ホルベイン社の老紳士

 山家が「ゆたかな人々」を描き始めたころのある日、「黒の粒子が 粗い」と言いだした。気のせいかも知れないと、そのまま使っていたが、やっぱりざらつく。  

 原因を知りたくて、ホルベイン社に手紙を書いた。

「たぶん無視されるか気のせいだとあしらわれてしまうけどね。」

 そう言いつつ二ヶ月がすぎたころに電話がきた。ホルベイン社から だった。

「ご指摘のとおりでした。工場で調べさせてもらいましたら・・」 と老紳士の声は続く。「黒のもとになる原料は、牛骨を焼いて炭に したもので、それを油で一定時間、練り上げて作っていますが、原 料となる牛骨が生きものである以上、多少の変化は生じる」という 答えで、まあ出来の悪い骨に当ってしまったらしい。ホルベイン社 は調査に二ヶ月を要して原因をつきとめてくれたのである。しかも 二紀展にやっと入選し始めるようになった男からの一通の手紙のために。 山家は老紳士の誠実な対応に心を打たれた。同時にざらつく と感じた自分の、今後の仕事にも自信を持てる出来事だった。

 後で「粗いって、どれくらいの単位だったの?」と尋ねると、 「1ミクロンが2ミクロンになったというレベルさ」と言う。 このことがあった一九八六年以来、ホルベイン社は山家の信頼を得、 現在も使い続けている。

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