菖蒲(あやめ)

 アトリエの窓辺に近所のご婦人方が集まって何か言っている。

「やんべちゃん、あんだ、こうゆうの描げばいいのよォ」

 山家が菖蒲を描いているのだ。

 山家といえば「ゆたかな人々」「人間図鑑」で売っていたので近所の人たちが当惑したのも無理はない。それにまだ、人間図鑑以外のものを描く気にもなれなかった。

 だが、山家は風景を描くと山なみに映る雲の陰の色や木々の間から草の匂いのするような原っぱを描くのだ。二紀展に初入選したのも仙台の「米ヶ袋風景」だったし、翌年の「鮎川港風景」は、詩情あふれる名作だ。

 そして三年目、がらりと作風を変えた三連画「街角の風景」を発表したのだ。 案の定、「山家クン、風景描いてりゃいいのに」「この絵じゃ売るの難しいよ」と二紀会の偉い方々から、やんわりと圧力をかけられたらしい。

 それでも、風景でなくオリジナリティーを貫く意志は固かった。

 そんなわけだから、軽く「山描いてよ」と頼まれても、なかなか「うん」とは言わない。一九八二年に会社務めを辞めた後、薄給の塾講師で生計をたてていたため、二紀展や河北展、芸術祭等に出品するための運送料、参加費用がかさみ、極端に生活をきりつめていた。

 そのような折、若いころの作品を数点買ってもらっているオーナーからの菖蒲の注文が舞い込んだ。アトリエには、東京に出す「ゆたかな人々」が筆を待っている。菖蒲との同時進行は頭を悩ませた。

 だが幼い子供二人いて一日の食費が五百円というのは、さすがに厳しい現実だった。

 かくして、山家は仕事を承諾し、一九八九年、百号菖蒲が完成した。

 まるで紫色の花のあいだから湿った土の匂いのするような出来栄えであった。

前頁 目次 次頁