……兄貴が風呂から出てこない。入ってからかれこれ40分は経つのに。
「これは……晴海先生、うまくやったんだな」
俺はソファに寝転がって、クッションを抱きしめてにやっと笑った。
兄貴の入浴時間はいつもだいたい15分くらい。今日はいつもの3倍近い時間入ってるんだ、気合いが違うんだなぁ。
「やっぱり最初はカンジンだもんね」
俺だって初めて慶太と「やる!」って決めた前の日は、念入りに身体を洗ったし。確か2時間近く風呂に入ってて、兄貴にこっぴどく怒られたんだよな(しかも兄貴の嫌いなバラの入浴剤をいつもの2倍の量入れたから、兄貴は匂いが消えるまで風呂に入らなかった)。
つまり、念入りに体を洗う=肌を見せるだけでなくそれ以上の何かに備えてるってわけで。
(いつ先生に襲われてもいいように準備するなんて、兄貴もけっこう大胆じゃ〜ん)
やっぱり血は争えないんだな、なんて妙に納得しながら、俺は兄貴を待ち続けた。
「でも、兄貴の肌は誰がどう見てもつるつるのぴかぴかだし、そんなに磨きをかけることないのになぁ」
仕上げに『これ』を使えばさ、と言いながら、俺はクッションの下に手を差し入れた。──よし、スタンバイOK。
最近は一緒に風呂に入ることなんてないけど、俺と兄貴は小学校の低学年くらいまではずっと一緒に入ってたんだ。
毎日泥だらけになるまで遊び転げてた俺と違って、家で本を読んだり母さんの手伝いばっかりしてた兄貴の身体は昔からキレイなもんだった。傷一つないすべすべな肌は、いつも周りの大人(特におばさん)の羨望を集めてた。
色が白いのは俺も一緒だったけど、兄貴の白さはなんか『内面からくる白!』って感じで、簡単には触れないような神聖さがあって。
兄貴の親衛隊(ってのがあったんだ、幼稚園の頃から。隊員は全員男。女は女でファンクラブを作ってた)はとにかくすごいナイトぶりで、兄貴の肌どころか服に触っただけでそいつは半殺し状態だった。
学校行事とかで止むなく……ってときも、仕方ないとはいえ周りからは大きなどよめきが絶えなかったなぁ……当の兄貴は全然気にしてなかったけど(笑)。
ヒマを持て余してテレビをつけて、バラエティ番組を眺めながら兄貴を待つことさらに15分。
風呂場のドアが開く音がして、ようやく兄貴が居間に戻ってきた。
「遅かったね、兄貴」
「ああ。……たまには、な」
長風呂のせいか、それとも明日のことを考えてなのか。兄貴の頬は真っ赤だ。かわいいな。
「ねえ、いいものあげる。ちょっとこっち来てよ」
俺がちょいちょいと手招きして兄貴を呼ぶと、冷蔵庫からグレープフルーツジュースを取り出していた兄貴が「?」って顔でやってきた。
「なんだよ、いいものって」
「じゃ〜ん! これこれ!」
俺はクッションの下に隠しておいた『それ』を取り出すと、得意満面で兄貴の顔の前に突きつけてやった。
「…………なんだ、それ?」
「ボディローション! ここのって肌がキレイになるって有名なんだよ〜。俺も使ってるけど、すっごいすべすべになんの!」
支店がいくつもある有名ブランドのローションは、女に人気の高い代物だった。俺も噂で聞いて使い始めたんだけど、確かに肌がぴちぴちになった気がするし。
兄貴のために、今日の放課後一番人気の特製ローションを買いに行ってきたんだ。金払ったのは慶太だけど。
大好きな人の前に肌をさらすんだから、キレイな肌をさらにキレイに見せるためにきゅっきゅっと磨きをかけることはすっごく大事なことだ(と俺は思う)。
──特に、ロストバージンには、さ。
「お肌にまんべんなく塗るんだよ」
さっそく使ってやろうと、フタを開けて手のひらに液体を取り出した俺に、
「なっ、なんで俺がこんなもの使うんだよ!!」
と叫んで兄貴が後ずさった。
(おっと。ここで不審に思われたら大変だな)
バレたら兄貴の怒り爆発だろうからな。2人の恋もうまくいかなくなっちゃうだろうし。
ここはあくまでさりげなく……。
俺は兄貴がローションを使いたくなるまで説得することにした(こんなときくらいしか、兄貴を説得できる自信ないけどね)
「だって、兄貴乾燥肌が気になるって前に言ってたじゃん。これすっごい優れものだよ? 夜塗っただけで次の日1日中潤ってるもん!」
「は……?」
「突然服脱がなくちゃいけなくなったときとか、絶対『塗っといてよかった』って思うはずだよー? かさかさの肌なんて、誰にも見せたくないでしょ?」
「それは……そうだけど」
「好きな人に近づかれたとき、恥ずかしい思いしなくて済むんだよー?」
「…………え……」
「肌キレイだねって言われたら、男だって嬉しいじゃん? 兄貴もそう思うでしょ?」
「そ、それは──」
「試す価値ありだよ、これはホントに!」
「…………」
やっと興味を持ちはじめたのか、兄貴は俺が持っていたボトルのラベルをじっと見た。よし、あともう一押し!
