所属している企画管理部のムードメーカとして今や欠かせない存在となっていた。
少しでも付き合いのある人間は自分から飲みに誘うし、誰かに誘われればたいてい付き合う。……俺とはまるきり正反対だ。
あいつが何故俺に接近してくるのか、はっきりいってわからない。
入社して6年目の俺は、入社当時から同じ部署の連中からも距離を置かれている。それは俺自身が周りにたいして一線置いているせいだ。
最初から近寄りがたい印象を周りに抱かせてしまった自分のせいだが、あまり人と付き合うことが得意ではない俺には今の状態はそんなに苦痛ではなかった。
むしろできるなら、なるべく清水のようなタイプの人間には近づきたくない。底抜けの明るさに自分の醜い部分を見透かされてしまいそうで……まともに顔が見られないんだ。
小さく息をついてから、開いたままにしておいたメールソフトに届いていたタイトルのない新着メールを開き、1行だけの文章にさっと目を通す。
『PM8:00。いつもの店で。 N 』
そのメールを手早く削除してからパソコンの電源を落とし、残業組に声をかけて部屋を出た。
足取りが重いのを自覚していても……行かないほうがいいと思っても、俺はあの店に向かわずにはいられなかった。
青山の少し外れに位置するその店は、20代後半以上の人間のみ出入りするのに相応しい雰囲気のカクテルバーだった。
ひっそりと建っているせいか、何度か来ている俺も常連客以外出入りしているのを見たことがない(店に馴染みきった雰囲気の人間ばかりで、飛び込みの客がまったくいないんだ)。
約束の時間より20分早く到着してしまい、俺は相手を待つこともなく1杯目の酒を頼んだ。
空腹に突然酒を流すのはよくないと、突き出しにしては質も量も上等すぎるチーズピザを出してくれた店長の好意に甘えてありがたく口にしながら、ともするとどこかに飛んで行きそうな思考を必死につなぎ止めておく。
今日こそは、あの話を切り出さないと。──これ以上、自分を追い詰めてしまわないように。
「待たせたかな」
頭上から声がして、だけど俺はそっちを振り返ることはしなかった。
「いつものをくれ」
慣れたしぐさでスツールに腰を下ろしたその人は、俺の顔を覗き込むと可笑しそうに顔を歪めた。
「どうしたんだ、純也。そんなに深刻な顔をして。便通が悪かったのか?」
「…………」
以前の俺なら笑って受け流していただろう言葉を、だけどもう聞き流すことしかできない。
俺が口を開かなくても気にする様子もなく、彼は俺のスツールに片手を置いた。
何も話さないまま、ただグラスを口に運ぶ。昔は心地よく感じていた沈黙は、今はただ痛いものでしかなかった。
──言わなければ。そう思っても、この沈黙を破るだけの勇気が出なくて。
沈黙は嫌いじゃない。
だけど、気まずい空気は大嫌いなんだ。
嫌な考えが頭を離れなくなって、誰かに縋りついて自分を取り戻したくなってしまう。
「純也」
ふいに名前を呼ばれ、テーブルに落としていた視線をのろのろと上げる。
そこにあった真摯な笑みを見てしまった瞬間に、心臓が大きく音を立てた。
慣れた様子で煙草をふかす姿に、胸がざわめきはじめるのを自覚せずにはいられなかった。
流されたら駄目なのに……わかっているのに、目で追わずにはいられない。
「……せっかちだな。待ち切れないのか?」
俺の目の奥に何を見い出したのか、軽く口元を歪める。
テーブルに載せていた手に指が絡み、悪寒とも快感ともとれるものが肌を刺す。
セクシャルな動きを見せる指を見ることができずに、俺は深くうなだれる。
この指に触れられるのが嫌だと思っていたはずなのに、こうして触られてしまえば抗うことなどできない。
矛盾している。
自分がどうしたいのか…もう、わからない。
「行こうか」
店を出てからすぐに肩を抱かれ、それが当然のように唇に軽くキスをされて、だけど俺は抵抗することができなかった。
(また……言い出すことができなかった)
『別れたい』とたった一言なのに。この人との関係を断ち切ることができる言葉なのに、今日も俺は口に出して言うことができずに終わってしまった。
そしていつものように彼と身体を重ねてしまう自分に嫌悪を感じながら、けれど人肌に縋らずにはいられないのだった。
U.
