トラック

 船岡へ引越して半年ほどして、大河原中央公民館のロビーで個展を開くことにしたとき、どうやって絵を運ぼうか、という話になった。

「業者に頼むほどお金もないし、有名でもないし」
「かといって、高校美術展の搬入みたいにりヤカーに絵を積んで、引いていくのもなぁ」
「歩いても30分ほどだから、100号のキャンバスを二人で一枚ずつ持って往復するか・・・でも雨降ったらダメだし」
「100号持って、尾形橋の上で強風にあおられたらさあ、凧みたいに舞い上がって、白石川へ落っこちるね。はっはっは。」

笑い事じゃない。

「大作が4〜5枚あるからな。トラックがあればなあ・・・渡辺に頼んでみよう。」
「渡辺って、『渡辺酸素』の?」

 高校時代の同級生で、家業を継いでいる渡辺さんに、トラックを借りられるか尋ねてみることにした。トラックにはいつも酸素ボンベが積んである。ボンベの代わりに絵を積んでくれという山家の頼みは、そうとう渡辺さんを慌てさせてしまった。

「絵って高いんだろ。傷でもつけたらヤバイんじゃないの」
「油絵は、けっこう頑丈にできてんだ。ただの荷物だと思って運んでくれ。」
 
 なかば強引な頼みは、渋々聞き入れられ、酸素運搬用トラックで、絵を搬入してもらったのだ。そして、2日後の搬出のときも、渡辺さんはさわやか系のバスケットボール部の仲間を連れて、手伝いに来てくれた。絵とは無縁の屈強な男たちが、慣れない手つきで、絵を運んでくれるという、何とも奇妙な光景だった。
 渡辺さん、25、6才のかけ出しの画家にトラックを貸してくれてありがとう。もしかして、社長であるオヤジさんから、「勝手なごどすんな!」と叱られたかも知れないけど。
 
 もう一人、山家がトラックを借りた人がいる。宮小学校からの同級生の佐藤さんだ。
 彼の家は、蔵王町で大きな果樹園を経営している。りんごやブルーベリーやいちごはもとより、りんごジュースやジャム、桃、もちろんお米も出荷する、その名も丸治農園の三代目だ。
 山家が、塾の仕事から徐々に画家の収入で食べていこうとしていた30代後半、地元柴田のサンコア・ギャラリーや伝承館で何度か、小さな個展を開くたびにトラックを借りたのである。

ある日、佐藤さんがこんな事を言った。

「よう、トシジよ、商売ってのは妙なもんでな、これが売れっかと思うど、別の方が売れだりしてよ、わがんねもんなんだ。おめえも、人間図鑑にこだわってっけども、案外、蔵王どが描いでみろ、わがんねえもんだぞ。」
「◎×△□☆・・・」
 山家は、うーんうーんと首を傾けていた。人間図鑑はオリジナルだ。まず、こいつを一般的に定着させねば、風景を描いてもどっちつかずで、共倒れになりかねない。今が辛抱のしどころなんだと、苦しい返事をしたように思う。
 折りしも、「ゆたかな人々」がSEIYO仙台店の外壁を飾ることになり、その結果、画商もついて、SEIYOで個展を開けるようになったから、なおさらのこと人間図鑑を中心に描かねばならなかった。しかし、SEIYOの個展は年一回で、他は、地元を中心に小さい個展を開くほかに、絵を売り出す道はなかった。個展を開いても、地元の人に人間図鑑は、なかなか受け入れてもらえなかった。
 生活費が底をつくとき、黙って山家の絵を買い支えてくれたのも、丸治農園の佐藤さんだった。
 
 塾を辞めてから5〜6年はずっと苦しい生活が続き、ついにダンボール工場でアルバイトまでしたが、二紀会の同人になっていたことや、人間図鑑イコール山家の絵だという定着が見られたこともあって、ようやく山家は、小さな個展で「水仙」や「パンジー」などの花を少しずつ出す気持ちになった。
 しかも、これがまた美しいのである。手ごろな大きさの花シリーズは、売れゆきが良かった。そして、ついに佐藤さんがすすめていた古里蔵王風景を描いた。蔵王の凛として引きしまった空気がそのまま伝わってくるようだ。タッチも人間図鑑なみに平塗りで美しい。描いてる本人も「オレこんなに上手だったっけ」などと言っている。
 それはつまり、10年以上も人間図鑑を描くために研究や実験を重ねて、一つの作品を極めた成果が、花や風景にも反映されたからにほかならなかった。山家が渡辺さんのトラックを借りた時期の風景画は、セザンヌみたいに筆の跡がポテポテして、厚塗りだったが、それから15年近く「ゆたかな人々」と「人間図鑑」だけを描き続け、風景画は一切描こうとしなかった。
  それが幼馴染や古里の人々の「蔵王でも描いでければなあ」の声と、長引く生活苦もあって、重たい筆を執ってみれば、何とも清々しい蔵王を描いていたというわけなのである。
 
  山家は言う。
「何もないところから生み出す人間図鑑は、時間と思考力が必るが、風景や静物は、そのあるがままの美しさを引き出すだけでいい。」
 
  山家は安易に「売れる絵」だけを描きたくなかったのだ。
 
 毎年、山家はうーん、うーんと苦しい思いをして、新たな人間図鑑を発表し続ける。 私たち家族は、
「こんどの背景は何かな」
「空中ブランコとか、公園の遊具とかもう飽きちゃったよね」
「色、使いすぎるとダサくなるよ」
「今年の二紀に出したやつ、あのブルーがいいよね。なんかアメリカ映画のターミネーターとかに使ってあるブルーみたいで、久々に気に入ってるんだ」
 もう、勝手なことを言いたいほうだいである。山家は、私たちのおしゃべりを完全に無視して平然としている。 佐藤さんも、山家が「蔵王」を描くようになったので、「オレの言った通りだべ」と、まんざらでもない様子だ。佐藤さんの言った事が、後々納得せざるを得なくなる。
 
 佐藤さんにとって山家は、ど田舎から突然変異で生まれた画家のように映っているのだろう。しかも、今だに貧乏で話にならねえ奴だとも。
 
 絵を描くには時間が必る。時間をつくるために仕事を辞める。生活苦に甘んじても、良い作品、完成度の高い作品にしようと努力する。
 世の中の人々は、レベルの高い絵を見たがるが、才能ある画家を援助しようとする姿勢を知らない。当然、絵を描き続けるか、生活苦のために筆を折るかの選択を迫られることにもなるだろう。このために、どれだけ才能ある人たちを葬り去ったか知れないのだ。
 山家が画家として、なんとか生活していけるのは、絵を買い支える人々のおかげなのである。特に、宮小学校時代の同級生たちが、「オレも買ったぞ。こんどは、おめえの番だ。」と少ない(失礼)給料から、山家の絵を買って下さる。
 そして、「人間図鑑」の根強いファンの方々も、必ず個展に現れて新作をチェックしていかれる。この方々は、絵に引き寄せられて買って下さるのだ。私たち家族は、画家が生活の心配をせずに描くことのできる文化水準に達するのを求めて止まない。

 そういうわけだから、これからも、丸治農園のトラックを、お借りすることになりそうである。

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