俺が慶太との別れを惜しみつつ家に帰ると、兄貴が居間でぐったりとソファに寝転がっていた。
「どしたの? のぼせたの?」
兄貴の首にかかっていたタオルを取って、パタパタとあおいでやると、兄貴は俺をきっと睨みつけてきた。
「あれほど俺が入る前にバラの入浴剤は入れるなって言っただろ! 次に入れたら残り全部捨ててやるからな!」
ヒステリックに叫び、がばっとソファから立ち上がると冷蔵庫へ向かって。兄貴の大好物、グレープフルーツジュースを取り出した。
「ごめんって。だってどうしても入りたかったんだもん」
「だってじゃない!」
ごくごくと一息で飲み干すと、空き缶用のゴミ箱に缶を投げ捨てる。……なんか、ヒステリックな新妻って感じ?
(何怒ってんだろう……俺と慶太の声聞くのなんて、いつものことなのに)
それでいつも怒られてはいるけど、こんなふうにキレたりはしなかった。
「兄貴、何そんなに怒ってんの?」
異常なまでの怒り方に思わず聞いてみると、
「何じゃないだろ!! 今まで耐えてきたけど、もう我慢ならない!!」
と言って、鬼のような顔で激しく怒鳴り出した。
「普通、付き合って3日目でHなんてするか!? しかも誰が帰ってくるかわからない自分の家で!! おまえらがHしてるとこなんて、俺は見たくも聞きたくもないんだよ!!」
そうなんだ。俺と慶太はめでたく付き合うことになってから3日目でセックスして、その現場を兄貴に見られてしまったんだ。ちょうど慶太に両足抱えられてるときだったな(つまりインサートしちゃってたとき)。
あのときの兄貴の顔は今でも忘れられない。鳩が豆鉄砲食らったときの顔っていうの? とにかくすごい顔してた。たぶん俺も、兄貴が誰かとセックスしてる現場見ちゃったらあんな顔するかもな。
「あれはさー、雰囲気がそうさせたんだよ。恋人と2人っきりでいたらそういう気分になるじゃん?」
「なったとしても! 状況くらい気にしろ!! 今思い出しても…………!!」
髪の毛が逆立ってきそうなほど全身から怒りのオーラを発してる兄貴は、きっと俺がどんなに弁解しても聞く耳を持たないんだろう。真面目だからなー、兄貴は。
「わかったよ。今度からは金曜日も兄貴が帰ってくる前に必ずやめる。バラの入浴剤も兄貴が入る前は入れない」
「…………絶対だぞ」
「うん」
…なんて、そのときの気分によっては守れないかもしれないけど(そんなこと言ったら殺されそうだからもちろん言わないけど)。
俺が素直に頷いたのを見て少しは気が治まったのか、兄貴は怒鳴るのをやめてソファにごろんと寝転がった。
顔の上に腕をのせて、大きな大きな溜息をつく。
(……兄貴、欲求不満?)
まさかあれって八つ当たりってやつじゃ……。
そう思ったら、聞かずにはいられなかった。
「なー、兄貴」
「……なんだ」
「今好きな人っていないの?」
「なっ……!」
俺の質問に、兄貴は焦ったようにソファから体を起こした。──ちょっとだけ顔が赤くなってる?
「なんだよ急にっ」
「だって、兄貴モテんじゃん。付き合ってる奴とかいないのかなーと思ってさ」
ホントは慶太が言ってた『晴海』って美術教師のことをズバリと聞きたかったんだけど、慶太に「まだ聞くな」って言われたし、言うのはやめてみた。
兄貴は少しうろたえたように近くにあったクッションを掴んで、それを形が変わってしまうまでぐりぐりと両手でこねくりながら、小さく首を振った。
「……いないよ」
「ほんとにぃ?」
「ホントだ」
「もったいなーい。兄貴ってばちょーお買得なのに」
「人を物みたいに言うな」
口元に小さく笑いを浮かべて、兄貴はふっと何かを考えた……みたいだった。
それはたぶん、他の奴が見たんじゃわからないくらいの小さな動き。兄貴と双児の俺にだけわかるもの。
(誰かのこと考えたな)
きっと『晴海』のことだと思うけど……うう、聞きたいのに聞けないのって、苦しい。
どうしても我慢できなかった俺は、ふと思い立ったように聞いてしまった。
「そういえばさ、兄貴の部活の顧問──晴海先生だっけ?──って、けっこう人気あるんだって?」
「──えっ!?」
俺の言葉がそんなに意外だったのか、兄貴は持っていたクッションを床に取り落とした。
(……そういうタイプじゃなかったっけ?)
