─ 第1回 ─


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 金曜日の夜は、家に帰るのがすごくおっくうだ。普通だったら『明日から休みだ』って素直に喜べるところなのに(数カ月前までの俺はそうだった)、今はどうしてこんなにゆううつな気分にさせられるんだろう。──理由なんてわかってるけど。
(どうか今週くらいはいませんように!)
 心の中で手を合わせながら、たどりついてしまった家の門をがちゃがちゃとわざとらしく音を立てて開けた。つねに鍵がかかってるドアに乱暴に鍵を差し込み、力任せにロックを外す。
 こみあげてくる生つばを飲み下し、俺はおそるおそるドアを開けた。そして──
「また、いる……」
 あいつの靴がそこにあることを確認した瞬間に、俺の気はどっと重くなった。
 俺と色違いで同じデザインのプーマのスポーツシューズの横に並んで置かれた、やけにでかいサイズのナイキのバッシュ。こいつがここにあるってことは、あいつが来てるってことだ。
「ただいま……」
 もはや呟くことしかできずに、俺は二階の自分の部屋に行くのが嫌でそのまま居間へと直行した。
 ソファにかばんと制服の上着を投げてからのしのしと台所に行って、冷蔵庫からグレープフルーツジュースを取り出して一息で飲み干した。それでも気がおさまらずに、母さんが作っておいてくれたパンにかじりつきながらどかっとソファに寝転がった。
 沈黙が怖い。静かになったら、あれが聞こえてきそうだ。
(ああ──ほら、やっぱり!)
 こんなに頑張って音を立てていたにも関わらず、静かになった部屋には例の音が洩れ聞こえてきてしまう。──俺の、家に帰りたくない一番の理由。
『あ、あぁ……』
 か細く響く声と、ベッドの軋む音。最初聞いたときは何の音かさっぱりわからなかったけど、今の俺にはちゃんとわかる。
(どうしてあいつらは、俺が帰ってくるってわかっててこの時間にやってるんだ!?)
 だんだん高く大きくなっていく声。ベッドもぎしっぎしっと力強く軋んで。
『あぁっ、いくぅ!!』
「もうやめてくれ〜!」
 聞きたくないものを今週も聞かされてしまって、俺は心底泣き出したかった。

「ごめーん兄貴、帰ってたんだー」
 十数分後、俺がソファに突っ伏していると、上から脳天気な声が降ってきた。
 ぴくっと肩を震わせただけで顔を上げないでいると、悪びれもしない声がさらに俺を怒りへと導く発言をする。
「物音しないから気づかなかったよ。大きい声出してくれればよかったのに」
「でかい物音立ててたのに、それ以上でかい声出してたのはおまえだろ!! あんなみっともない声、俺以外の奴に聞こえてたらどうするつもりだ!!」
「みっともないなんて、ひどいな。慶太は俺のあの声も大好きなんだよ。ねー、慶太」
「ああ、直樹。……お兄さんどうぞ、お茶です」
「何が『お兄さん』だ! 同級生のくせして! しかもこのくそ暑いのにそんな熱い茶なんて出すな!」
 自分の家の台所に立つようにてきぱきと動いていた藤原慶太は、すっかり頭に血が上った俺の前に、父さんの湯飲みに濃い緑茶を作って持ってきた。これをこのまま2人の頭にぶちまけてしまいたい!
「まあまあそんなに熱くなるなよ、和樹」
「そうだよーキレイな顔が台無しだよー?」
「男の顔がキレイだってしょうがないだろ!?」
 怒鳴れば怒鳴るほど気が高ぶってくるのがわかって、俺は自分を落ち着けようと熱い茶を喉に流し込んだ。
「……とにかく。おまえら、俺が帰ってくる前にやめられないなら、ああいうことはおっぱじめるな!」
「えー、だって金曜日しかゆっくりできないんだもん」
「金曜日しかやれないわけじゃないんだろ!? 他の日にもやってんだろ!? だったらいいじゃないか!!」
(なんで俺がこんなこと……)
 実の弟とクラスメイトの濃厚な付き合いのせいで、今や俺の神経は細りに細っていた。……誰か助けてくれ(涙)。

