─ 第10回 ─


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 ──翌日。早朝の学校。
「ええ────っっっっ!?」
 授業が始まるまでまだまだ時間に余裕がある。登校している生徒は少なく、さらに数えられる程度の人間しかいない特別教室棟からそんな雄叫びが聞こえた。……が、それに気づいた人間は少ない。
 そしてその声を発したのが、美術担当の新米教師、晴海貴彦であることに気づいた人間はいなかった。
 晴海は今年この高校に赴任したばかりの26歳。学生と見紛われるような外見と、少々の頼りなさが生徒に受けている。
 いつもは決して大声を上げるタイプではない晴海が叫んだのは、自分では思いつかないようなとんでもないことを言われたからだった。
「そ、そんなっ! 僕がっ……和樹君を襲うって!?」
「やだなぁ先生、そんなに大きな声出したら誰かに聞かれちゃうよ?」
 くすくすと笑いながら晴海の肩を叩くのは、自分の名案に落ち度はないと自信を持った直樹である。この自信はどこからくるのか……周囲の人間の疑問は、当の本人にしかわからないことだった。
 ──ちなみに今日は慶太は一緒ではない。この名案を一刻も早く晴海に伝えたいと思ってしまった直樹は、いつもの場所で直樹を待ち続けている慶太を置いて、1人で登校してきたのだ。
 自分の教室に寄ることなく美術研究室にやって来た直樹によって、『ヌードモデルに誘え』作戦は余すところなくすべて晴海に語られていた。予想通りといえば予想通りだった晴海の反応に、直樹は笑いが止まらない。
「そんな……そんなこと、僕──っ」
「大丈夫だよ、先生なら。先生が頼めばきっと兄貴も引き受けるはずだし」
「でも……和樹君にそんなこと言ったら、その場で嫌われちゃいそうだよ」
「だから、先生なら大丈夫だって! 好きな人の誘い…じゃなかった、頼みなら兄貴も聞くって!」
 そのときの様子を想像して、にしし…と満面の笑みを浮かべる直樹。晴海はそんな直樹の顔を見て、さらに不安げな表情になる。
「生徒にヌードモデルを頼むなんて……そんな非常識なことさせたってバレたら免職ものだよっ」
「だ〜いじょぶだって! だから部活終わったあとに頼むんだよ。部活終わったあとならみんな帰っちゃってるでしょ?」
「それは…そうだけど……」
「兄貴が他の先生に『晴海先生に裸にさせられた』なんて言うわけないし、ここで2人で頑張ってたって誰も気づかないよ!」
 ──何を頑張るというのか。直樹の言葉は常に直球である。
 それでも晴海の顔はためらいの色が濃い。
「だけど…………和樹君に裸になってもらうなんて──そんなこと、させられないよ」
「またまた〜。先生だって実は兄貴のカラダに興味あるんでしょ? このあいだだって兄貴の手ぇさわさわしてたじゃん」
 直樹が言っているのは、先日慶太と美術室を覗いたときに見た晴海の行動のことだった。あのときの晴海は、和樹に対して確かに下心を抱いていた(と直樹は思っている)。
「み、見てたのかっ!?」
 ぎょっと肩を引き、晴海はみるみる顔を赤くする。
「ちらっとね。あのあとどうしたの? 押し倒すとこまではしなかったんでしょ?」
「当たり前だよ! そんな鬼畜なこと……っ!」
 純情そうに頬を染めてはいるが、和樹相手にあんな大胆な行動をとる晴海のことを、直樹は相当な行動派ヒツジだと見ていた(おっとりしているようでやることはやるタイプ)。
「とにかく! 今日の部活が終わったら、兄貴に誘いかけてみなよ。もし断られても諦めちゃダメだよ? 明日も明後日も、ずーっとしつこくまとわりつくこと!」
「そんな……」
「それくらいのことしないと、うちの兄貴は落とせないよ?」
 和樹の実の弟、直樹の言葉が効いたのかそれまでおろおろしていた晴海は、
「わかったよ……。今日の部活が終わったあとに、お願いしてみる」
 と、それまでの言動を一転、前向きに行動しようと考えはじめた。直樹の暗示は晴海を絡め取るのに成功してしまったようだ(それとも直樹の読み通り、晴海は行動派 だったのだろうか)。
「あ、でも、無理っぽかったらいきなりは襲いかからないでね? 丸裸にしたその日に飛びかかるより、何日か日にちをかけてやったほうが兄貴にはいいかもしれないからさ」
 一応は兄の心配をしているように言った直樹に、
「……そうだね……そうする」
 神妙な顔で、晴海は頷いたのだった。

