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1930年〜現在:2

(21) 繋がった人類はどこへ

ドイツに代表されるような遅れて近代化を始めた国が、イギリスのような先進国に挑戦し、その結果起きたのが第一・二次世界大戦でした。前近代的な社会体質を残すこれらの国では、偏狭で排外的な軍国主義がはびこり、悲惨な戦争が引き起こされたのでした。
しかし、第二次世界大戦が終わっても、世界は、未だ独立を達成していない国々がほとんどでした。世界のつながりはどう変わっていったのでしょうか。

冷戦の始まり

戦後世界での主導権をめぐる米国とソ連の争いは、終戦前から水面下で始まっていました。戦後、新たに成立する政権への影響力を保持するため、米ソ両国は占領を自国に有利に進めようとしました。

実際、ソ連が占領した地域では社会主義政権が、次々に誕生し、さらに拡大する勢いにありました。戦災を受けた国でも、社会主義政党が次々に樹立されていました。

米大統領トルーマンは、この流れを食い止めるため、封じ込め政策(トルーマン・ドクトリン)を発表し、大規模な経済援助を打ち出しました。

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スターリン批判と雪解け

米ソの対立は、世界中を巻き込んでいきました。ドイツ、朝鮮、ベトナム、中国では両勢力に支援された勢力が対立して、国が二分され、朝鮮では戦争に発展してしまいました。すでに、両国は核兵器を保有していましたから、核戦争に発展しかねない両国の対立に世界は脅えていました。

1953年、ソ連で長く独裁政治を続けてきたスターリンが死去し、後を継いだフルシチョフ書記長はスターリンの個人崇拝・大量粛正・外国への干渉を批判しました。これを機に、米ソの首脳が相手国に訪問して会談をするなど、米ソは緊張緩和に努め、時代は「雪解け」へとむかいました。

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平和共存下の軍拡競争

互いに対立しながら、相手の存在を承認する米ソの「平和共存」体制は、対立の均衡が保たれている間は継続されました。

その間、両国は新兵器を開発し、核実験を繰り返し、宇宙開発に名を借りたミサイル技術の向上を競っていました。冷戦には、実際に戦闘を交わさなくても、戦争をしているのと同じ効果が期待できました。東西対立が政治でも経済でも政策の最優先事項とされ、内外の反対勢力は押さえ込まれていきました。

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多極化の流れ

東西対立とは別に、世界では新しい変化が起きていました。  かつての先進国は戦災から立ち直り、西ドイツや日本ではめざましい経済成長が続いていました。

また、植民地経営が負担になった先進国が、植民地の独立を容認するようになったこともあり、アジア・アフリカでは1950年代から60年代にかけて多くの独立国が生まれました。

米ソ両国はこうした独立国を影響下に置こうとしましたが、、両陣営には属さず、第三の勢力形成する動きも顕著になっていきました。

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米ソの衰退と米ソ関係

独立を目指した植民地のうち、政権を争って内紛が起きる国も多く、米ソ両大国は武器や軍事顧問を送って支援したりしました。

ヴェトナムやアフガニスタンのように、米ソがそれぞれ自国の軍隊を派遣して、戦争に直接関与することもありました。これらの戦争では、多くの若者が犠牲になり、財政的な負担も多く、米ソ両国とも政治的にも経済的にも大きなダメージを受けました。

ヴェトナムで敗北した米国は自国のドルの価値を切り下げ、信用回復を図ったり、革命以来敵対視してきた中華人民共和国を中国の正式な代表と見なすことで、政治的影響力を回復しようとしなければなりませんでした。

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オイル・ショック

パレスチナをめぐるアラブ人とユダヤ人との対立から始まった中東戦争が、断続的に続いてきました。1973年、アラブの産油国は、中東問題について世界に訴えようと、石油の価格を一気につり上げました。そのため、世界は一時的な石油不足の状態に陥り、それまで、安い石油に頼って経済成長を続けてきた日本は、石油に依存しない産業への転換が迫られました。