 俺の名前は吉村和樹。近くの都立高校に通う17才。
 性格はけっこう真面目で、なんでもそつなくこなすタイプかな。趣味は絵画で、中学のときから美術部に所属してる。絵は特にうまいってわけじゃないけど、静かな時間を長く過ごせるから好きなんだと思う。
 そんな俺の目下の悩みは、俺と見た目以外のことは似ても似つかない双児の弟、吉村直樹だ。
 いつでもおちゃらけてて騒がしくて、それでも人懐っこいから他人に嫌われたり不快な思いを抱かせない……つまり人徳がついてまわってるようなこいつは、俺と同じ高校に通ってる。数ある誘いを断ってどこの部にも入ってないのは、たんにこいつがめんどくさがりだから。
 一卵生双生児だから顔の造りはまったく同じ。髪型が、俺のほうがいつもこざっぱりと短くて(といってもスポーツカットとかじゃないけど)、直樹はだいたい耳が隠れるくらいにしてるから、周りにはそのあたりで見分けをつけてもらってる。実際話してみれば一番違いがわかりやすいと思うけど。
 んで、何が悩みかって、言わなくてもわかるとは思うけど、直樹と慶太のふかぁい付き合いなんだ。
 あれは数カ月前のある日のこと。
『俺、お前の弟と付き合うことになったから』
 学校から帰ってきて、玄関先で突然そんなことを言われ……俺は、がっちりと組まれた2人の腕をただ呆然と見つめることしかできなかった。
 いったいどうして、何が原因でそんなことになったのか──全部聞くのは非常に恐ろしかったけど、知らないままでいるのも怖かったので、勇気を出して聞いて……『やっぱり聞かなきゃよかった』と後悔したんだった。
 わかりやすく説明すると、ときどき俺たちの家に遊びに来ていた慶太を直樹が先に好きになって、俺の預かり知らない所で2人はどんどん急接近して、我慢できなくなった直樹がとうとう告白して、慶太も直樹が好きだと打ち明けて、めでたく両思いになったんだという。
『そんな滅茶苦茶な話があるか!?』と叫んだ俺に2人から返ってきた言葉は、『だって好きになっちゃったんだもん』で──関わりあうのも嫌でほおっておいたら、2人の親密度はどんどん増していった……というのがすべての顛末なのだ。
 ちなみに俺たちの両親はそれぞれが忙しく働き回っていて、なかなか家に帰ってこない。だけど2人が確実に遅くなるとわかっているのは金曜だけだから、そのために「ゆっくりやれるのは金曜だけ」と直樹は言ってるのだ。
(俺だって気を遣って、部活のあとも町で時間潰してから帰ってきてるんだぞ!? ったく、何時間乳繰りあってれば気が済むんだ、あいつらは!!)
 こんなこと、考えたくもないのに……あいつらのせいで、俺までどんどんおかしなほうに流されてる気がしてしょうがない。
 今は親にも友達にもバレてないからまだいいけど……バレたらどうするつもりなんだろう、あいつら。──俺が気にするようなことじゃないけどさ。

 慶太を交えて夕食をとったあと、いつものように途中まで慶太を送るという直樹を呆れながら見送って、俺は風呂に入ることにした。
 服を脱いで中に入ると、まだ湯気がこもっている室内はバラの匂いが微かにした。
(さっき直樹と慶太が入ったんだよな……)
 俺が夕食の準備をしてるあいだに『汗流してこようよ』とかなんとか言って、2人はいちゃいちゃしながら風呂へと消えたんだった。
 余計なことは考えないようにしようと思いつつ、浴槽の蓋を開ける。
「────うっっ」
 たっぷり入ったお湯はキレイなピンク色にされていて、俺の苦手なバラの匂いがぷんぷんしてくる。直樹が気に入って使う入浴剤だけど、俺が入る前には使うなっていってあるのに……。
「…………入れ直すか」
 1日の疲れを取るために風呂に入るのに、どうしてそこでまた疲れないといけないんだ? つくづくあいつらには迷惑かけられてるよな、俺。

