第二次産業革命を推進した科学技術の進歩は、20世紀にはいっても続き、工業生産力も飛躍的に増大していきました。特に戦災を受けることなく、大戦中はヨーロッパに武器を輸出し続けた米国は、莫大な債権を持つ経済大国になっていました。
戦後も経済の活況は続き、フォード社は労働者でも買うことができるフォードT型を発売して、大衆消費時代の到来を世界に印象づけました。
日常生活に直接必要でない物に支出し、娯楽や余暇を楽しむ人々も増え、先進国に中産階級が形成されていきました。
第一次世界大戦が長期化したため、多くの国民が戦争に動員され、女性も職場に進出するようになりました。このことがきっかけとなり、戦争が終わると、労働運動も活発になり、選挙権の拡大や女性の権利を主張する声も大きくなりました。
また、ロシア革命の影響もあり、社会主義に対する人々の関心や期待も高まり、政治に対する大衆の影響力が無視できないようになっていきました。
世界大戦10年を経て、ヨーロッパの国々も戦災から立ち直り始めると、戦争以来続けられてきた投資が過剰だったことが明らかとなり、1929年10月、ニューヨークのウオール街で株が大暴落を始めました。銀行は閉鎖し、企業の倒産が相次いで、失業者は街にあふれ、農作物は出荷されることなく廃棄されました。この動きは、ヨーロッパを経て、たちまち世界中に広がっていきました。
市場の自由な競争によって、経済活動は自動的に調整されると、18世紀以来信じられてきた資本主義経済の前提が崩れ去ってしましました。
ロシア革命を経て社会主義を目指していたソ連邦では、1928年に始まった第一次経済計画により、工業化が進められていました。
長く不況に苦しんでいた時代でしたから、社会主義に対する人々の関心や期待がいっそう大きくなっていきました。
1933年、米国のF・ローズヴェルトはニューディール計画を掲げて大統領選に勝利すると、矢継ぎ早に不況対策を打ち出していきました。
イギリスの経済学者ケインズの理論に基づき、政府が財政支出をして、公共事業を発注したり、農産物の価格を調整して農家の経営を安定させたり、労働者の権利を法的に保障したり、社会保障制度を充実させたりして、経済活動を回復させようとしました。
ケインズは、人々の購買力が失われたことが世界恐慌の原因だとして、政府の力で需要を作り出し、購買力の回復を図ることを進めたのでした。F・ローズヴェルトの政策は、「社会主義的だ。」と批判もされましたが、以後、先進国の経済政策の基本となっていきました。
ソ連型の社会主義を批判しながら、国家の強い力で行き詰まった経済状態を打開しようとする考え方が、第一次世界大戦後のヨーロッパで広がり始め、社会主義の台頭に脅威を感じていた人々に少しずつ浸透していきました。
ドイツのヒトラーはドイツ国家社会主義労働者党を率いて、1933年の選挙で第一党となり政権の座に着くと、次々と政策を打ち出していきまいた。ヴェルサイユ条約が課していた賠償金の支払いを拒絶し、条約によって禁じられていた再軍備に向かいました。また、世界初の自動車専用道路などの公共投資によって景気回復を図り、国民の支持を広げていきました。
従来の政治家の無力に失望を感じていた国民も、極端な人種差別や軍国主義的な外交にも抵抗感を失っていきました。
オーストリアとチェコスロヴァキアを併合したドイツは、1939年9月、ポーランドに侵攻し、第二次世界大戦が始まりました。手を結ぶはずがないと見られていたヒトラーとソ連のスターリンは不可侵条約を結び、東部戦線の心配が無くなったドイツは、フランスを占領し、イギリス上陸に迫る勢いを見せました。1940年にはソ連と戦争を始めました。
中国・東南アジアへ侵略を強めた日本は1941年、米国に宣戦し、戦争は全世界を巻き込んでいきました。
F・ローズヴェルト大統領とチャーチル英首相は、この戦争を反ファシズムの戦争と位置づけ、米国はソ連に武器を貸与すると共に、ヨーロッパ戦線にも派兵しました。
爆撃機による民間人への空爆や原子爆弾の使用など、甚大な犠牲者を出して第二次世界大戦は終わりましたが、戦後の世界のあり方をめぐって、米ソはすでに対立を深めつつありました。
第二次世界大戦はドイツなどの遅れて近代化を目指し後発国が、イギリス・フランスなどの先進国に挑戦して起きた戦争でしたが、ドイツ・イタリア・日本は共に敗れ、軍国主義の原因ともなった前近代的な社会の仕組みの多くが除去されていきました。
しかし、中国をはじめこれから近代化の過程に入っていく多くの国々にとって、社会主義政権は重要な選択肢のひとつになりつつあり、ソ連はそれに対して強力な影響力を始めたのでした。