─ 第13回 ─


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「お……おっす、和樹」
 翌朝、俺がいつものように登校すると、和樹もいつものようにすでに席について授業に備えて座っていた。
 だけどその様子は、とてもじゃないけどいつもと同じとは言えなかった。
「お…はよ」
 俯いたまま、俺の顔を見ようとしない和樹。ちょっと顔が赤いような感じだけど……気のせいじゃないよな?
 聞きたいことがいろいろあって、だけどどれから聞いていいかわからず呆然と立ち尽くしていると。
「……慶太」
 少しだけ顔を上げた和樹が、俺に話しかけてきて。
「なっ、なんだ?」
 俺に何か聞きたいことがあったのか、問いかけるような表情で口を開き──だけどその口からは結局何も出てこなかった。
「──なんでもない」
「そ、そっか?」
「あのさ」
「えっっ?」
「授業始まるよ。もっと余裕持って来いよ。どこでいちゃいちゃしてるのか知らないけどさ」
 それだけはいつもの調子で言って、だけど少しだけ上げた顔をすぐに伏せてしまう。
 その様子に、『どうしたんだよ?』とも『何か聞きたいことがあったんじゃないのか?』とも……何も言えず、俺はすごすごと自分の席へと向かったんだった。
 和樹の頭の中を占めているのは、きっと今日の放課後のことなんだろう。
 信じられないことだが、和樹は晴海先生のヌードモデルを引き受けたらしい。
 今朝直樹に聞いた話だと、昨晩和樹はいつもよりも数倍長く風呂に入り、そして俺が直樹に買わされた、決して安くはないボディローションをしっかり使ったらしい(直樹は和樹が寝たあとに和樹の部屋に忍び込んで、ローションの減りを確認したらしい……)。
 それってやっぱり、晴海先生のためにしたことなんだよな。
 晴海先生のモデルを──しかもヌードモデルを引き受けるなんて、和樹がどれくらい本気なのか見せつけられたような感じで……ちょっと複雑な気分だ。
 もちろん和樹だって誰かを好きになったりするんだろうとは思ってたけど、いつもは冷静なあいつがここまで熱くなるなんて思ってなかったからさ。
 だけど、和樹が決めたことに俺が口を挟めるわけがない。
(どんなことになっても、俺は和樹のことを見捨てたりしないからなっっ!!)
 心の中でだけ力強く言うと(和樹に面と向かってそんなことは言えない)、俺はいけないと思いつつ、もしかしたらこれから繰り広げられてしまうかもしれない晴海先生と和樹のナニを想像せずにはいられなかった。
 ……男って……そんなもんだよな。

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 心臓が、早鐘のように鳴り響いてる。
「じゃあ今日はこれくらいにしようか」
 先生の声で、思い思いに絵を描いていた美術部の連中が片づけをはじめる。
 俺も、今日はほとんど使うことがなかった画材道具をあたふたとしまいはじめた。緊張で手が震えて、完成間近の絵をめちゃくちゃにしてしまいそうだったから、あまり描かなかったんだ。
(そんなに緊張することないんだって。ただのモデルじゃないか!)
 自分に言い聞かせるけど、その『モデル』に不安があるんだった。なんたって、ヌードだし……。
 そのとき。
「吉村君」
 いきなり後ろから声がして、俺は持っていた絵筆を床にばらまいてしまった。
「あ、ごめん。驚かせちゃったかな」
 そう言いながら、一瞬固まってしまった俺より先に筆を拾いはじめてくれたのは、俺を緊張させている張本人だった。
 ま、まさか、緊張してるってバレたかっ?
「晴海先生っ」
「吉村君、今日これから大丈夫…だよね? 昨日頼んだあれ──」
「あっ、はい、大丈夫ですっ」
『アレ』って言われて、その言葉の響きにちょっとドキッとしたけど、俺はためらうことなく返事をした。
 やるって自分で決めたんだから、今さら怖じけづいてどうするんだ。
「よかった。じゃあ、みんなが帰ったら研究室でね」
「は、はいっ」
 綺麗な笑顔で笑って、先生は部員に声をかけながら研究室へと戻って行く。
 その背中を見送りながら、俺は背筋に冷たいものが伝っていくのを感じていた。
(ど……どうしよう)
 今さらだけど、すごいドキドキしてきた。昨日先生に頼まれてからずっと、緊張を紛らわせてきたつもりだったのに!
 俺は周りを気にしながら、服の下の自分の身体をもう1度確認した。
 昨晩あれだけ綺麗に洗ったし、直樹がくれたボディローションも匂いを我慢してたくさん塗ったし──
(……大丈夫だ)
 できる限りのことはしたんだ。これで先生のイメージ通りじゃないって言われても、落ち込んだりしない(……と思う)。
 それでも逸る思いは打ち消せなくて、せめてもう少し心を落ち着かせる時間が欲しい! と思いつつも、時間は少しずつ近づいてくるのだった。

