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世界史・納得のツボ(人類編)
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前3500年〜前600年:3

(7)古代都市文明と民族移動

危機回避の方法の一つが民族移動です。前2200年頃から、インド・ヨーロッパ語族に分類される民族が、黒海北岸辺りから、西や南へと大移動を始め、古代都市文明の世界が大きく様相を変えていきました。その経過と意味を考えます。

古代都市文明と国家

寒冷化する気候に対応する一つの手段として、国家を組織して灌漑によって食糧増産をするようになると、そのための共同作業を指揮したり、余剰作物を管理したり、分配したりする役割分担が生まれました。そして、その規模が大きくなるにしたがい、それは組織として固定されていきました。

国家とは、もっともシンプルな機能として表せば、それは集団の生存を維持するために生まれた組織とそれを維持し続けようとする集団の意志と言うことができます。いずれにしても、灌漑によって食糧増産を図ることのできたのは恵まれた例外的なケースでした。

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古代都市文明と周辺民族

乾燥地域で農業に特化した生活を維持するためには、不足する生活資源を、他所から調達する必要があります。穀物の余剰は交易の貴重な資金となり、山地や海浜の資源と交換され、その交易は固定化していくことになります。文明と国家と交易は不可分の要素で、これは世界史の全時代をとおして妥当する原則となります。

余剰はすなわち富ですから、場合によっては略奪の対象となります。防衛のための組織や城壁などの使節も必要になり、都市国家は周辺とは明らかに異なる風景を作り出していきました。

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インド・ヨーロッパ語族

恵まれない自然環境に生きる人々には、危機はもっと深刻な形で訪れることになります。活路を求めて大集団で移動する例は、古い時代ほど多く見られます。これを国家として行えばそれは戦争になりますし、個人単位で行われれば、難民です。

前2200年頃から、ロシア辺りからインド・ヨーロッパ語族と分類される人々が西へ南へと大移動を始めました。百年、二百年という単位で行われた大移動によって、インドから地中海に至る西ユーラシアの様相は一変し、前2000年紀のこの地域は激動の時代を迎えることになりました。

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西アジアの状況

当初はチグリス・ユーフラテス両河の下流に点在した都市国家群は、そのネットワークを中流(バビロニア)・上流(アッシリア)へと広げていき、周辺の諸勢力もメソポタミアに進出するよういなってきました。穀倉地帯のエジプトはナイル川の上流へも支配をのばし、力を伸ばしていきました。

アナトリア半島に移動してきたヒッタイトは、製鉄技術を独占して軍事力を伸ばし、メソポタミアやエジプトを脅かしました。やがてヒッタイトも滅び、秘密にされてきた製鉄技術が一気に普及し、世界は大きく姿を変えていくことになりました。

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地中海周辺の状況

東地中海にはセム系の人々が住むようになり、現在のレバノンを拠点にフェニキア人が海上貿易で活躍しました。フェニキア人はエジプトの絵文字からヒントを得てアルファベットに解消して、ギリシア文字などに影響を与えました。

アラム人は陸上貿易で活躍し、彼らが改良したアラム文字はアジア各地の文字の源となっていきました。後にユダヤ教を生み、キリスト教やイスラム教にも多大な影響を残すことになるヘブライ人も、この時代にパレスチナを拠点に交易民族として活動を始めています。

地中海北岸に移住してきたギリシア人やイタリア人は各地に都市国家を作って、独自の社会を形成していきました。

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イラン・インドの状況

インド・ヨーロッパ系の人々の一部はイラン高原やインダス川流域にも進出し、先住民族の文化と融合しながら、それぞれが独特の社会を築いていくことになりました。

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中国・東南アジア・海洋世界

ユーラシア東部でも、南へ移動する人々の動きは各地で見られ、先へ先へと追いつめられた人々は、中国南部や東南アジアの山地や、南太平洋や東南アジアの島々へと活路を求めて移っていきました。

中国でも北から牧畜・遊牧系の諸民族が流入し、農耕・海洋系の人々と接触をもつようになりました。その接点となったのが、殷墟で知られる殷王朝です。この時代にはすでに後の漢字の基となる甲骨文字が占いのために使用されていました。

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