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        山家はなぜ、「飽食の中の無為絶望を告発する」とか「ぜいたくだが心は満たされない現代を風刺したような」と評される絵を描き続けたのか。 
         山家の暮らしが飽食であったからなのか。いや、決してそうではない。 
         山家が子どものころ、大きくなったら何になりたいのか聞かれて、こう答えた。 
         
        「おら、ほいどになりでぇ」 
          (ボク、乞食にないたいんだ) 
         
        「まーんず、なんでほいどになりでぇんだべ、このわらし」 
          (まあ、どうして乞食になんかなりたいのかしら、この子ったら) 
         
        「んだって、めしだの、ヤクルトだのもらえっからや」 
          (だって、ごはんとかヤクルトとかもらえるからだよ) 
         
          と言う事を言って近所の人をうならせた。今でも、茶飲み話にこのセリフが登場して、大ウケである。 
         
          昭和30年当時、乞食はポピュラーな存在だった。 
         
         山家の両親は田畑を耕し、配管工の仕事もして暮らしをたてていたが、生活は厳しかった。 それなのに、家々を回りながらめしが食える乞食を見て、幼い山家は、魅力的な職業だと思ったらしい。 
         山家の家は国道沿いにあり、夏になると家の前の小さな売店を出して桃を売っていた。白石川の川沿いにあった桃畑は、砂地で、そこで採れる桃は最高に甘かった。 
         この桃を、父親が作った木箱に詰めて店に並べる。何という誠実な商売をしていたのだろう。一番おいしいところを、その日の商品にするのだから。 夕方になると、家の傍らを流れる用水路からホタルが静かに上がってくる。それを団扇で捕らえては、蔵王エコーラインの観光帰りに桃を買うために立ち寄る客に、山里の土産として配ったそうだ。 
         
         山家の暮らしの中に、贅沢なものは何もなかったと言うが、そうだろうか。私のように、桃が缶詰の木に生っていると思いちがいをしている者にとっては、桃畑へ水を入れたバケツをぶら下げて入っていき、目の高さぐらいのところで重く熟している桃をバケツの水でちゃちゃっと洗って、がぶりと食べたときの何ともいえない甘味と、ゆたかな香りは何ものにも勝る贅沢に思えてならない。 
         たとえ、山家のように大学生になるまでグラタンやスパゲッティを食べたことがなくても、食べ物を生み出すことのできる家庭に育ったこと自体が「ゆたかな」暮らしを体感している。 
          食べ物を作るだけでない。漁を営む家庭では、「今夜はなにもないから、マグロでも食べっか」と巨大な冷凍庫からマグロの塊を出して料理を始めるというし、パーマ屋の娘は毎年のように七五三の着付けをしてもらって遊んでいる。 
        かくして、どんな人も家庭の暮らしの中で「ゆたか」な何かを育んできたのでないだろうか。 
         
         山家の絵に描かれるような人々は「ゆたかだ」とされるのもに翻弄されている。その人に向かって「自分の内側を探してごらん。貴重なものは外側には無いんだよ」と語りかけているように思う。 
         そして山家は言う 
         
        「ゆたかさは、富に依存しているわけじゃないんだ」と。 
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