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前600年〜300年:3

(11) 古代帝国が大帝国になった仕組み

日本ではヨーロッパのアルファベットのことをローマ字と言い、中国の文字を漢字と呼んでいます。言うまでもなく、この「ローマ」と「漢」は、前200年からおよそ400年の間、中国と地中海で栄えた古代帝国のことです。
この両帝国に育まれた古代文化は、中国とヨーロッパの文化の土台となって現在に至っています。なぜ、この時代の文化がその後の基本とされたのでしょうか。
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新興の小農経営が中核となった

この時代に出現した古代帝国・王国のうち、記録が多く残されている秦・漢とローマの歴史には、興味深い共通点と対照的な相違点があります。

ローマ帝国を育てたローマ人の社会にも、始皇帝が描き、漢の皇帝達が築きあげが古代帝国も、共に小農民に基礎をおいた国家でした。

この時代、各地では、それまでは開墾できなかった土地が、鉄製農具によって開墾されるようになっていました。この新しい農業経営の道を切り開いた新興の農民達を組織して、軍隊の中核にすることで、強力な軍隊をもつ古代帝国が成立しました。

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古代帝国のウィーク・ポイント

前1000年紀に普及した製鉄技術は、近代の産業革命に匹敵するほどの世界史的技術革新となりました。それは血縁中心の社会秩序を崩し、それに替わる新しい社会秩序をもたらしましたのです。それが古代帝国でした。

新興の農民を軍事の中核に置くことで強大化した古代帝国でしたが、そこに弱点も潜んでいました。帝国が強大化すれば、遠征する範囲を広くなり、戦争の期間も長くなりがちでした。農民でもあった兵士達は、家族の下に戻ることもできず、中心的な働き手を失った農業経営は苦しい状況に追い込まれていきました。

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避けられない大土地所有

自然の影響を受けやすい農業経営は不安定で、長期間の平均によってバランスって経営するしか方法はありません。経営規模が大きければ蓄えも可能で、厳しい時期をしのぐこともできますが、家族単位の小農経営ではそれも難しく、どうしても他に援助を求めることになります。食料の不足、種籾の買い入れなどを重ねていくうちに、金貸しや大農経営(ローマではラティフンディア、漢では豪族と言った。)に土地を奪われていくことになります。

ローマでも漢でも農民が軍隊の中核でしたから、彼らが衰退すれば、軍隊はたちまち弱体化しました。

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官僚がいらないローマの共和政

地中海と中国の古代帝国には対照的な相違点もありました。ローマは国王がいない共和政で、中国は強大な皇帝の国でした。

ギリシアもローマも、初期にはいた国王は早々と力を失い、国政はくじや選挙で選ばれた市民(奴隷でない自由な国民)によって運営されていました。今で言えば、会員の自治による委員会制のようなものです。

市民は武器を自己負担で準備し、命を懸けて国を守りましたから、当然国政に参与できたのでした。しかし、零落して武器も準備できなくなった農民達は、政治的にも発言権はなくなっていき、共和政のローマは皇帝が支配する帝国へと変質していったのでした。

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アジアの官僚制は古代から

それに対して、中国は官僚制の国家体制を目指しました。民衆からはかけ離れた雲の上の神のような存在の皇帝が君臨し、治水と軍事を指揮して、民の安全保障に気を配り、全国に組織した官僚機構をとおして税を徴収しました。

この官僚達がやがて私腹を肥やし、豪族と呼ばれた大土地所有者達と手を結んで、地方社会の実権を握っていくことになりました。

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周辺民族と古代文化

古代帝国がその強大な軍事力で周辺民族を服属させ、領域を広げていくにしたがい、周辺民族に古代文化が広がっていきました。やがて彼らは、古代帝国の衰退に乗じて周辺から中心へと浸透を始め、それを跳ね返すだけの力を失った古代帝国は、最後には滅亡してしまいます。

しかし、吸収した古代文化を拠り所にして国作りを始めた周辺民族は、古代帝国の枠組みを拡大して、より規模の文化圏を作り上げていくことになりました。

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