─ 第7回 ─


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「はぁ…………」
 兄貴がまた溜息をついた。家に戻ってきてからもう100回はしてるはずだ。辛気くさいからいいかげんやめてほしい。
 けど俺には、兄貴に声をかけるなんてできなかった。絶対怒鳴られるってわかってるから。
(だって、まさかあんなことになるなんてさ……)
 俺の計画は完璧だったはずだ。それは間違いない。
 ただ兄貴の抱きついた相手が、俺の予想してた晴海先生じゃなくて慶太だったってのが誤算だった。
 兄貴が先生の描いた絵に見入ってる間に俺はこっそり移動して、研究室の電気を全部消したんだ。そうすれば兄貴は驚いて目の前にいた晴海先生に抱きつくだろうって思ったからさ。
 だけど兄貴が抱きついたのは晴海先生の隣にいた慶太で──ショックでパニくった俺が大騒ぎして、いつものように慶太にキスをせがんでしまって……(ケンカしたとき、だいたい俺が「キスしてよっ!」ってわめくんだ。そうするとそれ以上言い争う気にならなくなるだろ?)。
 慶太はそれなりにキスがうまいから、そのときも状況を忘れて楽しんでたら、いきなり研究室からぽいっと投げ出されて。
 ようやく我に返ったときには、目の前に真っ青な顔した兄貴が突っ立ってたんだ。──あれには正直ぎょっとしたな。
 そのあとは、研究室のドアの前で硬直してしまった兄貴を慶太と2人で引きずって帰ってきたんだけど……帰ってきてからも兄貴はあんな調子でソファーに埋もれてて、俺もフォローする気にならないから、ずっと沈黙が続いてる。
 と、そのとき。
「……どうしてくれるんだよ」
 俺が頭の中でさっきまでのできごとを思い出してると、突然すぐ後ろから声がした。びっくりしてばっと振り返るとそこにはどんよりと重た〜い空気をまとった兄貴が立っていて。
「……え?」
 首を傾げ、しらばっくれて聞くと、兄貴は鬼のような顔で俺を見下ろして大声で怒鳴りはじめた。
「『え?』じゃないだろ!? どうしてくれるんだよ!! 先生に見られたんだぞ!? なんでおまえらはいっつもああなんだよ!!」
「いっつもって……学校じゃしてないよ? ……そんなには」
「今まで見られなかったのが不思議なくらいだぞ!? それを自分たちから見せつけるようなことしやがって……」
「兄貴、とりあえず落ち着いて……」
「これが落ち着いてられるか!!」
 俺の声なんて全然聞こえてないようで、兄貴はしきりにどうしようどうしようと口の中で呟いていた。ああいうの、すごい気にするタイプなんだよな、兄貴は(俺が気にしなさすぎ?)。
「先生は他の人に言ったりしないって」
「わかってるよ!! だけど──もしかしたら、上に報告するかもしれないじゃないか。先生、そういうところ潔癖っぽいし……」
「……そうかな?」
 俺の勘からすると、あの人けっこうアウトローな性格じゃないかと思うんだけど。──全然話したことないからよくわかんないけど。
 だけど兄貴には、俺の「???」って思考は伝わらなかったみたいで。
 厳しい顔のまま、ひとりごとのようにぼそっと呟いた。
「先生に、俺までそうだと思われたら……」
「──え?」
(……なんだって?)
『そう』っていうのは……ホモだって思われたらってことか?
 どういうことかと考えようとした俺に、
「な……な、なんでもない!!」
 兄貴は叫ぶと、顔を赤くしたままばたばたと自分の部屋へ戻っていった。……今日はこのあいだみたいに階段でコケなかったみたいだな。
「それにしても……どうしたもんかな」
 兄貴の焦る気持ちもわからなくはないけど、今さらああ言われたって俺にはどうしようもない。計画が狂ってとまどってるのはこっちも同じだし。
 俺だって、学校の先生に男とキスしてるとこ見られちゃったんだし、内心焦ってるんだけど。
 でも、そんなこと兄貴に言っても仕方ないか。キスを始めたのは俺たちのほうだったもんな。
(たぶん慶太が俺の分まで悩んでるはずだから、俺は次の作戦を考えよっと)
 完璧なはずの作戦が失敗に終わってしまったし──ったく、兄貴が慶太じゃなくて晴海先生に抱きつけば全部うまくいってたはずなのにさ──同じようなことはもうできないだろうから、全然違うことをするしかない。
 兄貴の飲みかけのグレープフルーツジュースを飲みながら、俺は思考を巡らせた。
 兄貴のためにここまで頑張るなんて、俺ってなんて兄弟思いのいい奴なんだ。
 晴れて兄貴と晴海先生がうまくいったら、絶対ダブルデートするしかないだろ、これは。それくらいのメリットがなくちゃ、さすがにここまで頑張れないよ。
(とりあえず明日どうなるかだよな……)
 そのときの2人の様子を見てからまた考えることにしよう。
「先生と兄貴がどんなふうに話すのか……ちょっと楽しみかも」
 なんてことを考えてる俺って、ヤな奴?

