「ただいま……」
家に帰ってくると直樹はまだ帰ってきてなくて、俺はあいつに会わずにすんでほっとした。
今は直樹の顔を見たくない。……というより、直樹に俺の顔を見られたくない。見られたら、絶対気づかれてしまうだろうから。
俺が、晴海先生のことを好きなんだってことを。──もしかしたら、あいつはもう気づいてるのかもしれないけど(だからあんなことを聞いてきたのかも……)。
冷蔵庫からグレープフルーツジュースを取り出し、いつものように一気で飲み干そうとした。
だけど液体がうまく喉を通っていかなくて、缶をテーブルに置いてソファに寝転がる。
「晴海先生……」
口にのせるだけで胸がどきんっと跳ね上がる。さっき美術室であった出来事を思い出し、俺の胸はさらに高鳴った。
美術部の活動が終わったあと。先生の手伝いをしていたときのことだ。
先生が突然俺の手を握ってきて──確か俺が先生のそばにあったペンを取ろうとしたときだったと思うけど──「綺麗な手だね」って言われ、普通にしてたら見えないところにあるほくろまで見つけられて……。
そのあとすぐに手は離されたけど、緊張しすぎてそのあと何を話したのかよく思い出せない。
先生の暖かい手の温もりが、今でも俺の手に残ってるみたいだ。
今度デッサンを描かせてくれって言われたけど、先生に見つめられたら(たとえそれが手だけでも)どうなってしまうかわからない。
──だけど断る理由もないし、頼まれたらきっと引き受けてしまうんだろうな、俺。
「これから毎日こんな調子なのかな……」
先生の姿を見ただけで顔が赤くなったり、話しかけられてどもったり……先生のことを考えて、1日中ぼんやりしてたり。
「でも、だとしたらまずいよな」
晴海先生に、俺の気持ちを気づかれてしまう気がする。……いや、先生だけじゃなくて、周りの連中にも気づかれてしまうかもしれない。
だけどどうやって平常心を保ったらいいか、今の俺にはよくわからなかった。
先生の笑顔が焼きついて離れないまぶたを閉じて、大きな溜息をつく。
(恋って、こんなに疲れるものだったっけ……?)
恋をするっていうのが久しぶりすぎて、俺にはよくわからなかった。
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それから一週間。
和樹と晴海の間には何も起こらず、直樹のいらいらが募る日々だけが続いていた。
「ちょっとっ! どうなってんの、あの2人!?」
昼休み、慶太と2人きりのランチタイムを過ごすためにやってきた屋上で、突然直樹が爆発した。
「あのあとぜーんぜん、これっぽっちも、何もないみたいじゃん!! どうして!?」
「どうしてと言われても……」
「ねぇ慶太!! 兄貴は相変わらず晴海先生のことラブラブビームで見つめちゃってるんでしょ!? なのにどうして何も起こらないの!? 晴海先生ってば、兄貴のこと好きじゃないの!?」
「ち、ちょっと落ち着けよ、直樹」
屋上には慶太と直樹以外誰もいなかったが、どこで誰が聞いているかわからないため、直樹の声を抑えようとする慶太。だが、直樹の勢いは止まらない。
「落ち着いてられるわけないじゃん!! これがどうして落ち着いていられるのさ!? 一週間前のあれはいったいなんだったんだよ!! なんであのあと何も起こらないで済むわけ!?」
『あれ』とは、慶太たちが美術室を覗いていたときに目撃した、晴海と和樹の手を握りあっていたシーン(正確には、晴海が和樹の手を握った)のことだろう。
「だから、相手の気持ちもわからないのにそんなことしないだろ、普通は」
「まるわかりじゃん!! 特に今の兄貴なんて、少し見てればわかるよ!! 晴海先生だってきっとわかってるんだよ、兄貴の気持ちなんて。なのにどうして!?」
今や完全に頭に血が昇ってしまったらしい直樹は、慶太に手渡されたサンドイッチを口に運びもぐもぐと噛みながら、それでもしゃべることをやめようとしなかった。直樹を止めることが無理だと早々に悟った慶太は、さっさと言いたいことを全部吐き出させようと口を挟むのをやめ、自分もサンドイッチに食らいつく。
「だいたい今の兄貴、気持ち悪いんだよ!! 家帰ってきてもぽ〜っと赤い顔して天井見つめてたりして!! いつもだったら絶対怒るようなこと俺が言っても全然怒らないし、兄貴の超超大好きなグレープフルーツジュースこっそり飲んでも気づかないし! 変、変っ、絶対変!!」
「そこまで言うなよ、自分の兄貴のこと」
変なのは認めるけどさ……と慶太が零したのには気づかなかった直樹は、「こうなったら俺らが頑張るしかないよ!」と目を輝かせて言った。
内心いつそう言い出すかびくびくしていた慶太は、直樹の言葉に思い切り動揺してサンドイッチを喉に詰まらせた。
「ぐっっ……」
「ちょっとー何してんのさー」
直樹は呆れながら、投げやりな様子で慶太の背中を叩いてやる。
「ご、ごめん。ちょっと、驚いて」
「驚くようなことじゃないよ。弟が兄貴の恋の手助けをしたいって言ってるだけじゃん」
直樹は無邪気に笑ってもっともらしく言ったが、ただそれだけならばこんなにはらはらどきどきしないと慶太は胸中で毒づいた。
「……それで、具体的にどんなことをするんだ?」
聞きたいような聞きたくないような複雑な気持ちで問うと、
「まずは、2人がエッチしたくなるような状況に追い込む!」
直樹は慶太の予想していたどれにも当てはまらない策略を叫び、嬉しそうにこぶしを握りしめて自分の立てたシナリオを語りだした。
「美術室みたいな広い空間じゃそういう雰囲気にならないんだよ、きっと! だから2人を美術研究室に閉じ込めて──あっ! もちろんカーテンは全部閉め切っておいてね!──電気も落としちゃって、兄貴が怖がりはじめたところで大きな物音を立てる! そうすれば絶対兄貴は晴海先生に抱きついて、──んー、我ながら名案!」
めちゃくちゃな設定を得意げに語り、フルーツ牛乳で喉を潤わした直樹は、サンドイッチを手にしたまま固まっていた慶太の二の腕にすりすりと額を押しつけた。
「ね、どおっ? 絶対うまくいくと思わない? 兄貴暗いとこ超嫌いだから、抱きつくとまではいかなくても絶対晴海先生にしがみつくはず! そうすれば晴海先生のほうが我慢できないよ! ラブラブプレイ突入〜!」
「恐ろしく明確な予想だな……」
背筋を冷たい汗が流れていくのを感じながら、本当にそんなことをするつもりなのかと直樹の顔を窺う。
だがそこにあったのは、すでにその現場を見てきたかのようなうっとりとした表情で。
「ね、いつ実行する?」
自信満々な直樹の様子に、
(俺やっぱり、とんでもない奴を好きになっちゃったのかも……)
と思わざるを得ない慶太だった(ちなみに『やっぱり』というのは、付き合いはじめた当初からなんとなくそう思っていたためだと考察される)。
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