ゆたかな人々1

 マルセル・デュシャンの絵ほど、多くを語るものはない。 例えば「階段を下りる花嫁」という絵には、主人公にまつわるエピソードや人間関係まで含まれているから、絵とはいえ推理したり謎を解いているうちに、まるで小説を読んでいる気分になる。

  山家も「街角の風景」の構想で、ちょっとデュシャンを試したことがある。 画面中央に平面的な人物を置き、何本もの足が孤を描いてバタついているというものだ。 バタつくで思い出すのは「天才バカボン」に登場する「レ・レ・レのおじさん」や「おそ松くん」に出てくる「ハタ坊」の足だが、山家のは、あれほどみごとではない。 赤塚不二夫は天才である。もっともデュシャンほど難解ではないが。

  山家は特に足にこだわったわけではなく、全体的な簡略化、記号を試みていたらしい。 この試みは一年続き、直線で表現することにいい加減飽きたころ、山家の絵は、人間の「ゆたかさ」にこだわるようになっていった。その中でも特に「食べる行為」に注意を向けるようになった。

  格言に「衣食足りて礼節を知る」があるが、あり余るほどのものを食べ、ゴージャスな服を何枚も買い漁り、あさましくも礼儀や節度を踏みたおし、欲望のなすがままに生きているような人々の振るまいが気になって仕方ない。 山家のことだから、そのような人々に「せめて芸術にも関心を持ってよ」と言いたかったのだろう。

  山家が生まれた昭和30年代から50年代にかけて、日本のお父さん達のほとんどは「文化」を犠牲にして働きに働いてきた。 働き続けるお父さん達は、絵画展や音楽会などに行くよりも車を買い、エアコンを取り付け、ビデオデッキとソファーを備え、ゴルフクラブを新調することに夢中になる。 やがて家を新築し、庭を整えているうち、気がつけば定年になっていた。

 まわりを見れば、お母さんは趣味に生き甲斐を見つけ、子供はとっくに独立している。 はて、そこで考えるかどうかは判らないが、モノを買うために働き続け、暮らすには充分なほどのモノに囲まれながら、どこか空しさを感じたりはしないだろうか。 「文化」を犠牲にすることは「ゆたかさ」を失うことに近いと山家は言う。 子供が小さいうちに、動物に触れたり、オーケストラの生演奏を聴いたりするのは、子供の感性をすばらしくゆたかにすることはご存知だろう。

 それと同様に、子供を伴って美術館にでも行ってみるといい。 いろいろな表現方法や、色や、えのぐの匂い、独特な音などに接するのもまた価値のある体験だと思う。

 例えば、現代美術の企画展を子供と見に行くとする。
 小学生の男の子がキョロキョロと目を丸くして見るのは何だろう。もしかすると展示室の隅っこにある、作品とは無関係の湿度計の針だったりする。また、タイプライターが何機もキャンバスに取りつけられた作品の前で 「こんなのアリかよ」と叫び、 スプーンからこぼれ落ちそうなゼリーの絵に、 「これ、マジで描いてんの」 と近づいたり遠のいたり。 はたまた、撮影スタジオの照明と、何かの影だけしか描いていない絵に向かい、なぜ人がいないのだろうと考えこむ。 次の瞬間、鏡が目に入り、自分がその作品の一部として立つときに、絵が完成することを鏡に映った姿から悟ったときのしたり顔。 日常生活にはないものを見るとき、心の中でパッと衝撃を受けたようにひらめくものがある。

 このようなことを経験すると、いつもの生活がいつもと違って見えてくるものだ。 「犬の鼻って、英語ビスケットのAの形に、なんか似てる」と少年は思うかも知れず、 「この皿に何をのせたらハッピーな気持ちを表現できるかしら」と母は考えるかも知れない。

  日常を何倍にも楽しくさせるのが芸術で、それを楽しむのが文化だと私は思う。 だから、文化を犠牲にしないでほしいと、山家は「ゆたかな人々」を通して語りかけている。

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