「ね、とりあえず使ってみなって」
押しつけるように兄貴の手の前にボトルを差し出すと、今度はすんなりと受け取って。
「やってみる」
そう言って、まだ飲み干していないグレープフルーツジュースをテーブルに置いて、二階の部屋へと行こうとした。
(やった!!)
俺は兄貴がやっとその気になってくれたのが嬉しくて、おせっかいにもついついこんなことを言ってしまった。
「全身にこってり塗りつけるんだよー。腋の下とかオシリの割目も忘れちゃだめだよー」
「なっ………!!」
俺の言葉に、兄貴はがばっと顔を上げて真っ白な肌をみるみるピンク色にさせていって。
そのまま逃げ去るように、居間から出て行ってしまった。……なんか最近多いな、兄貴が二階に逃げ去るの。
(……最後のは言わない方がよかったかな?)
とは思ったけど、でもなんとかやる気にはなったみたいだし。
「これであとは成りゆきを見守ればオッケーだなっ」
晴海先生と兄貴の絡みシーンを妄想してくふふっと笑いながら、俺はいそいそとティッシュを引き寄せていた。……想像したら大きくなっちゃうのが、男の子ってもんだよね。
++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
ものすごい音をさせてドアを閉め、電気をつけずに暗い部屋の中でドアにもたれかかる。
階段を駆け上がったせいだけではなく息を切らした和樹は、握らされたボディローションをそのまま持ってきてしまったことに気づき、慌ててそれを返しに行こうとドアを開ける。……が、部屋から足を踏み出すこともなくドアを閉めた。
「こんなの……」
握りしめたプラスチックのボトルを、それでも手放すことができないのは興味があるからなのだと和樹は気づいていないのか。
……いや、気づいていて、ためらっているだけなのかもしれない。
湯上がりほっかほかの自身の身体に目を落とし、寝巻きの袖口をそっとめくってじっと肌に見入る。
「…………」
何かを深く考える顔は真剣そのものだ。間違っても『迷うな! 塗りたくれ!』とは言えない。さすがの直樹も、こんなに真剣な和樹には声が掛けられないだろう。
やがて、静止画像が動きだしたかのように身じろぎ一つした和樹は、ゆっくりと歩いてベッドのふちに座った。
少々のためらいを見せつつ寝巻きのボタンを外していき、するりと肌から滑り落とした。寒さに弱いため寝巻きの下に着込んでいた薄手のシャツも脱ぎ捨て、上半身裸になる。
ごくん、と喉を鳴らしてから恐る恐るボトルのキャップを外す。ボトルを傾け、とろりと垂れてくる液体を掌で受け止めた。
ゆっくりと、二の腕の辺りに手を置き、そこから指先に向かって手を走らせる。
「冷た……」
腕に伸ばした液体は手にとったときに感じたほどはぬるぬるせず、さらっと肌に馴染んでいく。
ほのかにバラのような匂いがして、思わず顔を顰める和樹。
「バラ、嫌いだって言ってるのに……」
文句のような言葉を吐きつつ、それでも液体を肌に伸ばすのをやめない──ということは、貰い物のローションを気に入ったということか。
……それとも、数々の直樹のうんちくに魅入られてしまったのか。
「臭い……」
顔を背け、ぶつくさと悪態を吐きつつも、和樹はその後小一時間かけて全身にまんべんなくローションを塗ったのだった。
その胸を占めているのは、晴海に見られる肌を綺麗に保っていたいという一念だけ。
明日にかける情熱は、嫌いなものも我慢させてしまうほどの力を持っているのだった。
|