[撮影条件:2013/09/17 E-PM2+M.ZUIKO ED 14-150(17mm)]
吉田城は今川氏親の命により築城され、築城当初は今橋城と呼ばれ、江戸時代には吉田藩の政庁としての役割をなし、明治維新後は豊橋城とも呼ばれました。
[撮影条件:2013/07/16 E-PM2+M.ZUIKO ED 14-150(20mm)]
日本三名城の一つで、1588年(天正16年)に加藤清正が優れた土木・築城技術を発揮してほぼ現在の形を完成させました。連立式大天守閣、小天守閣ほか、多数の櫓、櫓門、城門を備えたお城です。
[撮影条件:2013/05/23 E-PM2+M.ZUIKO 14-42 UR(38mm)]
全国に現存する『木造天守十二城』の一つです。内堀から天守にかけて積み重ねられた石垣は、”扇の勾配”と呼ばれる高さ日本一の石垣です。この白亜の二重三層の独立式木造天守は400年の歴史を刻み重要文化財に指定されています。
[撮影条件:2013/05/23 E-PM2+LUMIX G 20/F1.7(20mm)]
仏殿城と呼ばれ、南北朝時代に伊予の太守河野氏が讃岐を支配する細川氏の侵略に備え、部将の土肥義昌に命じて築かせました。
[撮影条件:2013/05/20 E-PM2+LUMIX G 20/F1.7(20mm)]
藤堂高虎は関ヶ原の戦いの戦功により伊予半国20万石を拝領しました。その藤堂高虎が瀬戸内海に面した海岸に築いた大規模な平城が今治城です。別名吹揚城(ふきあげじょう)ともいいます。
[撮影条件:2013/04/23 E-PM2+ED40-150(42mm)]
長浜は古く今浜と呼ばれ、京極道誉が築城しました。 天正元年、織田信長は浅井長政を滅ぼすと、浅井氏の旧領湖北12万石を羽柴秀吉に与えました。秀吉は、交通の不便な小谷城を廃して、今浜城跡に新城を築き地名も今浜から長浜に改めました。
[撮影条件:2012/12/10 E-PL1+ED14-42(19mm)]
1622年水野勝成が備後10万石の領主となって築いたお城です。伏見櫓、筋鉄御門は共に国の重要文化財となっています。
[撮影条件:2012/11/23 D90+VR18-105(105mm)]
吉川広家によって1608年に作られた山城で、眼下を流れる錦川を天然の外堀にし、標高約200メートルの城山山頂にあります。
[撮影条件:2011/11/04 D90+VR18-105(18mm) (F11 1/250s) ISO200 WB:晴天 -0.5EV]
天守は1602年に落雷で焼失し、天守や三階櫓の焼失後は二の丸を藩主の居所として、天守は再建されなかったようです。写真は湿生園からの橋爪門続櫓(左側)、五十間長屋、菱櫓です。
[撮影条件:2012/01/25 E-PL1+ED14-42(24mm) (F11 1/180s) ISO100 WB:晴天]
1455年に三河の守護代西郷稠頼により築かれ、70年ほど後に家康の祖父・松平清康が入城。家康の父・広忠が殺された後は今川氏の勢力下におかれましたが、桶狭間の合戦後家康が再び入場し三河を平定、ひいては、天下統一への拠点としました。
[撮影条件:2012/01/18 E-PL1+ED14-42(14mm) (F11 1/180s) ISO100 WB:晴天]
松本城は戦国時代に小笠原氏によって作られた深志城が始まりで、一時武田信玄が信濃支配の拠点としましたが、武田氏滅亡後、小笠原貞慶が深志城を回復し名を松本城と改めました。
[撮影条件:2012/01/30 E-PL1+ED14-42(27mm) (F11 1/250s) ISO100 WB:晴天 +0.5EV]
大坂城の別称は金城または錦城と言われ、姫路城、熊本城と共に日本三名城の一つです。大阪の街にそびえ立ち、天下を治める風格が漂います。
[撮影条件:2010/10/20 D90+VR18-105(18mm) (F16 1/250s) ISO800 WB:オート]
金華山山頂に位置し、難攻不落の城として斎藤道三が天文8年(1539年)に修築入城し、その後、永禄10年(1567年)に織田信長がこの城を攻略し、城主となりました。信長は「井の口」と呼ばれていた地名を「岐阜」に、「稲葉山城」を「岐阜城」に改めました。
[撮影条件:2011/02/23 D90+VR18-105(22mm) (F11 1/180s) ISO200 WB:晴天 -0.5EV]
