イギリスで始まった産業革命は、19世紀にはフランス、ベルギー、米国、そしてドイツへと広がり、それらの列強諸国は市場を求めてアジア諸国に進出し、通商条約を結んでいきました。
その時、列強諸国は、アジアの国々が憲法に基づく法制度を整備していないことを理由に、不平等な内容の条約を強要しました。このことがひとつのきっかけとなり、アジア諸国でも憲法を制定し、近代化に向けた改革を始める動きも見られるようになりました。
開国によって欧米から安い商品が流入するようになると、農家の副業となっていた手工業が打撃を受けたり、外国よる集中的な買い付けにより物価が上昇するなど、人々の生活にも影響が出て、不満が高まっていきました。
19世紀後半になると、電気・化学・鉄鋼・エネルギーなどの分野でおきた技術革新によって生産力が向上していましたから、列強諸国は市場や原料だけでなく、資本も進出先を求めるようになり、世界の各地で鉄道を建設したり、工場を建てたりするようになりました。そのため、ヨーロッパ人とアジア人との間で接触も多くなり、人々の反発も激しくなっていきました。
植民地をめぐる争いは19世紀末にはより激しくなり、ヨーロッパの列強諸国はドイツを中心とする同盟側とイギリスを中心とする協商側に分かれて、対立を深めていきました。
1914年、対立は第一次世界大戦に発展し、激しい戦いが1918年まで続き、多くの犠牲者を出すことになりました。
第二次産業革命を経て国力をつけたドイツによって追いつめられたイギリスやフランスは、植民地にまで戦争への協力を要請しなければなりませんでした。
長引く戦争に疲れたロシアの民衆は、1917年、戦争の即時中止を求めて立ち上がり、戦争継続を進める政府を倒し、社会主義を目指す政権を樹立しました。「無賠償・無併合」を原則にロシアは戦線から離脱していきました。
社会主義への道は簡単ではありませんでしたが、独立を目指す途上国の中には、ロシア革命の影響を受けて、共産党との結びつきを強める勢力も現れました。
大戦中、ヨーロッパからの商品が途絶えると、アジア各地では地元の資本による産業が育ち始めていました。また、列強に協力して戦争参加した国々では、戦後、植民地からの独立を求める声がいっそう高まりました。
20世紀まで残っていた諸帝国は、第一次世界大戦を挟んですべて滅亡しましたから、長く帝国の支配を受けていた諸民族が自分の国を持とうとする機運も高まっていました。
こうして、国民国家と市場経済の枠組みは、欧米からアジア諸国へと広がっていきました。しかし、そのことで、1929年におきた世界恐慌の影響は全世界に及び、その被害をより深刻にすることになりました。