「問題が煮詰まってしまって、状況が打開できない。」「互いに立場を譲らず、妥協の余地がなくなってしまった。」こんな状況に落ちいってしまうことがしばしばあります。
これは言葉の魔術にかかって固まってしまっている状態です。
そんなときは問題の前提をよく考えてみるとあっさりと解決してしまうことがあります。いろいろな主張をカギ括弧に入れて、「みんな物語にすぎない」と一度考えてみてください。難問が解けていきます。
人は言葉の魔力に弱い動物です。自分で自分にかけた魔術はなかなか解けません。言葉の魔術は物語で解くことをお勧めします。例をあげて考えてみます。
「絶対安全」を条件に建設された原子力発電所があったとします。ある日、事故を想定した訓練をしたいと電力会社から地元の市長に協力依頼がありました。市長は戸惑いながらも住民に相談します。
住民は怒りました。「絶対安全だといって建設したはずじゃないか。今さらどうして事故を想定した訓練なんて話が出てくるのか。絶対安全というのはウソだったのか。」という理屈です。
この対立はどのように解決されるべきでしょう。難問です。
(この原稿は2009年8月に書かれました。)
そんなとき「物語化」して考えてみてはどうでしょう。「原子力発電所は安全」というのはひとつの物語です。「訓練をしておけば、より安心」というのも物語です。これは二つの物語の争いですが、二つとも人の願望にすぎない単なる物語だとみなしてしまうのです。
「真実だ、正義だ」と主張すると対立図式になってしまいます。しかし、それらを物語(=願望)とみなしてしまえば、対立する意見は共存できます。願うのは勝手ですから。
そう考えると、この場合「絶対安全」という言葉が魔術の呪文になっています。もともとは電力会社の方から出された言葉だったのでしょうが、これがひとり歩きし、人びとの思考を止めてしまっています。
常識で考えても絶対安全などということはこの世にありえません。絶対安全と言いとおしてしまうことにはリスクを感じます。
電力会社も訓練の必要性を説明し、住民側も訓練だけなら笑って受けいれた方が精神衛生にはよさそうです。
これはその程度の問題にすぎないのです。言葉は問題を突き詰め事態を深刻にしますが、現実ではバランスが求められます。言葉の魔術にかかってしまうと、このことが見えなくなります。
一度物語とみなしてみることは実は目新しいことではありません。英語にこれと似た考え方があります。
英語のニュースなどを聞いていると「アイ シインク」という発音がやたら耳に残ります。誰かが話すたびにまず「I think(私は次のように考えます)」と言ってから自分の考えを話しています。
日本語にはこれがありません。だから日本語では断定的に聞こえがちです。一度物語とみなすというのは実は「I think」と似た効果を期待しての提案なのです。
すべての意見を物語と考え同列において扱ったとしても、現実にはそれらに優劣をつけて処理しなければ毎日の生活はやっていけません。
しかし、それはしかたなく迫られてやっていることにすぎないとどこかで確認しておくことは大切です。なぜなら物語は新しい物語を生むからです。願望や錯覚にすぎない意見を真実と思いこむと、その真実のうえに新しい物語が生まれ、さらに発展していきます。そんなことが積み重ねられていくと、最後には何が願望で何が真実かわからなくなります。
そうならないためにも「これは物語にすぎない」とどこかで覚めた心をキープすることが大切なのです。これが言葉の魔力から自由になる秘訣です。
いきなり物語と言われても違和感があると思います。「どうして物語なのだ。」「物語って何なんだ。」「意見と言ったっていいではないか。なぜ物語でなければいけないのか。」いろいろな疑問が湧いてきます。しばらく物語ということにこだわってみたいと思います。