人類はアフリカで誕生したことは今のところ確かなようです。猿人と分類される初期の人類は三・四百万年の間、このアフリカで幾度も突然変異によるモデルチェンジを繰り返しましたが、そのほとんどは絶滅してしまいました。
180万年頃から変化が現れました。脳の容積も大きく、直立の姿勢もより安定した人々が出現し、アフリカを出てユーラシア大陸の各地に広がっていったのです。彼らは肉食をし、火も使ったことが分かっています。これは、肉食により十分なエネルギーとタンパク質を得てることによって、はじめて可能になった変化でした。
各地に広がっていった原人達が現在の人類の起源だとする説もありますが、そのすべてが絶滅したと今では考えられています。現在、世界中で生活している人類は、今から5万年ほど前にアフリカから出ていったほんの一握りの人々の子孫だと言うことが、DNAなどの分析で分かってきています。
ただ、2003年、インドネシアの孤島で、原人の特色を強く残す人骨が発見され、それが3万8八千年から1万数千年前のものだと報告されました。
それが正しいとすれば、約三万年前には、原人(インドネシアのフローレンス人)と旧人(ヨーロッパのネアンデルタール人)と新人(クロマニヨン人など)が同時代に生きていたことになり、猿人→原人→旧人→新人と進化してきたとする、これまでの人類の進化イメージが、大きく修正を余儀なくされることになります。
絶滅した人類の中には、ネアンデルタール人のように、頑強な体でヨーロッパの寒冷な環境に適応した人々もいましたが、特定の環境に特化すればするほど、気候変動などの変化には適応しにくくなり、生き延びることはできませんでした。
旧人に分類されるネアンデルタール人は、私たち新人より体格もよく、脳の容積も劣っていませんでした。そのネンデルタール人より新人の方がより進化した存在とする根拠をあげることはできません。ただ、言えることは適応力の違いだけです。
人類の歴史だけでなく、生命の歴史においても、種に優劣はなく、環境への適応の姿が異なるだけだ、と考えた方がより的確だと思われます。
それでは、「考える人」を意味するホモ・サピエンス(新人)はなぜアフリカから出て、全世界に広がり、子孫を残すことができたのでしょうか。最初の問題に戻ってきました。
約20万年から10万年前までには、新人は旧人とは別の道を歩み始めています。彼らの骨は多種多様な遺物と一緒に出土するようになります。骨や角を加工した釣り針や針などをはじめ、化粧をしたと考えられる絵の具、貝殻でつくった首飾りや楽器などその種類はどんどん多様になっていき、衣食住とは直接関わりのない物もその中に含まれるようになります。
ホモ・サピエンスが採用した戦略は、文化という二次的な環境を人為的につくり、それをとおして自然環境の変化に適応する道だったのです。寒冷な気候には衣服を、岸辺では釣り具を、すばしこい動物には弓矢や投擲機を使う知恵でした。
目的はかなえられても、そのことで予期しない新しい問題を抱え込むことがよくあります。二次的な環境としての文化によって、環境に適応するホモ・サピエンスの生き方も例外ではありませんでした。
弓という着想は人間の想像の所産ですが、それを現実にするには弓を作る素材が必要です。文化と言っても、それは自然の産物なのですから、一度作り出した環境を維持するには、文化を支える素材が供給され続けなければなりません。そのためには、場合によっては強制力も必要になってくるはずです。
また、文化の変化に人間の身体や感情がついて行けない事もあります。百年単位で変化していく人間の文化の歴史と、千年・万年の単位でも変化しない人間の身体や感情とのギャップは、病という問題を人類にもたらしました。