豊臣五大老の一人宇喜多秀家が築城した城で、三重六階の天守閣は安土城を模して築かれたと伝えられ、不等辺五角形の天守台をしています。黒い下見板張りの外観から別名「烏城(うじょう)」と呼ばれ、また金の鯱を挙げていたと伝えられる為、「金烏城」の名もあります。
[撮影条件:2011/05/30 E-PL1+ED14-42(15mm) (F11 1/250s) ISO200 WB:晴天]
大垣城は美濃守護・土岐一族の宮川吉左衛門尉安定により、天文4年(1535)に創建されたと伝えられています。関ケ原の戦いでは、西軍・石田三成の本拠地となりました。手前の像は水害対策で功績のあった戸田氏鉄の騎馬像です。
関が原戦の功績で徳川家康から土佐一国を拝領した山之内一豊が築城したお城で、その後1727年に焼失しましたが、1753年に当時の姿のまま再建され現在までその姿を残しています。
名古屋城は、徳川家康が天下統一の最後の布石として築いた城で、東海道の要として御三家筆頭尾張徳川家の始まりです。
大老井伊直弼など、時代と共に幕府の中核となる人物を輩出した徳川家譜代の井伊氏三十五万石の居城です。
戦国時代、“内助の功”の逸話で有名な山内一豊が城主となって建立し、その後幕末(1854年)に安政東海地震で大半の建物が倒壊しました。平成6年、当時の美しさをそのままに、日本初の本格木造天守閣として復元されました。
藤堂高虎は津城は居城として天守も築きませんでしたが、上野城は大坂城の豊臣氏に備えた戦いの城として建築にとりかかり、上野城天守は本来五層で完成間近いときに暴風雨で倒壊して、以後再建されませんでした。現在の天守閣は昭和に入って建築されました。
赤松氏の後、西国統治の重要拠点として羽柴秀吉、池田輝政、本多忠政が城に夢を託して拡張、いま見られる全容が整いました。
【城】
姫山の地に初めて砦が築かれたのは1333年、赤松氏の時代といわれています。以来、13氏・48代が城主を務めました。
撮影場所の表記:
「県名or区市町名・撮影場所」
にて記載
[撮影条件:2007/03/18 EX-Z3(5.8mm) (F4.3 1/500s) ISO100 WB:オート]
[撮影条件:2007/03/18 EX-Z3(5.8mm) (F4.3 1/500s) ISO100 WB:オート]
[撮影条件:2009/01/24 D90+VR18-105(18mm) (F10 1/250s) ISO200 WB:オート]
[撮影条件:2010/12/17 D90+VR18-105(24mm) (F8 1/6s) ISO400 WB:晴天 -2.0EV]
[撮影条件:2011/10/13 E-PL1+ED14-42(15mm) (F11 1/60s) ISO250 WB:曇天]
[撮影条件:2010/03/15 DMC-FX40(15.2mm) (F5.5 1/200s) ISO100 WB:オート]
[撮影条件:2010/05/11 D90+VR18-105(34mm) (F9.5 1/250s) ISO200 WB:オート]
[撮影条件:2010/07/30 D90+VR18-105(18mm) (F16 1/45s) ISO200 WB:オート]
中世末期、地元の士豪白石氏の居城でしたが慶長七年(1602)以降は仙台城の支城として伊達家の重臣片倉氏が代々居城し、元和元年(1615)の一国一城令後も例外的に「城」としての存続が認められました。現在の白石城は、1995年に復元したものです。
[撮影条件:2012/04/07 D90+VR18-105(22mm) (F4.8 1/2000s) ISO200 WB:晴天]
もともと小山城に天守閣はなく、出城(砦)として武田氏の武将がつくられたもので、「榛南地方の玄関口にふさわしく、また町のシンボルに」という願望をこめて昭和62年に国宝「犬山城」をモデルとして物見台があったといわれる三の丸跡に築城したものです。
[撮影条件:2012/04/04 D90+VR18-105(18mm) (F8 1/750s) ISO200 WB:晴天]
徳川家康が築城し、29歳〜45歳までの17年間を浜松城で過ごしました。家康が駿府城に移ったあとは、代々の徳川家とゆかりの濃い譜代大名が守りました。歴代城主の中には幕府の要職に登用された者も多いことから、のちに「出世城」と呼ばれるようになりました。