各地域、同時代並行の世界史
世界史・納得のツボ(現代編)
home 納得のツボ(現代編) 納得のツボ(案内)

1989年〜現在:1

(30) 「冷戦」後の日本と東アジア

「冷戦」体制の下で構築されてきた日本や東アジアの国々は、「冷戦」後の世界にどう対応できたのでしょうか。

55年体制

戦後、乱立していた政党が1955年頃までには、自由民主党と社会党を軸に共産党など少数政党を加えた政党に整理されました。自由民主党は西側に組し「自由で豊かな社会」を追求し、社会党は東側が重視した「平等な社会」を理想としました。

衆議院は一つの選挙区から複数の当選者を出す中選挙区制を採用していたため、過半数を占めた自由民主党が政権をとり、社会党がその対抗勢力をする体制が一度も覆ることなく、続いてきました。この「55年体制」と呼ばれた長期政権は東西対立の国際社会にあって、日米安保条約を基軸としながら、政界と官僚と業界が一体となった体制によって、経済成長を達成しました。

しかし、冷戦が終結した20世紀末には、競争を避けて特定の人たちの利権を維持しようとするこの体制が、政治や経済の変革には弊害になってきました。

ページのトップ

失われた10年

選挙法も改正され、「55年体制」の解体が求められましたが、政官業が一体となった利権構造は堅固に維持され、財政赤字が増え続けました。

また、極端な金融緩和によって生じた好景気(バブル経済)の時期に膨大な貸し付けが行われましたが、その多くが回収不能となり、不安定な経済状態に日本経済は落ち込んでしまいました。そのため、日本は冷戦後の世界経済の変化に有効な対応をすることができませんでした。それを批判して「月日を無駄に費やしてしまった。」という意味で「失われた10年」という言葉も生まれました。

ページのトップ

アジア通貨危機

経済成長を続けていたタイは、輸出を安定させるために米国ドルと自国の通貨バーツを連動させる「ドル・固定制」をとっていました。高い経済成長率と安定した通貨に好感してタイには外資が集まっていました。

1990年代、米国の経済は好調でドルが一時的に高くなりました。ドルに連動するタイの通貨であるバーツも実際の価値以上に高くなりました。そのため、タイの輸出は停滞しました。バーツが実力以上に評価されてしまっていたのです。

1997年、この状況を好機と見た外国の資本はバーツを大量に売って、バーツ安を誘導し、そのうえでバーツを買い戻しその差益を得ようとしました。その金額は膨大なため、タイの金融当局もその動きに太刀打ちできませんでした。突然のバーツ安はインドネシアや韓国にも影響し、アジアの各国の通貨が危機に陥り、経済活動が停滞してしまいました。 

このように、冷戦後はヘッジ・ファンドと呼ばれる国際的な投資資金が短期的に利益を上げようと、大量にかつ急激に動き、一国の経済を危機的な状況に追いこむことがおきるようになりました。このアジア通貨危機はその典型的な例となりました。

ページのトップ

ASEAN

IMFなどの支援もあり、アジア諸国の多くはアジア通貨危機から立ち直り、めざましい成長を遂げています。1999年には東南アジア諸国連合(ASEAN)は十カ国に参加国を増やし、域内経済統合へ向けて動き始めました。また、中国・韓国・日本をさそって、新しい国際環境を模索する動きも見られるようになりました。

ページのトップ

納得のツボ(現代編) | 前のページ | 次のページ