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 自分の部屋に戻って来た俺は、ベッドに突っ伏したままひどい自己嫌悪に見舞われていた。
「何言ってんだよ、俺……」
(直樹に怒鳴り散らして、聞かせなくていいようなことまで口走って──)
 正直──どうすればいいのかわからないくらい混乱していた。ショックが大きすぎて、あれからどうやって家まで戻ってきたか覚えてないくらいだ。
「はぁ……」
 何度目か数えるのもおっくうになるが、またしても大きな溜息が口から洩れてしまう。
 どうしてあんなことになったんだろう。直樹と慶太が来なければ、あんな問題は起こらなかったはずだ。
(だけど慶太が先生に絵を書いてもらわなければ、俺はいつまでも先生と普通に話せなかっただろうし……)
 そもそもの原因がどこにあったのか改めて考えてみようと、本当は思い出したくもないことをリピートさせる。
 俺にとっては、慶太に抱きついてしまったのはどうでもいいことなんだ。それを直樹が大騒ぎして、キスなんて始めたのがいけなかったんじゃないか?
(そりゃ直樹は慶太と付き合ってるんだから、ショックを受けるのもわかる気がするけど──双児の兄貴が抱きついたことくらい許せっての。俺が慶太のことなんとも思ってないってわかってるんだからさ)
 ってことは──
「やっぱり、全部直樹のせいなんじゃないか!」
 気づくのが遅すぎた。あいつはいつだってトラブルの元にしかならないんだってこと。 
「どうしてくれんだよ、直樹ぃ……」
 きっと今頃は下でのんきにテレビを見ながら笑ってるんだろう弟を、俺は恨まずにはいられないようだった。
 勢いで言ってしまったことだけど、さっき直樹に漏らした言葉は本当だ。
 もし……もし晴海先生に、俺までホモだって思われてしまったら────
「軽蔑されるかも……」
 そう口に出して言って、ぞっとした。
 好きな人に嫌われるのは辛いことだ。まして軽蔑なんてされたら、俺は一生立ち直れないだろう。……そういうところ、すごく気にしてしまう性格だから。
「どうしよ……」
 明日どんな顔して先生に会ったらいいのかわからない。
 先生のあの顔──心の底からびっくりして、何が起きてるのかわからないって感じの顔がまざまざと思い出されてしまって……直樹と慶太のことを聞かれたりするのが怖い。
 それに、俺が先生のこと好きだって知られてしまうかもしれないと思うと、さらに恐怖に拍車がかかって──
(しばらくまともに話せないよ……)
 せっかく久しぶりに普通に話せたと思ったのに……。
 明日学校休もうかな、と本気で考え始める俺だった。

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