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 一方その頃の直樹と慶太はと言えば。
 家からほど近い公園のベンチに並んで腰掛け、お互いの顔を覗き込みながら何やら楽しげに話をしていた。兄の心弟知らず、である。
 しっかりと手を握りしめ合って座る姿は、どこからどう見てもラブラブカップルそのものだ。会社帰りのお父さんがたも2人が男同士だとも気づかず、そそくさと彼等の前を通り過ぎていく。
 他愛無いことを話し合っていた2人だが、その話題はいつしか直樹の兄、和樹のことになっていた。
「だけどよ、あいつには好きな奴とかいないのか?」
「聞いたことないよ、最近は。ああ見えて兄貴、けっこう面食いだからさ」
「言わないだけでいるかもしれない……」
「なに、慶太心当たりあるの?」
「あるっていうか…『ん?』って思う程度だけどな」
「うっそー、誰それ!? 俺も知ってる奴!?」
「ああ」
 信じらんない!! と慶太の腕に顔をすりつけてぶんぶんと首を振る直樹に、慶太は脂下がった顔で直樹の頭を撫でた。
「っつっても、本人から直接聞いたわけじゃないからさ。違うかもしれないし」
「でもその通りかもしれないじゃない? ねえ、誰なのそれって」
 教えて教えてと繰り返す直樹に、慶太は最近気になっていたある人物の名を口にした。
「……美術の晴海」
「晴海先生!?」
 思いつきもしなかった名前を言われて、驚きのあまり叫ぶ直樹。
 選択授業である美術を直樹はとっていないので、自分とはなんの接点もない人物だけに、顔もよく思い出せない。
「そうかぁ、兄貴美術部だしね。毎日学校で顔合わせてるってことか」
「授業も晴海が教えてくれてるからな。接点はじゅうぶんあるだろ?」
「そうだね。……ねえ。晴海先生って、男だっけ女だっけ?」
「おまえな……自分が通ってる学校の教師の顔くらい覚えとけって。晴海は男だよ」
「男! ……ふーん。なーんか線の細い感じの人って記憶しかなかったからさ。うーん、確かにそれは兄貴の好みかも」
 自分も男と付き合っているせいなのか、兄が男を好きだと聞いても動揺すら見せない直樹。
 この兄弟は昔から男が好きなのか……? と、男と付き合うのはこれが初めての慶太は内心どきっとした。だとしたら、直樹は自分が初めてではなかった……?
 気になるけれど、それをダイレクトに聞くだけの勇気を持っていなかった小心者の慶太は、それからかなり長い間その疑問に悩まされ続けるのだった。
 そんな慶太の複雑な心情も知らず、直樹は楽しげな表情で胸の前でこぶしをぶんぶんと振った。
「でもでも、兄貴ぜーんぜん態度とか変わってなかったよ? 前は好きな人できるとけっこうわかりやすかったもん」
「だったら和樹はまだ自覚してないんじゃないか? 自分が晴海を好きだって。
 だけど晴海のほうは絶対狙ってると思うぜ、和樹のこと。授業してるときとかもよく和樹のそばに行くからな」
 選択授業で美術をとっている慶太は、授業中の二人の態度を見ているために、確信めいたものを持っていた。
 晴海に話し掛けられたときの和樹の嬉しそうな顔。和樹が晴海に質問したときは、晴海が嬉しそうな顔をしていた。
 書き方を教えるために晴海が和樹の手を上から握って筆を動かしていたときなど、2人して頬を赤らめていたのだ。
 どう見てもあれは、お互いに想い合っているんだとしか思えない。
 だがその事実はまだ言うまいと、慶太はぐっと口をつぐんだ。直樹が和樹にこのことを言えば、意地っ張りな和樹は晴海と接する機会を確実に減らすだろう。そんなことになったら自分がのちのち恨まれかねないからな、とは、口には出さない慶太の心の声である。
「しばらく見ててみろよ、和樹の様子。だけどまだ直接聞いたりするなよ」
「わかってるって」
 直樹は軽くウインクすると、慶太の頬にちゅっとキスをした。

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