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前600年〜300年:2

(10) 西アジアは世界史の心臓部

西アジアは世界史の心臓

メソポタミアから始まった世界の商業の中心は、その後、ギリシア、ローマ、バグダッド、カイロ、ヴェネツィアを経てリスボン、アムステルダム、ロンドン、ニューヨークと移っていきましたが、西アジアをめぐって、争いは現在も続いています。
東ユーラシアと比べて貧しい西ユーラシアでは、交易のルートめぐる争いが絶えませんでした。
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実現しなかった野望

地中海と西アジアを支配すれば、ユーラシア大陸の交易ルートの要衝を手中に収めることができます。それを成し遂げようとした勢力は数例ありますが、アレクサンドロスが一瞬それを実現しかかり、若くて命を落としました。

アケメネス朝ペルシア、アレクサンドロス、ローマ帝国、ムスリム、ナポレオン、大英帝国。誰も成功しませんでした。初めにそれに挑んだのは、アケメネス朝ペルシアでした。

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アケメネス朝ペルシア帝国

ユーラシアの各地で古典思想が生まれた頃、オリエントを統一したアケメネス朝ペルシアは地中海からインドへ至る地域を支配して、一大商業ネットワークを築こうとしました。

アケメネス朝ペルシアは、支配下の諸民族の慣習や宗教を容認する寛容な支配体制を確立し、それは20世紀に至るアジアの征服王朝の伝統となりました。徴税と徴兵を義務化し、皇帝の命に背くことがなければ、自治を許されたのです。そのため、帝国内では商業活動も盛んになり、帝国に繁栄をもたらしました。

しかし、このペルシア帝国に背を向けた都市国家がありました。ギリシアのアテネです。

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ペルシア戦争

「歴史の父」と言われるヘロドトスの「歴史」によると、ギリシアの都市国家とペルシア帝国が戦ったペルシア戦争では、戦力では圧倒的に劣勢にあったギリシア側が善戦し、ペルシア遠征軍はギリシアを軍門に下すことはできませんでした。ペルシア軍を撃退したことに自信をえたギリシアの諸都市はしばらく繁栄の時代を過ごしました。

その後も両者の対立は続くことになりましたが、地中海からインドへ至る交易ルートを支配する野望は、ギリシアの北から現れたマエケドニアの若き王アレクサンドロスによって一瞬実現しましたが、早すぎた彼の死によって消え去った帝国は二度と再現されるありませんでした。

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ヘレニズム

アレクサンドロス帝国は分裂しましたが、その後を引き継いだギリシア人によって、この地の商業活動は盛んになり、ギリシア語が共通語として使われるほどでした。

ローマ帝国が地中海征服を完了させるまでの三百年間は、ギリシア文化をベースとしたヘレニズム文化が栄え、ギリシア文化を後世にまで伝えることになりました。やがてイラン高原からおきたパルティアによって西アジアはイラン人の支配下に戻されていきました。

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ローマ帝国とパルティア

ヘレニズム時代にギリシア文化を吸収し、西地中海から台頭した都市国家ローマは、やがて地中海を征服して帝国に成長していきました。ローマはシリア・パレスチナを支配下にすると、さらにメソポタミアの覇権をめぐって、パルティアと争い続けます。獲ったり獲られたりの戦況は、この地域の交易を不安定なものにしたため、ローマはエジプト経由でアラビア海に出ると、季節風を利用して直接インドと交易を展開しました。

こうして、地中海・アラビ海・ベンガル湾・南シナ海に至る海のルートが成立しました。

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ビザンツ帝国とササン朝ペルシア

ローマ帝国が東西に分裂すると、東ローマ帝国(ギリシア風に言うとビザンツ帝国)は新興のササン朝ペルシアと交易ルートの支配権を争うようになり、アラビア半島の西岸を通って地中海に至る交易ルートが栄えるようになりました。

このアラビア半島経由の交易ルートの中心都市が、メッカでした。そこからイスラームの勢力が育っていくのは7世紀のことです。

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