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高度消費社会の出現

これまでは製造業(第二次産業)が産業の主導権を握り、大量生産・大量消費体制によって、安い商品を提供してきましたが、石油危機をきっかけに、この経済モデルが見直されるようになりました。

その結果、個々の需要に見合った商品が提供できるような多品種・少量生産体制が構築されたのでした。これにより、産業の主導権が流通業(第三次産業)に移りました。

産業の省エネ化に素早く対応し、新しい産業構造への転換に成功した日本の製品は、世界中に輸出されましたが、その結果、日本と欧米諸国との間で貿易摩擦がおきるようになりました。

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「東アジアの奇跡」

多額の貿易黒字を抱えた日本に対して、米国は円の切り上げと米国製品の輸入を求めてきました。日本はこの要求に応えましたが、軍需産業中心の経済体制を続けてきた米国の製品は輸出競争力を失っていました。円高により輸出不振に苦しむようになった日本企業は、この頃から東南アジアや米国に生産拠点を移し、海外生産体制をとるようになりました。

その結果、台湾や東南アジアの国々で経済成長がおき、「東アジアの奇跡」と世界の注目を集めるようになりました。東アジアや東南アジアでは、東西対立の緊張が続き、多くの国で独裁政権が続いていましたが、国内の民主化より外国資本による経済成長を優先する選択が成功していたのでした。

この動きは、社会主義政権が続く中国やヴェトナムにも影響し、両国とも計画経済から市場経済へと移行し、外国の資本を活用して経済の近代化を目指すようになっていきました。

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冷戦の終結

1979年に起きたイラン革命によって、イスラーム復興の気運が高まっていました。その影響を恐れたソ連は、政変が続いていたアフガニスタンに軍隊を派遣し、そのことから米ソの緊張が再び高まってきました。

しかし、経済不振が続く両国には、かつてのように軍事対立にのめり込んでいく余力は残されていませんでした。この頃には、西側の先進国の経済的な繁栄の姿が、東側の人々にも伝わっていましたから、社会主義路線に疑問を持つ人も多く、東西対立を理由に人々を動かすことはできなくなっていました。政治より経済を、イデオロギーより生活を重視する機運に飲み込まれるように、東側諸国では社会主義政権が次々に崩壊していきました。

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世界のグローバル化

社会主義圏が消滅し、世界の経済的なつながりは急激に広がっていきました。それまで閉ざされてきた東側諸国が新たな市場として世界市場に加わり、さらに、ブラジル・ロシア・インド・中国(BRICs)など巨大な人口を抱える国々で経済成長が続いています。

また、ヨーロッパのEUに代表される地域連合が世界各地で形成され、ビザもパスポートもなく、あたかも国内と同様に人々が活動できる環境作りが目指されるようになっています。

近代や現代は国際化の時代でした。世界が国民国家という単位で組織され、市場原理によってつながっていきましたが、それは国家と国家のつながりでした。人々は国家をとおしてつながりを強めていきましたが、21世紀では、世界の人々は個人と個人が結びつき、物や金、人や情報が大量に高速に動くようになりました。

「国際化」ではなく「地球化」する世界の現状を「グローバル化」と呼んだりもします。一国の経済より大きな規模の企業が世界中で活動し、経済活動のスピードや規模は、だれもコントロールできなくなっています。

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国民国家と市場経済

身分制度を否定し、法の下の平等をうたって成立した国民国家は、市場経済の拡大を原動力にして、世界に広がっていきました。その結果、グローバル化した世界経済は、激しい競争によって人々の生活の安定を脅かし、経済格差を広げる社会を生み出しています。

世界がグローバル化した結果生まれた諸問題の解決には、国民国家という単位がむしろ障害になっている局面も多くあり、私たちはいま、近代社会が生んだ国民国家と市場経済という仕組みを根底的に検討し直す場所に立たされています。

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