アジアとヨーロッパの根本的な違いは農業にありました。ヨーロッパでは天水に頼った天水農法を基本としてきましたが、アジアでは、その方法や目的は地域によって異なりますが、大規模な土木工事を必要とする灌漑農法が主流でした。
西アジアや中央アジアでは、カナートと呼ばれる地下水道をとおして遠くの山から雪解け水を導きました。大河の下流では、増水した水を利用して田畑を潤しました。ため池を掘って、利用した地域も多くありました。中国では洪水の被害を防ぐために治水工事が必要でしたし、東南アジアではあふれる水を排水する工夫がなされました。
日本では春になると、田に水を引いて田植えをします。利根川のような大きな河川の流域では、それぞれが利根川から水を引き入れていますが、それぞれの農家が勝手に水を引くわけではなく、体内の血管のように、心臓、大動脈から支脈をとおして、一枚一枚の田に水を湛えていきます。
このシステムは長い年月をとおして築きあげられてきましたが、これを維持することにも大きな組織力が必要です。雨期に集中して雨が降るモンスーン地帯では、洪水対策も不可欠な仕事でした。
これらの水管理の仕事を少しでも怠れば、たちまち社会システムは異常をきたすのは、人間の体と同じです。心臓の働きがなければ、細胞に血流が届かないように、アジアでは社会の維持に大きな権力が必要なのでした。
ヨーロッパでは、農業は天水に頼っていましたから、水路がなくても勝手に農業は始められました。多くの生産量は期待できませんでしたから、森を切り開いて耕地を増やすか、家畜を育ててその不足を補うしかありませんでした。
地域や時代によって、それぞれの形はありましたが、基本的にはヨーロッパでは、個々に独立して農業を営むことが可能でした。ですから、農業経営に関して言えば、アジアと違って大きな権力は必ずしも必要としなかったのです。
巨大な権力を維持するには、費用が必要です。全国から税を集めるには組織を維持しなければなりませんから、そのためにも税が使われます。それらは農民が負担しました。
稲作では人手をかければかけるほど、生産が増えましたから、農民は家族を増やしましたが、生産が増えても、余剰は税として吸い上げられ、農民達にとって努力が報われることは多くはありませんでした。したがって、余剰は権力の下に流れ、権力者の消費文化の象徴として都市が生まれました。
一方、ヨーロッパでは、生産が増えれば、余剰は農民の下に残りました。もちろん、大土地経営の時代では、それは領主との奪い合いにはなりましたが、少なくとも争いの余地は残されており、西欧では農民達が争いに勝利する場合も少なくありませんでした。
このような環境で生まれた都市も、権力から自由に育っていく可能性が残されていました。