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世界史・納得のツボ(人類編)
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1800年〜1930:1

(18) イギリスの脅威が世界を変えた

18世紀の後半、北大西洋でおきた三つの革命によって、国民国家と市場経済を原理とする近代国家のシステムが誕生しました。19世紀、このシステムが欧米に急速に普及していきました。そこにはどのような力が働いていたのでしょうか。
それは、イギリスが他国に見せつけた圧倒的な国力の差でした。イギリスの脅威が他の国の変革にどう結び付いていったのかが、ここでのテーマです。

フランスから広がった革命

1789年に始まりから1815年のナポレオン敗北までの26年間、フランスは革命の中にありました。そして、それは全ヨーロッパを巻き込んでいきました。フランス革命はなぜこれほど根底から時代を変えたのでしょうか。

フランスをどんな国にするのか、その結論が出る前に、外国の軍隊が迫り、義勇兵が立ち上がり、フランスで国民国家が成立してしまいました。外国の干渉という緊張感によって、内部対立は激しくなり、紆余曲折を経て革命は全ヨーロッパを巻き込むことになったのでした。

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市民革命における四つの立場

市民革命にはおおよそ次の四つの立場があり、これらが複雑に絡んで革命が展開しました。

特権身分
  国王、貴族(地主)、僧侶など農民から封建的地代(日本で言う年貢)をとる特権を持っている人々です。彼らは特権の維持を要求しました。
実業家
  国王と結ぶ特権商人もいましたが、むしろ特権を持たず、ビジネスに投資して実力で利益を上げている人々は、自由な経営とその成果である財産が保障されることを求めていました。
労働者・市民
  産業革命を経ない段階ではその数は限られていましたが、自由業などの市民とともに、労働者は革命では先頭にたって行動し、大きな影響力をもちました。彼らは、平等な社会と生活の安定を求めていました。
農民
  富農・貧農・隷属農民など地域によって多様でしたが、自分の土地を耕すことは彼らの共通した願いでした。
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革命の行方を決めた農民

実業家と労働者と農民が、自由と平等を求めて立ち上がり、特権身分が支配する社会体制を変革しようと革命は始まりますが、難しいのはその新しい国についての青写真でした。

実業家達が要求する自由・財産権か労働者・市民が要求する平等か、どちらを優先して国作りに望むのか、この選択は多くの場合、農民の動向で決まりました。

初めは平等を求めた農民も、革命によって土地を手に入れると、自由・財産を優先する実業家と結ぶようになります。その場合は、社会は資本主義を目指しますが、後の時代、農民が労働者と結んだ国では多くの場合、社会主義政権が成立しました。

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革命の行方を決めた英国の脅威

革命の動向を決めたもう一つの要素が、英国の脅威でした。近代化された英国の軍事力と機械化された工場が生み出す安い商品。60年後の日本人が来航した米国に感じた脅威を、革命の頃のフランス人もイギリスに対して感じたはずです。

民法典と中央銀行を整備し、ロシアまで遠征したナポレオンが成し遂げようとしたのも、フランスをイギリスに対抗できる近代国家に仕上げることでした。

イギリスが見せつけた圧倒的な国力の差が、フランス、ベルギー、米国の人々を近代化へと駆り立てていったのでした。さらに、これらの国々の近代化はドイツ、イタリア、ロシア、日本の近代化を強く刺激しました。

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複雑になった近代化の過程

イギリスの国力との圧倒的な差に対する危機感は、それぞれの国の事情によって複雑な展開をたどりました。

強い軍隊を組織するには、産業の育成も急務でしたが、まず様々な主従関係に縛られている人材が身分制社会から解放されなければなりません。大多数を占めた農民の多くは労働者になる必要がありました。彼らを農地から切り離し、労賃を低く抑えて利潤を出すには、安い食料が供給されなければなりませんでした。

また、競争力が弱いうちは、安い商品の輸入を抑えなければなりませんが、経済の発展のためには自由な競争が保証された市場も必要でした。

このように、厳しい競争の中で市場経済を育成し、農民の支持を得ながら農民に近代化の犠牲を強いるという矛盾した政策には、国家という権力が不可欠でした。この権力を支えたのも、イギリスの国力との圧倒的な差に対する危機感でした。

