11世紀、ユーラシアの各地では大土地経営が定着していました。ヨーロッパでは生産力が向上し、労働地代が生産物地代に替わりつつありました。領主の所で働く日が少なくなり、替わって地代を生産物で納めるようになりました。労働地代は管理が必要でしたからそれは自然な成りゆきでもありました。
生産が増えれば、地代を払った後の農民の取り分が増え、農民の手元に余剰が生じるようになります。この余剰生産物を交換する市が生まれ、定期的に開かれていた市は常設となり、やがて都市に成長していきました。
アジアの多くの地域では、生産物で地代を払っていましたから、領主(地主)の中にはそれを元手に経営を拡大し、商業にも手を染める者もいました。当然、都市は活況を呈しますが、それは領主(地主)達の繁栄でしかありませんでした。
一方、ヨーロッパは、都市はやがて城壁を設け、領主たちからも自立して、市民という新しい階級が形成されていきました。農民も手元の余剰農作物を売って、貨幣を手にするようになりました。
13世紀にモンゴル帝国が成立し、新しく生まれた都市は互いにネットワークでつながり、アジアの様々な物産や情報がヨーロッパにも伝えられるようになりました。
領主達は珍しいアジアの品々を競って求め、地代を貨幣で納めさせる場合もありました。特に、羊や亜麻など衣服の原料を生産する地域では、貨幣経済が早くから浸透するようになりました。
ユーラシアの各地とつながったネットワークをとおして伝染病も伝えられました。14世紀の半ば、ヨーロッパではペストが大流行し、人口の三分の一が失われる事態になりました。
ペストの犠牲になった人に加え、逃げたりした農民も多く、領主には地代が入りにくくなりました。そこで領主達は、生き残った農民達により多くの負担を求めたため、農民達は各地で激しく反発し、反領主の戦いがおきました。身分制度を否定し、人としての平等を求める指導者も現れましたが、農民達の戦いの多くが敗北していきました。
ペストの流行による社会的な混乱によって物価が上がると、領主達はますます貪欲になり、僧侶達にも世俗化の風潮が強まっていきました。そのような教会の状況を批判して、イギリスのウィクリフやチェコのフスのような人々も現れましたが、教会側は厳しい態度でこれに臨みました。
特に、彼らは古代ローマの言葉であったラテン語ではなく、英語などの人々の日常語で聖書を翻訳することを提唱し、その頃中国から伝えられた活版印刷術にも助けられて、人々は僧侶をとおしてではなく、直接聖書を読み、真の信仰のあり方について考えるようになっていきました。
占領された領土をムスリムから奪い返そうとする戦いが、イベリア半島では長く続いていました。この戦いをとおして国王が主導権を強めていました。
イギリスとフランスでは、王位継承や領土をめぐる戦い(百年戦争)が長く続き、騎士階級が力を失い、国王の力が強まっていきました。
また、ムスリムによってもたらされた火薬を利用した武器が使われるようになると、騎士階級はますます時代遅れの存在となり、都市商人と結んだりした国王の力はさらに大きくなっていきました。
1453年、コンスタンティノープルがオスマン帝国によって陥落し、千年続いてきたビザンツ帝国が滅びます。
イスラーム勢力の攻撃にも耐え、アジア貿易で栄えたコンスタンティノープルが失われたことで、貿易の中心は地中海から大西洋へと移っていきました。中国から伝えられた羅針盤によって、遠洋航海が可能になったことも、この動きを助け、アフリカ大陸沿岸の探検が始まりました。