『晴海』とは全然接触する機会がないから、いまいち思い出せないんだけど……でも兄貴の好みっていっつも同じだから、たぶん間違ってないと思う。
誰からも好かれて、明るくて優しくて気の配れる人。兄貴はそういう奴に弱いんだ。男も女もね。
「おまえが知ってるってことは、みんなそう思ってるってことか……」
ぽつんと呟くと、床に転がったままのクッションをじっと見つめる。俺って興味ないことなんかはどんなに周りが騒いでても気にしないから、それを知ってる兄貴には、今の俺の発言は先生の人気は相当なものなんだって印象持たせちゃったのかも(実際人気あるのかもしれないけど)。
「そうだよな……あの人…みんなに優しいし……」
心の中の声がそのまま口に出てしまったって感じに言うと、すぐに正気に戻ったようにはっと俺を見た。
いつもは真っ白な顔が、みるみる赤くなっていく。
「兄貴?」
「なっ……、なんでもない!!」
明らかに何かあるのが丸わかりの顔で、兄貴は逃げるように居間から出ていってしまう。
二階へと駆け上がっていく途中、ものすごい音で2度もこけたのが動揺しまくってるって証拠になってた。
(やっぱり……そうなんじゃん?)
兄貴がそのままにしていったクッションを掴み上げて、そのまま天井に向かって高く投げた。
「──兄貴に春到来?」
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どうしたんだ、俺!? なんで赤くなってんだ!?
ずきずきと痛む足を引きずり、部屋に駆け込んでベッドに倒れこんで、熱を上げている顔を枕に押しつけた。
(晴海先生が好き……だって?)
「うわっっ!」
直樹が「好きな人は?」って聞いてきたときに思い浮かんだ人物がまた脳裏に浮かんで、俺はさらに枕に頭を押しつける。ぐりぐりと、頭がハゲだしそうなほど強く。
(そんなことって……)
確かに初めて会ったときから気にはなってたけど……だからって、そういう意味で好きかって言われたら──
「違う、だろ?」
自分自身に問いかけるように呟いて、それでも何か引っかかるものがあって。
もしかしたらもしかするかもしれない本心に、俺は髪を痛めつけるだけの行為をやめられなかった。
『どうかされたんですか?』
晴海先生と出会ったのは、今年の4月。
たまたま彼が廊下をうろうろしてるのを見かけて、俺から声をかけたんだ。
『すみません、あのー……職員室って、どこでしたっけ?』
ひどく恥ずかしそうな表情でそう言った彼が、うちの学校に赴任してきた教師だと知ったのはその数時間後のことで、さらに美術担当だと聞いたとき、俺は授業や部活がものすごく待ち遠しくなったんだった。
先生は誰にでも好かれるタイプで、美術室はいつでも笑い声がたえることがなかった。26歳って年のせいか友達感覚で話せるし、いろいろ相談をしてる人もいるみたいだった。──俺も、進路のことでちょっとだけ話を聞いてもらったし。
見た目から優しそうで、少し気が弱そうかなって感じも受けるけど実際はそんなことなくて──男らしくて頼りになる、晴海先生は俺の理想の男の人だったんだ(ああなりたいって意味の理想だぞ!?)。
……そりゃ、絵を書いてるときに上から手を握られたりするとどきっとするけど……授業中とかに声をかけられたりするのも嬉しいけど、でもだからってそれが好きって感情につながるとは思えないし……だいいち、先生にとっては生徒のそういう感情ってウザイ以外のなにものでもないだろうし──。
それに先生にも彼女がいるかもしれないんだし……あんなに人気がある人なら、いないってことはないだろうから…………
(や、やめたやめたっっ!)
これ以上考えるとどんどん変なことを考えそうだったから、無理やり思考を断ち切った。
このままだと来週先生に会って、どんなふうに接していいのかわからなくなりそうだ。
「ったく、直樹が変なこと言うから……」
色恋話大好きの弟を心底恨みながら、イライラしたとき用の落書きノートを取り出す。このノートにはそのときの気分によって書かれた絵が詰まってる。ホントに落書きばっかりだけど。
一番最初のページにかかれたネコの落書きを見て、俺はまたしても晴海先生のことを思ってしまう。
『思いついたものを、不規則でいいから書いてごらん? きっとちょっとは気が晴れるから』
そう言って、先生がものの5分で書いてくれたそれを指でなぞると、それだけで気分が落ち着くような気がした。
「晴海先生が、好きだって……?」
唇に乗せた言葉は、じんとしびれて胸に染み込んだ。
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