科学技術が現在よりさらに進み、人類とは何だったのかと、問い直さなければならないほど、人類のありようが変わってしまう日がそう遠くない未来にやってくるような気がします。
まず、二本の足で立って歩くことを始めた時から考えてみたいと思います。
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始まりをめぐって

いきなり、問題です。実は、人類史の始まりについては意見が分かれているのです。

DNAによる分析では、人類と類人猿(チンパンジー)の分岐点は今から500万年前頃とされてきました。しかし、2002年に発掘された骨から、直立二足歩行の可能性が推測される特徴が見つかり、年代測定により700〜600万年前にはすでに直立二足歩行が始まっていたと考えられるようになりました。まだ、可能性にとどまっていて、結論は出ていません。

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手と脳

人類の始まりをめぐって、判断基準とされるのが直立二足歩行ですが、立って歩くことがなぜそれほど重要なのでしょうか。

「直立により重い脳でも支えられるようになり、大脳の発達を促した。自由になった二本の手で物を作るようになったことで、いっそう脳が発達した。」とこれまで言われてきましたし、出土する古い人類の頭蓋骨や石器からもそれが裏付けられています。

しかし、最近、脳の大きさや労働の意義とは異なる視点で、直立二足歩行について論じられるようになりました。

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骨盤と難産

直立二足歩行によって骨盤が変形し、人類の女性は難産になった、と言うのです。産道が狭くなったため、未熟なまま出産し、母親は生後約一年の間は付きっきりで育児しなければならなくなったのです。

このことで母子のつながりが密接になり、人類は「心」の世界をもつようになったと考えられるようになりました。

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親指と眼の位置

ところで、人類と類人猿には重要な共通点があります。

その一つは前足(手)の親指と他の指が向き合うように付いていて、物をつかむのに適した形になっていることです。もう一つは眼が顔の前に並んでいて、風景を二つの眼で見ていることです。その分視野は狭くなるのですが、遠近感が把握しやすくなります。

この二つの特徴は、樹の上で生活し、樹の枝から枝へと移動するには欠かせない特質ですが、直立二足歩行をするようになった人類には、これが別の意味をもつようになりました。

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豊かな感情と言葉の世界

生後一年は続く授乳期の母子は、互いの顔を見つめ合い、表情をとおして感情のやりとりをするようになります。前に並んでピントがよく合う二つの眼によって、相手の表情が読み取りやすくなったのです。感情を共有をし合う母子の関係は「心」の世界を形作り、やがて言葉を生むことになっていったと考えられます。

直立二足歩行により生じた三つの変化、脳の発達・労働・共感能力は互いに刺激し合いながら、それぞれをいっそう発達させていきました。

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協食・扶養・家族

自分以外の個体と食料を分け合う「協食」という行動様式は人類にしか見られない特色だと言われています。チンパンジーやオランウータンでは、食料を分け合うことはなく、「個食」が食事の普遍的な姿のようです。

人類のこの特色がどのように生まれたかは想像するしかありませんが、乳児期の間、未熟な子供と育児にかかりっきりの母親は、誰かに助けられなければ生きていけません。その間、扶養する者が必要です。

未熟なまま生まれた乳児と付きっきりで育児に励む母親と二人を扶養する父親。この家族という生活スタイルを選択した者だけが、環境の変化に適応し、生き延びて子孫を残すことができたのでした。

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「同じ世界に生きている」

母子の間に生じた「心」の世界は、家族の世界で共有され、言葉を持つことによって客観的なものになりました。個々の人間に映っているに世界が、同じ世界であることを証明する方法はありませんが、言葉によって、私たちは同じ世界に生きているという感覚を持つことができています。

この「共感能力」によって、私たちは神の存在を知ったり、家族の枠を超えて社会を形成したりしています。「同じ世界を共有している。」という感覚があるからこそ、死を怖いことと感じるようになりました。そうした意味で、「共感能力」こそ、人類の本質と言うことができます。

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