限界が、近い。
このままではいつか、自分が駄目になる。
……いや。すでに駄目になっていることに、ようやっと気づけたというべきなのか。
集中力が散漫になっていて、仕事がまったく進まない。
俺は今日何度目かになる喫煙所へ向かいながら、止まらない溜息の回数を増やし続けていた。
どれだけ煙草を吸ったところで気分が晴れる様子はない。けれど気を紛らわせる方法はこれくらいしか思いつかず、何度も中座しては非常階段近くに設置されたその場所へと足を運ぶ。
考えないようにしても、どうしても頭に浮かんでくるものがある。
いいようのない不安。押さえつけておくのが苦痛な孤独感。そして──飢える身体。
すべてを受け止めてくれる人物は、現れるんだろうか。……こんな俺のもとにも。
憂鬱な気分のまま部屋に戻り自分の席に座ると、スリープさせていた画面を復帰させる。
明るくなったパソコンの画面を見つめた瞬間──俺は凍り付いた。
新着メール。俺を恐怖へ導くもの。
『PM8:00。いつもの店で。 N 』
見慣れた1行の文に内側からこみ上げるようなものを覚え、大きな音を立てて椅子から立ち上がる。
何事かと俺と見上げる同僚を顧みる余裕もないまま、口元を手で覆ってトイレの個室に駆け込んだ。
「うっ……ぐっ…ふっ」
食欲が落ちていて胃袋には何も入っていなかったため、胃液だけが口を汚す。
彼のことを考えただけで、こんなふうになってしまうなんて──。
「藤木さん、大丈夫ですか?」
トイレの洗面台に両手をついて肩で息をしていると、突然声がかけられた。
「具合悪いんですか? ……顔色悪いですね」
ぼやけた視界に映ったのは、何かと俺に話しかけてくる後輩の顔だった。
「し…みず?」
「休憩室行きますか? 俺一緒に行きましょうか?」
背中を軽く擦られて、次の瞬間、俺は清水の身体を突き飛ばしていた。
「藤木さん?」
全身に鳥肌が立つ。さっき胃の中をからっぽにしたのに、吐き気は止まらない。
「だ…大丈夫だから、気にするな」
「そんなこと言ったって……真っ青ですよ?」
「ちょっと貧血気味なんだ。少し休めば平気だから」
「だったら…やっぱり休憩室で仮眠とったほうが──」
「大丈夫だって言ってるだろ!」
重ねられた清水の言葉に、俺は声を張り上げて叫んでいた。
「──あ……」
呆然と俺を見つめる清水に、気まずさが拭えない。
「ごめん、ちょっと……屋上行ってくるから」
俺はその場に清水を残して、ふらつく足取りのまま廊下を進み、1階に止まっていたエレベーターを呼んだ。
どうかしている。最近の自分の不安定さは、普通じゃない。
そしてこの不安定な状態の原因も、自分でわかっている。
だけどそれをどう解消すればいいのかがわからない。
どうすればこの胸の鬱積を振り切ることができるのか。樹海にはまってしまった思考を霧散させることができるのか。
──誰か、教えてくれ。
晴れない気持ちをなんとか気力で立ち直らせて部屋へ戻ると、心配そうな清水の顔が飛び込んできた。
駆け寄ってきて大丈夫かと聞かないのはあいつの優しさなんだと解し、俺は平静を装って自分の席に戻る。
向き合って言うことができないとわかった今、これが最後のチャンスなのかもしれない。……彼と縁を切る、最後の──。
俺は返信ボタンを押し、震える指で文章を打ち込んだ。彼にこうしてメールをするのは、すごく久しぶりのことだとふいに思う。
『もう、会いません。 H 』
それだけ書いたメールを、自分に躊躇う間も与えずに送信した。
これで楽になれる。この重苦しい感情から解放される。
……そのときは、本当にそう思っていた。
彼からのメールのことも、「会わない」というメールを送ったことも忘れ、何日かぶりに集中して仕事をしていたときだった。
「頑張ってるか」
室内に声が響き、俺の身体はその声を聞いた瞬間びしっと凍り付いた。
「専務! ど、どうかされましたか!?」
突然現れた人物に室内はざわめき、慌てて部長がその人物に駆け寄った。
「いや、ちょっと様子を見に来ただけだよ。どうだい、調子は」
「はい、大旨順調です!」
「そうか。それはよかった。……ああ、君。調子はどうだね?」
「はっ、はい! 好調です!」
「そうか。──君は?」
「はい、順調です」
彼が、社員1人1人に声をかけながら俺に近づいてくる。
動けない。席から、立ち上がれない。
逃げ出さないと……もう、会わないと決めたのに──
「藤木くん」
書類を握りしめ、俯いたままの俺に、彼は他の人に話し掛けるのと変わらない調子で声を掛けてきた。
「どうだい、今夜。久しぶりに飲みに行かないか? おいしい日本酒を置いている店を見つけてね。藤木くんは日本酒贔屓だったよな?」
俺が専務のお気に入りで、以前から何度も接待に付き合わされていると知っているからか、その誘い台詞を疑問に思う人間は1人もいなかったようだった。
俺はからからの喉を唾液を飲んで湿らせて、必死に声を絞り出した。
「……申し訳ありません。今日は急ぎの仕事を片付けなければいけないので」
「ふ、藤木っ……専務がお誘いしてくださっているんだから──」
慌てた口調で部長がそう言うのが聞こえたが、それを制したのは彼だった。
「そうか。仕事ならば仕方ない、無理には誘えないな。それじゃまた今度付き合ってくれよ」