 部員がみんな帰って、いつものように美術室の戸締まりを終えた俺は、晴海先生が待つ研究室へと向かった。
 ドアの前で数分間固まって、だけどいつまでもそうしてるわけにもいかないと、自分を奮い立たせてドアをノックする。
 いつもよりずっと小さな音で、だけどその音を聞き逃さないでくれた先生は、すぐに「どうぞ」と返事をしてくれた。
「し、失礼します」
 緊張のしすぎで声が掠れる。小刻みというには大きすぎるほどぶるぶると手が震えていて、そんな自分を叱咤するようにドアを開けた。
「美術室のほうの戸締まり、終わりました」
「うん、ありがとう。さあ入って」
「──はい」
 先生の声に誘われるまま、俺は美術室へと足を踏み入れドアを閉めた。……もう、後戻りはできない。
 画材道具を用意していた先生は、ドアの前で固まっていた俺ににこっと笑いかけてキャンバスの前を指さした。
「さっそくで悪いけど、ちょっとそこに立ってみてくれるかな」
「あ、はい」
 先生に言われた場所へと移動しながら、俺は気を紛らわすように用意されたキャンバスをじっと見つめた。……恥ずかしくて、先生の顔が見れなかったんだ。
「大きいですね、キャンバス」
 先生が言っていた通り、普通使わないくらい大きなキャンバスだった。何号なんだろう。使い慣れないサイズだから、目分だけじゃわからない。
「そうでしょ? 僕に描ききれるかちょっと心配だよ」
「大丈夫ですよ、晴海先生なら」
「あはは、ありがとう。──さて、どういうポーズにしようか」
 照れたように笑った先生は、先生に言われた位置に立ち尽くしていた俺とキャンバスを交互に見てうーんと唸った。
 自分から「こんなポーズはどうですか?」なんてとても言えなくて、俺は先生の指示を待つ。
「ヌードってことと、顔の向きしか考えてなかったよ」
 俺の全身にさっと目を走らせて、どういうポーズをとらせるか考えているらしい先生に、ヌードっていうのはどうあっても変わらないんだなと思い知らされた。
 最後にもう一度だけ、固く決意をする俺。……先生の力になれるなら、ヌードだって喜んでやってやる!
「顔がこっち向きだから……んー…………、どうしようかな」
「顔の向きって、どうするんですか?」
「え? ああ、正面からって感じじゃなくて、ちらっとこっちを見てるって感じがいいんだ。吉村君の視線はそういうときのほうが強烈だから」
「え?」
「ううん、なんでもない」
 いつものニコニコ顔で言われてしまえば、それ以上深くは聞けない。……なんだかすごいことを言われたような気がするんだけど……。
「そうだな……。じゃあ、その椅子に座ってみてくれる?」
「あ、はい」
「椅子の向き……ちょっとだけ左に向けてくれる? あ、吉村君のほうからだと右になるかな」
「右ですね」
 先生に指示された通り、立っていた場所の近くに置かれていたパイプ椅子を少しだけ右方向に向けてから座った。
「それで、左足を椅子に乗せてくれる? ──そう、それで両手で抱えるような感じで」
 体育座りのように片膝だけを抱え、右足はそのまま床に投げ出して。──なんかちょっとポーズらしくなってきたかな。
「ちょっとだけ背中を丸めて……膝の間に顔を落とすような感じ。──そう、それで目だけでこっちを見て」
 先生の要求通り、折り曲げた膝に頬を乗せるようにして視線を先生に向ける。……なんかネコみたいだな、このカッコ。
 先生は真剣な眼差しで俺をじっと見ている。プロの目つきっていうんだろうか、緊張感が俺にも伝わってくる。
 いつもの温厚な先生と、別人みたいだ。
 見られすぎてどうにかなっちゃうんじゃないかって思いはじめたころ、先生はようやく鋭い眼差しをふっと緩ませて、いつものように笑った。
「うん、ポーズはそれでいいね」
「そうですか」
「じゃあ、脱いでくれる?」
「はい。──ええっっっっ!?」
 先生の顔に見入っていた俺は、すんなり頷いてから数十秒後に、言われた言葉の意味を脳で理解してのけぞった。そ、そんな、いきなり!?
「……脱げない?」
 俺の反応が予想外だったらしく(そりゃそうだ。すでにOKしてたんだから)不安そうな顔をされて、俺は慌てて首を横に振った。
「だ、大丈夫ですっ!」
「そう、よかった。それじゃ……あの辺りでどうぞ」
 部屋の一角を示されて、俺は小走りで移動した。うろたえたせいで赤くなった顔なんて見られたくなくて。
「パンツは脱がなくていいからね。寒いし」
「は、はい」
「脱いだらこれで身体を覆って」
 そう言われて先生のほうをちらっと振り返ると、俺に近づいてきていた先生は真っ白な布を手渡してきた。シーツ……に似てるけど、手触りがすごくいい。
 とりあえず肌を隠せるとわかってほっとした俺は、先生が離れていくのを確認してから服を脱ぎ始めた。
(あんまり時間かけると、かえって不自然だよな)
