コロンブスの航海を支援したスペインは、アメリカ大陸に進出し、先住民の文化を破壊するとともに、銀を大量にヨーロッパとアジアにもたらした結果、ヨーロッパでは物価が上昇し、大きな社会変動が起き始めました。
ポルトガルは、インドや東南アジアの香辛料、中国の茶・絹、アフリカの奴隷を売買して大きな利益をあげました。
アフリカで安く買った労働力(黒人奴隷)をアメリカの鉱山や農場で酷使して作った商品をヨーロッパで売るという、資本主義的生産の原型のようなシステムが、大西洋をはさんでこの頃形成されました。
こうして、ヨーロッパを中心にした世界市場が形成されていきました。
16世紀から始まった大きな社会変動の中で、ローマ教皇とハプスブルク家出身の皇帝(スペイン王・ドイツ王・イタリア王を兼ねるカール5世)の下に、西ヨーロッパを支配するキリスト教帝国が成立しそうになっていました。
しかし、この動きに反発する勢力がありました。ハプスブルク家のライバルのフランス国王(フランソワ1世)、皇帝の力が強まるのを恐れるイギリス国王、スペインの支配に苦しむオランダの市民、反皇帝派のドイツ諸侯とドイツの農民等でした。
彼らの事情はそれぞれ異なりましたが、ドイツのルターが始めた教会批判をきっかけにして、反教会、反皇帝の嵐が16世紀から17世紀にかけて吹き荒れ、ヨーロッパでは戦乱が続きました。
戦乱が続くヨーロッパでは、強力な主導権をもつ国王が、常備軍と官僚制度を整えて、国内を統一する動きが強まっていきました。特に、反教会・反皇帝側の国では、教会や修道院が解散され、その財産は国庫に移されました。
こうして、国王の支配下に国内が統一され、絶対的な権力を持つ主権国家が互いに覇権を争い合う国際社会が、ヨーロッパに形成されていきました。
植民地支配体制を増強し、列強との覇権争いに勝つには強力な軍隊が必要でした。そのため、各国では国内の産業を保護育成する重商主義政策が進められました。こうして、経済的にも国としてのまとまりを示す国民経済圏が形成されていきました。
領主の力が強く、農民が隷属的な状態になったままの国々(オーストリア・プロイセン・ロシアなど)では、イギリスやオランダを手本にして、国王が自ら近代化を図る動きも見られ、列強の覇権争いは激しさを増していきました。
この時代、ヨーロッパ列強の主導権争いは激しくなり、主要国が次々に入れ替わっていきました。
列強の主導権争いはヨーロッパだけではなく、アジアやアメリカ大陸でも行われましたから、最終的に勝者となったイギリスは、インドからアメリカまで広大な地域で主導権を確立することになりました。
イギリスの勝利の背景には、17世紀に他国に先駆けて市民革命がおきたイギリス特有の事情がありました。
国家運営の主導権が国王から議会に移り、法による支配体制が確立したイギリスでは、安心して投資できる経済環境が生まれ、安定した国家運営がなされたことで、国力を戦争に集中することができたのでした。
イギリスの躍進に不満を持つ勢力が、18世紀後半、北大西洋を挟んで育っていました。