「……はい」
一度も顔を上げることがないまま、だけどすんなりと離れて行こうとした様子にほっと息をついた。
けれど力の抜けた肩に、ぽんっと大きな掌が乗って。
「……絶対だぞ」
腰をかがめ、俺の顔を覗き込むように言った彼は、指先にだけ力を入れて俺の肩を掴むとすぐに手を引いた。
そのまま俺の隣の席の女性社員に話し掛け、その後俺を見ることはなかった。
俺は彼が部屋から出て行くまで、仕事をしている振りをして俯き続けた。
彼に掴まれた肩が、いつまでもずきずきと痛んでいた。
「本当に残業してるとはね」
デスクに向かい、集中できないまま書類を作成していた俺に、どこか揶揄するような響きを持った声が話しかけてきた。
「私との約束を反古にするほど大事な仕事なのか?」
「…………専務……」
軽くステップを踏むような足取り。いつにもまして機嫌が良さそうだ。
俺の肩ごしにデスクを覗き込み、その瞬間彼の息が首筋にかかり、過剰に反応してしまう。
「……なんだ。昼間やっていたところからほとんど進んでいないじゃないか」
人の上に立って仕事をしているだけあって、彼は昼間俺の顔を覗き込むついでに仕事ぶりも確認していたらしい。確かに俺が見ていた書類は、調子よく進んでいた部分からまったく変化がなかった。
「すいません……」
転がしていたペンを持ち、継続して仕事をしようとした俺に、彼はペンを奪って顎に手をかけることで目を合わせようとしてくる。
「それより、どういうことだ、あのメール。もう会わないなんて……私を焦らして楽しむつもりだったのか?」
彼の指が戯れに俺の髪を摘む。それだけで俺の背中には虫酸が走る。
いつのまに、こんなに彼を拒絶していたんだろう。つい最近まで、彼の腕に抱き締められることに喜びを感じていたはずなのに。
振り払うことはできず、けれどあれが冗談だったとは言いたくなかった。
もう、ごまかしたくない。……自分の本心を。
「……本気です」
「──なんだと?」
「あれが俺の本気です」
腹に力を込めて溜めていたものをありったけぶつけようと息を吸う。
「もう嫌だ……嫌なんです……っ。あなたと口をきくのも、あなたと笑いあうのも……あなたに抱かれるのも、もう嫌なんです!!」
もうずっと前から叫びたかった言葉。言えばすっきりすると、信じていた言葉。
──けれど、すべては遅すぎた。
「うっ……!」
突然頬に衝撃を感じ、そのままバランスを崩した身体が床に投げ出される。
「もう一度言ってみろ、純也。最近少し耳が遠くてな。お前の言葉が聞こえなかったようだ」
声を荒げることもなく、いつもの調子でそう聞き返してきた彼に俺は躊躇いつつ、それでも今まで飲み込み続けていた言葉を迸らせた。──今しか言えない気がしたから。
「終わらせてください、俺とのことを……。もう、あなたと個人的には…会いたくないんです──っぐぅ!!」
言い終わる間もなく、腹にめり込むような衝撃が走る。俺は反射的に背中を丸め、床の上でのたうちまわった。
「……どこで覚えたんだ、そんな言葉を」
耳の奥でヒヤリと凍り付くような声。燃えさかっていたはずの気力を削いでいく力を持つ声。
「誰に入れ知恵された? それとも、私の身体に飽きたとでもいうのか?」
「あ……」
咄嗟になにかを言い繕おうとした口は、だが言葉が見つからず動かすこともできずに終わった。
「私を不愉快にさせる言葉を吐いたのだ。──お仕置きが必要だな」
何か楽しいことを提案するような表情が、じっと俺を見下ろしていた。
両手を拘束され、身体の奥深くまで凶器で打ちつけられて。意識が飛んでしまえば少しは楽になれると思うのに、そのたびに強い衝撃が身体に走り現実に引き戻されてしまう。
嗅ぎ慣れた匂いが室内に充満する。
奈落へと突き落とされていく。
……ああ……瞼の裏から離れなかったのは…………這い上がれない場所まで落ちていく自分の姿だったんだ。
(どうして…………)
どうしてこんなことになったんだろう。
俺はただ誰かと触れあいたくて……それがこの大人の男であったことに、心底安堵していたはずなのに。
いつの間に、俺はこの人のことをこんなに憎んでいたんだろう。
急激に熱を失っていく肌に、冷たいものが滑っていく。
開いたままの口が空気を貪る。ぜえぜえと耳ざわりな音は、誰か他人のもののようだ。
「許さないからな、純也。お前は私のものだ。……私だけの愛人だ」
低い声は囁き、何事もなかったかのように軽快な靴音はドアを出て行った。
床に転がされたままの身体を、けれど俺は動かす気にならなかった。
この身体を動かすことに、どれだけの意義があるんだろう。
こんなに苦しい思いをしながら生きる意味が…………
いっそ、このまま死んでしまえたら──
かちゃっ……と音がして、誰かが中に入ってくる気配がする。
だけど俺は、剥き出しの肌を隠すこともできずにただぼんやりと天井を見上げていた。
──モウ、ナニモ考エタクナイ…………。
「藤木…さん……?」
どこか躊躇うような、聞き慣れた声が暗闇に響いた。
次の瞬間、俺はそいつから逃げ出すように意識を手放した。
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