翌日。
休日の起床時間である9時に目が覚めた俺は、家の中に自分以外の人間の気配がないことに失望した。
「あいつ……帰ってこなかったんだな」
龍太は一定量の酒を飲むと途端にいびきが酷くなる。いつも一緒に寝ているこのベッドにいないにしても、帰ってきているならあの音が聞こえないはずはない。
寝室を出てリビングに行くと、やはりそこには誰もいなかった。テーブルの上に置かれた携帯も着信があった様子はない。昨晩あいつのリクエストで作った焼きそばも、晩酌のために作ったつまみも――当然だがそのまま残っていた。
「…………っ」
込み上げてきた怒りで反射的に身体が動き、皿を掴んでキッチンへ向かう。そしてそのまま、苛立ちをぶつけるように皿の上のものをダストボックスに勢いよく空けた。
(いつも──いつもいつもいつも!!)
自分の都合を優先して、わがままばかり言って。俺に迷惑をかけても軽く謝罪するだけで、実際には反省せず同じことを繰り返すんだ。
今回のことだってあいつにとってはいつものことで、大して悪いと思ってないんだろう。昔はそういうところが子供みたいで可愛いと思っていたが、裏を返せばそれはただ無神経なだけってことだ。
(これから先、このままの状態を続けるのか?)
龍太の言動に振り回される毎日を。あいつの交友関係が気になって仕方ないのに見ないフリをする日々を。
あいつに捨てられる日が来るかもしれないのに、ガマンし続けなきゃならないっていうのか?
「……耐えられるわけねーだろ」
無意識に洩れた言葉こそが俺の本心で──そのことに気づいてしまった瞬間、自分の中で何かの糸がふつりと切れた気がした。
こんな生活を続けていても俺が傷つくだけだ。だったら自分でなんとかしなければ……って、気づくのが遅いよな。
でも、気づいたからには前に進むべきなんだ。そう決意した俺は寝室に戻り、手早く着替えて身支度を整え家を出た。
思いつきで行動するのは危険だけど、今までこうしなかったのが不思議なくらいなんだし後悔することはないだろう。今より状況が悪くなることがあるとすればそれはただ1つ、龍太から別れを告げられたときだけだ。
そして、そんな事態を防ぐためにはこうするのが最善なんだよな。
一通り用事を済ませ家に向かった頃、時刻はすでに午後四時を回っていた。何も計画せず動いたせいで予想以上に時間がかかっちまった。
「龍太、帰ってんのかな」
朝食兼昼食は外で済ませたし、途中カフェで休憩もした。そのたびに携帯を確認したものの誰からの連絡も入ってなくて、龍太がどうしてるのかさっぱりわからないままだった。
こっちから電話すればいいことだが、あいつが機嫌よく電話に出ることは少ないと知っていてわざわざかけるわけがない(俺からかけるとそっけない返事が返ってくることが多い)。だから、どうしてるのか気になったまま帰ってきた。
……どうせグチっぽいことを言われるなら、一度で済ませたいって思うのが普通だろ?
「ただいまー」
玄関のドアをくぐり、いつものように声をかけながら靴を脱いで家に上がる。脱ぎ散らかした靴があるから龍太はいるんだろうが、当然のように返事はない。
ささくれ立った心はそれだけのことにも反応し、一気に怒りが込み上げてくる。それを抑えるために手に持っていた紙の束をぎゅっと握り締め、なんとか平然を装いリビングに入った。
するとそこには、ソファに寝転んでテレビを見ている龍太がいた。
「……ただいま」
「おー」
返ってきたのはその一言だけ。『どこ行ってたんだ?』もなければ『昨日は悪かったな』もない。
(やっぱりな)
いつものことといえばいつものことだけど、硬化した俺の心には龍太のその返事こそが俺に対する気持ちのように思えた。俺の行動が気にならず、自分の行動の言い訳すらしないって……その程度にしか俺のことを気にかけてないってことだろう。
「なぁ、夕飯どうするー?」
「は? まだそんな時間じゃないだろ」
「腹減っちまったんだよー。今朝お茶漬け食っただけだからさ」
どこで、誰と? と問いただしたかったが、聞きたくないことまで言われるような気がしてやめた。──昨夜俺に夜食を作らせたことも忘れてるヤツに、今更何を言っても虚しいだけだ。
「買出し行ってこないと、大した食材ないぞ」
「マジで? すぐ食えるもんは?」
「冷凍のピラフならあるけど……」
「じゃーとりあえずそれ食ってるわ」
そう言いながらようやく重い身体を起こした龍太は、俺の脇を通り過ぎてキッチンへ向かい冷凍庫を探り始める。
「なんか肉食いてーな、肉」
「あ?」
「な、ハンバーグ作ってくれよ。チーズ入ったやつ」
「はっ?」
「頼むよー。メシ炊いとくからさ、なっ?」
「…………」
目的のピラフを見つけ、満面の笑みを向けてくる。今日初めて俺の顔を見た龍太のその笑顔は最近見ることがなかったもので……今までだったらそれだけで何もかも許したけど、今日はとてもそんな気分になれなかった。
「……マジでメシ炊いとけよ」
「ああ、やっとくやっとく。頼むぜー」
強く握り締めていたせいでくしゃくしゃになった書類をリビングのテーブルに投げ出し、足音荒く玄関に向かう。当然のように龍太が出てくることはない。
(いつからだ?)
一緒に暮らし始めた頃は、週末に連れ立って食料の買出しに行っていたのに──いつから俺1人で買い物に行くのが当たり前になったんだろう。もう、思い出すことも難しい。
「いってきます」
電子レンジの稼動音であいつの耳には届いていないだろうけど、クセになってる言葉を呟いてから外に出る。
「はぁ……」
玄関のドアを閉めた瞬間大きなため息が洩れ、同時に目頭まで熱くなってくる。胸が痛いと感じてしまうほど苦しい。
長年連れ添った夫婦の倦怠期、そう言ってしまえば簡単だ。だけど今の俺たちの状況がそれだとしたら、付き合い始めた当初の状態に戻るのは難しいだろう。
男同士の俺たちには生活に変化をもたらしてくれる子供もいないし、共通の趣味もないから一緒に楽しめるものもない。これから先待ち受けているのはすれ違いや諍いばかりになって、あいつも気づくに違いない。
『なんで俺たち一緒にいるんだ?』──と。
「……やっぱり、一緒にはいられないよな…………」
まだ迷う気持ちが残ってたけど、これではっきり決心できた。帰ったら新たな生活を始めるために一歩踏み出そう。──自分自身の幸せのために。
通い慣れたスーパーに辿り着き、ここに来ることもなくなるんだとなと感傷めいたことを考える(あと1回くらいはくるかもしれないけどな)。
カートにかごをセットし、龍太のリクエストと一週間分の食料を物色しながら、家で待ってるあいつとの会話をシミュレーションしていた。
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