 先生に背中を向けたまま、ブレザーを脱いでネクタイを解き、それからゆっくりシャツのボタンを外していく。
 上半身裸になってから、ベルトに手をかけて──そこで一瞬ためらっってしまったけど、迷いを断ち切るように一気にベルトを外し、チャックを下ろしてズボンを脱いだ。
 学校でこんなカッコになったこと、なかったな……そういえば(身体測定はジャージ着用可だったし、水泳の授業も選択だったから俺は取らなかったんだ)。
 先生に渡された布をバスタオルのように肩から巻いて、「で…できました」と先生に声をかける。
 さっきよりもさらに顔が赤くなってる。体温が確実に3度くらい高くなった気もする。
(恥ずかしがってるの、先生に気づかれたらどうしよう)
 スースーする足を擦り合わせながら上目遣いに先生を見ると──
「うん、じゃあこっちに来て」
 先生は俺の裸を見てもなんとも思ってないらしく、いつもと変わらない様子で俺を呼んだ。
 そんな先生に、内心がっかりしたような気持ちになった俺。……なんでだ?
「それを巻いたまま椅子に座ってくれるかな。さっきのポーズで」
「あ、はい」
 気落ちした気分を引きずったまま、言われた通り布を巻いたまま椅子に座って片膝を立てると、布の前がぱっかり割れて下半身が丸見え状態になってしまって!
「わあ!!」
 まさしく『ご開帳!!』って感じで、慌てて膝を下ろして前を合わせると、先生に「あはは」と笑われてしまった。パ、パンツ穿いててホントによかった!!
「ごめん、ちょっと布の長さが足りなかったみたいだね。じゃあ、布の端を右側にもってこようか」
 先生は俺を立たせて布の両端を右側にもってきてから、もう一度ゆっくり椅子に座らせた。
「右側は絵の中に入らないし、僕の位置からも見えないから。ちょっと寒いだろうけど我慢してね」
「は、はい」
「それで……左膝を曲げるときに布も一緒にはさんでくれる? ──うん、そんな感じ」
 少しずつ、先生の思い描いた構図に近づいていく。絵でこの布の質感を出すのは大変そうだな。
 先生は布を細かいところまで直すと、一度キャンバスの前まで戻り俺の姿勢を確認した。うーん、と何かを考えるような様子になったと思ったら、俺にとってはあまり嬉しくないことを言ってきた。
「せっかくだから、背中も少しだけ出そうか」
「えっっ?」
「こっちの布を下に垂らして──っと」
 先生は俺があたふたしているうちに背中を覆っていた布を引いて、左肩に引っ掛けているだけのような形にしてしまう。
 モデルだから動くわけにもいかず、でもかなりドキドキしながら先生にされるがままになっている俺。
(こ、これじゃ身体の半分以上出してるってことだよな!?)
 先生の位置からは見えないかもしれないけど、ずっとこのままってのはヤバい気がする。……なにがって、『見られてる!』って意識したら平然とはしてられないだろうからさ(身体の中心が特に!)。
「よし、これで完璧」
 満足したように頷いた先生に笑いかけられ、
「やっぱり僕のイメージにぴったりだよ、和樹君。肌は想像してたより綺麗だったけど」
 なんて言われて、心臓がどっきーんっと跳ね上がった。は、晴海先生って、けっこうどっきり発言連発する人──なのかも。
(は、恥ずかしいっっ!!)
 タコみたく真っ赤になってるだろう顔を隠したかったけど、むやみに身体を動かして布をずらすわけにもいかず、ぐっと我慢して。
 口をぱくぱくさせたまま何も言えない俺にくすっと笑うと、先生は「このまま動かないでね」と少しトーンを落とした声で言ってキャンバスのほうへ戻っていった。
「それじゃ、描きはじめるね。姿勢だけ持続させてくれたら寝ててもいいから」
「は、はい」
 さっそく描きはじめるという先生に、俺はどきどきとせわしなく動く心臓を悟られる前に静めようとそれだけを考えた。
 絵を描いたり写真を撮ったりすることに熟達した人たちは、被写体として向き合っている間にモデルの考えていることを読み取ることができてしまうらしいから。
(ポーカーフェイス、ポーカーフェイス…………)
 何度も心の中で唱えていれば、そのうちに落ち着いてくるだろう(……ホントか?)。
(この姿勢だと、右足が腿まで丸見えだけど……先生の位置からは見えてない、よな?)
 だけど今さらそんなことを聞くのも恥ずかしくて、俺は赤くなった頬を膝に埋めるようにして固まっていた。

 大まかなラフ画を描いているのか、先生の右腕は大きなキャンバスの上を思い切り駆け回っている。  ときどき俺のほうをチラッと見て、自分が描いているものと見比べたりして──その凛々しい表情を見逃したくなくて、俺もじっと先生のほうも見ていた。
 長い間、静寂だけが研究室を満たしていた。

 モデル……どれくらい続けることになるんだろう? ちょっと、不安だ。

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