 直樹がるんるん気分で教室に戻ると、ドアの前に鬼のような形相をした慶太が待ちかまえていた。
「直樹ぃ〜〜〜〜!!」
「あれ、慶太。おはよ」
「おはよ、じゃないだろ!? 先に行くなら行くって言えよな!! 待ちぼうけくらうところだったろ!!」
 珍しく語気を荒げた慶太は、満面の笑みで自分の脇を通り過ぎていこうとした直樹を引き止め、怒りをあらわに怒鳴りつけた。
 直樹においてけぼりをくらった慶太は、すでに直樹が登校しているとも知らず、いつも直樹と待ち合わせている公園の入り口でずっと直樹を待っていたのだ。
 ちなみに、なぜ慶太が時間通りに登校できたかというと、いつものように家を出た和樹が「直樹なら、いつもより30分くらい前に家を出たけど……」と教えてくれたからである(まっすぐ学校に向かわない直樹と慶太は、和樹の30分ほど前に登校する)。──つまり慶太は30分間立ち尽くしていたということになる。
「いいじゃない、授業には間に合ったんだから。おわびに慶太の好きなことしてあげるからさ」
「好きなこと?」
「これこれ」
 ウインクしつつ直樹がしたのは、何かを銜えているように口をすぼめ、筒状の物を握るように手で丸を作り、上下させる動きで──
「!! いったーいっ!」
「バ、バカっっっ! こんなとこでそんなこと────」
「してほしくないなら、いいよ。してあげないから」
「そうは言ってないだろ!?」
 話の論点が思いっきりずれていることに気づかない慶太。顔を真っ赤にしながら、すでに直樹にされているところを想像してしまう。若い性は何にも勝るのである。
「いいか、今度はちゃんと俺に言ってから行けよ!」
「はーい。じゃあまたあとでね」
「……ああ」
 惜しくもそこで授業開始のチャイムが鳴り響き、数時間後には直樹にしてもらえる行為を待ち遠しく思いながら慶太は自分の教室へと戻った。
「…………ん?」
 そしてようやく、なんのせいで自分が30分も待たされたのか聞き忘れたことに気づく。
(あのやろ……俺にも内緒で何かしようとしてるな……?)
 まんまと話を逸らされたことに気づき、内心憤慨する慶太。あとできっちり問いつめてやる……と強い決意を固める慶太だが、2人きりになると直樹のペースにはまってしまう自分をすっかり忘れているのだった。

 慶太がおそらく無駄になるだろう決心を胸に決めこんでいたそのとき、和樹は慶太と同じ人物のことを考えていた。

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(直樹……なんで今日はあんなに早く出て行ったんだ?)
 てっきり慶太と待ち合わせしていて、朝から2人でやらしいことに励むつもりだったのかと思っていたのに(こんなことを思いついてしまう自分が悲しい……)──慶太は俺が通りかかるまで、公園の前でぬぽ〜っと立ち尽くしていたんだ。
 直樹からは何も聞かされていなかったようで、俺が『先に行った』と言うとすごいショックを受けたような顔をした(それはもう気の毒になってしまうほど)。
(他の奴と会う約束してたとか……? だけどそんな感じじゃなかったし……)
 第一、現在直樹は慶太にベタ惚れ中だから、他の奴の誘いに乗るなんて考えられない。浮気性っぽく見えて、実はけっこう一途だからな、あいつ。恋人がいないときはかなりの勢いで遊んでるようだけどさ(そのあたりのことは俺はよく知らないけど)。
 いろいろ考えて、はたと思いついた。
(……まさか、『あのこと』を晴海先生に弁解しに行った?)
 もちろん『あのこと』とは、美術研究室で先生の目の前でやった直樹と慶太のキスのことで──
(考えられなくもないな……っていうか、大いにありえる)
 でも、だとしたら大事だ。あいつのことだからきっと、
『俺と慶太は付き合ってるんです。でもこのことはナイショにしておいてくださいね』
 くらいのことは言いそうだ。そういうところは羨ましくなるくらいオープンだからな(オープンすぎるけど)。本当にそんなことを言ったんだとしたら、それはもう弁解じゃなくてカミングアウトだけど。
 そこまで恥知らずだとは思いたくないけど、あいつにはモラルも節度も何もないから、俺の知らないところでどんな発言をしてるかわからない。
 ここは直接直樹に聞きに行ったほうがいいのかもしれない。『晴海先生になんの話をしたんだ?』と、直接問いつめたほうが──
(でも、なぁ……)
 それが一番いいとは思いながら、ためらう気持ちが強いのは……本当のことを聞くのが怖いからなんだろう。
 晴海先生は「誰にも言わない」と約束してくれたから、たぶん本当に誰にも言わないだろうけど……それでも1番知られたくなかった人に知られてしまった俺のショックは大きい。
 これ以上ショックなことが重なったら、俺の過敏な神経じゃとても耐えられない気がする。
(余計なこと言うなよ、直樹〜)
 いつも陽気な弟の顔が脳裏に浮かんできて、授業中だというのに重苦しい溜息がもれてしまう。
 双児とはいえ、直樹のやることには常に頭を悩まされる。だって、本当にわからないんだ。あいつの思いつくようなことは、俺にはちっとも。
 生活環境は同じだったはずなのに、どうしてここまで違った性格になってしまったんだろう。これこそ生命の神秘ってやつだな(何言ってるんだ、俺……)。
(これから先どうしたらいいんだよ……)
 今日も1日勉強など手につきそうもなかった。これで今度のテスト結果が悪かったら……絶対直樹のせいにしてやる。

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